「ふッ!はぁ!!」
まだ日が昇りきる前の早朝。
小鳥の囀りが遠くから聴こえ始めた頃、直刃は宿泊している旅籠屋の庭で竹刀を振るう。
一振り、二振りと振り下ろす剣筋にブレはなく、その動きに乱れはない。
これなら大丈夫、そう思いながら竹刀を振り続けようとする。
だが、不意にその竹刀の動きが止まる――いや、止まってしまう。
「―――ッ」
腹部を襲う痛み。
最初の頃に比べればマシになったが、それでもまだ痛みが残るそれを前に動きを止められてしまう。
これではいけない、そう思いながらも痛みを堪えて竹刀を振るおうとし――
「そこまでだ」
振り上げた竹刀の先端を背後から誰かに止められる。
いや、誰かと言う表現は間違いだろう。
俺はこの声の主が誰なのかを知っている、だからこそ止められた事に一切嫌な思いを抱く事なく、後ろを振り返れた。
「止めないでくれよ小五郎。今日は身体の調子が良いし、少しでも感覚を取り戻しておきたいんだ」
「お前はほんっとうにぶち馬鹿だな…そんな事してたら回復するのがもっと遅くなるだろうが!怪我人はしっかりと療養してろ!お前が怪我を治さないとオレが大変だろうが!い、いいか!決して心配してるわけじゃないからな!!違うからな!!」
「あはは…はいはい、了解しました」
振り返った先にいた人物の名前は――《桂小五郎》
長州藩の藩士であり、攘夷を掲げてこの国を異国と戦える国へと作り替えようとしている勤王派の人物であり、そして―――俺の想い人だ。
眠りから目覚めた直刃はすぐに己の状態を理解した…いや、理解させられた。
目の前にいる女性の名を知らない事から始まり、己の記憶にあまりにも空白が多すぎるのだ。まるで白い絵の具で塗りたく垂れた様に記憶が消え去っていた。
それが《記憶喪失》と言う症状である事に、否応でも思い知らされた。
唯一覚えているのは自身の名前と武芸を嗜んでいたと言う程度だった。
だからこそ俺は目の前の女性に、俺の命の恩人であろうその人に問い掛けざるを得なかった。
俺は何者なのだと、なんでも良いから教えて欲しいと。
記憶の空白、それを1つでも埋められるのならば何でも教えて欲しいとまるで救いを求める様に必死に問い掛けた。《直刃》と俺の名前を知っているこの人ならば何かを知っているだろうと、そう信じて。
そんな俺の問い掛けに女性は様々な表情を見せた。
驚愕、戸惑い、困惑、そして――何かを決めた様な小さな笑みの後に女性は口を開いた。
俺の問いに、深見直刃を知る人物として問いに答えてくれた。
「…お前の名前は直刃…深見直刃だ。お前はオレの…桂小五郎の護衛であり、そして――オレの、想い人だ」
――そう語る時、どこか彼女の表情に僅かな寂しさがあった事を、俺は気付く事は無かった。
「しかし今日で一月かぁ」
時間の流れは速いと言うが本当の事だなと感じる。
小五郎のおかげで九死に一生を得てから速いもので一月が経過した。
時間の治癒、そして小五郎を始めとする人達の手助けもあって、まだ完治こそしてないがこうして竹刀を振る分には問題がない程度までには回復している。
と言っても本気で振るえば先程みたいに痛みが走るので、無理は出来ずにいた。
「本当に速いものですよね~。あ、傷口の包帯変えますね」
そんな俺の所に手伝いとして控えているのが目の前にいる女性だ。
小五郎曰く《お前は誰かに監視させておかんとぶち馬鹿な事ばかりするからこいつを付ける》との事で置いて行かれた人だ。どうも当の本人にも説明していなかったらしく、置いて行かれた当人は呆然としていたのをよく覚えている。
「あ、すみません」
「いえいえ。今の私は直刃さんのお手伝いです。なので遠慮せずにしてほしい事があれば申してくださいね」
出来た人だ…そう感心しながらも包帯を新しい物に変えてもらう。
外された包帯の下から出てきた己の傷口。鋭い切り口…恐らく優れた武芸を持つ人物に切られたであろうそれは傷跡として残ってしまっている。医師曰く、断言は出来ないが、恐らくこの傷跡が消える事は無いだろうとの事らしい。
……しかし、胸の傷跡と言う単語に俺の心がざわつくのは何故だろうか?何かむず痒い様な、青春の思い出と言うか……なんとも言えない感覚がある。ついでに心の奥から中二病なる単語が思い浮かぶのも何故だろうか?もしかして記憶に何か関係が……いや、何か違う気がする。これは深く考えない方が良い気がする、うん忘れよう。
「しかし見事な切り口ですね…この傷を負わせた下手人は相当腕の立つ手練れであるのが一目で分かります」
そんな事を考えていると切り口を見た女性がそう呟く。包帯を変えながら自然と目に入る傷口に同じ感想を抱いたのだろう。
手際よく包帯を変えながらそう語る彼女に賛同する様に首を振る。
処置がもう少し遅ければまず間違いなく助からなかったと医師に断言されたこの切り口。
その傷を痛まない様に優しく指で撫でてから、思う。
いったい、誰が切ったのだろうかと。
それを知る事が出来たら思い出せる気がしたのだ。
俺の失われた記憶を――
「――よし。はい終わりましたよ」
そう考えている間に包帯の取り換えが終わっていた。
相も変わらずの手際の良さに感謝する様に直刃は目の前の女性にお礼を言った。
「いつもありがとうございます。《又次郎》さん」
ーー今の深見直刃には理解する事が出来ない。
その名が意味する事を、目の前の女性が生きている意味を、今の直刃は理解する事などできる筈もなかった。
「……………」
直刃が居る部屋から聴こえる話し声。
それを自室から聞きながら桂小五郎は、今自分が置かれている状況を見直していた。
今自分が居るのはあの戦い――後に四境戦争と呼ばれた第二次長州征討後ではない。
今自分が居るのは――《元治元年四月二日の京》。
そう、直刃達赤穂浪士と出会う少し前の時代に、何故か自分は居るのだ。
どうしてこうなったのかは一切分からない。
第二次長州征討の後、オレは新政府軍と行動を共にし、遂に江戸へとその軍勢が進まんとした時に幕府が江戸を無血開城したと言う知らせが届いた。
出鼻を挫かれるとはこの事だろう。江戸で一戦交えるつもりだった新政府軍は振り上げた拳を下ろす事が出来ず、どうにかその拳を振り下ろす先を求めて会津へと兵を進める軍議を行い、自分はそれに参加していた。其処までは間違いないと自身の記憶を遡る。
問題はその後。会津との戦い、そして戦後の諸々を考えながら就眠に付き――気が付けば彼女は此処にいた。
全く以て状況が理解出来なかった。
何故江戸に居た筈の自身が京に居るのか、どうして新政府軍の軍服である洋服に身を包んでいた筈の自分が懐かしい着物を着て此処に居るのか。
全てが理解できず、混乱している矢先に――《彼女》と再会した。
《桂先生!もう探しましたよ!!》
――《大高又次郎》
祖先に赤穂浪士《大高源吾》を持ち、桂小五郎に忠節に従い、そして――池田屋で新選組にその命を奪われた筈の彼女が目の前にいる。それが何を意味しているのかを理解した。
ーー自分が過去へ、戻っている事を。
どうしてそうなったのかは分からない。
けれども二度と会う事が出来なかった彼女に、又次郎とまた会えた喜びはそんな疑問を吹き飛ばす程で、混乱するオレは思わず又次郎に抱き付いてしまった。
《うぇ!?い、いきなりどうしたんですか桂先生?そ、そんなに心細かったんですか?》
もしかして夢を見ているのかもしれない。
そんな想いで抱き付いた又次郎の身体は暖かく、その温もりがこれが夢ではない事を証明してくれた。
又次郎が生きている。その事実が嬉しくて、オレは久しぶりに涙を流してしまい、そんなオレを又次郎は不思議そうな面持ちで見ていた。
けれどもそんな事などどうでもいいとオレは又次郎の身体を抱き締めた。もう離さない、そう決意しながらーーー
又次郎との再会後、オレは情報を集めた。
此処が本当に過去なのかどうか、それを確かめる為だ。
その結果ーーほぼ間違いなく此処が過去である事が証明された。
ほぼを付けたのは、オレが知る過去と多少の誤差があったからだが、それはあくまで多少が付く程度だ。
ほとんどオレの記憶と相違ない程に起きている事変の数々と死んだ筈の同士達が生きている事実。
それらが今オレが居るのは間違いなく過去だと知らしめた。
しかし、此処が過去ならば1つ大きな謎がある。
いったいオレに何をさせたいのか、だ。
まず間違いなくオレをこの時代へと呼び寄せた人が居る。
過去の時代に遡る、なんて事が偶々起きたなんて考える方がぶち馬鹿らしい。誰かが意図的にこうしたと考えるのが必然だろう。
そしてそいつはオレをこの時代に呼び出した何かしらの目的が絶対に存在する。そう考えなければこんな大事をしでかした理由に繋がらないからだ。
だが、それ以上を考察するにはあまりにも情報が足りなかった。
下手人の目的、オレを選んだ意図、そう言った物に繋がる情報を得る事は叶わず手詰まり感を感じ始めた頃にーー
オレは血を流しながら横たわる直刃と再会した。
月の光に照らし出されたその姿を見た時、ゾッとした。
最後に別れた姿とはあまりにも異なる傷だらけのその姿に、そしてその命が失われようとしている事実に、オレは恐怖してすぐに医師の下へと駆け込んだ。
どうして直刃がこの時代に居るのか、なんて疑問が浮かんでこない程に必死でオレは医師に助けを求めた。
助けて欲しいと、救って欲しいと願い、医師はその願いに答えて直刃の命を辛うじて救ってくれた。
そして直刃は目覚めてくれたーー全ての記憶を失って。
赤穂浪士の事も、元の時代とやらの事も、そしてオレの事も、全て失ってしまっていた。
記憶を失う。それは経験した者のみだけが理解出来る未知の恐怖だ。己の記憶が失われている恐怖、己の過去が何も思い出せない恐怖、自分が誰であるのかさえも分からなくなってしまう恐怖。
その恐怖は直刃にも襲い掛かっており、目覚めた直刃はあまりにも弱々しくて、些細なきっかけ1つで折れてしまいそうに見える程だった。
だからオレはーー嘘を付いた。
直刃はオレの護衛だと、そしてオレの想い人なのだと。
その心が壊れてしまわないように……
直刃の壊れそうな心を助けてやりたかったのは嘘じゃない。
だけど同時にオレは欲を抱いてしまった。
今の直刃にならオレを視てもらえると。
一度は叶わなかった恋を叶える絶好の機会だと、そう欲張ってしまったのだ。
「……ぶち馬鹿はオレの事だな」
自虐めいた笑みを浮かべながら桂は思う。
どうして過去に戻ってきたのか、どうして直刃がこの時代に居るのか、それは分からない。
けれども今からならばと空に手を伸ばす。
失った命、叶わなかった恋、それら全てを手にする事が今ならできると。
だからこそ桂小五郎は決意する。
下手人の目的などもはや知った事ではないと。
そう、オレはーー
「オレは全てを手に入れるやる。失われる同士達の命も、そしてーーオレの恋も」
空に掲げた手に誓った決意。
国の為にその人生を費やした長州が誇る天才は、その日より異なる道を進み始める。
全てを手に入れる、その為に邪魔する全てを払う道へとーーー