第1話
フッと目蓋を開く。その途端、強烈な白い光を感じ、目が眩む。
ゆっくりと視線を変えると腕には点滴のインジュクターが繋がっていた。
その時、ここが《あの世界》でないことを──還って来たのだと少年は実感した。
「…………ッ!」
声がうまく出ない上に喉が痛む。
と、そこでようやく頭が固定されていることに気付き、顎下にあるロックを手さぐりで外して《それ》をむしり取る。
《ナーヴギア》
全てはこれを被ってから始まった。ピカピカだったそれも二年もの歳月で外装は色褪せていた。
それを枕元に置くと、部屋の中には自分以外誰もいないことに気付く。あるのは医療機器だけだった。
その時、先程まで隣にいた一人の女性の姿が脳裏を過る──崩壊していく世界の中──最後まで離さなかった《彼女》の姿が。
すぐに立ち上がろうとしたができなかった。体が酷く重い。
筋肉が落ちているのだとすぐに解ったが、そのあまりの虚弱ぶりには溜め息しか出てこない。
点滴の金属棒を杖代わりにしてようやく立ち上がり、膝がガクガクと震える中、持てる限りの力を振り絞り、一歩、また一歩と、病室のドアへと足を動かす。
するとドアが開く音とともに、二人の男女が入ってきた。
セーラー服を着た少女が誰なのかはすぐに解った。忘れるはずがない、自分の大切な妹なのだから。
ただもう一人の、黒縁メガネにスーツ姿の男は記憶が確かなら面識は現実、SAO共にないはず──。
すると訝しそうな顔に気付いたのか、男が自ら名乗りをあげた。
《総務省SAO事件対策本部》それが彼の所属だと言う。
彼らはSAO被害者対策活動の一環として被害者を病院に移させることと、手に入れたごく僅かなプレイヤーデータをモニターしていたそうだ。
彼がここに来た理由は早い話が情報収集、取り調べだった。《あの世界》で一体何があったのかを。
答えるには吝かではない。
だが、これをチャンスと見て一つの条件を突きつけた──今すぐ《彼女》の居場所を調べて教えろ、という条件を。
意外にも男はすぐにその条件を飲んでくれた上に、わずか数分で彼女の居場所を探し当ててみせた。いや、探し当てたというより彼の担当する被害者の中にたまたま被っていたのかもしれないが。
しかしそんなことはどうでも良かった。今すぐそこに連れて行くように頼むと少し戸惑っていたが──やがて男は頷いてくれた。
そしてもう一人、妹に視線を向けると、いつからか黒い瞳に大粒の涙が浮かんでいるのが見て取れた。二年ぶりの再会だから無理もない。本来であれば掛けるべき言葉があるのだろうが、しかし今は《彼女》のことしか考えられなかった。
「…………スグ……頼む」
喉の痛みに耐え、振り絞り出した声は酷く枯れていたが、それを訊いた妹は小さく頷いてくれた。
車椅子に乗り駐車場まで妹に運ばれ、役人の車に乗り込む。
幸い、然程遠い場所ではなかった。
連れて行かれた別の病院の病室。ここに《彼女》がいる。そう思うといてもたってもいられなかった。
別れの時間は実際に計算すれば然程のものではないはずだが、現実の世界で会うのは初めてだったため、多少の緊張と期待を持って病室のドアを開ける。
そこにいたのは──栗色の長い髪を靡かせ、こちらを見つめ、優しく微笑みかける──彼女の姿だった。
◇ ◇ ◇
それから2ヶ月が経とうとしていた、とある日の夕方。
「ねぇ、お兄ちゃん……やっぱり私も行かなきゃダメ?」
「いや……まぁ無理にとは言わないけど明日奈が逢いたいって言うからさ。それに明日には退院するらしいから、そうなると東京まで行くことになるぞ」
「…………解った」
それから十分後──ジャージから普段着に着替えた直葉を連れ、和人は家を後にした。
キリト/桐ヶ谷和人と妹の桐ヶ谷直葉がこれから向かう場所は埼玉県所沢市──その郊外に建つ最新鋭の総合病院。
その最上階の病室に彼女はいる──アスナこと結城明日奈が。
デスゲームから覚醒した直後、総務省SAO救出対策本部の役人に頼み、彼女と現実での再会を果たすことができたのだが、すぐに彼女の両親と思われる男女が駆けつけてきたため、一緒にいられた時間はものの数分だっただろうか。
さすがに両親が来たのでは長居するわけにはいかないと思い、軽い会釈をして妹に車椅子を押してもらい病室を出ると、廊下では例の役人が電話越しに何度も頭を下げていた。
すぐにこちらに気付くと申し訳なさそうに直葉に携帯を渡してきたので、その相手が母だというのはすぐに解った。
申し訳ないという気持ちもあったが、さすがに無理をしたせいか──まるではりつめていた糸が切れたように疲れがどっと込み上げてきたので、その場は二人に任せることにした。
その翌日、約束通りその役人に全てを話すと、彼から信じられない話を聞かされた──未だ約300人ものSAOプレイヤーが目を覚まさないことを。
当初はサーバの処理にともなうタイムラグだと思ったが、今現在もそのプレイヤー達が目覚めたという知らせは来ないままだ。世間では茅場晶彦の陰謀が継続しているのだと騒がれているが、それはないだろう。
彼は──茅場晶彦はすでに死んでいるのだから。
これは非公開ながら例の役人から聞いた話なので間違いないだろう。
SAOがクリアされた時点で茅場晶彦の潜伏先がわかり、すぐに警察が駆けつけると超高出力で大脳をスキャンし、脳を焼き切って死亡している茅場晶彦と彼に脅迫されて世話をしていたという助手の女性が発見された。
彼の潜伏先は長野県。見つかった助手の女性──神代凛子も重要参考人として捕まっているが、望むなら面会させることはできると例の役人に言われ、少し迷ったが明日奈と相談して、彼女が退院してから二人で行くことにした。
◇ ◇ ◇
ゆっくりとしたペースでペダルを漕いでいくと、やがて前方に巨大なブラウンの建築物が姿を現した。民間企業によって運営されている高度医療専門病院だ。
高級ホテルのロビーのような受け付けで通行パスを発行してもらい、胸ポケットにクリップで留め、エレベーターに乗り込む。
数秒で最上階である18階に到達し、無人の廊下を歩いていくと、やがて突き当たりにペールグリーンに塗装された扉が見えてきた。
すぐ横の壁面には鈍く輝く金属のパネルがあり、名前が印刷されたプレートが嵌め込まれている。『結城 明日奈 様』というその表示の下の1本の細いスリットに、和人は胸からパスを外し、その下端をスリットに滑らせると微かな電子音、圧搾空気の音とともにドアがスライドした。
真冬にも関わらず、色とりどりの生花が部屋のそこかしこに飾られている。その広い病室の中央にあるベッドの上で彼女はこちらに気付くと、ニコっと優しく微笑んでいた。後ろに身を隠し、上着にしがみつく妹を引きずりながら彼女の元へと歩み寄る。
「よっ明日奈、連れてきたぞ!」
「は、はじめまして……」
「あっキリト君、それと直葉ちゃん……でいいのかな? 初めまして、結城明日奈といいます」
「ん?確か初めてここに来た時に会ってる筈だぞ」
「あの時はまだ目がよく見えなくて……だからちゃんと会うのはこれが初めてなの!」
「あぁ、なるほどな……」
ベッドの脇にあるパイプ椅子に腰を下ろすと、そこでようやく妹は上着から手を離してくれた。だが緊張しているのかすぐに俯いてしまった。
やれやれ、と溜め息を溢しながら明日奈を見ると直葉とは対照的に、明日奈は嬉しそうな笑みを浮かべながら直葉をじっと見つめ、やがて納得したように頷いた。
「兄妹仲良さそうで羨ましいなぁ~」
「そうか?てかアスナもお兄さんいるだろ?まだ会ったことはないけどさ……」
「うん、この前キリト君が来てくれた時もちょうど入れ違いで来てくれたの!でもまた出張らしくて海外に行っちゃったから……今度帰ってきたら紹介するね」
「あぁ、まぁ機会があれば……な……」
「ふふ、対人スキルが弱いのは相変わらずなんだね」
そんな二人の会話を、直葉はただ黙って聞いていた。
あの日、まだ動ける状態ではなかった兄が何故そこまで必死になるのか、当初は理解することが出来なかった。
だがこの病室で──抱き締め合う二人の姿を見て──彼女が兄にとってどんな存在なのか、すぐに解ってしまった。
自分がなりたかった《その関係》を目にし、何も言えなくなってしまった。
その晩、直葉は泣いた──溢れる気持ちを、涙を抑えられずに。
そして一つの決意した──この想いは告げずにいようと。
『はぁ……やっぱりわたし……ダメだな……』
あの日心に決めた筈だったが、目の前の二人を見ていると、どうしても胸が締め付けられるように痛む。
「──ちゃん、直葉ちゃん、どうしたの?」
「えっ?」
ふと我に返ると、二人が心配そうに見つめてきていた。
次第に気まずい空気が漂い始め、直葉はその場にいるのが堪えられなくなり、慌てて席を立つ。
「い、いえ……何でもないです! あっちょっと飲み物買ってきますね!」
「あっ、おいスグ、自販機の場所わからないだろ?」
「大丈夫だよ!お兄ちゃんは明日奈さんの側にいてあげて」
そう言い残し直葉が病室を後にすると明日奈は深い溜め息を溢した。
「ねぇキリト君、直葉ちゃんは私のこと嫌いなのかな……」
「い、いや……そんなことはないと思うぞ。たぶん緊張してるからじゃないか?」
「……だといいんだけど」
「…………」
先程までの笑みとは一転、明日奈の顔には暗い影が射していた。
どうすればいいか解らず暫く無言の状態が続く。
すると再び病室の扉が開く音とともに、直葉ではなく二人の男性が入ってきた。
「おお、来ていたのか桐ヶ谷君。度々すまんね」
前に立つ恰幅のいい初老の男が、顔を綻ばせて言った。
仕立てのいいブラウンのスリーピースを着込み、体格の割りに引き締まった顔はいかにもやり手といった精力に満ちている。唯一、オールバックにまとめたシルバーグレーの髪だけがこの二年間の心労を伺わせる──アスナの父親である結城彰三。
初めて会った時、とても気さくで優しい人と言うのが第一印象だったが、明日奈から一流電機メーカー《レクト》の社長であると聞かされた時は、さすがに驚きを隠せなかった。
和人はひょいと頭を下げ、口を開く。
「こんにちは、お邪魔してます。結城さん」
「いやいや、いつでも来てもらって構わんよ。この子も君が来るのをいつも楽しみにしているんだよ」
「ッ──! お父さん、それは言わないで!!」
結城の言葉に、明日奈の顔はみるみる真っ赤になり、少し涙目さえ浮かべていた。
そんな彼女の姿に数秒ほど気を取られたが、すぐに背後に立つもう一人の男に視線を向ける。
「あぁ、彼とは初めてだね。うちの開発部で主任をしている須郷君だ」
人の良さそうな男だな、というのが彼の第一印象だった。
長身をダークグレーのスーツに包み、やや面長の顔に黒縁の眼鏡をかけ、レンズの奥の目は糸のように細く、まるで常に笑っているかのようだった。
「よろしく、須郷伸之です──そうか、君があの英雄キリト君か」
「……桐ヶ谷和人です。よろしく」
和人は結城をちらりと見る。すると結城は顎を撫でながら苦笑していた。
「いや、すまん。SAO内部のことは口外禁止だったな。あまりにもドラマティックな話なのでつい喋ってしまった。彼は私の腹心の息子でね。昔から家族同然の付き合いなんだ」
なんとも口の軽い人だなぁ、と和人は内心呆れ果て、ふと明日奈を見ると──先程までの笑みは一切消え、険悪な表情を浮かべていた。
「あぁ、社長その事なんですが──」
「お父さん、わたし和人君のことが好き……将来は結婚したいと思ってます!」
「「「…………ええぇぇぇ!?」」」
見事なハーモニーとはこのことだろう。三人の絶叫が──部屋中に響き渡った。
幸い、病室が防音だったので看護師が来て怒られることはなかったが。
「ちょっ……明日奈?」
「お父さん、わたしは本気です」
慌てて止めに入ろうとする和人を他所に、明日奈は真剣な眼差しで結城を見つめる。
ようやく我に返った結城は、ゴホンっと一度咳払いし、口に手を当て暫く考えているような素振りをすると、和人の前に歩み寄る。
「桐ヶ谷君……娘がこう言っているが、君はどうなんだね?」
「え……おっ俺も……明日奈さんと同じ気持ちです!」
それは和人の本心だった。仮想の世界でとは言え、本気で彼女を愛し、結婚したくらいだ──現実の世界に還ってきたからといってその気持ちが変わるわけがない。寧ろ気持ちは日に日に強くなる一方だった。
「そうか……解った。 なら私は応援するよ。 和人君、娘をよろしく頼むよ」
そう言い、和人の肩をぽんっと叩き、結城は笑みを浮かべながらドアに向かって行った。
二度の開閉音──後には和人と明日奈と須郷だけが残された。
和人は彼女に真意を問い掛けようとした時、顔を伏せていた須郷が口を開く。
「ふざけるな……ふざけるな……ふざけるなあぁぁぁ!」
部屋中に響き渡る怒鳴り声に、和人は須郷の第一印象が大きく間違っていたことを悟る。
先程までの笑みは消え、怒りに満ちた表情で明日奈に詰め寄る須郷にキリトは危険を感じ、彼女を庇うように間に入った。
とその時、ドアが開き、直葉が部屋に戻ってきた。
須郷も状況を察したのか、怒りを堪え、和人と明日奈をじっと睨み付ける。
「まぁいいさ、直に僕の凄さを君のお父さんも解るだろうしね……その時は君も僕のものさ」
そう言い残し、須郷は病室から出て行った。直葉だけは状況が理解出来ず、その場で首を傾げていたが。
「ごめんね、キリト君……いきなりあんなこと言っちゃって」
「いや、まぁ最初はびっくりしたけど……俺もアスナと同じ気持ちだし、正直嬉しかった」
「ねぇ……何の話?」
「あっえーと……ってもうこんな時間か!スグもう帰るぞ」
妹にこんな恥ずかしい話を言えるわけもなく、和人は直葉の手を掴み部屋を出ようとする。
「え、ちょっと! 何話してたか教えてよ!」
「また今度な!それじゃアスナ、明日退院したらメールしてくれ」
「うっうん、それじゃ二人とも帰り気を付けてね」
手を振るアスナに別れを告げ、ようやく帰宅し、食事などを済ませると時刻はすで夜10時になっていた。
和人は部屋のベッドの上で病院での一件を思い出していた。須郷が去り際に言ったことが妙に気になっていたからだ。
かと言って今自分に何か出来るわけでもなく、その日は少し早く眠りについた。
◇ ◇ ◇
翌日、昼に明日奈から退院した旨を知らせるメールが届き、和人は夕方まで近場にあるジムで一汗流していた。二年間で衰えてしまっていた筋力を少しでも早く取り戻すためだ。
帰宅すると一足先に部活から帰宅していた直葉が夕食の用意をしていた。
「あっお兄ちゃん、おかえり! ご飯まだだから先にお風呂入って来ちゃって」
「あぁ、んじゃ先にもらうな」
部屋で上着を脱いでいると突如アラーム音が耳に鳴り響く。
ふとデスクに目を向けると、卓上のパネルPCの上端でメール着信ランプが点滅していた。
椅子に座り、PCのタッチセンサーに触れてサスペンド状態を解除し 、キーボードのメーラー起動ボタンを押し受信トレイを開く。
タイトルは『29158487』とまるで暗号のような数字な上に送信者のアドレスがなかった。
おかしい、と思いつつ──本文を見た瞬間、和人は驚きのあまり言葉を失った。
【是非コードを利用してAlfheimOnline──アルヴヘルム・オンラインの世界を堪能してくれたまえ 茅場晶彦】
『茅場ッ!?』
和人は思わず立ち上がり息を呑む。
茅場晶彦はすでに死んでいるはずなのに何故その彼からメールが来たのか理解が出来なかった。
すると今度は携帯が鳴り響いた。画面の表示にはアスナとなっており、嫌な予感を抱きつつ電話に出る。
「あっキリト君! 今パソコンにおかしなメールが来てて──」
やはり彼女にも同じ内容のものが来ていたようだ。
『一体誰がこんな……』
すると再びPCに新たなメールが届いた。今度はエギルからだ。
タイトルに『look this』と書かれてあり、開いてみると本文はなく一枚の画像のみだった。
なんとも不思議な構図。前景には、ぼやけた金色の格子が一面に並んでいる。その向こうに白いテーブルと白い椅子。そこに座っている、同じく白いドレス姿の二人の女性。こちらに横顔を向けているその少女は──。
「シリカと……リズ!?」
かなり引き伸ばしたものらしくドットが粗い。それでも間違いなく彼女達だと思えた。
よくよく見ると背中からは透明な羽根状のものが伸びているように見える。
「アスナ悪い、ちょっとエギルに電話しするから一旦切るな!」
「えっ……解ったよ、何か解ったら教えてね」
キリトはアスナからの電話を切ると電話帳をスクロールし、発信ボタンを押した。
プツ、という接続音のあと、野太いエギルの声が聴こえた。
「もしも──」
「おい、この写真はなんだ!」
「……あのなぁキリト、せめて名前くらい言え」
「そんな余裕ねぇよ! 早く教えろ!」
「……ちょっと長い話なんだ。店に来られるか?」
「解った。すぐ行く!」
キリトは返事も聞かずブツリと電話を切ると再びアスナにかけ直し、事情を説明した後、上着を抱え部屋を飛び出した。
「スグ、悪いけどちょっと出掛けてくる!」
「えっちょっお兄ちゃん!?」
エギルの店は台東区御徒町のごみごみした裏通りにある。煤けたような黒い木造で、そこが喫茶店であることを示すのは小さなドアの上に造り付けられた金属製の飾り看板だけだ。店名は『Dicey Cafe』
カラン、という乾いたベルの音とともにドアを押し開けると、カウンターの席には栗色のロングヘアーに白のセーター、下は赤いチェックのスカート姿の一人の少女、その奥には禿頭の巨漢がニヤリと笑っていた。
「よっキリト、ようやく来たか」
「キリト君、遅いよ!」
「ごめん、ごめん……ってアスナ、こんな時間に大丈夫なのか?」
「んー慌てて来ちゃったから……まぁちょっと怒られるくらいだよ」
アスナは笑ってそう言ったが既に時刻は夜9時。キリトとしては彼女の父親は兎も角、母親の方は許さないので、という懸念があった。
最悪、自分も一緒に謝りに行こうかとキリトが言うと、アスナは微かな笑みを浮かべ、首を横に振った。
「相変わらずお暑いこったな!」
「いいだろ、別に! それにしても相変わらず不景気な店だな。よく二年も潰れずに残ってたもんだ」
「うるせえ、これでも夜は繁盛しているんだ」
まるであの世界に戻ったような、そんな気さえ感じる。アスナの隣の椅子に座るとエギルはグラスに茶色い液体を入れ、キリトに差し出した。
「これ……酒じゃないよな?」
「安心しろ、ただの烏龍茶だ。 まぁ退院祝いってことでサービスだ」
エギルはアスナと同じ病院に入院していたらしく、キリトより先にアスナが連絡先を交換しており、四日前、退院したエギルに呼ばれ、キリトはこの店で彼との再会を果たしたのだった。
エギルの話では総務省の役人からクラインや他のSAOプレイヤーの連絡先も聞いたようだが、彼らも今は現実世界との折り合いをつけるのに苦労しているだろうと思い、軽い連絡程度しかしていないらしい。
「そういえば……団長からのメールって一体なんなの?」
「あっ俺にも来てたぞ。 他のSAOをやってた奴らにも連絡してみたが、やはり全員に送られてるらしいな。 それにあの画像も気になるしな……」
「確かにな……てかあの画像はどうしたんだ?」
エギルはカウンターの下に手をやり長方形のパッケージを取り出すとキリトとアスナに差し出した。
「これ知ってるか?」
「……ゲームソフト?」
キリトとアスナはそのパッケージを眺めた。描かれているイラストは、深い夜の森の中から見上げる巨大な満月だ。黄金の円盤を背景に、少年と少女が剣を携え飛翔している。格好はオーソドックスなファンタジー風の衣装だが、二人の背中からは大きな透明の羽根が伸びている。イラストの下部には、凝ったタイトルロゴ――『Alfheim Online』。
「あっ!これって団長から来たメールに書いてあったのと同じよね?」
「あぁ、でもアルヴヘイムってどういう意味なんだ?」
「妖精の国、っていう意味らしいな」
「妖精……。なんかほのぼのしてるな。まったり系のMMOなのか」
「そうでもなさそうだぜ。なんでも、どスキル制。プレイヤースキル重視。PK推奨らしい」
「どスキル制?」
「レベルは一切ないらしい。経験値はあるがそれでスキルを上昇させるだけで、どんなに稼いでもHPは大して上がらないそうだ。戦闘もプレイヤーの運動能力依存で、剣技のないSAOと言ったところかな」
「へえ……PK推奨ってのは?」
「プレイヤーはキャラメイクでいろんな妖精の種族を選ぶわけだが、違う種族間ならキル有りなんだとさ」
「そりゃハードだな。でも人気出ないだろ、そんなコアな仕様じゃ」
「そう思ったんだけどな、今大人気なんだと。理由は『飛べる』からだそうだ」
「えっ飛べるの?」
「あぁ、妖精だから羽根がある。フライト・エンジンとやらを搭載してて慣れるとコントローラ無しで自由に飛びまわれるみたいだ」
仮想世界内において、プレイヤーは現実の体と同じように動ける。それは裏を返せば、現実の人間に不可能なことは同じく不可能、ということでもある。背中に羽根をつけることはできても、それをどの筋肉で動かしていいのかわからないのだ。 SAO内では、末期にはキリトやアスナは超絶的なジャンプ力によって擬似的に飛ぶことも出来るようになっていたが、それはあくまでジャンプの延長線上であってやはり自由な飛行とは違う。
「飛べるってのは凄いな。羽根をどう制御するんだ」
「わからん。だが相当難しいらしい。初心者は、やはりスティック型のコントローラを片手で操るんだとさ」
「なるほどな……」
キリトは一瞬、挑戦してみたい、と思ってしまったが、すぐにその気持ちを打ち消すように烏龍茶をごくりと飲んだ。
「──まあこのゲームのことはだいたいわかった。本題に戻るが、あの写真は何なんだ」
エギルは再びカウンターの下から一枚の紙を取り出し、二人の前に置いた。プリンタ用の光沢フィルムだ。あの写真が印刷してある。
「どう思う?」
エギルに聞かれ、キリトとアスナはしばらくプリントを凝視してから言った。
「似ている……シリカとリズに……」
「うん、リズにそっくり……ってキリト君……この小さな女の子と知り合いなの?」
「えっ……アスナに話してなかったっけ?まぁいろいろあってさ」
「ふ~ん、キリト君~!あとで詳しく聞かせてね♪」
アスナは笑顔であったが──目は笑っていなかった。
SAOの時、モンスターに向けていた彼女の殺気を、キリトは今、自分に向けられている気がしたのは、気のせいではないだろう。
「……はい」
「おいおい、うちで夫婦喧嘩はやめてくれよ……ったく、話を戻すがやっぱり二人もそう思うか。ゲーム内のスクリーンショットだから解像度が足りないんだけどな……」
「早く教えて!これはこのゲームのどこなの?」
エギルはアスナからパッケージを取ると、裏返して置いた。ゲームの内容や画面写真が細かく配置されている中央に、世界の俯瞰図と思えるイラストがある。円形の世界がいくつもある種族の領土として放射状に分割され、その中央に一本の途方もなく巨大な樹がそびえている。
「《世界樹》と言うんだとさ」
エギルの指が大樹のイラストをこつんと叩いた。
「プレイヤーの当面の目標は、この樹の上に他の種族より先に到着することなんだそうだ」
「到達って、飛んでいけばいいじゃないか」
「なんでも滞空時間ってのがあって、無限には飛べないらしい。この樹の一番下の枝にもたどり着けない。でもどこにも馬鹿なことを考えるやつがいるもんで、体格順に五人が肩車して、多段ロケット方式で樹のてっぺんを目指した」
「なるほどな……馬鹿だが頭がいい」
「うむ。目論見は成功して、その樹上の城にかなり肉薄した。ぎりぎりで到着はできなかったそうだが、その五人目が木の枝に下がる大きな鳥かごを見つけて撮影した。それを引き伸ばしたのがあの写真だ」
「鳥かご……」
キリトはその言葉の持つ不吉なイメージに眉をしかめた。囚われの……というフレーズが頭をよぎる。
「だがこれは正規のゲームなんだろう……? なんでシリカとリズが……」
キリトはパッケージを取り上げ、もう一度眺めた。
長方形のトールケースの下部に視線を移す。メーカー名は─《レクト・プログレス》
「あっ、これってお父さんの会社が作ってるゲームなんだ!」
驚くアスナにキリトは彼女があまりゲームに詳しくないことは知っていたが、自分の父親の会社が作っているソフトすら知らないのか、と内心、溜め息を吐いた。
「あっならアスナのお父さんに相談してみたらどうかな?」
「んーでもそうすると須郷さんも関わってくるから……出来ればそれは避けたいかな……」
「あっ確かにな……」
アスナの考えにキリトも自分が言った考えを改めた。昨日会った彼にキリトは信頼以前に彼の人間性を疑問に思ったからだ。
「警察に言おうにも茅場はもう死んでいるしな。ただ、あのメールとシリカ達がこのゲームにいるのは間違いなく関係していると思う」
「わたしもそう思う。もしキリト君がこのゲームに行くなら……わたしも一緒に行くよ!」
「エギル、これ売ってくれないか?金はあとで払うからさ」
「わたしも!」
「いや金はいいが……それよりあのメールの招待コードを使うつもりなのか?」
「ああ、この目で確かめる」
エギルは一瞬気遣わしげな顔をした。また何か起きるのではないか──という恐怖がじわりと湧き上がってくる。
「エギル、俺とアスナなら大丈夫さ」
「うん、キリト君がいればわたしも安心だし!」
二人の笑った顔にエギルはSAOでの──彼らの姿が脳裏に浮かび、恐怖はすぐに消え去った。目の前にいる自分より年下の筈の少年と少女の姿にふと笑みが溢れる。
「さてゲーム機も買わなくちゃな」
「あぁそれなんだが、ナーヴギアで動くぞ。OSもCPUも一緒なんだ」
「そりゃ助かる。じゃあ、俺達は帰るよ。また情報があったら頼むな」
「情報代はツケといてやる。キリト、アスナ、必ずまたここに戻って来いよ!」
「ああ、いつかここでオフをやろう!」
そう言い残し、キリトとアスナはドアを押し開け、店を後にした。
◇ ◇ ◇
この度ソードアート・オンラインの二次小説を始めました。SAOからでなくALO編からですが……いずれSAO編も出来たらいいと思います。
どうか温かい目で読んで下されば幸いです。