新月の闇の空、降りて来た騎馬は、草の馬ではあるが、ヤンの知っている華奢な草の馬とは別物だった。
分厚い体躯、関節にみなぎる力、そして全身を覆うサワサワと波打つ草の生命力。
漆黒の中、淡い灯りに包まれ、それは二人の前で停止した。
「ナ、ナーガ様」
ユゥジーンがビビりの入った声で呟く。
鞍上の中性的な美しさを持つ男性。
このヒトが蒼の長、ナーガ・ラクシャ。
以前市場で見掛けた事があるけれど、あの時とは別人だとヤンは思った。
たった数年なのに、樹齢千年を越したような貫禄が上乗せされている。
「あ、あの、僕が無理に頼んで」
「いや、俺が提案したんです」
二人の少年がしどもどと言う前で、ナーガは無表情に黙っている。
「…………ごめんなさい……」
「…………すみませんでした……」
少年達が謝ると、ナーガは静かに口を開いた。
「悪かった事は分かるね」
ゆっくり優しい声だった。
「はい、臨月の妊婦さんに余計な心配を掛けそうになりました」
「大人のヒト達の決定した理由を深く考えないで、勝手に突っ走りました」
「うん、怒り心頭のホルズを、ノスリ殿が取りなしてくれた。明日きちんと謝るんだよ」
「はい」
「後は?」
「……えと……」
「馬をいじめ過ぎ。働いて帰ってすぐ二人乗りで風露を往復なんて」
「は……い……すみません」
「帰りは僕が乗せて行く。三峰の君、こちらへおいで」
ヤンは緊張して、ナーガの大きな馬に乗り移った。
安定感が全然違う……
二頭並んで飛び始めて、少ししてからナーガはささやくように言った。
「ヤン、君には幾ら感謝しても足りない。フウヤをありがとう。僕だったら、あの子にあんなに多くを与えてあげられなかった」
「え」
背中しか見えないけれど、先程とは違う、早口の素の声だった。
「まさか、僕がフウヤに助けられてばかりです」
ナーガは静かに続ける。
「イフルート族長から話を聞いた。恐縮していらしたが、部族全体でフウヤを大事にしてくれているのがよく分かった。あの子は幸せ者だ」
「行かれたんですか、三峰に。人形を持って?」
「ユゥジーンを叱った手前、あまり大っぴらにしたくない」
「あ、はい」
「人形のフウリの声を聞かせるとね、あの子、睫毛をピクピクさせて。それで族長殿と話をして帰り掛けにもう一度覗いたら、起きてスープを飲んでいた」
「え、えぇえっ!?」
「すぐに目を覚ましたらしいよ。凄いな、お姉ちゃん効果は。君の読みは大正解だったんだ」
「・・・・・・」
ヤンは言葉を出せず、ナーガもそれ以上話し掛けはしなかった。
「あの・・」
「ん?」
「ヒト買いと間違えてごめんなさい。あと、馬の代金を払おうと貯めていた宝石、他所の部族の医者に来て貰う為に使ってしまったんです。ごめんなさい、もう少し待ってください」
「それは…………うん、はい、分かりました」
背中は暖かく承知して、少し置いて続けた。
「フウヤは本当はね、生まれた時に既にヒト買いにやられるような運命だったんだ。風露の山で遭難した行きずりの女性が産み落とした子供。それを、市場の君と同じ位の歳だったフウリが、『私が面倒を見るから』って抱えて離さなかったらしい。だからねぇ、フウヤにとってあの女性(ヒト)は、何物にも替え難い、心の拠り所なんだ」
ヤンは一度に色んな事を理解した。
うわ言で呼ぶ位の大事な大事なお姉ちゃんの元を、どうして飛び出してしまったのか。
そのヒトの夫になったナーガを頑なに拒む理由…………
その部族にはその部族なりの掟や定石がある。
でも根っこの深い所は、何処もきっと同じに繋がっているんだ。
***
真っ暗な中に、一筋の冷たい光が反射する。
(あれ、僕、三峰の集落を出て、んと……蒼の里に辿り着いて、風露へ行って、フウヤのお姉ちゃんに会って……)
ヤンは意識を覚醒させた。・・夢かな、これ?
そうだ、フウヤが目を覚ましたって教えて貰った。
よかったなぁ。帰ったらあの子の好きなコクワを山から採って来よう。
母さんに甘く煮付けて貰って……
馴染みのない枕……何処で寝てるんだ? ああ、ユゥジーンの下宿。話したい事がいっぱいあったのに、夕べ横になったら即寝ちゃったんだ。
光は一筋でなく、幾本かが順番に反射している。
夢……だよな、何だかすごいリアル?
目が慣れて来ると、それが沢山の鏡だと分かった。
夥(おびただ)しい量の鏡が作るトンネルが、暗闇の中、遥か奥まで続いている。
変な夢。早く朝にならないかなぁ。
昨日ちゃんと見られなかった蒼の里をじっくり見てみたい。
執務室のヒト達にも謝って…………ん?
トンネルの中頃に影が浮かんだ。
ヤンは目を凝らしてみる。
夢の中でも『見る能力』は効くみたい。
ヴェールを纏った、透けるように白い女性。髪が青いのは蒼の妖精かな、朝の空みたいな青。
綺麗だなあ、昨日から綺麗な女性ばかり見ている。こんなに綺麗な女性って、僕の人生に縁があるのだろうか。
(あっ!?)
不意に、女性の足元の鏡にヒビが走った。
周囲の鏡が次々に音もなく割れて行く。
鏡じゃない、氷だ。分厚い氷。
それらが砕けて、女性の足元を崩して真っ黒な奈落を開いて行く。
危ないよ、逃げるんだ!
声は音にならず、白い女性は成す術もなく、腕をひとかきして暗闇に吸い込まれて行った。
氷の粒と一緒に散っているのは……羽根? 白い羽毛……?
茫然としているヤンの真横を、凄い早さで何かが駆け抜けた。
白蓬の馬!?
背にシンリィ!
馬上から両手を伸ばして、羽毛散る中、少年を乗せた白い馬は、女性の落ちた闇の底へ矢のように飛び込んで行った。
「シンリィ!」
叫んで覚醒すると、現実味のある部屋の天井。
部屋の反対側のベッドで、ユゥジーンも半身を起こしている。
「……見たか?」
薄闇の向こうから掠れた声。
「うん、見た」
「氷のトンネルの中で、女のヒトが奈落へ落ちて行った。それを追い掛けるシンリィ」
「同じだ」
こんな尖った夢、偶然一緒に見る訳がない。
嫌な胸騒ぎを抱えて、二人は顔を見合わせた。
「ねえユゥジーン、蒼の里って、いつもこんなに朝早いの?」
ヤンに言われて、ユゥジーンも気付いた。
まだ夜も明けやらぬ明るさなのに、居住区の方がざわめいている。
窓から外を見て、二人同時に声を上げた。
里の外、暗い地平の山々の上に、幾つもの波紋が広がっている。
大きい、そして禍々しい。
今まで小さいのが現れては消えて行く事はあったが、これらは違う。消える気配が無い。
「う、嘘だろ!」