初うまぴょいまであと1時間-シーズン2-   作:初瀬川みそら

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恋する女帝の杖--エアグルーヴの場合

――十一月初旬の金曜日。

 

 トレセン学園のターフを吹く風が、肌を刺すように冷たくなった冬のはしり。

 長かった夕暮れも随分と短くなって、下校時間のチャイムがなる頃にはもう薄闇が空を染める頃。

 薄闇の学園裏に広がる花壇の前で、紫を基調とした制服で身を包んだ、二人のウマ娘がいた。

 葉の上を歩くテントウムシを眺め、ふっと目を見合わせて微笑んでいた。

 

「……では、来週以降は私の方で確認することに致します」

 

 一人は、ミリ単位できめ細やかに手入れされた黒髪と艶やかな尻尾を揺らす、ウマ娘、エイシンフラッシュだ。

 ドイツからの留学生である彼女は、花壇の中で息づくテントウムシを幸運の象徴として大切にしている。

 スケジュールを厳守し、生真面目な彼女には花壇自体を管理しているもう一人のウマ娘も高い信頼を置いていた。

 

「ああ、頼む。これからの季節は数が少なくなるが、いなくなるわけじゃない。きちんと管理すれば、花にもいいからな」

 

 その、もう一人。

 ふわりと吹いた夕風が揺らす、栗灰色のボブカット。

 長い指が押さえた前髪の下、真っ直ぐに伸びた柳眉はほっそりと整っていた。

 敬愛する母親とおそろいのアイシャドウが、風に瞑っていた瞳をうっすらと開くごと、意志のハッキリした凜々しいつり目を艶やかに飾っていた。

 幅広のウマ耳、その左耳には黄色のリボンと金チェーンの髪飾りをつけて、見る者を優雅に魅せる。

 トレセン学園の【女帝】……エアグルーヴは、自身が管理する花壇の植物の上に懸命に脚を踏ん張るテントウムシを見ながら、告げた。

 

「……お前にも大切な時期だというのは理解しているが、なんとか、頼む」

「ええ、お任せください」

 

 エアグルーヴの言葉に、エイシンフラッシュがトンっと胸に手を当てそっと頭を伏せる、任命を誇りとする仕草を見せた。

 所作の一つ一つに生真面目さがあるエイシンフラッシュは、やや儀礼的な仕草でさえ様になる。

 

(なんというか……これが彼女らしい、ということなのだろうな)

 

 テントウムシ管理の会として共に活動してきて……実際の処、留学生である彼女の様子を確認するための一つの手段でもあったが……エアグルーヴはエイシンフラッシュのウマ娘なりを徐々に理解し、好もしく思っていた。

 トレセン学園の副会長として、ウマ娘の憧憬の的となることを自らに課しているエアグルーヴにとって、己に規律を課してそれを遂行していくことを是とするエイシンフラッシュは、自らの在り方に沿う部分があったのかも知れない。

 また、益虫であるテントウムシへの愛が……エイシンフラッシュは幸運の象徴としての愛だったが……共感できる点でも他のウマ娘とは異なった。

 それゆえか、他のウマ娘よりは多少、気心を許すところがあった。

 

「……それにしても、フラッシュ。お前……随分と変わったな」

「……? 具体的にお願いできますか、副会長」

「なんというか……色っぽくなった」

 

 旧知のサイレンススズカにもしない、軽口のような会話だって口をつく。

 そうしてエアグルーヴが告げた瞬間、学園に備え付けられたLED投光器がぱっと光る。

 

「……っ」

 

 フラッシュ光が苦手なエアグルーヴは、点灯の瞬間はいつも苦手だと顔を思わずしかめてしまう。

 が、今日はぱっと光った視界の中で、珍しいものを見た。

 

「え、あっ、その……」

 

 透き通るような白磁の肌が、桃色に染まっていた。

 常ならば凜々しいエイシンフラッシュの表情が、真っ赤に恥じらう乙女のものになっていた。

 

「い、色っぽくなった、なんて、そんな」

 

 投光器の光で明るくなった畑の花壇にあって、エイシンフラッシュの白い肌は紅潮し、すっと通った高い鼻梁と口元を覆い隠すように手で覆っていた。

 せわしなく目はパタパタと瞬きをして、黒耳がぴくんと震えるように揺れている。

 

(……珍しいこともあるものだ、こんなにフラッシュが取り乱すとは)

 

 常に折り目正しく、融通が効かないようにすら思えるエイシンフラッシュが、言葉を濁しながら、応答に困っている。

 そんなエイシンフラッシュを、エアグルーヴは初めて見た。

 

「な、なにも、特別なことはなく、ですね。本当に、なにもなかったんです、なにも、なにも!」

「……ほう」

(……というか、この時点でなにかあった、と見られてしまうと言うのに……本当に不器用な奴だな)

 

 明らかに慌てているエイシンフラッシュ。

 エアグルーヴは滅多に見られない彼女の様子に、些か、嗜虐心をそそられていた。

 煽られた嗜虐心へ、数多のウマ娘が集う学園、その副会長として知り得たさまざまな噂の断片が燃料のようにくべられていく。

 エアグルーヴの心に湧く、いたいけなエイシンフラッシュへのいたずら心が、触手を伸ばしていく。

 

「……これはとあるウマ娘からの情報だが、この前のハロウィーンの夜、お菓子を配りきれず落ち込んでいたのに、しばらくしたら、随分と上機嫌で部屋に戻っていたとか、いないとか」

「?! そ、それはっ!」

「そのウマ娘曰く、とんでもなく艶やかだったとか。そのウマ娘は観察眼に定評があってな。そんな彼女からのタレ込みだ、信頼性は高い」

「え、えっと、その、えっと!」

「なんだ、余程イイコトがあったようだ。同じテントウムシ管理の会の一員として、興味が湧く」

 

 左手で右肘を支え、頤に触れるように手の甲を沿わせるエアグルーヴ。

 努めて平静を装うが、頬は些か以上に微笑を称えずにはいられない。

 そんなエアグルーヴを前に、エイシンフラッシュは言葉を詰まらせてフリフリと頭を振った。

 

「あ、あの……その……なにも、えっと……」

(……これは悪癖だな、私の)

 

 顔を手で包み込むように覆ってしまうエイシンフラッシュに、エアグルーヴは内心で苦笑する。

 趣味が悪い、とは思っているが、ついつい生真面目な【同志】の愛らしい反応を逃がす気になれなかった。

 追求するエアグルーヴに、しかし、エイシンフラッシュはちらりと手首の時計を見やって、慌てたように告げる。

 

「も、もうこんな時間です! ミーティングに間に合いません、い、いかなければ!」

「あっ」

 

 わざとらしく手首の時計に向かって言ったエイシンフラッシュはうっすらと冷や汗をこめかみに浮かべつつ、やや逃げるように駆けていってしまった。

 いつも悠然とした彼女らしからぬ背中が遠くなっていくのを眺めつつ、エアグルーヴはようやく、口元を愉快さで遊ばせる。

 

(……ふっ、あのエイシンフラッシュが、あからさまにごまかす……まさか、とはな)

 

 浮かぶ微笑みを噛みしめつつ、行動は切り替える。

 エアグルーヴは念のためと、畑の花壇全体の様子を見ておくべく歩み出した。

 

(まぁ、彼女の場合はそれでもトレセン学園のウマ娘として悖ることはないだろう)

 

 ――細やかな花弁をつけるミセバヤ、紫のパンジーに曇りはない。

 ――紅色の花弁をつけるシンビジウムは来月、花をつけるだろうか。

 ――今年も白い椿が咲けば良いのだが。

 一つ一つの枝葉を眺めながら、脳裏に浮かべるのはエイシンフラッシュとそのトレーナーのたわいのない噂だ。

 なんでも、彼女は、彼女のトレーナーとすでに恋の大欅 (初うまぴょい)を超えているのだとか、なんとか。

 年頃の子女で構成されたトレセン学園に、こうした噂は絶えることがなく、望むとも望まざるとも、副会長であるエアグルーヴの耳には多く届いていた。

 

(自主性を重んじる会長の方針だ、禁止はしないが……それでも、何らかの規律は必要だな)

 

 花壇の草葉に異常がないことを確認して、エアグルーヴは畑を後にして、校舎へと戻った。

 下校していくウマ娘と軽く挨拶を交わしながら一番近くの水場で袖をまくり、肘近くまで丁寧に土汚れを洗い流していく。

 ハンカチを咥え流れる水に思うのは、エイシンフラッシュと同様に艶めく知り合いのウマ娘達のことだった。

 

(そういえば……スズカもBCターフでの写真では、なんだか艶めいていた。まぁ、アレはあのトレーナーとうまくやっているのはわかっているが……)

 

 水道を通っているはずの水が先月よりも冷たくなっているのを感じる。

 だがそうして冷たくなったはずの水でも冷め得ぬ熱を、エアグルーヴはこめかみに感じていた。

 ぼうっと思い出すのは、つい先日の現トレセン学園生徒会長、シンボリルドルフとの会話だ。

 

(……というか会長も、あの様子だと……)

 

 ハンカチで指先まで雫を拭いながら、思い出される先日のテレビ通話で、凱旋門賞での栄光を勝ち取り、来週には帰国するというトレセン学園会長、シンボリルドルフは、色っぽかったのだ。

 宝塚記念から凱旋門賞、凱旋門賞からシンボリルドルフは、アメリカ、ブリーダーズカップに出走し、見事勝利をむかえて見せた。

 自他共に認める皇帝としての凱旋をむかえるシンボリルドルフの溢れんばかりの喜びと……勝利だけではない艶めきが今なおエアグルーヴの記憶に焼き付いてしまっていた。

 

(ええい……しっかりしろ……会長に、そんなふしだらな……いや、しかし……会長も、年頃のウマ娘なのだ)

 

 ウマ娘の理想たらんと、エアグルーヴが心底より認めるシンボリルドルフの、艶めいた雰囲気に緊張が喉を鳴らす。

 ふうぅと深呼吸一つ、気を取り直そうとしても心臓は高鳴るばかり。

 生徒会室へと向かう足取りの中で思い出されてしまってならない。

 悠然と微笑む一仕草。

 状況を伝える声音の響き。

 テレビ会議越しでも真っ直ぐに見つめる瞳。

 すべてに、皇帝としての自信だけではない、むっと匂い立つ色気が満ち満ちていた。

 

(……あんなにも、美しくなるものか。恋、というのは)

 

 学園の廊下を歩みつつ、左手を右肘に当て、考え込むように頬杖をつく。

 暗くなってきた廊下の先、生徒会室から漏れる光をチラリと見つつ、エアグルーヴは思う。

 

(いつか、いつの日か私も……あんな風に色めくのだろうか)

 

 自分の想いに、思い出す面立ちが……ないわけではない。

 今の自分を輝かせ、輝きを導けると信頼がおける相手が、いないわけではない。

 乙女としての憧れと、少女としての矜持 (プライド)が、自分の気持ちを素直にしていた。

 歩みを進め生徒会室の扉を開いたエアグルーヴは、想う面立ちを、生徒会室に増設した自身のトレーナーの為の席に見る。

 

「……はぁ」

 

 そして、まずはため息が出た。

 

「まったく……寒くなってきたのに居眠りとは……風邪を引いたらどうするのだ、たわけ」

 

 くうくうと、規則正しく寝息を立てる、トレーナーの姿があった。

 小さくつぶやきながらエアグルーヴはノートパソコンへ手を伸ばしたまま、居眠りをこくトレーナーを叱咤する。

 起こすほどの声量ではなかったためか、穏やかに寝息を漏らすトレーナーを、エアグルーヴは言葉とは裏腹に和やかな表情で見つめていた。

 

(……こんな気持ちが恋なのか? まさか、あり得んな)

 

 出逢いの頃、自分が初めての専属ウマ娘である新人トレーナーだった彼と、駆け抜けて三年。

 大志へと続く道を共に歩む、信頼に足る(どうぐ)を求めたエアグルーヴの期待に、トレーナーは応えてくれた。

 それどころか、憧憬の的になるべく邁進する自分の仕事を手伝い、その視座を理解しようとしてくれた。

 トレーナーなど自分のレース面を高めるための(どうぐ)でしかなかったエアグルーヴの認識は、理想のトレーナーとなった彼によって理想の杖 (パートナー)と改められていた。

 認めざるを得ない様々な三年の思い出が、エアグルーヴの頬を緩ませる。

 けれど。

 

(……本当に、しようがないやつだ)

 

 三年経っても、どこか頼りないのは変わらない。

 

(もっと頼らせてみせろ、たわけ)

 

 エアグルーヴの表情が、無意識に緩んで甘く蕩けるのを誰にも見られないまま、彼女は慈しみの罵倒を心中でつく。

 三年の年月を共に歩み、いささかの疲れが刻まれるようになっても目覚めれば変わらず、トレーナーは自分と同じ視座を持ち、自分に尽くしてくれるだろう。

 その信頼感に緩む頬のままで、エアグルーヴは自分の席からブランケットを取り出して、起こさぬように肩にかけてやった。

 

「……ふんっ」

 

 ならす鼻と裏腹に、零れる微笑み。

 温かくなる心を感じながら、エアグルーヴは自分の席に座り、PCを立ち上げた。

 室内を適切な温度にしてくれていた空調をエアコンで操作し、少し温度を上げる。

 

(……さて来週からは本格的にエリザベス女王杯への調整に専念する。今の会長にならびたつためにあのレースは取らねば……であれば、今日中に、ある程度先行して作業をすると考えれば……日付越えも覚悟するか……)

 

 なるべく音が出ないようにキーボードを叩きながら、シンボリルドルフが承認してくれた書類の事後処理へと取りかかっていた。

 穏やかなキーボードの打鍵音と、規則正しい眠気の呼気が、ゆっくりと部屋に流れる。

 何人も侵せない女帝の安らぎの時間が、ゆっくりと部屋を覆っていた。

 

 ――恋する女帝の杖。初うまぴょいまであと一時間。

 

 

 エアグルーヴが作業を開始して少し経った頃。

 

 ――十九時十七分 初うまぴょいまであと四四分。

 

(……っ、っと、やべ、寝てた……っ)

 

 ぴしゃりと電気に打たれたように、はっと身震いをしたトレーナーは、口元のひんやりとした感触を手の甲で拭った。

 いつの間にか、涎を垂らして居眠りしてしまっていたようだ。

 壁掛けの時計が小一時間ほど眠っていたことを告げてくるのにさっと冷たいものを感じつつ、トレーナーは作業途中の事務作業にもう一度取りかかろうとして……ふと、ふわりと良い香りのするブランケットの存在に気がつく。

 

「……あれ、エアグルーヴの?」

 

 さらりと感触の良い青のブランケットを撫でながら、エアグルーヴの席をみると……。

 

「……えっ」

 

 思いがけず出た声を慌てて口元を押さえて抑え込んだ。

 あの女帝、エアグルーヴがまぶたを閉じて規則正しく……居眠りをしていた。

 

(部屋……だいぶ、温かいな。エアグルーヴが温度、上げてくれたのか。……俺の前で居眠りするぐらい、疲れているというのに)

 

 空気が暖かい原因を察したトレーナーは、エアグルーヴを起こさないように音無く椅子から立ち上がった。

 自分にかけてくれたブランケットを広げ、彼女への返礼として、ブランケットをかけようと歩み寄る。

 

(来週からはエリザベス女王杯への調整だし……彼女のお母さんも挑戦できなかった、女王の座……それを得るために、今の仕事は、片をつけないとな)

 

 思うのは、生徒会の仕事も自分が手伝い、来週から備えようとしていたGIのレースのこと。

 昨年はサイレンススズカの圧倒的な才覚を前にして、挑戦を断念していたが、彼女が目指すウマ娘の理想の体現者として、エリザベス女王杯は、ぴったりなレースであった。

 今年、それに挑戦すると言い出したのは、もう三ヶ月も前の事。

 シンボリルドルフが宝塚記念で勝利した姿を見て、総身を震わせていたエアグルーヴが、皇帝たるシンボリルドルフに並び立つために選んだ道だった。

 

(本当に、いつでも頑張ってるんだ。居眠りぐらいするよな)

 

 自分の影が落ちるエアグルーヴの面立ちは、すやすやと穏やかで、透き通るような頬は愛らしい。

 眠っている姿があどけない彼女を、トレーナーは目を細めて眺めていた。

 ウマ娘の道を広げるシンボリルドルフを追いかけ、ウマ娘達の理想たらんと自分を律するエアグルーヴ。

 才色兼備の彼女の専属トレーナーとして歩んで三年、彼女は多忙の中でさまざまな栄光と挫折、そしてつかみ取った勝利によって彼女が目指す、女帝として君臨し続けていた。

 

(……もっと頼られるようになりたいんだよな)

 

 彼女に頼られるようなトレーナーにはまだ遠いが、それでも彼女と過ごしたことでトレーナーの心には、すっかり燃えるものがあった。

 

(彼女の輝きを損なうことなく、もっと輝かせられるように。もっと、エアグルーヴに頼れる存在になりたい)

 

 思うことで熱くなる胸の内。

 熱い自身の感覚に、トレーナーはふっと苦笑していた。

 

 ――それは、恋に近しい想いだろう。

(でも……これ、トレーナーとしてどうなんだろうな。俺……)

 

 シンボリルドルフのトレーナーと話す機会があり、告げられた言葉を思い出す。

 彼女へ募る期待が、自分でもどうしようもないものだと自覚したのは、もうずいぶん前のことだった。

 彼女の満足に十全と応えられていない自分を改め、彼女の隣に常に添えるように懸命に走る。

 その先に、それでも理想に向かい続ける彼女は、穏やかに【たわけ】と告げてくれるだろうと、待ちわびてしまっていた。

 

(……大概、俺もエアグルーヴに染まってるのかも)

 

 彼女の叱咤を期待するなどと自嘲して、彼女の肩にブランケットをかけようと、トレーナーは腕を伸ばした。

 その瞬間だった。

 

(えっ、あ、あれ? ちょ)

 

 彼女の腕が、するりとトレーナーの腕に絡んできていた。

 想定しなかったエアグルーヴの動きに、トレーナーは起こしてはならない、と声をあげることができなかった。

 

(……っえっ、あっ……っ?!)

「うんっ……んんっ……」

 

 動けず、固まった身体、その腕をぎゅっとエアグルーヴが抱きしめてきていた。

 抱きしめられた衝撃と、ぎゅっと押しつけられるモノに、トレーナーはパクパクと、声を出せずに口を開閉する。

 エアグルーヴは悩ましげに眠気のうめきを漏らすが、依然眠ったままのようだ。

 

(お、おいおい……嘘だろ……)

 

 ごくりと、トレーナーが生唾を飲み込む。

 動けないトレーナーの腕は、まるで抱き枕のように、エアグルーヴの柔らかなもの、その双つの間に挟まってしまっていた。

 

 

 ――十九時三一分

 ――初うまぴょいまであと三十分。

 

 

「んっ……んうぅ……」

(え、あっ、っと近い近い)

 

 寝息に混じる呻きとともに、エアグルーヴの吐息が腕の皮膚に当たる。

 ブランケットごと巻き込むように抱きつかれた腕が、エアグルーヴの呼気の度ゆっくりと柔らかい感触に浸された。

 むっと香り立つエアグルーヴの柔らかな匂いと、彼女を起こすまいと動けない身体には緊張が走っていた。

 

(え、えっと……どう、する、やばい、やわら、かい)

 

 常にキリッと凜々しいエアグルーヴからは想像し得ない……想像することすら畏れ多い……女性的な柔らかさに、トレーナーは生唾ごとにしかもはや呼吸を忘れていた。

 

(え、エアグルーヴを起こすべき? い、いやでも寝てるぐらい疲れてるわけだし、柔らかいし……い、いや何考えてんだ俺! あ、でも待てよ……ここで起こしたら、確実に怒られるよな……? だったらもう少し……っておバカっ、俺!)

 

 心中の慌ただしいノリツッコミとは裏腹に、全く動けないでいるトレーナーの腕は、ぐっと張った緊張で硬くなっていた。

 それどころか。

 

「……わけ……もっと、こう……」

(っぃ?)

 

 エアグルーヴが寝ぼけたようなトロンとした声で呻くと、腕がより一層抱かれてしまう。

 彼女の柔らかな丘の間、その深部まで引き込まれて、彼女の膨らみが腕に沿って曲線を歪ませるのがトレーナーの視界に飛び込んできていた。

 それどころか、一層に腕を引き込まれた分、寝息はもはや、その先端が耳たぶの先端を打つほどに近いものとなっていた。

 

(やば、い、ぜったい、絶対ヤバい! いろんな意味で)

 

 戦慄とどうしようもない状況に、もはや動けないトレーナーは、それでもなんとか、微かにでも動かせないかを試みるが、エアグルーヴの抱擁はとても、無理にでもないと剝がせそうになかった。

 

「……ふふっ……だから、お前という、やつは……しかたないのだ……」

 

 眠りが浅いからか、エアグルーヴの寝息に、寝言が混じっていた。

 常にないほど蕩けた声音だが、その口調は、常日頃トレーナーにかけられる言葉のそれだった。

 

(……俺、夢の中でもなんか言われてね? ……って、そ、それどころじゃない)

 

 興奮と緊張の中で、夢の中ですらエアグルーヴの厳しい言葉をうけている自分に少ししょんぼりとしながら、それでも現状の打破を試みるトレーナー。

 ウマ娘のしっかりとした力で抱擁をうけた腕は、打開策を得られぬまま、より一層に深く抱きしめられていく。

 

「……んんっ……たわけ……私は……そんなっ……んんっ」

(え、なに、夢の中でなにしてんの、俺?)

 

 ぐっと抱かれる腕をなんとか動かさないように、エアグルーヴの座る椅子の背もたれにもう片腕をついているが、トレーナーはもはや半ば、椅子に座るエアグルーヴに覆い被さるような格好で、固まるほか無かった。

 悩ましげな吐息が耳にかかり、エアグルーヴの様子を見ようにも、ままならない。

 視界に飛び込んでくるのは制服越しでもわかるほど大きい、自分の腕でむにゅりと形を変えるエアグルーヴの女性的な柔らかさだったからだ。

 さすがに卑怯を感じて見ないように目線をそらせば、彼女の顔を凝視することになって、長い睫毛の一本一本が黒々と上向いて、目尻のアイシャドウの色めきに胸が高鳴るばかり。

 

(……い、いやマジでどうしよう……ちょっとなんか、頭ぼうっとしてきたし)

 

 押すも引くもどうしようもない状況に、トレーナーは緊張で不用意に出来ない呼吸のおかげで、だんだんと頭が白んでいくのも感じていた。

 

(いっそのこと起こすべきでは……今いくか……いや、まだか、いや、今か)

 

 頭の中に駆け巡る逡巡に、トレーナーがもはやいよいよ……と怒られるなどのいろんな覚悟を決めた瞬間だった。

 ふっと、一瞬だけ、エアグルーヴの腕が震えた。

 

(……ん?)

 

 疑問に思う瞬間を、トレーナーの耳に走るぬるりとした感触が覆い隠す。

 

「んっ」

「っ?!?!」

 

 エアグルーヴの呼気を感じていた耳が、熱く濡れた感触にべろりと覆われた。

 息が詰まり、もはや、と反射的にトレーナーが動こうとしたが、動けない。

 ぱっと振り向いたその先に、顔を真っ赤にしたエアグルーヴがいたからだ。

 

「あっ……」

「……っ」

 

 エアグルーヴが、真っ赤な顔と真っ直ぐな瞳でこちらを見てくる。

 まさしく目と鼻の先でみる彼女の美貌は、美貌であるがゆえに、トレーナーの背中をさっと氷水のような戦慄に覆っていた。

 

 

 ――十九時五六分

 ――初うまぴょいまであと五分。

 

「……なにを、している」

「えっと……そのブランケットを、返そうと」

 

 エアグルーヴが問いかける言葉に、トレーナーは素直に答える。

 トレーナーは腕をエアグルーヴから放し、そのまま上に降参のポーズで引き上げていた。

 離れようとした身体は、エアグルーヴの脚がつま先を踏みつけたことで防がれていたので、上体の位置は変わらず、エアグルーヴとトレーナーは目と鼻の先の位置関係に顔をつきあわせていた。

 

(これはさすがに張り手打ちか、はてまた、溝落蹴りからの説教か。……いや、説教に関しては張り手打ちでも結局されるな……というか生きて帰れるのか……)

 

 トレーナーの脳内を駆け巡るこの後の展開。

 これまでエアグルーヴから長い説教はあったが、直接的に手を上げられたことはなかった。

 が、さすがにこの状況下だ。

 他のトレーナーがされていたさまざまな物理的攻撃が、ウマ娘の強靱な筋肉収縮(マッスルスプリング)として来る、その覚悟はできていた。

 それどころか生殺与奪の権を握られているとさえ覚悟していた。

 だが。

 

「……返そうとして……どうしようと、したんだ。答えろ」

(……ん?)

 

 トレーナーの想定に反して、エアグルーヴの声が、弱々しい。

 バツが悪そうにちらちらと目線を泳がせ、目尻は羞恥にか桃色に染まったままだった。

 

(……エアグルーヴから腕抱きしめてきた、なんて言ったら、怒る……よな)

「その……返そうとして、やむにやまれずこの体勢に」

「……居眠りをしている私を、襲ってしまった、と」

(……ん? あれ?)

 

 トレーナーの配慮をもった言葉に、しかしエアグルーヴの返した言葉は、なにかおかしい。

 トレーナーがその差異に気がついた時には、エアグルーヴの手が、トレーナーの後頭部に回っていた。

 

「……お前にそんな甲斐性があったとは……完全に、私の油断だったな」

 

 トレーナーの視界の中、自身の額をトレーナーの額にあわせたエアグルーヴが、やれやれと嘆息した。

 ぐっと後頭部を支えられたトレーナーは、状況を理解できないままだった。

 だから。

 「エアグルーヴ」と名を呼ぼうとしたトレーナーの声は、エアグルーヴの震える唇に啄まれるままになった。

 トレーナーの身体は、先ほど以上に強張った。

 強張ってから少しして。

 微かに離れた唇に、されど今度は自分から、トレーナーは彼女の息を啄んでいた。

 

「……たわけ」

 

 トレーナーは、今までで一番甘く呟かれた言葉を聞いた。

 エアグルーヴが、幾度かの触れあいの後に、叱責の言葉を口にしたのだ。

 だが、いつしか互いの手は、互いの頭を包むように回されて、互いに拒むことなく、むしろ心地よさそうに擦り寄っていた。

 トレーナーは、もはや押さえの効かない感情のまま、言葉を返す。

 

「……でも」

 

 言葉の先にあるさまざまな思いを、エアグルーヴの穏やかでどこか困ったような、悠然たる微笑が受けとめる。

 見透かす程に強く、潤んで艶めいたその微笑みに、トレーナーは心が燃えさかるのを確かに感じた。

 トレーナーの心がエアグルーヴの唇を、身体を、さらに燃えるように熱していく。

 

「違う……そうじゃない」

「えっ……」

「……もっと、だ、たわけ」

 

 ――二十時一分

 ――初うまぴょいまであと零分。

 

 

 ――十一月十日。エリザベス女王杯当日。

 

 エリザベス女王杯において、クビ差でエアグルーヴは勝利した。

 鮮やかな青と輝くような黄の意匠の勝負服を纏ったエアグルーヴは、激戦に上気したまま京都競バ場の地下バ場を歩んでいた。

 紺色の羽が如き装飾、白いマントを揺らして歩む足取りは自信に満ちて、新たな女王の称号を堂々と背負っている。

 

「「お疲れ様です、エアグルーヴ先輩!」」

 

 新たな女王となったエアグルーヴを地下バ場で迎えたのは、ダイワスカーレットとメジロドーベル。

 エアグルーヴが目をかけていた後輩のウマ娘達で、彼女らもまたエアグルーヴを慕っていた。

 

「ドーベル、スカーレット、お前達の応援が、私の力になった。礼を言う」

 

 ダイワスカーレットとメジロドーベルに、エアグルーヴは悠然と微笑んで応えた。

 赤いアイシャドウを映えさせた彼女の笑みに、二人のウマ娘は息を飲んだように目を見開いた。

 二人の表情を勝者への畏敬と捉えたエアグルーヴは、軽く手を上げて彼女達の応援へ改めての感謝を伝えて、トレーナーが待つ控え室へとゆったりと歩みを進めていった。

 息を飲んでエアグルーヴの背中を見つめていたメジロドーベルは、その背中が控え室の方へ消えてからようやく、震えた吐息とともに言葉を発した。

 

「……なんか、エアグルーヴ先輩、すんごく綺麗になったわね」

「ええ、なんというか……すごく、色っぽくなったというか」

 

 メジロドーベルの言葉に、ダイワスカーレットも応えて息を漏らす。

 圧倒的な色気に飲まれ、息を忘れた二人のウマ娘は、どこかぎこちなく感想を述べ合っていた。

 

「そう、よね? 色っぽかったわよ、ね?」

「え、ええ……なんというか……その……すんごく……え、エッチというか」

「……はしたないけれど……私も、同感だったわ」

「あの、ドーベル先輩、あれって……もしかして」

「……スカーレット。先輩に失礼じゃない?」

「で、でも……ドーベル先輩だって、思いませんか? もしかして、エアグルーヴ先輩も……恋の大欅 (初うまぴょい)超えたんじゃ」

「はぁ……あのね、あのエアグルーヴ先輩が、そんなこと……あり得ると思う?」

「……確かに、そんなの、あり得ない、ですよね。あの真面目な、エアグルーヴ先輩ですもの」

「そ、そうですよね。エアグルーヴ先輩に限って、そんなのこと、ありえないですよね」

「「は、ははっ」」

 

 乾いたように笑んでしかし、脳裏に焼き付いた色香を思い出した二人は、言葉を再び失ってうっすらと頬を紅潮させていた。

 

 ――控え室の壁に、トレーナーは押しつけられていた。

 空気が啄まれるように、音が弾ける。

 エアグルーヴの真っ赤な舌が、啄んだ音の残滓をヌルリと舐め取っていた。

 

「……それじゃ、ウィニングライブに行ってくる。ちゃんと目に焼き付けておけ、新たな女王を」

 

 細まった瞳、アイシャドウの濃淡が見える距離。

 つうっと銀色の橋が、トレーナーの唇に掛かる。

 壁に押しつけられて逃れ得ぬ色香に当てられ、トレーナーは発する言葉の代わり、懸命に首を縦に振る。

 絡み合った手をそっと伸ばすように、それは社交ダンスのパートナーであるように身体を離したエアグルーヴは、にっと強く笑んだ。

 くるりと踵を返して、ファンの待つライブステージに向かう鮮烈な女帝の艶やかさは、女王の冠を頂いて一層に、色めき立っているのだった。

 




ミセバヤ 「自分が大切に想う人」
紫のパンジー 「You occupy my thought ・あなたのことで私の頭はいっぱいです」
シンビジウム 『飾らない心』『壮麗』『華やかな恋』『高貴な美人』『誠実な愛情』
白い椿 「完全なる美しさ」「申し分のない魅力」「至上の愛らしさ」そして、「罪を犯す女」
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