この話ではウマ娘は一ドットも出てきません。まだ馬時空です。
1974.7.23
長野県軽井沢町
南軽井沢菱沼乗馬クラブ
「ゲオルギウスさん! すぐに来てください! アステリアーが産気づきました!」
夏のバカンス始まって以来の貴重な晴れの日、息子ニコラオスへ乗馬を教えようと、日本へ帯同した馬達を預けた牧場の駐車場へ着いた途端、駆け寄ってきたわが友菱沼がそう叫んだ。
「なんだって! 予定日はまだ先だろう!?」
私は思わず叫び返した。出産まであと数週間はあると聞いていたからだ。そのために抱えの獣医を本国から呼び寄せる準備を整えていたというのに。
「いいから早く! もう生まれそうなんですから!」
彼は汗ばんだ手で私の手首をつかむと、赤い365GTB/4スパイダーの運転席から引き摺りだそうとする。
シートベルトも外していないのに引っ張り出そうとしないでくれ。
待て、待ってくれ! 私はそう叫び、彼の手を振り払うとシートベルトを外して、エンジンを止めて降り立つ。
「父さん!」
「ニコもついてきなさい、転ばないように、ゆっくりでいい」
助手席でシートベルトと格闘している息子に声をかけていると菱沼が再び私の手をつかんで走り出した。よほど気が急いているのだろう。
彼を説得することは諦めて、私も覚悟を決めて駐車場と牧場を繋ぐ急な坂を必死に走る。
十数メートルの落差を駆け上がると、南軽井沢が誇る広大な放牧場と数十頭の乗馬を抱える厩舎を繋ぐ小さな十字路に、一頭の栗毛馬とそれを囲む人だかりが見えた。
「ぜひゅ、大、丈夫ですか! ひっ、先生ぇ!」
「菱沼さん、あんたの方がよっぽど死にかけだよ。で、そちらが馬主さんかい?」
「ふぅ、初めましてドクター。アステリアーの持ち主のゲオルギウスです。状況は?」
何重にも敷かれた布の上に横たわった愛馬アステリアーの股間をのぞき込む、実に偏屈そうな白衣の老人が責めるような視線を送ってくる。
彼の傍に控えている美しく若い女性からの不安げな視線を感じながら、私は安堵を覚えた。抱えの獣医と同類だと確信したからだ。
どこまでも馬を守るために、妊娠中の太平洋横断という負担をかけた私を責めているのだと。
彼は信頼できる獣医なのだ。
「ふん、もう足が出とるが羊水もきれいだし蹄の向きも正しい。早産気味だが安産だろうよ。母体と仔が頑丈なのに感謝するべきだな」
「その通りだ、菱沼にあなたのような名医との付き合いがあったことにも感謝しよう」
「こんなヤブ捕まえて名医とは。菱沼さんよ、あんたの友人の目は大丈夫か?」
私の言葉にバツが悪くなったのか、老人は菱沼に悪罵を飛ばした。
菱沼は走って赤くなった顔色を、さらに赤くしながら叫ぶ。
「そんな! 先生がヤブなら日本の獣医はみんなヤブでしょう! このあたりの乗馬クラブは先生一門で持ってるんですから!」
「やかましい! 産気づいとる馬の傍で大声を出すな!」
「先生も声が大きいですよ。アステリアー号がこっち見てるじゃないですか」
大声を出す菱沼の襟首を締め上げ始めた老人を諫める若い女性が、私に目礼を送ってきた。
彼女の言う通り、老人も大声を出している。
アステリアーは不安そうに耳を傾けながらこちらに顔を向けているしね。
「大丈夫だよアステリアー、君と子供は心配ないよ」
手を振りながらそう声をかけると、彼女は目を細めながら前を向いた。
「見るたびに思っていたが、アステリアーは人の言葉が分かってるのかね」
「そうだと良いと思ってはいますがね、まぁ、人間の気持ちは伝わっているのでしょう」
若い女性に引きはがされながら、老人が私に問いかける。
それに対する私の回答は随分とロマンチックなものだ。だがそうであってくれればうれしいとは思う。
「げほっ、アステリアーは言葉どころか人間の行動まで分かってますよ。寝藁にボロを出さないならともかく、食事前と後に口をゆすいで吐き出すのは厩務員の行動を覚えたとしか思えません」
「口をゆすぐのはアメリカで覚えた行動だね。あちらの厩務員が綺麗好きでよくしていたらしいから」
咽る菱沼の疑問に答える。彼女は非常に賢い、人間の行動を覚えて真似するのが非常に得意だった。
「随分と人間臭い馬だ。中に人間でも入ってるんじゃないか?」
「星の女神は宿っているかもしれないけどね、さぁ、出てくるぞ!」
老人がビニール手袋をはめ、女性が差し出す消毒液を振りかけたハサミを手に握りながら言った言葉に軽口を叩くと、アステリアーの産道からじわりじわりと仔馬が出てきた。
皆が息をのんで見守る中、粘着質な音と共に、一気に黄金の仔馬が飛び出した。
老人が素早い動きで羊膜を切り開き、自発呼吸を確認する。
「よし、呼吸している、音もおかしくないな。ふう、よかったよかった」
老人が呼吸音を確認して安堵の息を漏らすと、アステリアーが立ち上がろうと前足を搔き始めた。
力が入らないようで何度も地面を掻いて立ち上がろうとしている。
出産直後に立ち上がろうとするとは、これほど体力のある馬だっただろうか。
「おいおい立つな立つな、へその緒が切れちまう。そうだ、落ち着け、子供は無事だ。いいというまで立つなよ」
老人が声をかけるとアステリアーは落ち着きを取り戻し、前足を折って横臥の姿勢に戻る。
袖口で噴出した汗をぬぐった老人が、こちらに視線を送る。
「こいつ本当に人間の言葉が分かってるだろ。菱沼さんより聞き分けがいいんだが」
「いくら何でもひどいですよ先生」
「黙れっつっても黙らないのが菱沼さんだからね、実際聞き分けが悪い」
「」
正論で殴られ、菱沼は無言で肩を落とした。
確かに、彼は人の言うことを聞かないところがあるなと思った。
「父さん! もう生まれたの!」
「静かに、アステリアーと子供がびっくりしてしまうよ」
「んっ!?」
駆け上がってきたニコが、黒髪を汗で濡らし息を切らせながら叫んだ。
私はそれをたしなめながら、口に両手を当てて静かにする息子の肩に手を添え、人の輪の中に招き入れた。
羊水にまみれた仔馬と、産道から後産を垂らす母馬の姿を見た息子は体を震わせた。
濃厚な命の気配が漂う、鮮烈な生の現場を小学生の子に見せるのはショックが大きいだろう。
だが、私も含め家の男は代々子供のころから馬が産まれる現場に立ち会うのがルールだ。
愛すべき家族の誕生に立ち会わない男は、男ではないというのが家訓であるがゆえに。
「父さん」
しばらく無言で体を震わせていた息子が私を呼ぶ。
「なんだい、ニコ」
君は、どんな感想を得たんだい。
彼は蒼白な顔で私を振り仰ぐと、努めて小さな声で私に告げた。
「生まれた仔は、僕の弟かな、妹かな」
「はは、さすがは私の子だ」
馬を家族と認識する良い子に育ってくれたことが喜ばしかった。
聞いたかい、エカテリニ。君の子は望み通り素晴らしい子になってくれたよ。
「拍動も止まった。臍帯も切った。いいぞアステリアー、しっかり舐めてやれ」
老人が声をかけると、生まれてから数分そわそわしていたアステリアーは立ち上がり、立ち上がろうと藻掻く仔馬を舐め始めた。
老人は胎盤の落下に備え、後産を縛り上げ始める。
「先生、体を拭きますか?」
「いや、今日は暖かいし風も弱い。わざわざ拭く必要もないだろう」
女性が清潔なタオルを手に、老人に問いかけた。
確かに今日は気候がいい。冬季のように寒さで仔馬が死んだりすることもないだろう。
「いや、この仔は走らせるつもりでね。私と息子で拭くつもりだったんだ」
この仔は競走馬にするつもりだ。そのためにかの名馬から種をつけたのだから。
「なら拭いてやりな、ほれ坊ちゃんにタオルを渡してやれ」
「はい、どうぞ」
女性からタオルを受け取る息子を見守る。
大理石の彫像のような美貌の持ち主に赤くなるのを見て、幼いとはいえニコも男なのだなと感心してしまう。
いや、黒髪の美女は私が見ても妻の若いころを思わせる。母を思い出したのかもしれんな。
「あ、ありがとうございます」
「いい子だ、ニコ」
ちゃんと礼を言えたニコを誉め、仔を舐めながらもこちらに視線を向けるアステリアーと仔馬に近づく。
彼女は舐めるのをやめ、耳を後ろに倒しながら顔をこちらに向け強くにらみつけてきた。
「アステリアー、仔を拭かせてもらえるかい?」
「いいかなアステリアー」
私たちの問いかけに、彼女は一鳴きすると耳を立ち上げ、仔馬に向き直って舐めるのを再開する。
ほっ、と息を吐き、どこかおかしさを感じて息子と顔を見合わせて噴き出すと、アステリアーも鼻息を鳴らした。
私たちはゆっくりと仔馬に近づき、アステリアーの邪魔をしないように声をかけながら全身を拭き上げていく。
「それにしてもまた見事な佐目毛だな」
「アステリアーの母系はアハルテケにバイアリータークをつけたのが最初でね。第一次大戦までに5回アハルテケの牡が入っているのもあってか、アハルテケ特有の金属光沢が出やすいんだ」
それにしたって、これだけ強く金色が出るのは珍しい。
羊水がぬぐい取られ、乾燥を始めた体毛は陽光を浴びて黄金の糸のように輝いていた。
「なるほど、道理で胸郭が大きく、腰が細いわけだ。アステリアーもそうだがアハルテケの特徴があるな」
「ベースはサラブレッドだけどね。それにかわいらしいアーモンド形の目もそうだ。この仔はちょっと目が大きいからね、きっと美人になるだろう。おっと、離れるよニコ」
「うわっ、う、うん」
ある程度拭きあげられた仔馬は、母馬に小突かれ敷かれていたタオルを蹴散らしながら立ち上がる。
何度か崩れ落ちながらもわずか数分で自立した仔馬は、初乳を求めてアステリアーの乳首に食らいついていく。
それを眺めていると、胎盤が滑り落ちて濃い血の匂いが広がった。
老人は素早く胎盤を広げて形状を確認し、子宮角の先端まで抜けているのを見て取ると一つ頷いて金盥に放り込み、重量計に乗せて重さを見る。
「7.4Kg、まぁ、間違いなく全部出てるだろう。今日中に不調がでなけりゃまず安泰だ」
「それしても早産で心配したが、終わってみりゃ母子ともに予想以上に頑丈だ。母馬は初産とは思えないほどスポンと産んだな」
「ここ数代は難産が続いていたので良かったですよ。出産に耐えきれなかった母馬もいましたからね」
「そりゃなによりだ」
老人は産道周りや臍を再度消毒しながら、こちらに言葉を放る。
「もうあんたらにできることはない。今日のところは帰りな」
「申し訳ないのですが、私を含め乗馬の対応は難しいです」
老人と菱沼さんの言葉に、思わず頷く。ほんの数人で回している牧場だ、出産ともなれば総出に近い。
忙しくて我々の相手をして、乗馬の世話までするのは大変だろう。
「それもそうですね、ではお暇します。帰るよニコ」
「待って! この仔は牡? それとも牝?」
「なんだ坊ちゃん、見てわからんのか。股の間に坊ちゃんと同じもんがぶら下がってねぇんだ、立派なレディーだよ」
「先生……」
老人のあけすけな言葉に、女性が頭に手をやりながら溜息を吐く。
美人がするとどんな格好でも絵になるね。目の保養をしていると、息子が私の袖を引いた。
「そっか! 父さん! 星の女神様が十字路で産んだ女の子が僕の妹だって!」
「よかったなニコ、けどもう少し静かにね」
「はい!」
元気よく答える息子に、思わず苦笑する。
初めての経験に興奮する姿は、過去の自分を思い出させるのに十分だった。
うるさそうに耳を倒すアステリアーには申し訳ないが、今日はもう帰るし少し我慢してもらおう。
「では先生、菱沼さん、後はよろしくお願いします。この後は別荘から動きませんので何かあったら連絡を」
「おう、しっかり見ておくから安心してくれ」
「任せてください」
「ああ、よく頑張ったねアステリアー」
最後にアステリアーの額を息子と一緒に撫でて、私たちは家路につく。
アステリアーが目を細めていたのは、喜びと親愛の情だったと信じたいものだ。
興奮する息子をどうにか助手席に縛り付け、12気筒が奏でる素晴らしい音を聞きながら別荘に向かう。
走り出すまではしゃべり続けていた息子だが、口数は徐々に少なくなり、いつしか深く考え込んでしまっていた。
1974.7.23
長野県軽井沢町
メルク―リ家別荘
別荘についた後、静かな夕食を終えても息子は黙り込んだまま。
私が風呂に入っるように言っても、こくりと無言で返事をして着替えを取りに向うだけだった。
「父さん、話があるんだ」
「なんだい、さ、ソファーに座りなさい」
夕食の片付けを終え、キッチンで食後のコーヒーとホットミルクを入れていた私に、風呂を済ませた息子が声をかけてきた。
彼の分のホットミルクと、自分のコーヒーを手にソファーへ腰かける。
「あの子は、星の女神さまの子だよね」
「そうだね」
妻が名付けた母馬の名はアステリアー、その美しさに大神に見初められ海に身を投げた悲劇の女神。
「あの子は、十字路の上で生まれた」
「そうだね」
放牧地と馬房を繋ぐ十字路の上で生まれた、珍しい仔。
「あの子は灯火のように輝いていたね」
「そうだね」
あの仔は陽光を浴びて、黄金の月のように輝いていた。
「父さん」
「なんだい」
「あの子の名前、僕が決めてもいい?」
決意を秘めた瞳が、私をまっすぐに見据えていた。
「ああ、いいよ」
「アステリアーのお母さんの名前は、私が決めた。アステリアーの名はお母さんが決めた。次はニコの番だ」
生まれた仔の名前は、家族が決める。名前をつけたことのない人がいればその人がつける。
それが我が家のルールだ。
「そっか、うん、決めたよ。いや、一目見た時から決まってたんだ」
「そうか、何て名前だい」
促した彼の口から、祝福の言葉が零れた。
「
巨神を打倒した松明を持ち、闇夜の十字路に佇む女神。
「星の女神が十字路で産んだ、灯火のように輝く娘、か」
神話に名を遺す、
「きっと三界を歩んでくれるよ、夜の女神様みたいに」
大神より三界を歩むことを許された、数少ない自由の神。
「芝、ダート、それに障害を制覇してくれるのか、それはそれは、素晴らしい夢だ」
それは歴史の外側、
「僕の妹はそれくらいしてくれるよ」
だが彼は、無邪気に家族の可能性を信じている。
なら私も、彼の夢の手伝いをしよう。
かわいらしくも、驚くほどに大人びた表情を浮かべる彼の頭をなでながら、そう誓う。
「そうか、ならニコもお兄ちゃんとして勉強を頑張らないとな」
許してくれとは言わないよ、アステリアー。
私は君の仔とその子孫を利用しつくすつもりだ。
全てを賭けて、彼と妻の願いを叶えて見せる。
君が成しえなかった、その名を世界に刻むという偉業を果たして見せる。
「任せてよ、僕は父さんと母さんの子供だからね!」
それだけが、妻の願いを叶えられず、息子から母を奪った愚か者。
真実を告げることのできない卑怯者にできる、唯一の贖罪なのだから。
次はうまぴょいした人の視点予定。
予定は変わるものなのでなんとも言えない
ゲオルギウス・ベッサリオン・メルク―リ
長身のイケオジ。
駐日ギリシャ大使館員、去年まで駐米ギリシャ大使館に居た。
割と偉い。実家は貿易業とオリーブ生産で巨額の財を得てきた古い家系。
若妻を亡くしてそれほど時間がたっていない。かなりナーバスになっている。
愛車は赤い365GTB/4スパイダーとランチア・ストラトスHFプロトティーポ。
ニコラオス・ゲオルギウス・メルク―リ
ゲオルギウスの長男、6歳。黒髪癖っ毛の美少年。
アメリカで生まれ、父の転勤に合わせ日本へ移住した。
本国の自宅には一度しか帰ったことがない。
神話が大好きで、原典に当たるために古代ギリシャ語や古典ラテン語などを積極的に学んでいる。
日本語もすでに堪能で言語的天才の気がある。