星女神の系譜-三界駆ける冥府の灯火-   作:haruhime

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新馬戦までの生活


第五話 本江厩舎での生活

 1976年6月10日

 東京競馬場本江厩舎

 

 マルゼンスキーに敗北したレースから一年近く。

 さらに成長した奴に、芝1800mまで全く勝てなくなったころ。

 私はマルゼンスキーと共に馬運車に乗せられ、一路長距離移動させられたのである。

 

 車が揺れれば大騒ぎ、海の上では気分が悪くなるマルゼンスキーを端本さんと共になだめすかし、時には脅しつけて黙らせる作業の末、ついに冷房の効いた馬運車の後ろから引き出された。

 

『ついたぞ、お前ら。東京競馬場だ』

 

 なるほどここが東京競馬場。いやどこだよ。例の東の果ての首都、だったっけ? 

 

『やぁ、トリウィアヘカテー。今日はご機嫌だね』

 

 馬運車の隣に止められた赤いスポーツカーの傍に立っていたゲオルギウス君が声をかけてきた。

 久しぶりにゲオルギウス君に会えたからね。そりゃあ機嫌もいい。

 

「兄さんがうるさくて仕方なかったけどね」

「うるせぇ、なんでそんな元気なんだよおまえ」

「鍛えてますから?」

 

 隣でげっそりしてるマルゼンスキーに言葉を返す。

 まぁ、私は長距離移動二回目ですし。あんたほどやつれはしないよ。

 

 ゲオルギウス君に撫でられていると、大きな建物から数人の男たちが駆け寄ってくる。

 先頭を走っていた一人がゲオルギウス君に声をかけ、頭を下げた。

 

『すみません、お待たせしました』

『いえ、お気になさらず。あなたが本江師でよろしいですか?』

『はい、代理人の方からお話を承っていますゲオルギウスさん』

 

 二人ががっしりと握手を交わす。いやぁ、いい人そうで良かった。

 私の蹄が深紅に染まらずに済んだぜ。

 

『端本です。マルゼンスキーをよろしくお願いします』

『本江です。よろしくお願いします』

 

 端本さんと本江さんもガッツリ握手を交わしていた。

 いやぁ、この二人に信用されているなら、本江さんは良い人に違いない。

 

『ニジンスキーの子二頭を任せてもらえるのは感無量です。どちらも一目見ただけでいい馬だと分かる』

『自慢の娘だよ』

『マルゼンスキーは走ってくれますよ』

 

 男三人が私と兄さんを褒めたたえる。いいぞ、もっとやってくれ。

 

「めっちゃ褒められてんぞ兄さん」

「だろうな!」

 

 人間の言葉を翻訳した途端、一気に元気になったマルゼンスキー。

 いきなり元気になるなよ、びっくりするだろ。

 

『そうだ、お二人に紹介しなきゃならん奴がいましてね』

 

 そう切り出した本江さんは、後ろに控えていた二人の男性を紹介する。

 

『本馬信夫です。トリウィアヘカテーの主戦騎手を務めさせていただきます』

 

 まだ20歳にもなっていないだろう若い青年が、深く頭を下げた。

 なるほど、彼が私に乗るのか。

 ん? つまり彼が神生初めて私に乗る男性ということ? 初体験の相手か。

 

『ええ、日本での騎乗はお願いします。この仔は勝ち鞍を増やしてくれるでしょう』

『はい、しっかりした美しい馬体でよく走ってくれそうです。よろしくな、トリウィアヘカテー』

 

 ゲオルギウス君と青年からのよいしょに気分良くなったところで、青年は私の首をやさしくなでてくれた。

 ふむ、牝馬への扱いは合格じゃないか? ちゃんとほめてよしよししてくれるし。

 乗せてやってもいいかな。

 返事代わりに彼に首をこすりつけてやる。愛情表現だぞ、喜ぶといい。

 

『認めてもらえたんですかね?』

『人見知りする仔だからね、スキンシップを取ってくれるということはそういうことだろう』

『なるほど』

 

 彼はそういうと、私の首をやさしくさすってくれた。

 いやぁ、ウマいじゃないか。

 

『仲渡誠一です。マルゼンスキーの主戦を務めさせていただきます』

『本江です。こいつはきっと走ります。うまく乗ってやってください』

 

 彼のテクニックに骨抜きにされている間に、少し年上の青年と本江さんが挨拶を交わしていた。

 なるほど、この青年が兄さんの主戦騎手か。

 

「この人が兄さんに乗るってさ」

「クンクン、へぇ、嫌な感じもしないし、乗せてやるか」

 

 兄さんにそのことを伝えると仲渡君に顔を近づけ、舐めまわすようにあちこちを見ては匂いを嗅ぎ、納得したのか一度頷くと彼に首をこすりつけた。

 

『マルゼンスキーも随分と人懐っこいんですね』

『牧場じゃそうでもなかった、それこそ認められたんじゃないですか』

『そうだと嬉しいんですが』

「やっべ、この人撫でるのうまいな!?」

 

 端本さんと仲渡君のやり取りをしり目に、兄さんは仲渡君のテクに翻弄されていた。

 

『それでは、二人にはこの子らを隔離厩舎へ連れて行ってもらいましょう』

『よし、行くぞトリウィアヘカテー』

『マルゼンスキーも行こうか』

 

 主戦の二人に引綱を取られ、私たちは隔離厩舎とやらに移動することになった。

 

 

 

 

 

 1976年8月22日

 東京競馬場 本馬場

 

 北海道とは比べ物にならない暑さの中、私と兄さんは主戦の二人を背に乗せ本日二回目の調教走へと挑む。

 ダート6ハロンを駆け抜けるこの競争でも、兄さんに勝てなくなりつつある。

 

「今日も凹ましてやるよ!」

「クソが! ぶち抜いてやる!」

 

 兄さんがムカつく顔でこちらを煽りやがる。この野郎連戦連勝だからと調子に乗りやがって。

 

「まじめな話、距離足りないんだから無理すんなって」

 

 キレ散らかしていると兄さんが急にまじめな口調で心配してきやがった。

 なんだよ優しいじゃないか。確かに距離が足りなくて加速しきれてない感じはあるけど。

 

「気を使われるのがムカつく! 絶対負けねぇからな!」

「わかったわかった」

 

 その言い回しに噛みつくと、兄さんは呆れたように視線をそらした。

 なんだなんだ急に兄貴ぶりやがって、この野郎ぜってぇ泣かす。

 

 なお決意を新たに挑んだ勝負は、野郎が自己記録を馬なりで更新しやがった(人間がざわめいていた)ために見事敗北に終わった。

 すいません、ダートでも芝でも距離は8ハロンくらい下さい。

 

 

 

 

 

 1976年10月2日

 東京競馬場 本馬場

 

 涼しくなってきたとはいえ、やはり軽井沢や北海道に比べれば暑い東京の秋。

 再びダート6ハロンを駆け抜ける競争がやってきた。

 

『来週マルゼンスキーの初戦ですね』

『ええ、芝1200。こいつなら楽に勝てますよ』

 

 仲渡君がそう言いながら兄さんの首を叩く。

 鞍上同士の会話を聞いて、兄さんのデビュー戦を知る。

 前々から調教が実践向けになってきたのもあるし、そろそろかなと思ってたけどいよいよか。

 

『トリウィアヘカテーはいつなんです? マルゼンスキーと同じ時期にというのは聞いてましたけど』

『16日の中山、ダート1200。この馬ならダートで負けはないですよ』

 

 ついでに私の予定も出てきた。

 やっぱりダートか。いやまぁダートの方がありがたいのは確かである。

 ただ、距離が短いんだよなぁ。兄さんに勝てない距離でほかの馬に勝てるんだろうか。

 

「兄さんあと数日でデビュー戦だってさ」

「マジか。今日は全力で走ってみるわ」

 

 兄さんがふと漏らした言葉に、私は耳を疑った。

 

「なに、これまで本気じゃなかったの?」

「いやほら、寒いとこに居た時お前が通訳してくれてたじゃん? 人間が全力だと故障するかもって言ってたと。お前と遊んでた時も全力出すと足とかちょっと違和感あったし。だから普段は全力出してなかったんだよな」

「マジかコイツ」

 

 確かに本江さんとゲオルギウス君がこそこそ話してたのを翻訳して伝えたよ? 

 けがされても困るし。けどまさかそこまで本気にしてるとは思わないじゃん。

 え、流して走ってた兄さんに、これまでの勝負でほとんど全力出して負けてた私って、もしかして弱い? 

 なんだか先行きが不安になってきたぞ。

 

「俺、全力出すから見ててくれよな」

「いいけど、前から見てやる」

「無理無理、俺の後ろでヒイヒイ言ってな」

「何が何でも前に出てやるからなぁ!」

 

 野郎煽りやがって! 思わず嘶き、頭と体を振ってしまう。

 

『うわ、どうしたトリウィアヘカテー!?』

『よっとっと、マルゼンスキーが気に入らないみたいですねぇ。何を言ったんだお前?』

 

 ああ、ごめんよ本馬君。

 鞍上に頭を叩かれている兄さんを睨みつけると、奴はすっと首ごと目線をそらした。

 絶対に許さん。

 

 なお再びの対決も馬なりで上がり3ハロン35秒を切りやがった(体内時計がおかしくなければだが)奴にぎりぎり追いつけず私の負けで終わってしまった。

 非常に悔しい。私も34秒台は出せてたと思うが、兄さんのテン3ハロンで1秒近く差をつけられたせいだろう。やっぱり距離が足りんよ距離が。

 

「ふぅ、くそー、やっぱり兄さん速いな」

「ぜぇ、はぁ、おまえ、元気、すぎんだろ」

 

 旗持ってるおじさんの真横を駆け抜け、やっぱり追いつけなかった悔しさを大きな息とともに吐き出すと、随分前まで走っていったマルゼンスキーが近寄ってきた。

 兄さん息切れすぎじゃない? いやでも距離適性の差ってやつかな。

 

『やっぱりこの二頭は強いですね。1:10なんて新馬が出していいタイムじゃないですよ』

『マルゼンスキーなんて主戦場は芝だろう。短距離とはいえダートでOP馬を蹴散らせるタイムを出せるのはすごい』

 

 なぜ鞍上の二人がすでに私たちのタイムを知っているのか。

 それは私と兄さんは事前の打ち合わせを聞かせてもらえれば、鞭も手綱も必要なくタイム測定ができるので二人は自分でストップウォッチでタイム計測しているためである。

 

 ほかの馬のタイムが分からないけど、私たちは随分と良いタイムを出せたらしい。

 兄さんは前の測定の時点で相当いいタイムを出してたらしいが。

 

『トリウィアヘカテーなんてダート最速も狙えるじゃないですか。6ハロンを馬なりで加速し続けるなんてひどいですよ。後半マルゼンスキーが一杯に飛ばしてるのに、後ろを見るたび近づいてくるトリウィアヘカテーは怖かった』

『テンの3ハロンあれだけ飛ばして上り3ハロンほとんど減速しないマルゼンスキーもどうかしているさ。あれだけの加速をしているのに距離がなかなか詰まらないというのは怖いものだよ?』

 

 二人に誘導され、本馬場から練習馬場に向けて歩き出す。これもう一回やるってことかな? 

 などと思いながら、いつも通り彼らの言葉を兄さんに翻訳して伝えてやる。

 私だけ人間の評価を理解してたら対等の条件で勝負できないからね。

 

「めっちゃ褒められているぞ兄さん」

「ひぃ、ひぃ、お前に勝てるんだから、そりゃそうだろ。そろそろ自分が速いって自覚しろよ妹モドキ」

「そうは言ってもわからないものは分からないんだよ兄さん」

 

 息を切らした兄さんに指摘されるが、それが理解しにくいから困っているのである。

 私は他所の馬と並走することがほとんどない上に、自分や他の馬のタイムを見ることができないので実感がない。軽井沢の皆様より早いというのは知っているが、ブランクが長すぎるから比較対象にもならない。

 正確な比較対象が私より圧倒的に速い兄さんしかいないのである。

 兄さんに置いて行かれる訳ではないのだから、遅くはないのだろうが。

 

「はぁ、はぁ、やっぱお前頭に問題ないか?」

「喧嘩売ってるなら買うけど?」

「痛い! 尻尾はやめろ!」

 

 バッチンバッチン兄さんの尻に尻尾を叩きつける。

 私に喧嘩売っといて蹴りじゃないんだから我慢しろよ。

 

『負けたのが悔しいのかな、トリウィアヘカテー』

『兄に甘えてるんじゃないですかね』

 

 そうじゃないからな鞍上君! 勘違いすんなよ! 

 微妙に悔しいのはそうだけど! 

 

 

 

 

 1976年10月11日

 東京競馬場

 本江厩舎

 

「やべぇ、結構しんどい」

「本気で走ると消耗するからね、ゆっくり休みなよ」

 

 新馬戦をぶっちぎりで圧勝したらしい兄さんは、帰ってきて以来ズタボロの状態である。

 他の馬達も遠征から帰ってくるとしばらく愚痴を漏らしているのでそんなものなのだろう。

 徐々に回復しつつあるのでそれほど心配はしていないが、全力疾走とはここまでここまで消耗するものなのだなぁ。

 などと言っていると、大きめの箱を抱えた本江さんが兄さんの馬房をのぞき込んだ。

 

『随分疲れてるな。まぁ、新馬とはいえレコード叩き出したんだ、しょうがないか』

「ん? どうしたおっさん。なんかようか?」

 

 本江さんは箱一杯の果物を飼い葉桶に流し込み、腰を叩く。重いだろうからね、仕方ないね。

 そんな本江さんに、馬房から首を伸ばした兄さんが頭を摺り寄せた。

 え、何コイツレコード出したの?こわ、やっぱ早いんだな。

 

『おお、よしよし。リンゴと人参が届いたぞ。三週間後には次戦だ、ゆっくり休め』

「うひょー、甘くてうまい奴じゃん!」

 

 本江さんがマルゼンスキーの頭をなでていると、果物の山を見つけた兄さんのテンションが上がる。

 まぁ、匂いからして美味しそうな上物だもんね。

 物凄い勢いで齧り付く兄さんの頭を最後に一叩きし、本江さんは去っていった。

 

「三週間後には次戦だってさ」

「もぐもぐ、マジかよ。早くね?」

 

 本江さんの言葉を翻訳すると、兄さんは口からリンゴの欠片をこぼしながらこちらを見てきた。

 汚いな、口の中のもの飲み込んでから喋れよ。

 

「そんなもんじゃないの? 二週間に一回遠征してる馬結構いるじゃん」

「確かに」

 

 近くの馬房にいる馬などガンガンレースに出走し、そのたびに負けて帰ってきているのだから、そんなものといえばそんなものなのだろう。

 東京競馬場でも毎日のように何レースも行われているのだから、全国の競馬場の数を考えれば、出られるレース自体は山ほどあるはずだし。

 

「今は一杯食って一杯休んで疲労抜きが優先だな。疲れてたら勝てるもんも勝てねぇ」

「そうしなって。はぁ、それにしても兄さんが勝ったんだし、私も勝たなきゃな」

 

 同じ父を持つ兄が勝ったのだから、私も相当期待されているのだろう。そう思うだけで胃のあたりに重さを感じてしまう。

 ダート戦だし、よほどのことがない限り負けないとは思うが、レースというものは時の運が絡むもの。

 馬群に沈めば何もできなくなる可能性だってある。

 一度負ければ負け癖がついてしまうかもしれない。

 兄やゲオルギウス君に見放されてしまうかもしれない。

 そんな陰キャ特有のネガティブな思考が頭の中を駆け巡り、どうにもやる気が減退していくあの独特の感覚に飲まれそうになっていると、私の飼葉桶にリンゴが放り込まれた。

 

「無駄にいろいろ考えてそうだけど、果物食って落ち着け」

「そうは言ってもね」

 

 兄さんの言葉にあいまいな返答を返しつつ、もらったリンゴに噛り付く。

 旨いなこれ。ヘラのリンゴより旨いかもしれない。

 

「ボス馬にすら圧勝した俺を追い詰める俺の妹がそこらの有象無象に負けるかよ。いつも通り走れば俺以外に負けるわけないだろ」

「それもそうか」

 

 半分煽りみたいな兄さんの言葉を聞いて、気持ちが上向いた気がした。

 新馬レコードをたたき出した、世代最強の可能性すらある兄さん相手に首差や頭差までは追いすがれるんだ。

 少なくとも同じレースに出た新馬たちよりは強いと思っていいんだろう。

 

「よし、勝ってくるよ」

「当然だろ、妹モドキ」

 

 いい感じに終わるかなと思ったら、なんか腹立つなこいつ。

 

「ペッ、ヘタレ兄さんのくせに生意気だぞ」

「汚っ!? 芯を飛ばすなよ!?」

「ふん」

 

 奴に芯を吐きつけ、馬房の中に引っ込む。

 感謝の言葉をかけるタイミングを逃した感があるが、無事に勝ってから言えばいいだろう。

 

 間もなくやってくる新馬戦に向け、カッチリと何かがはまった気がした。




マルゼンスキー戦績

1976年10月9日 三歳新馬戦 芝1200m 1:08.3(新馬戦レコード)
        一着 大差(約20馬身差)

外向肢勢の改善と本気を出す気になった当馬の実力が合わさり、圧倒的な爆逃げで史実より2.5秒ほど早いタイムをたたき出し新馬戦レコードを獲得した。
出だしから鞍上との折り合いはつかなかったが、馬なりでこのタイムを出したことにより史実よりも大きな注目が集まっている。

タイム的には同じコースを走るスプリンターズS(現G1)でも1990年バンブーメモリーまで負けないレベル。それ以降でもニシノフラワーやヒシアケボノ、タイキシャトルにカレンチャンなどの実装組くらいにしか負けない。
グランアレグリアと同タイムである。
こいつはこの時点では現在の2歳馬である()

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