その優しい星で…   作:草之敬

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「……ぐ……っう」

 

 波音が静かに耳をくすぐる。

 気絶する前が海だったので、背中に感触があるのに一瞬戸惑う。

 全身を走査してから、ゆっくりと目を開けた。

 

「ここは……?」

 

 病院ではないらしい。だが建物の中に違いはないようだ。

 身体を起こし、周りを見渡そうとして空気が直接肌に触れるのを感じた。見下ろした上半身は脱がされていて、物騒な傷が丸見えになっていた。

 だが、ともう一度改めて周りを観察する。

 受付らしいカウンターに、スケジュールボード、カレンダーと留置所らしくない。

 

 と、いうことは、だ。

 

「なにかを察してくれたか、よっぽどのお人好しか……」

 

 人のことを言える立場ではないが、とりあえずはそう結論付けておく。

 それにしても肌寒い。今までかけられていたらしい毛布を羽織り、立ち上がる。

 遠坂のおかげで空に転移させられて、自由落下の末に海に墜落。海面に浮きあがったところで後頭部に強烈な衝撃が走って――というところまでは覚えている。とりあえず並行世界に無事転移できたらしいことは、落下中の「浮かべられた島」を見て確信したはいいのだが……。

 

「へっぐし!」

 

 毛布一枚だとまだ寒い。さらに一枚、無銘の赤い布を投影して羽織っておいた。

 赤色にした意味は特にないが、まあ、見た目暖かそうだから気にしない。

 

 近くに着ていた服でも置いていないかともう一度部屋を見渡すが、見当たらない。

 こうして目覚めても誰も出てこないところからすると、後者か、と目星をつける。だとすれば、丁寧に洗濯でもしてくれているに違いない。だとすると、俺の服は外に干してもらっているのだろう。

 とはいえ、流石にシャッターを開けて外に出るわけにもいかない。

 再三部屋を見渡し、扉を見つけるのと一緒にカレンダーも目に入った。そういえば今日はいつだろうと興味本位でそれを覗く。

 

「八月か。ふむ? このあたりの気候は日本とそこまで違いないはずなんだけど冷夏か? ……ン」

 

 と、そこでひとつあることに気付く。

 このカレンダー、普通のものよりも分厚い。

 今までにめくっただろう七枚を含めると、ちょうど二年分あるようだった。

 珍しいな、と思いはすれど、それ以上興味が湧くことはなく、俺は扉へと向かった。

 

 この時、少しでもカレンダーに後ろ髪が引かれていれば、また違った結果になったのだろう。

 だが、未来の俺が過去の俺に物申せるはずもない。

 俺はただの二年分(・ ・ ・ ・ ・ ・)のカレンダー(・ ・ ・ ・ ・ ・)に別れを告げ、外へと足を踏み出したのだった。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

「んん……」

 

 ふと目が覚めた。

 いつもとは違う天井に、あれ? と寝ぼけたのも束の間。

 そういえば、あの人がいるから会社に泊まったんだったと思い出す。

 

 身体を起こし、ベッドの端で丸まって寝ていたアリア社長を起こさないよう静かにベッドから抜け出す。

 床には――私がそっちで寝ると言ったのだけど――敷布団で寝ている灯里ちゃんがちょっと寝苦しそうにしていた。

 夕方は思わず錯乱しちゃってあんなことを言ってしまったけど、その結果がこれなら少し申し訳なく思ってしまう。

 そっと彼女の頭を撫でてから、彼の様子を見に行くことにする。

 

 眼鏡をかけてカーディガンを羽織ったところで、階下から扉の開く音が聞こえた。

 アリア社長は後ろで寝ているし、それなら彼が? と、早足になって階段を降りていく。

 待合室を兼用する事務所を見渡すと、予想通り彼の姿はなかった。

 

 まさかなにも言わずに立ち去るつもりだろうか、と不安がよぎる。

 だが、とも思う。今追えば、きっと――。

 

「あ、そうだわ、服」

 

 さすがに世間体というか、会社のイメージと彼の立場もあるだろうから外に男物の服を干すのはやめておいたのだ。

 乾燥機から彼の服を取り出して、簡単に畳んでから腕に抱えた。

 ちょっとひどいと思われるかもしれないけれど、どちらかというと後者の理由が大きいから彼には寛恕してほしいところだ。

 だって……思い出すだけでも身震いしてしまう。

 特に目立ったのは肩から胸にかけての大きな裂傷痕。銃で撃たれた傷はひとつやふたつじゃなかった。

 他にも火傷痕のようなものから、今にも血が流れ出てきそうな生々しい傷までさまざまだった。

 灯里ちゃんとアリア社長にはちょうど氷枕を作りに行ってもらっていて彼女たちは見ていないけれど、彼の服を脱がせるのを手伝ってもらっていた藍華ちゃんは彼の身体を見た瞬間にトイレに駆け込んでいってしまっていた。私も本当はそうしたかったのだけれど、年長者としての意地がそれを押しとどめてくれた。

 

 それに、なんだか、見た目よりもずっとやさしい傷のような気がして……、と、これはさすがに呑気すぎるかしら。

 

「いけない、早く持っていかないと」

 

 春も終わりに近いけど、今夜は特に冷え込んでいる。

 さすがに上半身裸のまま歩かせるのも彼に悪い。

 服をきゅっと胸に抱いて、小走りに外へと駆け出していく。

 

 受付前の通路には彼はもういない。

 とんとん、と外付けの階段を昇り、バルコニーに出ていくもそこにもいない。

 まさか、本当に立ち去ってしまったのかと胸に空虚が押し寄せる。

 なぜだかわからないけど、きっと素敵な出会いになっていたと思ったのだけれど。

 

「こんばんは。君が俺を助けてくれたのかな」

 

 すると、突然声が降りかかってきた。

 私が驚かないように、やさしい声音でかけられたそれに振り向くと、屋根の上に彼はいた。

 どこから持ってきたのか、赤い布を纏っている姿は、どこか隠者のようにも見えた。

 

「あ、あのっ、もう大丈夫なんですか?」

「ああ、こういうのには慣れてるから。っと、失礼」

 

 屋根から無造作に飛び降りた彼は、私のそばに降り立った。

 とはいえ、それでも数メートルと距離を開けて着地したのは私に気遣ってのことだろうか。

 

「あ、あの、とりあえず中に戻りませんか?」

「……いいのか? こんな得体のしれない奴」

「あ、あらあら、それもそうなのだけど……」

「ごめん。困らせるつもりはなかったんだ。お言葉に甘えさせてもらうよ」

 

 そう言われて、からかわれただけなのだと気付く。

 それが恥ずかしくなって、私は無言で彼をARIAカンパニーの中へと先導するのだった。

 ウンディーネ失格だわ……。

 

 

「どうぞ。まだ冷えますから」

「えっ? あ、いや、ありがとう」

「あらあら……?」

 

 私、なにかおかしなことを言ってしまっただろうか。

 彼は視線を泳がせつつも、受け渡したホットミルクに口をつける。

 私も人のことは言えないんだけど無警戒というか、自然体というか。

 緊張してる私の方が損している気になってきた。

 

「おいしい。うん、ホットミルクなんて久しぶりだ」

「あらあら」

 

 彼の反応に、私は思わず微笑んでしまった。

 それに気を悪くする様子もなく、ゆっくりゆっくり彼はホットミルクを飲み干していく。

 コップ一杯のホットミルクを数分かけて飲んだ後、彼は大きく息を吐く。

 

「おかわりありますよ」

 

 言ってからハッとする。

 ちょっぴり恥じ入りつつ、彼の表情を窺う。

 ハトが豆鉄砲を食ったような――なんていうと失礼かしら――顔をしていた。

 それから私の様子を見て、苦笑をひとつ。ああ、恥ずかしい。

 

「それじゃあ、せっかくだしいただこうかな」

「あらあら……それじゃあ、淹れてきますね」

 

 彼のコップを受け取って、持ってきておいたポットからホットミルクを注ぐ。

 注ぎ終わったコップを彼に受け渡すと、ふと思いついたように彼が言った。

 

「そういえば、今年は平均的に涼しいですよね」

 

 今度は私が虚を突かれる番だった。

 なんだってそんなことを聞くのだろう? と純粋に疑問に思えど、この程度答えない理由もない。

 そうですね、と前置いてから私は言った。

 

「去年と比べて過ごしやすいですね」

「ですよね」

「ええ。このまま夏も過ごしやすかったらうれしいんですけどね」

「え?」

「あら?」

 

 まるでコメディのような間が空く。

 乾いた誤魔化し笑いが彼から漏れ出し、にわかに真剣みを帯びた表情でずいと身を乗り出した。

 

「今、八月で間違いないですよね?」

「ええ。春の終わり、晩春の八月ですよ」

「ちょっと待ってくれ」

 

 会話を中断し、彼は眉間を指先で軽く揉む。

 何事かをぶつぶつとつぶやいてから、ぎこちない笑みで再びこちらを向く。

 何を言い出すんだろうと思わず私も身構えてしまう。

 

「ここ、イタリアのヴェネツィアで間違いないですよね?」

「半分正解……ですけど」

 

 私の回答に彼が怪訝な顔をする。

 どういうことだろう。私まで混乱してきてしまった。

 状況を整理する意味も含めて、この街のことを口にする。

 

「イタリアのヴェネツィアといえば、昔地 球(マンホーム)にあったこの街の〝モデル〟になった街ですよね。ここは火星(アクア)のネオ・ヴェネツィアですよ?」

「え……と、なにヴェネツィア?」

「ネオ・ヴェネツィアです」

「……マンホームでアクア?」

「ええっと、マンホームは地球、アクアは火星のことですよ?」

「か……ッ!?」

 

 彼の鋭い目元がぐわっと見開かれる。

 その迫力に思わず身を引き、ごくりと生唾を飲み込む。

 

「火星、だって?」

 

 絞り出すような声。

 その疑問は、私の疑問を呼び起こす。どうして驚いているの(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)

 ここはテラフォーミングされた火星で、アクアという名称になったのはもうとっくの昔だ。

 なぜ、ここにいる彼が、ここにいることを驚いて、疑問に思っているのだろう?

 

 すると、彼は立ち上がり、渋い表情を浮かべた。

 

「信じてくれなんて都合のいいことは頼まない。だけど聞いてほしい。俺はこの世界の人間じゃない」

「えっと……」

 

 突然のことに頭が追いつかない。

 もしかして、彼もこんな状態なのだろうか。

 私が言葉を紡ぐよりも早く、彼の手には布が現れていた。

 

 それは彼が羽織っていた――あれ?

 そういえば、服を渡してからあの赤い布はどこにいったのだろう?

 あんな大きな布、ポケットに入るわけもないし、服の下に隠そうにもかさばって太ってしまう。

 

 と。

 今度は彼の手から今まであったはずの布が風に溶けるようにして消えてしまった。

 手品とかそんな生易しいものじゃない。本当に、溶けるように消えて――また現れたのだ。

 

「俺は、魔法使いなんだ」

「あ、あらあら……。手品がお上手なんですね?」

 

 思わずそんなことを口走ってしまう。

 

「これで証拠になるなんて思ってないけど、ああ、クソ。俺、なにがしたいんだ」

「えっと、その、まずは落ち着いて……」

「あ、はい。すいません、取り乱して……」

 

 がたん、と彼が崩れるように椅子に座る。

 ぐしゃりと髪をかき上げて、消沈した様子で力なく言葉が続く。

 

「とりあえず、簡単に、魔法とかそういうの抜きでぶっちゃけるとだな……」

 

 疲れているのがわかる。口調が崩れてきているもの。

 私も驚きっぱなしでちょっと疲れてはいるんだけど、彼の話はまだ続く。

 

「俺はこの世界の常識も、歴史も、延いてはここがどこだかもわかっていないってことなんだ。困ったことに」

 

 本当に困った様子で、彼は机に突っ伏してしまった。

 大の大人――それも男性が今にも泣き出しそうになっている。

 なんとも奇妙な光景だけど、とりあえず私がわかっていればいいのは、彼が可哀想な人でも、イタイ人でもなく、〝困った〟人だということなのだろうか。

 

「あの、そういうことでしたら私、ちょっとは助けになれるかもしれません、よ?」

 

 おずおずと私がそういうと、彼は机に突っ伏したまま、ふっと苦笑した気配を放つ。

 どうしたんだろう、なにか変なことを言ってしまっただろうかと疑問に首をかしげていると、彼が頭をあげた。

 

「聞かないんだな。もしかしたら通報されると思って逃げる準備もしてたのに」

「本当に逃げるつもりだったんですか? でも、そうですね。まだ信じられないっていう気持ちがあるのも本当ですけど、別にあなたが違う世界から来たとか、魔法使いだとか、関係ないじゃないですか。あなたはここにいて、あなたがそう言った。意味としてはそれで充分じゃないかしら?」

「それは……はは。なるほど、参ったな」

 

 どことなく嬉しそうに、彼が微笑む。

 私よりも確実に年上のはずなのにその顔がまた子供っぽくて、ギャップを感じてしまう。

 

 全身の傷はなに?

 その瞳の鋭さは?

 魔法使い?

 異世界ってどんな場所?

 すごく気になるけれど、この答えのほとんどが最初の疑問で解決する。

 あの傷痕を見ただけで、その他のすべての答えが簡単に想像できてしまう。

 

 だから。

 だから私は聞かない。

 そう決めた。

 

「ええっと、それじゃどこから話していきましょうか」

「そうだな、それじゃあ……」

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

 話を聞いていくと、その内容よりも彼女の流暢な語り口の方が気になり始めた。

 科学技術の発展は予想通り相当上を行っているようだが、その他の実情は元いた世界とそうは変わらない様子だった。

 火星とかなんとかって単語が出てきたもんだからこれも予想してたことなんだが、星間旅行が一般に普及しているのには驚いた。

 なんか嫌な予感がどんどん膨らんできているんだが……。

 

「では、次は大まかな歴史についてですね。どのくらいから話せばいいですか?」

「そうだな、一般に『歴史の転換点』とか言われているあたりからでいいかな」

「歴史の転換点……そうですね、それじゃあ、〝惑星地球化改造(テ ラ フォ ー ミ ン グ)〟ぐらいからですかね」

 

 テラフォーミング?

 SFなんかでよく聞く単語だ。

 ……膨らみ始めていた嫌な予感がすごい勢いで加速していくのがわかる。

 

「マンホーム、つまり旧名〝地球〟の人々はアクア、つまりこの星〝火星〟の惑星開拓に成功。その際、火星極冠部に堆積していた氷が融解。いまではその溶けた氷によって地表の約九割が海に覆われることとなりました。ゆえに旧名〝火星〟は現在、水の惑星〝AQUA(ア ク ア)〟と呼ばれるようになりました」

「な、なるほどな……」

「それが今から約百五十年前になります。そして、マンホーム、イタリアのヴェネツィアは二十一世紀前期、温暖化もあいまった大規模なアクア・アルタにより水没。今では地図からその姿を消しています。ですが、ヴェネツィア出身者がアクアへの入植時、配分された島に故郷と瓜二つの再現都市〝ネオ・ヴェネツィア〟を建造しました。地図から消えた街は、時を超え、星を越え、まだここにしっかりと存在しています」

「なんてこった……」

 

 嫌な予感が炸裂した。

 今の話の流れからして科学技術が発展しているのは当たり前(・ ・ ・ ・)だ。

 なんてったって並行世界に飛んだだけでなく、時間に場所まで跳躍してしまったというのだから。

 しかし、テラフォーミングか。嫌な予感がまたふつふつと心に湧き出し始める。

 

 閑話休題

 

 この世界、というよりも星の成り立ちはだいたい理解した。

 俺のいた世界から魔術という存在がなくなって――もしかしたらあるのかもしれないが――二世紀ほど未来にきてしまったことになるのか。

 結構なことじゃないか、遠坂。ええ、おい。

 

 さておき、生活やら社会性やらも把握しておきたい。

 

「ごほん。えっと、それからここは会社みたいだけど……」

「はい。ここは水先案内人(ウ ン ディ ー ネ)所属の観光会社、ARIAカンパニーです」

「う、うんでぃーね? それに観光会社だって?」

「えーっと、マンホームでは確かゴンドリエーレと呼ばれていた職業のことかと。ウンディーネは中でも女性のみがなることのできる、この街の観光ガイドのことですね」

 

 なるほど、この流暢な語り口もガイドだってことなら納得だ。

 しかし、俺の知ってる限りだとゴンドラを漕ぐというのはとてつもない筋力が必要で、他人を複数人乗せて一時間近く漕ぎ続けるゴンドリエーレは皆、太腿のような腕を持っていると聞いたことがある。だから基本的に男性がなるものであるとも。しかし未来にきたというのだから、超軽量化されたゴンドラが完成したか、推力を得やすいオールが作り出されていてもなんらおかしくない。

 

「突然失礼ですが、片手でどれくらいのものまで持てますか?」

「え? そんな質問されたことないから……。そうですね、オール自体が十キロから十数キロだったはずでしたから、そのくらいまでは大丈夫だとは思います。けど、いっつも両手で持ってますから片手でとなると……ちょっとわからないですね」

「そうですか」

 

 ふむ。そういえば、火星の重力って地球よりも弱かったはずだから、それも関係しているのだろうか。

 いやでも、この身体の感覚は地球上にいるときとなんら変わらない。ともかく、暇があれば解析してみるのも手か。

 

 その後、地球にはないアクア独自の職業を紹介してくれた。

 アクアの気候管理、および調整をする〝火炎之番人(サ ラ マ ン ダ ー)〟。

 アクアの地下深くで重力制御を行っている〝地重管理人(ノ  ー  ム)〟。

 アクアの空をエアバイクという乗り物で飛び、配達業を一手に担う〝風追配達人(シ  ル  フ)〟。

 これにネオ・ヴェネツィア観光のエキスパート〝水先案内人(ウ ン ディ ー ネ)〟を加えた四大妖精の名を関する職業がそれだという。

 

「――と、こんなところですね」

「ありがとうございます」

 

 まだいろいろと知らなければいけないことが多いだろうが、それはまた追々知っていけばいい。

 それとは別に、一気に言われても今は潜在的な動揺もあって覚えきれそうにない。

 観光業らしいのでおそらく彼女は明日も仕事があるだろうから、あまり長く起こしておくのも悪いだろう。

 

「……ああ」

 

 自然と笑みがもれてしまう。

 彼女と話していて、なんとも懐かしい感覚に包まれていたのだ。

 ここには、守らなければいけない幸せが溢れている。

 ――そう、幸せ、だ。

 

 今まで俺は十の内、九の『命』を救ってきた。

 決して十すべてを救うことを諦めたわけでもなく、ただひたすらに救い、救って、殺してきた。

 

『アイツ……アーチャーは命を救った人に殺されたのよ。だから、アンタはそういうことがないように人を救いなさい』

 

 遠坂、悪かった。

 これは、そういう意味だったんだな……。

 ただひたすらに救うんじゃなくて、十すべての命と幸せを救えって、そう言いたかったのか?

 

 だとしたら、お前は俺に期待しすぎだ。

『正義の味方』にもなれない男に、その先を目指せというのだから。

 俺はそんな、聖人みたいなやつじゃないっていうのに。

 

 肉塊が飛び、血錆にまみれる大地にいた俺。

 だが、それだけでは気付けなかったことが、ここにはあった。

 戦場を離れて、救うことから離れて気付くことがあるなんて思わなかった。

 

 道はまだまだ続く。

 時間も、遠坂がくれた。

 あとはそれに向かって走るだけなんだ。

 

「そういえば、敬語……」

「はい?」

「見たところ私より年上ですよね。別に敬語じゃなくてもいいですよ?」

「そりゃあ、でも初対面の人にいきなりはどうかと思いますよ」

「こんな小娘相手にでも、ですか?」

「え?」

「うふふ。私、まだ十九なんですよ?」

 

 驚いた。

 驚いたが、それは表情に出さないようにする。

 彼女は俺という人間を前にしてもとても落ち着いていて、雰囲気もやわらかい。

 ずいぶんとやんちゃな三十路前を出発前に見たからか、正直彼女のことを二十半ばかと思っていた。

 なんて失礼な間違いをしていたんだ、俺は。

 

「すごく落ち着いてるんだな」

「そうでもないですよ。驚いてますし、まだ混乱してます」

「それでも、信じてくれるんだな」

「うふふ」

 

 彼女はやさしい微笑みで返してくれた。

 どことなく、もうずいぶん会っていない――もう会えない――妹分に似ているなと、そんな思いが心をよぎる。

 

「衛宮士郎だ。よろしく」

「あら?」

「自己紹介、まだだったろ?」

「あらあら、うふふ。そうですね」

 

 上品な仕草で、すずらんの面影を覗かせて彼女も笑う。

 

「アリシア・フローレンスです」

 

 彼女――アリシアがすっと手を差し出す。

 テーブル越しに向けられた手は女性のそれで、強く握れば壊れてしまいそうだ。

 反射的に俺も手を出しだしかけて、テーブルの上にきたところで止まってしまう。

 この手で、こんな手で、彼女の綺麗な手を取っていいのだろうか――。

 

「こちらこそ、よろしくお願いしますね。士郎さん」

「あ、おい」

「はい。どうかしましたか?」

「……いや、なんでもないよ。こちらこそよろしくな、アリシア」

 

 所在無げに止まったままだった俺の手を、アリシアがしっかりと握っていた。

 彼女の手は見た目よりもずっと硬い。毎日ゴンドラを漕いできたからだろう。

 これがアリシアの誇りで、幸せなのだろうか。

 

 そんな簡単に言葉で片付けられるものじゃないのかもしれない。

 今はまだ漠然とした指標なのかもしれない。だが、俺が目指してきて、これからも目指すものに迷いはない。

 まだたどり着けない正義の味方の、それでももう一歩先へ進むために。

 

 みていてくれ。『幸せの守り手』に、この手をかけてみせるから。

 

 

 

 




08/07/30 ブログ投稿
14/06/05 ハーメルン投稿

脱字報告ありがとうございます。

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