1976年10月17日
東京競馬場 本江厩舎
トリウィアヘカテー
「ぐえー、マジ痛い、無理」
新馬戦を終え本江厩舎へと戻った私は無理をしすぎたのか、全身酷い筋肉痛に襲われていた。
松明ブンブン丸になった後並みの筋肉痛である。無茶苦茶しんどい。
流石にレース当日よりはましだが、痛いものは痛いのだ。
「飯食って寝てれば治るよ、俺がそうだったし」
「いや、わかってるけどしんどいんだわ」
隣の馬房から、練習馬場へと引き出されるマルゼンスキーの声が聞こえる。
奴はすっかりコズミも治り、今日も元気に練習しに行くのだ。
「はいはい、ゆっくり休んどけ。んじゃ行ってくるわ」
「いてらー。……くそ、ほんとに痛い」
私の馬房の前を通り過ぎるマルゼンスキーを見送った後、馬房の寝藁の上に転がる。
筋肉痛軽減のためにじたばたと全身を動かしていると、どうも聞きなれた足音が二つ聞こえてきた。
一つは本馬君の足音。もう一つは軽くてサイクルが早い。子供かな?
『トリウィアヘカテー、起きてるか?』
立ち上がり馬房の入口へ向かうと、ちょうど馬房の前に来た本馬君が声をかけてきた。
『うおう、急に出てくるなよ』
にょきっと出した頭を撫でてくれる本馬君。
ふっ、相変わらず撫でるのがうまいじゃないか。
『よかったな、坊ちゃんが来てくれたぞ』
「坊ちゃん?」
坊ちゃんって誰だ?坊ちゃん、男の子供、関係者、まさか!
『元気そうでよかった、久しぶりだねヘカテー』
「ニコきゅん!!!!いだだだだだだだ!!!!!!!!」
『うぁっ!?急に興奮するな!』
『本当に元気そうでよかった』
本馬君の陰に隠れていたニコきゅんがはにかんだ笑みを浮かべて私を見てくれていた。しかも限界まで下げた頭を撫でてくれるサービス付き。天国かここは。
レースの時に会って以来の新鮮な黒髪美ショタに大興奮である。全身に力が入り激痛に苛まれるが問題ではない。
本馬君が何か文句言っているが、私は今ニコきゅんを嗅覚と触覚で堪能するので忙しい。後にしてくれ。
『コズミはよくなったのかな?』
『勝手に整理運動とリハビリする賢い馬だからね、今朝はまだ痛がってたけど、数日で治るとは思うよ』
『そっか、早く良くなってね』
「大丈夫!ニコきゅんになでなでしてもらったからすぐに治るよ!!!!いだだだだだだだ!!!!!!」
ニコきゅんのヒーリングヴォイスとヒーリングハンドとヒーリングスメルの効果で痛みが少なくなっている気がする。いや少なくなっているに違いない。
脳内麻薬とホルモンと血流がドバドバになっているのが分かるくらいである。
『目は血走ってるし首より後ろはガクガクしてるのに、頭は微動だにしないで深呼吸してるの気持ち悪いな』
『器用だね、ヘカテー』
「気持ち悪いってなんだよ本馬君!ニコきゅんに傷一つつけるわけにはいかないからね!畜生!とにかく痛い!!!!」
痛みに悶えていると、本馬君が持っていた籠からリンゴや人参をニコ君に差し出した。
『坊ちゃん、林檎とか上げます?』
『いいの?はいこれ!』
「ニコきゅんの手から食うリンゴうめぇ!!!!!!」
黒髪天使手ずからの人参やリンゴをめっちゃむしゃむしゃした後、時間を気にした二人は連れ立って去っていった。
どうも次のレースは近いらしいし、とっとと筋肉痛直さないとな。
柔軟や足踏み、右回りしたり左回りしたりと全身を意識的に動かしていく。
「けどやっぱ痛いもんは痛い!」
しかし気合を入れても痛いものは痛いのだと、ビクンビクンしながら改めて思った。
1976年10月20日
東京競馬場 本江厩舎事務室
本馬信夫
調教師から連絡を受け、本江厩舎の事務室で
安っぽい長テーブルには緊張で震える俺と仲渡の騎手組と、本江調教師とゲオルギウスさんがそれぞれの側で座っている。
俺も仲渡も、馬に負担をかけるような騎乗をしてしまっている負い目があった。
二頭とも軽微なコズミだけで済んだが、もしかしたらがあってもおかしくないような大記録を出してしまっている。
勝つことは重要だが、それは制御された勝ち方でなくてはならない。
全力を常に発揮させていては、負荷があまりにも大きくなりすぎてしまうからだ。
正直なところ、全く制御できなかった俺たちは、いつ屋根を下ろされてもおかしくない状況だった。
馬を制御できないヘボ騎手の代わりなんて、この東京競馬場だけでもいくらだっている。
今日の呼び出しは解雇通告だな、と笑えない冗談を飛ばして仲渡に一発殴られてから事務室に来たくらいには追い詰められていた。
だが、事務室に着けばそこに居たのは本江調教師とにこやかに談笑するゲオルギウスさん。
最初の挨拶の時点で本江師から主戦継続を言い渡され、俺たち二人はほっと息を吐いた。
解雇の緊張から解放され、席に着いた俺たちだったが今は別の緊張に襲われている。
「弁当で申し訳ないが、我々の馬の初勝利祝いということで食べてほしい。ああ、本格的な祝宴は別に設けるつもりだよ」
「い、頂きます」
目の前にあるのは自分でも名前を知っている東京でも老舗の折詰弁当。
蓋を開ければ、尾頭付きの小さな鯛と有頭海老を主役に添えた明らかに高級なものだった。
そんな代物がゲオルギウスさん、本江調教師、俺、そして仲渡の分並んでいる。
一週間の食費くらいしそうなそれを、ゲオルギウスさんは安い煎餅でも差し入れるように持ち込んできたのだ。
「私までいいんですか?」
とりあえず感謝の言葉は伝えたものの、尾頭付きなんて初めて食うんだがどう食えばいいんだ。
そう困惑していると隣の仲渡が申し訳なさそうな声を出していた。
まぁ、確かに関係は薄い。正直おごられるような関係じゃないよな。
「ええ、端本さんから”しばらく東京に行けないから代わりに頼む”と言われています」
「だとよ、ありがたく食っとけお前ら。んぐ、旨いなこれ」
端本さんからの伝言にホッと息を吐いた仲渡も、安心した様子で箸を手に取った。
それにしても本江師は豪快が過ぎる。普通このサイズの尾頭付きに齧り付くか?
卵焼きやタコの桜煮などめったに食わないようなおかずを堪能して完食し、食後の茶を飲みながら一通り感想を言い合った後。
まじめな顔に切り替わった上役二人が口を開いた。
「お前ら二人が呼び出されたのは次戦以降の予定が決まったからだ」
「まずはマルゼンスキーの出走予定から見てほしい」
本江師が立ち上がり、備え付けの黒板へ今年の予定を書き込んでいく。
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マルゼンスキー
10月30日 いちょう特別 中山 芝1200
11月21日 府中三歳ステークス 東京 芝1600
12月12日 朝日杯三歳ステークス 中山 芝1600
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「いちょう特別を叩いて賞金を稼ぎ、府中三歳Sと朝日杯三歳Sで距離を延ばす。体が出来上がる来年には2200や2500でも戦えるようにな」
トリウィアヘカテーと比較すると全くスタミナが足りてないように見えるが、確かに成長すれば長距離でも戦えそうではある。
そもそも3600を追い込んでもピンピンしているトリウィアヘカテーと比較することが間違っているわけだが。
にしても2200と2500という距離、出走制限が厳しい持込馬が目指すとすればやはり。
「ここまでが上手くいくなら、来年は宝塚と有馬を主軸に海外遠征も視野に入れると端本さんは言っています」
「マルゼンスキーの才能なら世界でも戦えるってのが馬主と俺の共通認識だ。しっかり勝ってこい仲渡」
「は、はい!」
二人から激励される仲渡の表情は強張っていた。
宝塚と有馬。人気投票で出走馬が決まる、年度前後期のスター馬を集めたレースでの勝利を望まれるってのは期待も重いだろ。
デカいレースで勝ててないのは俺も仲渡も一緒だからな。
「次はトリウィアヘカテーだ。」
本江師はそう言ってマルゼンスキーの予定の隣に、トリウィアヘカテーの予定を書き込んでいく。
だが、そこには信じられない内容があった。
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トリウィアヘカテー
10月31日 銀杏特別 中山 芝1200
11月21日 府中三歳ステークス 東京 芝1600
12月12日 朝日杯三歳ステークス 中山 芝1600
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「いやいやいや!ちょっと待って下さい!」
「黙って最後まで聞け」
思わず抗議の声を上げたが、本江師に制止される。
ゲオルギウスさんに視線を向ければ、変わらず微笑んでいた。
けれどもどこか冷たい視線に、頭が冷える。
俺が落ち着いたのを見て取ったのか、ゲオルギウスさんが口を開いた。
「驚かれるのも無理はありません。ですがこれには考えがあるんです」
「マルゼンスキーとトリウィアヘカテーを同世代の二強と見ています。ここに異論はないでしょう?」
俺も仲渡も頷いた。ここに異論はない。ダートでも芝でも二頭にかなう馬などいないだろう。
「ですがこの二頭は持込馬、出走可能なレースはごく限られています」
「クラシックディスタンスの主要競争はほぼ出られず、世代最強達と争う機会はほとんどないでしょう」
最近の規定変更で、持込馬は外国産馬と同じ扱いになってしまった。八大競争のみならず、オープン戦も、それ以下も出走できるレースは全体の三割にも満たない。
クラシックには参戦できず、天皇賞も規定が変わったせいで大きな賞で出られるのは宝塚と有馬だけだ。
「そこで私は端本さんに提案しました」
「府中三歳ステークスで雌雄を決し、負けた方はダート路線へ移ることにしようと」
「何をバカなこと言ってるんですか!」
「マルゼンスキーもトリウィアヘカテーも、ダートでだって勝てるでしょう!けどそれとこれとは話は別ですよ!」
今度は俺だけじゃなく、仲渡も声を荒げる。
○外同士で潰し合いをした挙句、片方はダートに流れるなんてする必要はないはずだ。
マルゼンスキーは最長でも中距離、それに対してトリウィアヘカテーは中長距離が本来の戦場になる馬だ。
芝の上でも一部を除いて、ほとんど被らずにレースを荒らせるのだから。
「ええ、仰る通り馬鹿げたことに見えるでしょう。ですが、持込馬同士で芝の冠を取り合うよりも、手分けして芝もダートも蹂躙してしまう方が良いと判断しました」
「八大競争に出られない?なら芝とダートを蹂躙した二頭が出られなかっただけで、宝塚と有馬で世代最強は我々なのだと示してやるつもりです」
「我々を出走させないということがどういうことか。二頭による混合レース蹂躙で、八大競争の価値を地に落とすことで思い知らせます」
ダートと芝を行き来するより、馬の脚の負担にもなりませんしね。そう言って肩をすくめるゲオルギウスさん。
彼の眼はにこやかに細められているが、目の奥に燃える冷たい炎が見えた気がした。
確かにはらわたが煮えくり返る思いがあるのは否定できない。
二頭は出走さえすれば、八大競争の栄冠を分け合えるだけの力があると思わざるを得ないからだ。
国内で生まれたというのに、外国産馬と同じ扱いを受けるのは理不尽だろう。
「何よりこれは私と端本さんの賭けであり、対抗意識の強い二頭を潰し合わせないための方策でもあります」
「どうでもいいレースで本気の競り合いされて、ほかの馬を置き去りに消耗されても困りますからね」
ゲオルギウスさんの言葉に、思わず体が跳ねる。
心当たりがある上に、仲渡と一緒に危惧していることだからだ。
「この二頭を並走させるとタイムが特におかしくなる。お前らもわかっているだろう」
「それは確かにそうですが」
「自分たちの力不足です、すみません」
俺と仲渡は頭を下げる。あの二頭を並走させるとどうにも時計がおかしくなるのは事実だ。
追切をかけたくなくても、本番並みに追い切ってしまう。手綱を引いてもいうことを聞きやしない。そのくせ逃げや追い込み戦術は完璧にこなすのだから騎手としてはたまらない。
もっとも二頭とも新馬戦前の最終追切を最後に、並走では全力を出さないようにしているようだが。
「いいんですよ。あの二頭は子供のころから一緒に切磋琢磨してきた関係です。それもお互いに拮抗した実力を持つライバルであり兄妹として」
「絶対的な格付けが済むまで、人間が制御できるような状態にはならないでしょう。なまじ賢い分余計にね」
自分でレース展開を組み立て、本番に支障が出ないぎりぎりまで脚を使い切れるくらい賢いというのが、かえって悩みの種になるのは不思議なものだ。
「だが本番のレースで何度も全力を出されれば消耗が過ぎる。だがそれを回避できるほどレース数に余裕はない」
「だからこそのお二人の賭けってわけだ。お前らの騎乗一つで馬の道が決まる。府中三歳までに何とかして折り合いをつけろ」
本江師が厳しい視線を向けてくる。
「まぁ今回の賭けは、私と端本さんが生粋の負けず嫌いで、自分の馬が一番だと思っているせいなんですがね」
「私も端本さんも、負けるなら相手の馬だけだと思っています。お二人には面倒をかけることになりますが、一つよろしくお願いします」
ゲオルギウスさんはそう言うと頭を下げた。
頭を下げられても困るのだが、馬主同士の賭けに自分たちを巻き込まないでほしいとは思う。
「はい!」
「何とかします」
仲渡は元気に答えていたが、自分は何とか絞り出すような答えしかできなかった。
本江師がこちらを見てくるが、視線を向ければそらされる。
本江師でもどうにもなっていないのだから、責められても困るというものだ。
「どうにか、します」
それでも何とかするという決意を改めて伝えれば、ゲオルギウスさんは鷹揚に頷いた。
そうだ、何とかするしかない。
あいつは俺の言うことを聞いてくれるか。これまで普通の馬相手のやり方は全部だめだった。
あれだけ賢いんだし、いっそのこと人間だと思って全部話してみるか?