その優しい星で…   作:草之敬

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草之の更新速度……遅すぎ!?
 
 


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 ――前略。

 士郎さんが来てから、もう二週間になろうとしています。

 士郎さんが泊まるところがないって言っていたときはどうしようかと思いましたけど、ARIAカンパニーに下宿することになって、なによりごはんが楽しみになっちゃいました。なんだかちょっとおかしいですよね。でも、士郎さんのごはん、本当においしいんですよ!

 アリシアさんは洋食が得意なんですけど、士郎さんは和食が得意だそうで。

 まさかアクアにまできて、定期的に和食の朝ごはんが食べられるなんて思ってもなかったです。

 

 誤解のないように言っておくと、もちろん、ごはんだけが士郎さんのいいところじゃないんですよ。

 やさしいし、親切だし、朗らかでおだやかで、とってもいい人なんです。

 アリシアさんはそんな士郎さんのことを「ぶらうにー」って言っていたんですけど、「ぶらうにー」ってなんだか知ってますか?

 調べようと思っても、ついつい忘れちゃうんですよね。そういうこと、ありませんか?

 

 そうそう、ARIAカンパニーに下宿するって決めるまでは、意外に大変だったんです。

 士郎さん、基本的にはやさしくてお願いとかもなんでも聞いてくれちゃうんですけど、「下宿するといい」っていうアリシアさんの言葉には全然うなずかなかったんです。

 

 これは、そのときの話なんですけど……

 

 

 ――――――……

 ――――……

 ――……

 

「そういえば、士郎さんってどこに住んでるんですか? 空島? 落ちてきましたし」

 

 という私の発言に、アリシアさんとアリア社長も士郎さんの方へ視線を向ける。

 士郎さんはといえば、私の言葉に「いやー……」と微妙な表情を浮かべていた。

 

「それが、ないんだよ。どこかに泊まろうにも、手持ちがな」

「あらあら、それじゃ、ここに下宿するのはどうかしら?」

 

 アリシアさんの即答具合は、まるで最初からそういうことが決まっていたかのような切り返し。

 けど、普通に考えればそうなりますよね。社員が少ないから使ってない部屋もあるし、そこを使ってもらえれば問題もなさそうですし。行く当てもない人を放り出すなんて、そんなひどいことできるはずもないもんね。

 ……でも、士郎さんはなにか納得がいかないようで、むつかしい顔を浮かべていました。

 

「それは駄目だ。灯里も下宿しているんだろう?」

「私は気にしませんよ?」

「俺が気にする。というか、住所不定推定無職の自称魔法使いの怪しい男を一晩であろうと泊めた事実にも目をむけてくれ……」

「魔法使いだけに?」

「そういうのもやめようか。美人が台無しだろ……」

「???」

 

 最後のやりとりの意味はよくわからなかったけれど、それにしても、自分からそこまで言わなくてもいいんじゃ……? というくらいの全力拒否。ここだけは譲らないとばかりに腕を組んで私たちと向き合う士郎さん。士郎さんも士郎さんで出ていくことは心の中で決定済みなのか、その思案顔は「どうやって断ろうか」というよりも「これからどうしようか」という風でした。

 でも、やっぱり、寝泊まりするあてもない人を「それじゃあ、さようなら」なんて送り出せないよ。

 

「あの、私は本当にいいんですよ? 自分のこと、そんな風に言いますけど、私、士郎さんが良い人だって知ってますっ!」

「その評価は嬉しいけど……。灯里だって年頃の女の子だろう。こんな奴とひとつ屋根の下なんて……」

「あらあら、それなら――」

 

 と、アリシアさんは人差し指を立てて、くるりと宙に丸を描く。

 そのまま指を頬にあてて、はてな、とわざとらしく首をかしげた。

 

「どうして最初から『家はある』とか、嘘を言わなかったんですか?」

「それは……、君たちは俺を助けてくれた恩人だ。嘘を言わないくらいの誠意は見せるさ」

「やっぱり、良い人」

「あのな、あんまりからかわないでくれないか?」

「あらあら、うふふ」

 

 とはいうものの、士郎さんに嫌そうな雰囲気はない。

 呆れたような、でも、どこか楽しそうな、そんな感じだった。

 

「う~ん、じゃあ、そうね……」

「こっちはこっちでなんとかするから、君たちが気にすることはないんだよ」

 

 口調はやさしく、態度ではぴしゃりと断る士郎さんにアリシアさんは苦戦しているようだ。

 下宿している私が構わないって言ってるし、経営責任者のアリシアさんはそうすればいいと言ってくれている。

 なのに、士郎さんは頑固にもそれを断り続けている。

 年頃の女の子が~って言ってたけど、それこそ士郎さんみたいな大人が、こんなちんちくりんを相手にするとは思えないし……。

 それになにより、やっぱりこうやって「自分は怪しい者だ」と言って遠慮するのは私たちを思ってのことだと思うから、士郎さんは良い人なんだと思うんです。

 だから、もっと一緒にいたい、仲良くなりたいって思うのは自然なことだと思うんだけど……。

 

「あ、じゃあ……」

「イヤだ」

「まだなにも言ってないのに、ひどいです」

「うぐぅ……っ」

「住み込みの家政夫さん、なんてどうかしらー?」

 

 士郎さんの頑なな態度を読んで、彼が即座に否定することを予測しての〝困った態度〟というカウンター……。

 そのカウンターで士郎さんがひるんだ隙に、ほほえみと一緒に本命を打ち込む……っ。

 ……さすがアリシアさん。ウンディーネの接客技術を応用した、人心掌握術とでもいうべき会話の流れっ!

 こ、これがデキる女というやつなのでしょうか!?

 

「家政夫というよりも、事務員とか用務員って言った方が近いかしら。元々ARIAカンパニーは私と灯里ちゃん、アリア社長で回せるくらいの規模ではあるんですけど、私がお仕事、灯里ちゃんは練習でお店を開ける時間はどうしても出てきちゃいますから、そういう時間を埋めてもらいたくて。もちろん、雇用契約というかたちになりますから、お給金だって支払います。それでも駄目ですか?」

「……ああ、もう」

 

 まるで、答えなんて言わなくてもわかるとばかりに笑顔を浮かべるアリシアさん。

 士郎さんはといえば、もう勘弁してくれと机に肘をついて、身体を震わせている。

 一瞬怒っているのかなとびっくりしたけど、すぐに堪えたような笑い声があがりはじめてホッとする。

 ひとしきり笑い終えてから、士郎さんは顔をあげた。

 

 むつかしそうな表情は消えて、おだやかな微笑みを士郎さんは浮かべている。

 

「参ったよ。君がそんなに頑固者だなんて思わなかった」

「あらあら。お互いさまじゃないかしら?」

「ふふん? だが、ありがとう。これも一宿一飯の恩だ。君たちが嫌と思うまで、働かせてもらうよ」

 

 すっと、士郎さんがアリシアさんに手を差しだす。

 アリシアさんはそれを受け入れ、軽く握手を交わした。

 士郎さんは続いて私にも握手を求めてきて、びっくりしたけど、ゆっくりと彼の手を受け入れる。

 

 ごつごつした手。でも、あたたかくて、力強くて。

 

「あ、あの、よろしくお願いしますっ、士郎さん!」

「ああ、こちらこそよろしく、灯里」

 

 こんな感じで士郎さんのARIAカンパニー下宿、もとい就職が決定したのでした。

 

 

 ――……

 ――――……

 ――――――……

 

 

 それから、二週間はあっという間に過ぎていきました。

 はたしてそれが大変だったからといえるのか、楽しかったからなのかは、ちょっとわかりません。

 本当に毎日、いろんなことがあったんです。

 

 特にビックリしたのが床上浸水……じゃなくて、アクア・アルタと呼ばれる高潮現象。

 毎年、春の終りに発生して、街の全てが機能を停止する……とかなんとか。アリシアさんと士郎さんが教えてくれました。

 

 そして、今日はと言うと藍華ちゃんとの合同練習はお休み。

 昨日も用事とかって言ってたけど……なんなんだろ?

 

「むにゅう……」

 

 ともかく、いつもより少しお寝坊さんになれることが、今はなによりしあわせ~……。

 

「こら」

 

 ぺちぺち。

 

「はひっ!?」

 

 ほっぺをぺちぺちされて、はっと体を起こすと、そこには三角巾と、ピンクのエプロンをつけた姿が妙にしっくりくる士郎さんが。

 

「練習が休みだからって、朝食は休みにならないぞ! それと、お客だ」

「お客?」

「取り急ぎ顔洗って行ってこいな」

 

 はぁ、と気のない返事をして、寝起きのおぼつかない足取りで二階へと降りていくのでした。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

 「じゃーん」

 

 窓を隔てたベランダに立つ藍華が、灯里に向けて晴れがましい笑顔を浮かべ、両手を突き出す。

 めいっぱいに開かれた両掌には、いつもの手袋が――片方だけなくなっている。

 おっ、と二人には聞こえない程度の声が漏れる。アリシアから聞きかじった話だと、確か……。

 

 灯里はその事実に気付かずに、顔を洗ってもまだ寝ぼけたままなのか、ぐしぐしと目をこすっている。

 藍華はといえば、期待と喜びに満ち満ちた顔を浮かべてずずいっと、灯里に迫っていく。

 しかし、灯里はなにを勘違いしたのか、藍華の手を握ってぶんぶんと力強く握手している。

 灯里らしいと笑ってしまうが、当人である藍華は期待外れの反応にむっとしたようだった。

 

「違ーう。手袋てぶくろー」

 

 握手の後、もみもみと藍華の手を揉んでいた灯里は、その言葉に彼女の両手を見つめる。

 木魚の音でも聞こえてきそうな間が空いたあと、灯里の髪がざわわっと逆立った。

 元から寝癖をつけていた灯里の頭が大変なことになってしまっているのも気にせず、少女二人は目を輝かせる。

 

「ああーっ、片手袋(シングル)だぁーっ!」

「ふっふっふ~。一人前のウンディーネになるのも時間の問題っ」

 

 アリア社長を挟んで、灯里と藍華はきゃっきゃと騒ぐ。

 さて、そうなると俺からもちゃんとお祝いは言わないといけないな。

 仲良く笑う二人に近づいて、会話の隙にするりと言葉を入れこむ。

 

「藍華、昇格おめでとう」

「はいっ! ありがとうございます!」

「シングルになったならシングルなりの心持ちにならないとな。片手袋の意味、ちゃんとわかってるだろ?」

「ぶーぶー。こういうときは素直に祝福してくださいよー」

「……片手袋の意味、ですか?」

 

 灯里が、はてな、と首を傾げる。

 その反応に、藍華は「うそでしょ」と言いたげな表情を浮かべている。

 なんだ、アリシアまだ教えてなかったのか。それとも、まだ早いと思っていたのか。

 アリシアの教育方針もあるだろうから、どうしようかと俺が迷っているうちに、藍華が呆れ半分優越感半分くらいの態度で「しょうがないわねえ」と呟く。教えることにまんざらでもなさそうなところが、藍華の人の好さが出ていてこちらまでほほえましい気分になってくるようだ。

 

「いーい? 新米ウンディーネが手袋を両手にはめるのは、まだオールの扱いに慣れてなくて、手にマメや怪我をしてしまうことが多いからなの。その手袋が片方だけでも外れるっていうのはつまり『マメや怪我の心配なくゴンドラを操れる』って認めてもらえたようなもんなの」

「ほへー」

「わかってんだかわかってないんだかわからない返事禁止っ!」

「はひっ! ご、ごめん」

「とにかくよ。ん、まあ、その、認めてもらえたぶん、しっかりしなきゃってことなの」

 

 なんだ、わかってるじゃないか。

 なら、わざわざ俺が出張るようなことでもなかったかもな。

 祝福しろって言われたし、激励の言葉でも送ってやろう。口下手なりにな。

 

「なんにせよ、プリマを目指すっていうならここがスタートラインだ。この歳になってもまだ半人前から抜け出せない半人前の先輩から言わせてもらえば、お前らには素直な才能がある。努力だって楽しんでしまえる、俺にはない才能がある。プリマへの道はきっと険しい。だけど、そんな道だって、きっと笑って進んでいける。そんな気がする。うまく言えないけどな。ガラにもないことは言うべきじゃないな。うん。本当におめでとう、藍華」

 

 ぽん、と藍華の頭を軽くなでる。

 と、その瞬間、藍華はぼろぼろと涙をこぼしはじめてしまった。

 ええっ、なんでさ!?

 

「お、おい、なんで泣くんだ? 俺、変なこと言ったか? ごめんな……!?」

 

 咄嗟に頭を撫でて、背中をやさしくこする。

 すると、次第に落ち着きを取り戻した藍華は、まだしゃくりあげながらもしゃべり出した。

 

「違……っ、違う、ンですっ! なんか、その……うぅっ、うまく言えないけどっ! うれしくてぇ……!」

「……そうか」

 

 師匠や先輩っていうのは、経験則からしてあんまり褒めはしてくれないものだ。

 ――いや、あれは彼女が特別辛辣で、かつ俺が特別特殊だったからなのもある気がするが。

 ともかく。

 藍華個人の事情は知らないが、褒められ慣れてなかったらしい。

 俺としてはそこまで褒めたつもりではなく、激励程度のつもりだったところを、それでも藍華にとっては大きな言葉だったようだ。

 

 つまるところ、ビックリしてしまったのだろう。

 重ねて子供扱いしすぎかと思ったが、あやすように藍華の背をぽんぽんと叩く。

 

「あわわわ……!」

「灯里もなにをそこまで慌ててるんだよ」

 

 俺達を遠巻きに見る灯里は、目に見えてうろたえている。

 友達が急に泣き始めれば、まあ、仕方ないか。

 そんな灯里を見てか、藍華も次第に落ち着きを取り戻してきたようで、「もう大丈夫です」と弱々しく言うと、どこかバツが悪そうに俺から離れていく。

 すると、今度は私の番と言わんばかりに灯里が藍華に走り寄り、「大丈夫? 大丈夫?」と一心に藍華を気に掛けている。

 藍華はそれを少しうっとうしそうに、だけどどう見ても嬉しさが優った表情で受け入れている。

 

「もう! 本当に大丈夫だからっ!」

「はひっ。……うう、よかったあ」

「まったく、ちょっと泣いたくらいで心配しすぎよっ」

 

 灯里があわあわしているからか、藍華はだんだんと落ち着きを取り戻しはじめているようだ。

 呼吸の合間にまだ引き攣るようにしゃくりあげてはいるものの、普段とそう変わらない様子だ。

 

「ふふ。でも、さっきの士郎さんと藍華ちゃん、兄妹みたいでちょっとうらやましかったかも……」

 

 ――そう、変わらない様子だった。

 灯里の何気ない台詞で、藍華はくしゃりと顔を歪ませると、その瞳に再び涙が浮かぶ。

 俺は灯里を、灯里は俺と目線を交わす。「なんてこと言ってんだ」と「助けてください」が交差する。

 

「恥ずかしいセリフ禁止ぃーっ!! うわあああああああああああああんっ!!」

 

 その決め台詞を引き金に、藍華の感情が決壊してしまう。

 赤ん坊かと思うほどの

 

 叫びと一緒に涙もぶり返す。

 ていうかさっきよりヒドイ。涙と鼻水で顔がぐしょぐしょだ。

 

「灯里ーっ!!」

「ひぃ~んっ! ごめんなさーいっ!」

 

 その後、藍華が本当に泣き止むまでは15分程を要した。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

 藍華ちゃんは泣きやむと私があわあわしているうちに、すたこらと帰っていってしまった。

 試験内容を聞くような雰囲気じゃなかったのは、自業自得な部分があるんだけど……。

 

「そう、藍華ちゃんはもう半人前になったの」

 

 さすがねー、と少しなにかを考えるようにつぶやくと、アリシアさんは私をじっと見てから口を開いた。

 

「どうして一人前に近づくにつれて、手袋を外すかわかるかしら?」

「あ。藍華ちゃんに教えてもらいましたよ。えっと、確か余分な力を使わずに上手にゴンドラを操れるようになったら、手にマメとか傷とか余計な怪我の心配がなくなっていくから……でしたっけ?」

「その通りね」

「……んー。私の手、まだマメだらけです」

 

 ぐい~っと伸びをして、手を空に向かってかざす。

 見上げた手のひらの、手袋の下にあるマメのことを思う。

 やっぱりまだまだだなあ、なんてぼんやりと考えていたその時。

 

「うん。よしっ。灯里ちゃん、ピクニックに行こっか」

「ピクニック……?」

「うん。今から!」

「今からっ!?」

 

 カウンターにもたれかかっていた体を起こして、アリシアさんは決定と言わんばかりの気合の入れよう。

 思わず聞き返してしまう勢いだった。

 それにしても、今からなんて、急な話だなぁ……。

 

「そっ。とっておきの場所を教えてあげる」

 

 ぱちん、と星でも出てきそうな素敵なウィンクをしながら、アリシアさんは言う。

 はわぁ……、どんなことをしても似合う人は似あうんだなあ、なんて少しズレた感想を浮かべつつ、その姿に魅入ってしまう。

 

「士郎さーん!」

「はい、なんですかね?」

 

 ちょうど階段を下りてきた士郎さんは、弾むアリシアさんの声に半ば呆れたような口調で応える。

 でも士郎さんがその顔に浮かべているのは笑顔で、鏡映しのように素敵な笑顔を返すアリシアさんは嬉しそうに続けた。

 

「士郎さんもピクニック、行くでしょ?」

「君の中じゃもう決定事項だろう? ああいや、嫌なわけじゃないんだけどな。さて、そうと決まれば弁当でも作ろうか」

 

 少しニヒルな言葉を繰りつつも、士郎さんは早足にキッチンへと戻っていく。

 それを追いかけるようにアリシアさんもキッチンへ向かって駆けていく。

 途中、階段の半ばぐらいから身を乗り出して、私に笑顔を向けつつ、

 

「灯里ちゃんはゴンドラの準備しといてね。すぐに行くから」

 

 そうとなれば私の足も軽やかに動く。

 どんなお弁当ができるのかな、とウキウキしながら、私は私のゴンドラへと向かうのでした。

 

 

 *  *  *  *  *

 

 

「すぐ出発するんだろう? なら、サンドイッチとか、軽めのものだな」

「そうですね」

「それにしても急な話だな。ピクニックなんて」

「そうですか?」

「そうです」

 

 ともあれ、サンドイッチなら三人と一匹前でもすぐにこしらえられる。

 ……というか、火星猫ってサンドイッチとか大丈夫なのか? 今更か。

 

 さて、急な話だ。充分な材料が冷蔵庫にあればいいが……。

 冷蔵庫を覗けば、最低限朝食用に買い置きしているものがまだ残っている。

 ベーコン、トマト、レタス、卵にハム。

 バッチリだな。バッチリすぎて勘ぐってしまいそうになるほどだ。

 

 レタスは数枚むしって氷水に、もうひとつのボウルには水を張って卵を割らずに浸す。

 茹で卵はある程度手間をかけてやれば美味しく出来上がるので、ベルトラインは別で取っておくといいだろう。

 この隙にフライパンをコンロの上へ乗せ、火をかける前にベーコンを並べる。

 弱火にかけた後、温まるまでの時間でレタスを氷水から引き揚げ、水気を切るためにキッチンペーパーの上へ並べる。

 じりじりといい具合にベーコンが焼け始めたら、滲み出した油をキッチンペーパーで拭き取る。

 油を放置してしまうことでベーコンが熱される温度が上がり、焦げ付きやすくなってしまうのだ。

 結果、こまめに拭き取ることで美味しいカリカリベーコンへの近道となる。

 

「アリシア、見てるだけなら食パンの耳でも切ってくれないか?」

「ええ、よろこんで」

「耳は取り置きしておいてくれ。貧乏性だが、今度お茶請けにでもするよ」

「わかりました」

 

 アリシアにパンの方は任せ、俺の方は具材の調理に戻る。

 ベーコンがいい具合に焼けてきたところで、卵の準備も整う。

 ベーコンを焼くフライパンの横に鍋を置き、水から取り上げた卵を並べていく。

 そのまま卵が半分浸かるくらいまで水を注ぎ、酢をおおさじ1足してから火にかける。

 事前に卵を水に浸した理由は、この時点での温度差をなくす目的からだ。

 加えて酢はタンパク質を凝固させる作用を持っているため、万が一茹で途中で卵が割れても白身が漏れ出す危険を減らしてくれる。

 この総合的な気配りによって、茹で時間の短縮、殻が割れにくくなる、というメリットがあるのだ。

 

 そこまでしたところでまな板にキッチンペーパーを敷き、ベーコンを取り上げる。

 余分な脂はここですべてなくなり、香ばしいベーコンが出来上がる。

 

「アリシア、こっちは頼むよ。BLTサンドだ」

「はい、任されました」

 

 あとはゆで卵に集中すればいい。

 水が沸騰するまでは卵を静かに転がしてやる。こうすると黄身が真ん中にあるゆで卵になってくれるのだ。

 水も卵の半分くらいと少な目なので、すぐに沸騰してくれる。

 軽く沸騰し始めたところで蓋をし、火は中火へ。あとはだいたい7、8分というところだろう。

 好みでゆで時間を調整すればトロトロのゆで卵や、ハードボイルドなかたゆで卵にすることもできるだろう。

 今回の茹で時間は半熟あたりのゆで卵だな。

 

 この時間を利用してサンドイッチを詰めるバスケットを用意する。

 ふと、サンドイッチだけでは物足りないか、と思い、副菜も添えるとする。

 ケトルで湯を沸かし、その間にベーコンを焼いていたフライパンにもう一度火をかける。

 冷蔵庫を確認すれば、ウインナーの缶詰もしっかり常備してある。

 

 まあ三人と一匹だし、これくらいなら食べるだろうと一つを開ける。

 少しだけ考えて、灯里なら懐かしむだろうと飾り切りを施していく。基本的にはタコだな。赤くないが。

 ちなみにウンチクだが、ウインナーに切れ目を入れるのは日本だけだと言われている。

 というのも、あれは元々「皮が破けないように」とか「余分な脂を出すために」だとかではなく『箸でつまみやすいように』入れたものだからだ。

 さらに、切れ目を入れることを考えた人と、タコさんウインナーを考案した人は同一人物だ。

 

 ウインナーの焼き上がりと、卵の茹で上がりが重なる。

 ウインナーは小皿に取り出し、卵はレタスを浸していた氷水に軽くヒビを入れてから放り込む。

 こうすれば熱されて膨張していた卵が急冷されることで身を引き締め、身と殻の間に隙間を作り出し、剥きやすくなる。

 

「アリシア、半分任せていいか?」

「はい。どうしますか?」

「確かスライサーがあったろう。あれで輪切りにして、ハムと一緒に挟んでくれないか」

「うふふ、はい、わかりました」

 

 つるつると卵の殻を剥き、半分はアリシアへ。

 もう半分は手元のボウルに入れ、荒めにマッシュする。そこへマヨネーズを和えて、出来上がりに粗目の胡椒をふりかけ軽く混ぜれば、エッグサラダの完成だ。あとはこれを薄くバターを塗ったパンに挟んで、エッグサンドの出来上がり。

 BLTサンドとエッグサンド、アリシアの仕上げたハムエッグサンドをバスケットに詰め、タコさんウインナーの脳天にピックを刺しこんで添えれば――サンドイッチランチバッグの完成だ!

 ささっと後片付けも終えれば、作業時間は三十分弱。上出来だ。

 

「完成っと」

「うふふ。すごいですね」

「なにがさ?」

 

 慣れれば誰だってできるような簡単な調理だ。

 すごいと言われるようなことはなにもしていないはずだが?

 

「本当に魔法使いなんですね」

「……魔術を使った覚えはないが?」

 

 そういうことじゃないですよ、と微笑まれて、どういうことだと首を傾げると、

 

「そう、つまり、台所の魔法使いさんですね」

「……ああ、なるほど。いや、そんなことは……」

 

 もにょもにょと言葉尻が小さくなってしまう。

 確かに、料理は昔からしていたし、こちらに来てブランクも埋めることができた自覚はある。

 だが、その、なんだ。そうして正面から褒められると、年甲斐もなく照れてしまうわけで。

 こんなおっさんの照れ顔なんて、見て嬉しいもんでもないだろうに。

 

「一本取られたかな」

 

 頬を指先でかいて、照れ隠しとする。

 浅黒くなった肌に、今だけは感謝の念を伝えたいと思う。顔の赤さがバレずに済む。

 

「じゃあ行きましょう。士郎さん」

「ああ、灯里も待ちくたびれてるかもな」

 

 二人並んで階段を降りていく。

 灯里はすでに外に出てゴンドラに待機しているのだろう。事務所には姿がなかった。

 シャッターを閉め、本日営業終了の看板を掛けておく。

 

 そこで、ずっと俺の後ろに並んでいたアリシアが、そっと声をかけてきた。

 

「士郎さん、ピクニック、楽しみですね?」

「ああ」頷いて、振り向く。「アリシアがからかいさえしなければ、な」

「あらあら、うふふ」

 

 そんな言葉には怯みませんよ、とでも言いたげに微笑むアリシア。

 俺の知る誰とも違う彼女に、どうも調子を崩されっぱなしだ。

 

 陽の差す通路へ歩き出したアリシアは振り返ると、いまだ日陰を歩く俺に向かって、目的地を告げる。

 

「今日これから行くのは、ウンディーネの間で『希望の丘』と呼ばれているところなんです」

「へえ、希望の丘、か。ウンディーネの間でってことは、なにか曰くがあるのか?」

「実は特にあるわけじゃないんですけど、そうですね……」

 

 空を見上げたアリシアは眩しそうに目を細め、やはり微笑みながら続けた。

 

「希望の丘は、きっと、託す場所なんですよね」

「……託す場所、か」

 

 思い出すのは綺麗な月夜だ。

 あの日、まだ幼かった俺は、隣に座るじいさんに――。

 

 そしてもう一つ。

 何かを託されたわけじゃなかったけれど、あれは確かに希望の夜だった。

 運命に出逢った日。やはり、綺麗な月夜だった。

 

 あの日俺は、願い続けたものへの一歩を、確かに踏み出したのだ。

 それを希望の夜と言わず、なんといえばいいのか。

 奇跡が幾重にも連なり、そうして、歩き出した夜なのだ。

 

 感傷的だ。らしくない。

 そうは思っても、彼女を思わずにはいられない。

 できることなら、もう一度。そう思わずにはいられない。

 

「どうしたんですか?」

「いや、なんでもない。行こうか」

 

 俺は、陽の差す場所へ向けて、歩き始めるのだった。

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 




08/08/20 Navi:5前編としてブログ投稿
18/02/15 ハーメルン投稿

十年前……だとぉッ!?

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