その優しい星で…   作:草之敬

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 考えているのは今朝の夢のこと。

 でも、ただの夢というわりには生々しいというか、記憶に残りすぎているというか……。

 

「……り! あか……!!」

 

 あの真っ赤な人影は誰で、どんな人なんだろう? 

 なんであんな、お墓が並ぶ場所にいたんだろう?

 

「前見てっ!」

「はひ?」

 

 ――ゴンッ。

 ゴンドラが激しく揺れる。ゴンドラの船首と、ぶつかった壁に小さな傷ができあがってしまった。

 

「ああ、もうっ。……なにしてんのアンタは、まったく」

「はひ、ごめん」

 

 いけないいけない。

 いくら夢のことが気になるっていっても、今は練習中だった。

 ちゃんと集中しないと。

 

「よぅし」

「なぁ~にが『よぅし』よ、なにが。ごまかし禁止!」

 

 たはは、と苦笑いを浮かべておく。

 気合を入れ直したところで、練習再開。集中集中――

 そういえば、あの茜空、綺麗だったなあ……。

 

 ――ゴンッ。

 

「何回目よ!?」

「えっと、6回目かな……?」

「どんだけよ!」

 

 やめやめ! と藍華ちゃんは怒りの勢いを緩め、ムスッとした様子で手を差し出す。

 申し訳ない思いでオールを差し出すと、手頃な桟橋を見つけてゴンドラをそこに停めた。

 私より先に桟橋に降り立つと、憮然としたまま私に言う。

 

「休憩するわよ。そこでぼっとしてるわけ、話してもらうからねっ」

「はひぃ……」

 

 藍華ちゃんの表情は、ゴンドラから降りるのを躊躇するくらい怖いものだった。

 とはいえ、降りないと許してくれそうにもないわけで、頭を低く、私はゴンドラから桟橋に降り立ったのだった。

 

 

 

 近くにあったカフェのテラスに腰を落ち着けると、私の正面に陣取った藍華ちゃんは身を乗り出した。

 機嫌が悪そうな藍華ちゃんはじとりと私をにらむと、はあ、と盛大なため息を吐いた。

 そんな顔されても、こっちは話すための心の準備が……。

 

「さてと、灯里~?」

「は、はひぃ……」

「練習中だっていうのにあーんなにぼっとしてた理由、話してくれるわよねえ?」

 

 えへへ、と笑ったけれど、藍華ちゃんの目じりが余計に吊り上がってしまった。

 無意識に椅子の背もたれを押すように身体を仰け反らせてしまう。

 うう、藍華ちゃんってば顔だけじゃなくて声まで怖くなってるんだもん……。

 

 でも、今朝見た夢が気になって、なんてことを言ったら、それこそ「そんな理由で練習に集中してなかったの!?」と爆発してしまいそうだ。

 その次にくるだろう「そんなことで集中乱せるアンタもすごいわ」と呆れたような、感心したような反応までが簡単に想像できてしまう。

 

「あによっ」

「な、なんでもないよ!」

 

 藍華ちゃんの顔色を窺っていると、ムスッとしたまま藍華ちゃんが私をにらみ返してきた。

 もう一度ため息を吐くと、心配そうな顔をして、声の調子まで変えて話かけてきた。

 

「あのさ。なんか悩みがあったりすんなら、私にも言いなさいよ。少しくらいなら力になれるかもしんないし……」

「う、ん……」

 

 こんなに心配されちゃ、話さない方が不誠実だよね。

 なんでもないよって言うのはきっと簡単なんだろうけど……。

 

「えっと、実は……」

 

 今朝の夢の話を藍華ちゃんに話す。夢の中で見た人影のこと。茜空の景色、そして乱雑に立ち並ぶたくさんのお墓。

 起きた時、無性に悲しくなって泣いてしまったこと。――覚えのない景色と人物を夢に見たこと。なぜか悲しくなってしまったこと。だから見た夢がただの夢には思えなくて、ずっと気にしていて、練習に集中できなかったことを全部藍華ちゃんに打ち明ける。

 三度目のため息――かと思うと、藍華ちゃんはポカンと口を開けて、驚いている様子だった。

 思っていたのとは違う反応が返ってきたこともあって、この後がちょっと怖いんだけど。

 

「それ、私も見たんだけど」

「ええっ?」

 

 予想外の答えに、私のほうが固まった。

 本当に同じ夢だったのだろうか。

 

「ちょっと違うんだけどね。お墓じゃなくて、剣……なのかなアレ。だったと思うのよ」

「うん、そう言われててみればそんな感じだったような、なかったような?」

 

 印象強い夢だった割には、記憶があいまいだ。

 そういわれれば剣だったような気もするし、やっぱりお墓だよって気もする。

 うむむ、と唸っていると、藍華ちゃんは表情を明るくして話を続けた。

 

「アレ、灯里も見てたんだ。起きた時悲しくってのは、まあ、灯里の感受性ならわかんなくもないけど、私はなかったかな。『変な夢』くらいにしか思ってなかったもん。ん~……でも灯里まで見てるってなると、ねえ?」

「そうだよね。二人が一緒に同じ夢を見るってすごい偶然かも」

「試しに聞いてみたら、アリシアさんも同じ夢見てたりしてね?」

「え~? それはないよ~」

「わかんないわよ~? だって、もう私と灯里は同じ夢見ちゃってるんだし」

 

 そんな他愛のない夢想話を藍華ちゃんと話していると、いつの間にかお昼になってしまっていた。

 ついでにと昼食をそのまま摂ると、これがとっても美味しくてビックリ。

 たまたま入った初めてのお店だったからちょっと不安だったけれど、夢の中のあの人にちょっぴり感謝です。

 

 

 

 藍華ちゃんの「こんな頭じゃ練習にも身が入らない」の鶴の一声で、午後の練習はお休みすることになった。

 そのまま書店とか、観光地巡りをして、最後に私たちが腰を落ち着けたのはARIAカンパニーのバルコニーだった。

 書店で買った雑誌を藍華ちゃんと読み合いっこしたりして過ごしているといつの間にか寝てしまっていたようで、うっすらと目を開けた時、目の前には仕事を終えて帰ってきていたアリシアさんがいた。ビックリして椅子からずり落ちそうになって、慌てて身体を支えて、腰から下が椅子から放り出された状態になってしまった。

 お互いに苦笑いを浮かべて、「ただいま」と「おかえりなさい」。すぐにご飯の用意するわね、とアリシアさんが言ってくれた。

 手伝います、と私が立ち上がると、アリシアさんは静かに藍華ちゃんの方へ目をやって、「まだ寝てるわね」と一言。

 

「一緒にいてあげて。ね?」

「あ、は、はひっ」

「うふふ。それじゃ、美味しいの期待しててね。出来たら呼ぶから、藍華ちゃんと一緒にいらっしゃい」

 

 それだけ言って、アリシアさんは会社の中へと戻っていった。

 残された私は、夕日のお布団で気持ちよさそうに眠る藍華ちゃんの方を所在無げに覗き見た。

 かわいい寝息をたてて、猫みたいに丸まっている。

 

 こんなにかわいくても、実は私よりも『水先案内人(ウ ン ディ ー ネ)』としては先輩だったりする。

 そのうえ、アクアにおける観光業で最も長い歴史を持つ老舗『姫屋』に所属しているのだ。

 ちなみに私が所属している『ARIAカンパニー』は他と比べると新興の会社で、所属人数――というよりは社員がアリシアさんと私の2名だけととても小さな会社だ。

 そんな、聞いただけだと天と地ほどもある会社に所属している私たちが一緒に練習するようになったのは、藍華ちゃんがアリシアさんを訪ねてきたのがきっかけだ。初対面の印象は強引な子って感じだったけれど、付き合い始めて、お世話焼きさんだってことがわかった。今日みたいに私が練習に集中できてなかったりすると叱られたりするけど、そのあと、絶対に相談に乗ってくれたりする優しい気持ちも持ってる。

 アクアに来て初めてできた、私の親友。

 

 で、藍華ちゃんも定期的に会いに来るくらい大好きなアリシアさんは、私の上司で、先輩のウンディーネ。

 とっても美人さんで、ゴンドラを漕ぐのひとつとってもその美人に拍車をかけているくらいだ。お料理も上手だし、家事だってバッチリこなす、なんでもできちゃうすごい人だ。藍華ちゃんは『アクアのウンディーネナンバー1はアリシアさん』と言っていたのもあながち間違いじゃないのかもしれない。

 

「ふ……むぅ?」

「あ、おはよー、藍華ちゃん。もうすぐご飯だから一緒に食べようってアリシアさん言ってたよ」

「うん。たべるー」

 

 まだ少し寝ぼけた様子で目をこする。

 口をおおきく開けて、あくびをひとつ。

 寝ぼけ眼のまま茜空を眩しそうに見て、突然ギョッと目を見開いた。

 椅子から転げ落ちる勢いで走り出し、バルコニーの手すりから身を乗り出すようにして空の一点を凝視している。

 

「ど、どうしたの?」

「いや、でも……まさか、アレ」

 

 目をごしごしとこする藍華ちゃん。何度も何度も茜空に視線を向け、その顔色が青くなっていく。

 あんまり見るものだから、私も気になってその方向を見上げると、背筋がサーッと凍り付いた。

 

 人が、落ちてきている。

 

「わああああああああああ!?」

「きゃあああああああああ!?」

 

 と、二人して叫んでも人が落ちてきている事実は拭えない。

 どころか、当然ながら人影はぐんぐん海面に近づいていくばかりだ。

 あと数秒もすれば、文字通りの■の海になる。

 

「いやあああああああああ!!」

「ひいいいいいいいいいい!!」

 

 海面まであと少し。あの勢いと姿勢は致命的。

 もう間に合わない……!

 

 しかし。

 その人影はくるっと空中で姿勢を整え、と思うと、キラリと何かが光った。

 ぼんっ! と強烈な水柱が立ち昇る。人影はその水柱に飲み込まれ、海の中へと消えていった。

 

「な、なにが……」

「あ、ああ、あああああ灯里! と、とにかく行くわよ!」

「ううう、うん!!」

 

 なにが起こったのかはよくわからないが、とにかく助けにいかないと!

 あの高さ、あの勢いなのだから無事なわけがない。

 

 どたばたと転がるように階段を降り、「さっきの音は何かしら?」と悠長にしているアリシアさんに見たことを話すと、みるみるうちに顔が真っ青になっていく。息つく暇もなく「急げ急げ」と私たちはそれぞれのゴンドラに乗り込み、出せる限りのスピードで落下地点へと向かう。

 逆漕ぎでアリシアさんと変わらない速度で並走していくと、少し遅れている藍華ちゃんが不満そうに言った。

 

「ちょっと、灯里ずっこい!」

「はひっ、な、なにがっ?」

 

 この状況でも突っ込むなんて、なんというか、大物だよ藍華ちゃん……。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

「う、おっ!?」

 

 光に埋もれていた視界が、急に景色を捉えた。

 瞳の中を茜色が埋め尽くす。思わず俺は、燃え盛る空にぽつりと浮かぶ灰のような、さりげない寂寥感を覚えた。

 こんな綺麗な空を、俺は見たことがない。それはつまり、そういうことなのだろう。

 

 だが、どうしても違和感が拭えない。転移の影響か、まだ思考がぼんやりしているからだろうか。

 そんなことを考えていると、不意に浮遊感が俺を襲った。次の瞬間に浮遊感は消え去り、足が大きく空振った。

 

「っ嘘、だろ?」

 

 眼下には雲海。その切れ間に覗くのは赤く輝く波間――つまり海面だ。

 ……遠坂、お前。こんなところでつい『うっかり』なんて冗談じゃないぞ!

 

「ぬあああぁんでさあぁぁぁあああ!!」

 

 この口癖も久しぶりに言ったなー、なんて現実逃避する傍ら、俺の身体は現実(じゅうりょく)に引かれ、確実に死のカウントを刻み始める。

 くそっ、来世で覚えてろよ遠坂! 現実逃避を打ち切って、俺の魔術使いとしての側面が現状を冷静に認識し始める。

 

 すると、生死の境をさまよう落下中であるにも関わらず、俺は思わず嘆息していた。

 

「……なんて、綺麗」

 

 夕焼けに照らされた海は燃え盛る炎のように揺らめき、その海に浮かぶ街並みを激しく責めたてているようにさえ見える。

 だが、その街並み、そこに生きる人の営みも、その激しさをそよ風のように受け流している。力強い街だと素直に感じた。

 特にその力強さと美しさが目立つのは、中央近く、海に面している巨大な広場だ。

 

 L字型を見せる広場を行き交う人々は笑顔を振りまき、活気に溢れ、そして俺の心を激しく揺さぶった。

 久しく「平和」という空気を吸っていなかったからだろうか。それともこの胸の内から漏れ出す動揺は、世界との離別からか。

 俺の感傷なんかはともかく、この景色は本物だ。俺の目の前にある、美しく在る街並みだ。

 

「うん……?」

 

 次に目についたのは、L字型広場に面する、広場のスケールに添った巨大な聖堂。

 荘厳な装飾類は目にも賑やかだ。黄金で彩られたモザイク壁画、色大理石、宝石、七宝が喧嘩せず同居している。

 十字形の四つの頂点、十字の重なる中央部の計五点に円蓋を配したビサンチン建築。

 これは――

 

「サン・マルコ大聖堂? じゃあ、ここはヴェネツィアなのか……!」

 

 ということは、手前の広場はサン・マルコ広場ということになる。

 まさか並行世界じゃなくて、ただ空間転移しただけ……なんてオチはいらないからな。

 遠坂のうっかりもさすがにそこまで酷くない――と、切に願いたい。

 まあ、転移中即死、なんて笑えない状態じゃないだけマシと思うべきなんだろうが。

 

 事実、紛争地帯にいたと思えばイタリアだ。ないと言い切れないのが悲しい。

 日頃の行いの積み重ねがいかに大事かがわかるな、遠坂?

 

 閑話休題。

 

 とにかく、俺のいた世界となにか違いがないか、強化した視力でヴェネツィアの街を隅々まで見渡す。

 特に大きな相違点は見つけられない。気になったといえば、古くから黒で統一されているゴンドラの中、真っ白いゴンドラがあるくらいだ。その白いゴンドラは決まって女性が漕いでいる。それもほとんどが細腕の、華奢な体型をしている女性たちが、だ。もちろん、漕げないこともないのだろうが……。

 俺が知らない間にゴンドラが大幅に軽量化されたか、推力が発生しやすいオールが開発されたか。

 どちらもありえてしまうのが判断の難しいところだ。

 

 だが「並行世界」というくらいだ。ヴェネツィアがあってもおかしくはない。

 宝石剣まで持ち出した遠坂がついうっかり転移だけにしちゃったテヘっ――なんて失敗は想像したくもない。

 なので、俺の願望と現実のすり合わせで「無事に並行世界へ渡った」と判断を下す。

 

 閑話休題。

 

 それにしてもヴェネツィアか。訪れたことはなかったな。

 まさか一度目の来訪が並行世界で、それもこんな空からとは思っていなかった。

 雲海を抜けて見えてきたのは、さらに広い世界だ。炎弧を描く全周囲を巡る水平線がなんとも心を高揚させる。

 

「……?」

 

 ……なんだ、俺は今、なにに違和感を抱いた?

 もう一度ぐるりと全天を見渡す。強化された視力は水平線をハッキリと写し、ヴェネツィアの営みさえも手に取るようにわかる。

 ――そして見つけた。だが、これは違和感の正体じゃない。

 

「なんだ、あの……浮いてるのか、アレ!?」

 

 巨大な浮遊機械、なのだろうか。

 居住区のような場所があるところを見るに、浮かんだ島のような印象を受ける。

 どうあがいても、21世紀初頭の技術で造り出せる代物じゃない。

 

 あれだけで確信した。ここは並行世界だ。

 それも科学技術が俺のいた世界よりも数世紀ほど進んだ、近未来的な世界だ。

 だが、それを理解したところで違和感はまだ拭えないままだ。いったいなにが引っかかっているのか。

 

 この美しい(・ ・ ・ ・ ・)一面が海に(・ ・ ・ ・ ・)覆われた景色(・ ・ ・ ・ ・ ・)のなにが――――

 

「陸が……ないじゃないか」

 

 愕然とした。

 ヴェネツィアと思われる街を覆うのは、一面の海。

 陸が見当たらない。列島のように小島はあるものの、あるはずの陸地がまっさらの海だ。

 科学技術のさらなる発展で環境問題が悪化した? それとも、元からこういう世界なのか?

 

 考え、考察するべきことは多い。

 だが今はそれよりも、そろそろ身の安全を考えた方がよくなってきた。

 海面まで残り数百メートル。なにもしなければ数秒後にはグシャリだ。

 

 戦闘直後、というわけでもなかったが、小競り合いに介入したこともあって魔力の残量はそう多くない。

 とはいえ、この状況から無事に生還する程度できなければ、今まで生きてこれていない。

 高所からの落下なんて、逃走するのに何度も使った。下が海なら難易度はそう高くない。

 

「――投影、開始(トレース ・ オン)

 

 映し出す影は弓と矢。

 漆で塗られたような艶やかな黒弓は夕日すら飲み込んで、鈍くてらつく。

 矢は無銘の剣を歪めたもの。仕込みは完了、あとは結果を御覧じろ……!!

 

「ふしッ!」

 

 残り数十メートル、というところで矢を放つ。

 海面に向かって雷の如く奔る矢は、一息でそれを貫いた。矢の勢いが死んだと思われるところで、起爆。

 ――壊 れ た 幻 想(ブロークン・ファンタズム)

 

 宝具級の魔力を内包しているわけではないので、爆発自体は小規模だが、水柱を立たせる程度には練り込んである。

 そうして、落下中の俺へ手を伸ばすように海面から水柱が想定通りに立ち昇り、全身を包み込む。

 落下の勢いを大幅に殺し、同時に身体にも強化をかけ、姿勢を槍のように正す。

 

 着水の衝撃でさすがに骨が軋みはしたものの、どこも折れてはいない。

 軽く耳抜きをしてから、視力ではなく目を強化し直し、海面を仰ぐ。

 爆発の余波で発生したままの泡でよく見えないが、十数メートルと沈んでしまったらしい。

 

 急いで浮上するほど余裕がないわけでもない。

 せっかくのヴェネツィアの海だ、ゆっくりと昇っていこう。

 それに、久しく海に入っていなかったからか、なぜだか心地いい。

 

 改めて海上を見上げれば、茜色のカーテンが揺らめている。

 息が続く限りいっぱいまで、この景色を見ていたいと思うくらいに――あるいは死んでもいいから見続けていたいと思うほどに――心を打つ風景がそこには広がっていた。踊る魚影、ふるえる泡、茜の揺光。俺の身体は、いつのまにか上昇をやめていた。

 

 海という大きな流れに身を任せる。

 心地よく全身を包む冷たさは、緊張に熱した身体にはちょうどいい。

 ……そこでハッと我に返った。

 俺がこうしている間にも、遠坂と橙子さんは追手を相手取っているのだ。

 ぐずぐずはしていられない。まずは行動を起こさなければ。

 

 上昇を再開する。今度は周りに気を取られずに、一直線に海面へ。

 

「ぷはぁっ」

 

 肺いっぱいに空気を吸い込む。

 顔についた海水を拭いつつ、周囲を見回そうとした、その時だった。

 

「灯里っ、ちょ、まっ!!」

「灯里ちゃん止ま……っ」

「はひ?」

 

 姦しい声に続いて、目の中を星が暴れまわる。

 遅れて鈍痛が後頭部を襲う。完全に気を抜ていたいところに不意打ちだ。それもかなり強烈な。

 そのダメージがきっかけで疲れがドッとのしかかってくる。

 冷たい海水をやたら気持ちよく感じて、意識は自然と底へと沈んでいく。

 

 前途は多難で満ちているらしい。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

 ――ごんっ。

 

 今日7回目の衝突は壁ではなく、人の頭だった。

 

「はっ、はひぃ!?」

 

 ぷかぁ……と波に揺られて漂う人影。

 色が燃え尽きたような白髪に、浅黒い肌の男性。彼の後頭部に漫画のようなたんこぶが見えればどれほど気が楽だっただろう。

 現実はそんな逃げ道も用意してくれず、残酷なくらい素直に私に事実を突きつけてくる。

 

 さあっ、と血の気が引いていく。

 ぎぎぎ……と油の切れた機械のように藍華ちゃんとアリシアさんを振り向く。

 

 その二人も夕陽を浴びていてもわかるくらいに真っ青な顔をしてこっちを見ていた。

 

「ど、どど、どどうしよう!?」

「灯里……」

「灯里ちゃん……」 

 

 引き気味の声が二人からかけられる。

 すっと助けを求めるように手を伸ばすと、すっと二人が身を引く。

 

「私、見てたから……。ちゃんと証言するから……」

「大丈夫。大丈夫よ、灯里ちゃん……」

 

 言われた意味がよくわからず、もう一度浮いている人を見る。ピクリともしない。

 波に任せて、ぷかぷかとただ浮いている。

 二人とも、明らかに動揺して自分を見失っている。そうなると不思議なもので、私はだんだん落ち着きを取り戻していく。

 現状をどんどん認識していくと、さらに血の気が引いていく。

 藍華ちゃんとアリシアさんの言葉が冗談じゃなくなっちゃう!

 

「そ、そんなことより助けようよおっ!」

 

 ハッと我に返った二人と一緒に、私たちは海に浮かぶ男性を助け始めるのだった。

 

 

 




08/07/25 ブログ投稿
14/05/27 ハーメルン投稿

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