トリウィアヘカテー
銀杏特別
2馬身差で一着、勝ち時計1:11.1
マルゼンスキー
いちょう特別
10馬身差で一着、勝ち時計1:10.0
マルゼンスキーは外向肢勢の良化と調教強度アップで末脚が伸びた影響で、史実よりタイムが良くなりました。
1976年11月20日
東京競馬場 本江厩舎
朝から降り続いていた雨も上がり、時折落ちる雨だれの音を聞きながら私は馬房で眠れぬ夜を過ごしていた。
本江厩舎の馬のみならず、周囲の多くの馬が遠征でいない厩舎は足元からする前掻きの音以外静かなものだった。
いよいよ明日、私とマルゼンスキーの直接対決がやってくる。
そのプレッシャーのせいか、思った以上に眠りが浅くなって眠れない。
奴は前走のいちょう特別で実に十馬身をつけて圧勝してきている。
最速で飛び出し、ハナを押さえ、逃げに逃げて最後に刺したとか。本当に意味が分からない。
だが奴は間違いなく成長している。
帰って来た時にはボロボロだったが、翌日にはけろっとしていた。1200とはいえそれができるほど体が仕上がってきたということだ。
実力は、たぶん世代でも最高なのだろう。
全開ボロボロになったことを反省し、最近妙に話しかけてくる本馬君の言うことを聞いてちょっと変則な追込でレースを進めてみた結果、勝てたもののそれほど大きな差にはならなかった。
今回は最後尾に着け残り800から進出を開始、最終コーナー出口で最高速に乗ってゴール板に突っ込む戦術をとった。
この戦術は私にあっていたのか疲労度は新馬戦と全く異なり、当日でも疲れを感じることはなかった。
ゴール時点でも余力はあったし、加速するタイミングはもっと早くてもいいのかもしれないとは思う。
だがそれでも今波に乗っている奴をとらえきれるのか不安でたまらないのだ。
次は多少距離が延びるが奴の得意距離であり、私にとっては距離が短い。
正直勝ち目は薄いと言わざるをえない。
だが、次の一戦で私とマルゼンスキーの運命が決まるようなのだ。
詳細は分からないが、ゲオルギウス君と端本さんの間で何か取り決めが交わされているらしい。
本馬君と仲渡君が随分と追い詰められたような表情で何か話しているのを何度か見かけている。
本江先生もたまに胃を押さえているし、よほどの何かがあるのだろう。
色々考えこんで名状しがたい不快感を抱えながら、眠ろうと努力をする。それでも寝不足になりそうなくらいに眠れなかった。
自分で思っているよりも緊張しているということだろうか。
思い通りにならない体を持て余しつつ、その苛立ちをぶつける為に前掻きしていると、隣の馬房から声が上がった。
「おい、夜中だぞ、静かにしろよ」
にゅっと首を伸ばしてきたマルゼンスキー、ちょっとイラついたような声だった。
起こしちゃったかな?
「周りの馬は皆遠征してるから大丈夫」
「俺が眠れないんだよ」
「それはごめん」
周りにほとんど誰もいない静かな厩舎に、カツカツと前掻きする音が響く。
けれどもその音は、私の足元からだけではなかった。
さっきまでは音が重なっていたのと、自分がぼーっとしていたので気づかなかったけど、マルゼンスキーの馬房からも音は響いていた。
「兄さんも眠れないの?」
「お前がうるさくてな」
いやいや、それもあるだろうけど、それだけではないでしょ。
「兄さんもガツガツ音立ててるからね?」
「は? ……マジかよ」
私の指摘にかなり本気で呆れた声を上げた兄さんだが、足元を見たのか前掻きの音が止まった。
掠れるような呟きの後、何度か大きく息を吸って吐き出す音が聞こえる。
最近ようやく覚えさせた精神を鎮める動作を生かしているようで何より。
ちょっと前の兄さんだったら逆ギレして大喧嘩になっている所だった。
最後に大きく息を吐き出したマルゼンスキーがこちらを向いた。
「能天気が売りのお前が何を悩んでんだよ」
「いきなり喧嘩売ってんの?」
なに冷静になった瞬間に喧嘩売りに来てんだよ。情緒不安定か?
「お前が悩むなんて、何から食うか考えてる時くらいじゃん?」
「うぐ」
確かに馬になって以来深く悩んだことないし、普段はおやつをどの順番で食べるか悩むくらいだけどさ!
仮にも女の子相手だぞ、デリカシーがないのか!
「お前が悩んでるの、俺とお前の行き先が決まるって話だろ」
「は? なんでわかんの? 人の言葉覚えた?」
「少しだけな。仲渡と本江が”芝”と”ダート”、”マルゼンスキー”と”トリウィアヘカテー”って言葉を苦しそうに言うんだぜ?」
寝ぼけたことを言い出したマルゼンスキーに反論しようとするが、続く言葉に私は口をつぐんだ。
「俺もお前も、”芝”と”ダート”で勝ってきた。その時は喜んでた。なのに最近は苦しそうだ」
確かに最近の彼らはいつもどこか悲しそうな顔と声色で私たちに声をかける。
「”次で””決まる”と何度も繰り返すんだぜ?」
「お前のおかげである程度人の言葉を覚えちまったからな。そこから推測すれば、次のレースで俺とお前がどこを走るか決めるってことだと考えたんだよ」
マルゼンスキーは頭がいい。私が通訳していたのもあるが人の言葉を聞き分ける能力もあった。
最近は私と同じくらい人間の指示に素直に従うと東京競馬場でも有名になりつつあるほどに。
「ま、周りの馬達もダートや障害に路線変更してるやつが多いしそれもあるけどな」
最近になって、いよいよ芝路線に見切りをつけてダートや障害に転向した馬は多い。私たちと同世代だけでなく、先輩方もそうだ。
勝てない芝に無理に拘る必要もないとは思う。馬にとっても馬主にとってもね。
転向したからと言って勝てるとは限らないのが競馬の恐ろしいところだが。
「あの人達、私の前じゃそんなこと言ってなかったのに」
「お前は人間の言葉が分かるって思われてるからだろ。伝わらないようにしてたんじゃねぇか?」
「そうかな、そうかも」
普通の馬ならば人の言葉を聞かれようと気にも留めないのだろうが、人間の子供に近い扱いを受けている私の前では気を付けていたのだろうな。
ヘタに内容を理解されて、調子を崩したり本番で掛かられても困るだろうし。
「もしかしたら、正面からやり合うのは最後になるかもしれないんだ、全力で来いよ。トリウィアヘカテー」
「言われなくても勝ってやる。覚悟しとけマルゼンスキー」
いつも通りの、どこか気の抜けたやり取りを最後にマルゼンスキーは首をひっこめた。
私は彼の馬房を見つめながら、この先のことに思いを馳せる。
もしも、彼の予想通りだとしたら。
私は彼に勝つことができるのだろうか。
もしも負けた時、私が戦えるダート戦などあるのか?
はるかに多くのレースが存在する芝路線ですら、多くのレースを戦う権利すらない私に。
「いや、勝たなきゃダメだろ」
私の背には私以外の想いも乗っているのだ。
私にはゴール板のその先へ、その思いを一番に届ける義務がある。
「それが今日まで生かされてきた、私の成すべきことだ」
たとえこの世界が泡沫の夢であったとしても。
誰かの求めを聞き届け、力を貸すことこそが私の在り方なのだから。
1976年11月21日
東京競馬場 馬主席
第七レースのパドックと返し馬でトリウィアヘカテーの様子を見た私とニコは、馬主席に座っていた。
どんよりとした雲が空一面を覆い、冬の先駆けが駆け抜ける東京競馬場。
しかし、眼下の一般観客席はかなりの人で埋まっており、それなり以上に盛り上がっている様子だった。
「さて、ニコ。今日のトリウィアヘカテーはどうだったかな?」
私の質問に数瞬目を瞑った彼は、一度うなずくと私を見据えて答えを返す。
「うん。あまり調子は良くなさそうだった。目も血走っていたし、落ち着きがなかったよ」
トリウィアヘカテーは普段の様子からは考えられないほど、普通の馬のように見えた。
ごく普通のイレ込んだ馬の姿と振る舞いは、普段の賢さを見慣れているとなんとも新鮮だった。
レース前の競走馬としては、あまり褒められた状態ではないのだけどもね。
「それじゃあ、トリウィアヘカテーは勝てないかな?」
少し意地悪な聞き方をすると、ニコは首を横に振る。
「そんなことはないと思う」
「どうしてそう思うんだい?」
「マルゼンスキーも随分神経質そうだったし、返し馬がどうも仲渡さんと折り合いがついていなさそうだったから」
それは確かにそうだった。何度も首を振っていたし、騎乗時点から折り合いがついていないように見えた。
返し馬では強く手綱を引いていてもかなりの速度で走っていたほどだからね。
「ふむ、二番人気のヒシスピードはライバルにならなさそうかな?」
「二頭が普通の状態なら相手にならないけれども、今は危ないかもね。でもトリウィアヘカテーとマルゼンスキーの二頭が本気でやり合うならどちらかが勝つよ」
ヒシスピードも二番人気に押されるだけあって、十分良い仕上がりだった。
落ち着いていたし、好走が期待できるだろうとは思った。それでもあの二頭には一枚劣るとも感じる程度だ。
「そうか、私もそう思うよ。勝つならどちらかだ」
自信に満ちた表情でそう断言する息子の頭を撫でまわす。
この子の中ではあの二頭が世代の二強というのが結論なのだろう。
無論私もそうだ。馬主の贔屓目を抜きにしても、非常に強い馬なのだから。
「親子そろって景気の良いことを言ってるじゃねえの」
「おや、端本さんご無沙汰しています」
「おじいさん、お久しぶりです」
「おう、二人とも久しぶりだな。悪いが水を飲ませてくれ」
端本さんが背後から声をかけてきた。
いよいよ大一番であるからと態々東京までの長旅を終え、どこか疲れている様子の彼は私の対面にドカリと座り込む。
宣言通りグラスに注いだ水を一気飲みし、太い息を吐いて人心地着くとこちらに向き直った。
「いよいよ決まるな。馬鹿げた賭けだ」
「狂気の沙汰ほど面白いでしょう?」
「違いない」
私と彼が顔を見合わせ、笑っているのを見たニコが、怪訝な顔をしていた。
何も知らないこの子からすれば、意味の分からない会話だろう。
「マルゼンスキーはイレ込んでるが、走るぜあれは」
「トリウィアヘカテーもやりますよ、今日は荒れてるようですが」
ついにファンファーレが鳴り響いた。
「「さぁ、始まりだ」」
これから始まるのは私と端本さんの間で交わされた、ひどく傲慢な賭けだ。
同世代どころか今の日本競馬を小ばかにしたような酷い賭け。
これは私の願望だ。
長い戦いの第一歩。
その行き先を占う大事な一戦だ。
大きな大きな、大博打が始まる。
1976年11月21日
東京競馬場 ゲート内
大外六枠六番に配置された私は、ゲートの中で奇数番の馬のゲート入りを待っていた。
芝は前日の雨で濡れている。踏み抜けば水気を感じさせる音がするほどに。
足元が悪い馬場なら、私の勝ち筋も見えてくるかもしれなかった。
『今日はマルゼンスキーとトリウィアヘカテーの大一番なのに、ミスターケイのキャリーまでやらせようって本気か? マルゼンスキーがゆっくりけん引してくれるなら勝ち目もあるけどさ』
溜息を吐きながら愚痴をこぼす本馬君。
本江先生、それマジで言ったの? 私たち真っ向から決闘するんじゃなかったんかい。
いや、確かにマルゼンスキーがゆっくりキャリーしてくれるなら展開的には最高だけれども。
「マルゼンスキー! トリウィアヘカテー! よろしくねー!」
「あ、うん。よろしくね」
「……」
三枠三番に収まろうとするミスターケイから声がかかったので返事だけはする。
マルゼンスキーはガン無視しているが。めちゃめちゃ血走った目してたけど大丈夫かあいつ。
ミスターケイは良い子だけど、私たちが本気で走ると取り残されるよね? 本気で走らなくていいのか?
『俺も仲渡も本気で勝負する。ミスターケイの馬主には嫌味言われるかもしれないけどな。勝つぞ、トリウィアヘカテー』
「任せろよ本馬君」
私の首を軽くなでる彼に、一度嘶いて返事をする。
勝たなきゃならない。負けるわけにはいかないんだ。
『暴れんなって、くそ、走る前からかかってやがる!』
「とっとと走らせろ! 全員置き去りにしてやる!」
「ひぃ!? なんか横に暴れてる奴が!?」
突如として大暴れするマルゼンスキーの嘶きと、必死に落ち着かせようとする仲渡君の声が聞こえた。
いくらレース前だからって情緒不安定すぎるだろ。他の馬驚いちゃってるじゃん。
「何やってんだあいつ、迷惑な奴だな」
スッと私の隣にゲート入りしてきた馬が文句を言う。
言われて当然だと思うよ。
「私の兄がごめんね。えっとヒシスピード君?」
「あれお前の兄貴かよ。あーお前は?」
「トリウィアヘカテー、よろしくね」
私がそういうと、彼は首を大きく振った。
「よろしくはしない。俺は勝つためにここにいるんだからな」
「そっか、いい勝負をしよう」
「それなら大歓迎だ、覚悟しとけよ」
そんな会話をしていると、いつの間にか静かになったマルゼンスキーもゲートインを済ませたようだ。
ついに全ての馬がゲートに入り、レリーズが引かれる音を待つ。
ゲートの前で控えていた係員が駆け抜ける音が途切れ、一瞬の静粛が訪れる。
ガチリ。
「行くぞ!」
一瞬遅れて開き始めたゲートをこじ開けるように、私は駆け出した。