初うまぴょいまであと1時間-シーズン2-   作:初瀬川みそら

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きっと君には伝わるサイン--マルゼンスキーの場合

 ――十月一五日。二十時五分。

 

 東京、土曜夜は本格的な秋雨に覆われて、灰色の空の元、窓を鳴らしていた。

 トレセン学園からほど近い広めの1LDK。

 寮生活がほとんどのなか、珍しく一人暮しのウマ娘はいくつもの段ボールをたたみ終えて、窓の外を眺めると、残念そうに呟いた。

 

「……やっぱり、京都までタッちゃんで行くのは、辞めておかないとダメそうね」

 

 近所のガレージに間借りさせて貰っている愛車を心に浮かべつつ、がっくりと肩を落とす。

 茶褐色の鹿毛のウマ耳、朝シャンで艶々にするのがお気に入りのルーティンにもなっている尻尾も、合わせて力なくしおれていた。

 雨の湿気に跳ねる茶褐色のロングヘアも、ベージュのパジャマにどこか艶めきを失っている。

 

「あ、そうだ、トレーナー君に連絡しとかないと」

 

 思い出したように呟いて、くくり紐の付近に段ボールを重ねるとウマ娘……マルゼンスキーは、リビングのソファに座り、傍らのテーブルに置いていたスマートフォンへ寄って、彼女の専属トレーナーから教えて貰ったチャットアプリを立ち上げた。

 

(……あした、たっちゃんじゃなくて、電車で、いきます……ハートマーク、っと)

 

 ボタンのないスマートフォンでの入力方法も「日々の連絡を、このチャットアプリにして練習しよう」と言ってくれたトレーナーのおかげか、だいぶ上達してきた。

 最後のハートマークにふふっ、と笑みを零しつつ、送信ボタンを押す。

 マルゼンスキーはボタンを押した格好のまま、スマートフォンをスリープにした。

 真っ暗な画面に浮かぶ、しょぼくれた自分と目が合うとため息をついた。

 苦笑する気になれないほどに、心を占めていたのは、自分より先に京都へ向かったトレーナーのことだった。

 

(トレーナー君は、もう宿に着いてるかしら。最後の電車でって言ってたから……まだかな?)

 

 明日はマルゼンスキーにとってはデビューから四年目の下半期、その趨勢を図るレース、京都大賞典が開催される。

 マルゼンスキーは京都への旅の準備兼部屋の片付けがあると、トレーナーとは別行動を取っていた。

 トレーナーは様々な諸手続が当日朝にある関係上、一足先に京都へと現地入りした。

 

(……おっきなレース、久しぶりだなぁ……)

 

 京都大賞典。淀の坂と呼ばれる第三コーナーが特徴的な、京都競技場で開催される、G2レース。

 夏前に怪我をしたマルゼンスキーにとっては復帰後、一番大きなレースであった。

 怪我については問題なく回復している。

 その証拠に療養を兼ねた夏の合宿先、函館は巴賞にて快勝し、身体のコンディションとしてもなんら不安はない。

 レースにかける気持ちについても、明日の京都大賞典では後進のスペシャルウィーク、グラスワンダーの他、シンボリルドルフとの再戦もまっていると、気迫充分だ。

 しかし。

 

(いきなり電話しちゃおうかな……なんだか最近、トレーナー君とゆっくりお話しできてないのよねぇ)

 

 マルゼンスキーの心にあるのはむしろ、トレーナーとの時間がほとんど取れていない、という方にあった。

 昨年秋の天皇賞を制し、トレセン学園でもトップレベルのウマ娘となったマルゼンスキーの専属トレーナーは、いよいよ取材や後進の新人トレーナーへの指導などに引っ張りだことなっていた。

 もちろん、トレーニングの際には今までと変わらずしっかりとコミュニケーションを取っているが、一時期は互いの家に行き来し、それぞれの家で食事を共にしていた関係だ。

 マルゼンスキーの部屋の片付けのため、という名目で続いていた逢い引き(デート)も、今年の春以降ほとんど行えていなかった。

 ちらりと視線を放った先、積み上がった段ボールは、トレーナーが部屋に来ていない月日の表れでもある。

 

(でもなぁ……トレーナー君、忙しいだろうし……あたしだって、お姉さんなんだから、そうそう甘えてもいられないわよね)

 

 マルゼンスキーは手の中でスマートフォンを弄びながら、もう一度立ち上げたチャットアプリにいくつか文字を入力していた。

『トレーナー君、もう、宿、ついた?』と書いて……消した。

『電話、していいかな?』と書いて消し……『お元子?』と書いて……消す。

 

(……明日になれば会えるのに……なにしてるのかしら、あたし)

 

 消して、真っ白になった文字入力欄を見つめて、マルゼンスキーは、額にスマートフォンの端をつけるようにしてため息をついた。

 

(そもそも忙しくさせてるの、あたしの所為みたいなものじゃない)

 

 そうしていつもの通り(・・・・・・)、マルゼンスキーの懊悩は、春先、トレーナーへと告げた言葉へと至る。

 

(あたしが『トレーナー君も、みんなの希望になってあげればいいじゃない』なんて、言ったから)

 

 そう。

 後進のトレーナーに対する指導依頼を前に迷っていたトレーナーの背を押したのは、他ならぬ自分だった。

 マルゼンスキーとしては、自分をいつも支えてくれたトレーナーが、より輝けるようにという一心だったが、それによってトレーナーが忙しくなり、こんなにも自分が揺らぐなどとは思ってもみなかった。

 

(はぁ……なんであたしってこんなにもやもやするようになっちゃったのかしらね……)

 

 もう一度スマートフォンと向き合って、マルゼンスキーは文字入力欄へと文字を入力する。

 渦巻くもやがかった気持ちの正体を、マルゼンスキーは明確に把握していた。

 だから、その気持ちを『寂しいな、トレーナー君』と記すことはできていた。

 けれど、それを送ることが出来るほど、自分が子どもっぽく振る舞えないことも、わかっていた。

 マルゼンスキーは、自分が単に素直ないい子でないことを、知っていた。

 

『ピーッピーッピーッ』

「……あっ……乾燥機、終わったみたいね……」

 

 耳を打つドラム式洗濯乾燥機から流れた音が、マルゼンスキーの腰を無意識に上げていた。

 ぽろりと手から零れたスマホが、ソファの方に画面側から落ちていく。

 パスン、と落ちた音をマルゼンスキーは聞いていたが、柔らかなソファ生地の上である、問題はないと判断する。

 パジャマに、もこもこのファースリッパをパタパタと鳴らしながらマルゼンスキーは駆け寄った洗濯乾燥機の中から、乾燥し終えた衣服を取り出していく。

 お気に入りの私服を旅にもっていきたい気持ちに見事答えたドラム式洗濯乾燥機。

 しっかり乾いた衣服にふふんと得意げに鼻を鳴らすと、マルゼンスキーの思考もトレーナーとの合流に向け再度整理されていく。

 

(……気を取り直して、このお洗濯終えたら、段ボールをゴミ集積所に出しておいて、終わったらパックしながらパッキングしないと……あ、やる気だすために、録画してたドラマの再放送、流しておこうかしら……お母さんとみてたあのドラマの再放送なら、気分ももうちょっと変わるかな)

 

 思い出した楽しみに、ふふっと口元だけを緩めるマルゼンスキー。

 彼女のスマホは落ちたソファの表面に流れる微細な静電気に反応(・・)し、やがてひっそりと画面はスリープ状態となった。

 

 ――きっと君には伝わるサイン

 ――初うまぴょいまであと1時間

 

 ――深夜零時五〇分。初うまぴょいまであと五○分

 

『才能ないんだったらあるようになんないの? 突然うまくなるってないの? 奇跡ってないの? あると思うよ』

「はぁ……いいこと言うわねぇ」

 

 ソファに座り、テレビの中のヒロインが呟いたセリフに、マルゼンスキーは顔に貼り付けていたパックをペリペリと剝がしながらつい共感を呟いていた。

 段ボールを片付け終え、明日の準備をしながら『ながら観』しようとしたドラマは、すっかりメインで観るものになっていた。

 もちろん準備はきちんと終えたが、1話だけと見始めたドラマはもう序盤の山場に3話さしかかっていた。

 イケメンだけれど失語症の男性と、その人にひかれたヒロインの恋は、続きが気になってついついやめ時を失っていたのだ。

 

「ホーム越しの手話で、五回キスの仕草して、アイシテル、なんて素敵だわ……」

 

 ドラマの中のロマンチックな光景を思い出し、トロンと憧れに瞳を緩ませる。

 だが、そんな瞳で見た視線の先、壁がけ時計がすっかり日付越えの時間になっているのをみて、マルゼンスキーはハッとなる。

 

「……と、いっけない、もうこんな時間」

 

 剝がしたパックをゴミ箱に捨て、歯を磨いて寝ようとソファから腰を上げた。

 その時だった。

 

 ――ピンポーン。

 

 来客を告げる、インターフォンが鳴った。

 

「……えっ」

 

 思わずマルゼンスキーはもう一度壁掛けの時計を見た。

 日付を超えて、もう深夜。

 こんな時間の来客など、まともな来客ではありえない。

 

(う、うっそ……あたし、そういうの(・・・・・)は見えないタチのはずなのに……それともアレかしら、お隣さんが間違えちゃったのかしら……)

 

 マルゼンスキーは、パジャマの裾をぎゅっと握りしめて玄関先へ向かった。

 段ボールをすっかり片付けた玄関先が、急に広くなって心細い。

 そうっと震える手を扉につけて、マルゼンスキーはドアアイから外を覗いた。

 すると。

 

「……あ、あれ? トレーナー君?」

 

 そこには、トレーナーが、肩で息を切らして立っていた。

 雨にずぶ濡れになったトレーナーは、京都生八つ橋のビニール袋をもって佇んでいる。

 

「と、トレーナーくん?!」

 

 慌ててマルゼンスキーが扉を開けると、トレーナーは少し震えた唇でにこりと笑った。

 

「こ、こんばんは。こんな時間で、ごめん……傘、新幹線の中で忘れたみたいで、俺、走って、ここまで」

「そ、そんなことより、と、とにかくシャワー浴びて!」

 

 マルゼンスキーはトレーナーの手を取って、彼をシャワールームへと押し込むように部屋に招き入れた。

 深夜のマンションの廊下には些か大きめの音を立てて扉を閉める。

 背中を押して入れさせたシャワールームの中で、姿が見えなくなったトレーナーの代わり、マルゼンスキーはトレーナーの衣服を洗濯機の中に放り込んでいく。

 

「……どうして? なんで来てくれたんだろ……っていうか、あれ、京都から、戻ってきてくれたの? え、なんで?」

 

 洗濯機が回り始めてようやく、マルゼンスキーは声に出して呟く。

 目の前の洗濯機の中の衣服と同様に、思考がぐるぐるとしてまとまらない。

 トレーナーが持ってきてくれた生八つ橋の袋を握りながら、洗濯機の前にへたり込んだ。

 

(……すごく、心臓、ばっくんばっくんしてる)

 

 マルゼンスキーが胸の辺りに手を当てると、心臓がバクンバクンと早鐘を打っていた。

 ぎゅっと手を握るだけで、レースをした時のように高鳴る気持ちが、心臓に灯っていた。

 そんなマルゼンスキーの耳元には先ほど見たドラマの主題歌で聞いた、チェンバロのゆったりとしたメロディが鳴り響いていた。

 

 ――深夜一時〇五分。初うまぴょいまであと三五分

 

 リビングに、湯気を立てたトレーナーがやってきた。

 

「悪いな、スウェットまで貸してもらって」

「ううん、それは大丈夫よ」

 

 マルゼンスキーはトレーナーに、父が遊びに来た時のために用意していた、スウェットを貸し出していた。

 クマ柄のスウェット姿のトレーナーに、マルゼンスキーはトレーナーが持ってきてくれた生八つ橋を小皿にとってわたし、お茶を注いでいく。

 

「……どうしたの? 明日にはまた会えるのに……」

「え、だって、マルゼンスキーがメッセージくれたから、俺、慌てて帰らないとって思って……」

「うん? あたしが?」

「そうだよ? ほら」

 

 マルゼンスキーから湯飲みと生八つ橋を受け取りつつ、トレーナーは自分のスマホを軽く操作して、マルゼンスキーへとディスプレイを見せる。

 するとそこには一文『寂しいな、トレーナー君』と書かれていた。

 トレーナーが指し示した先、確かにそれはマルゼンスキーが送信したことを表す、見慣れた自分のアイコンから吹き出しが出ていた。

 ――途端に伸びたマルゼンスキーの腕は、しかし空を切った。

 

「?! な、なにするのさ、マルゼンスキー!」

「い、いや、あの、ま、間違えたの、間違えちゃったの! お願い、忘れて!」

 

 あまりの恥ずかしさに、ひったくるように奪おうとしたスマホが取れず、マルゼンスキーの手は宙を舞っていた。

 そして一気に、アクセルを踏みきったように、マルゼンスキーの身体の中の血液が躍動する。

 頬が熱く、顔を手で覆えば頭がやきぼっくりのようだった。

 ウマ耳がせわしなく左右を向き、尻尾が逆立って落ち着きを失っていた。

 

「ご、ごめんなさい……送信するつもりはなかったの、でも、つい、手元からケータイがこぼれ落ちてて、多分、えっと、その!」

 

 取り繕うとしても、ほぼ無意識の行動に、マルゼンスキーの弁明はしどろもどろだった。

 いつものように余裕のあるお姉さん然と振る舞えないマルゼンスキーを前に、トレーナーは心底不思議そうに小首をかしげた。

 

「……えっと、つまり、入力はしてた、んだよな?」

「えっ?! う、うん……そこは間違いないけれど……」

「なら、よかった。俺だけ、ってのも悪いけれど、独りぼっちで寂しくさせずに済みそうだ。……まぁ、京都から急いで帰ったつもりだったんだけれど、こんな時間になっちゃってごめん」

「っ……! お、怒って、ない?」

「なんで? 怒ってるわけないじゃないか」

 

 トレーナーは、にへらっと笑いながらマルゼンスキーの入れたお茶を啜る。

 ずずずっと口をつけて、熱かったのかびくんと身を震わせる猫舌の彼を、マルゼンスキーはもう真っ直ぐに見つめることができないほど、自分のやった迂闊と、その迂闊によって生まれた現状への歓喜に包まれてしまっていた。

 

(どうしましょう。こんなのときめきトゥナイト過ぎちゃう)

 

 カチッ、カチッ、カチッと耳に響く時計の音に、ちらりと見るトレーナーは、買ってきた生八つ橋を口に含むところだった。

 どこか抜けていて、あどけないところまであるトレーナーが、自分のために京都から、雨に濡れても駆けて来てくれた。

 

(トレーナー君ったら……嬉しいっ。マンモスうれピー……でも、もう、向こう見ずすぎるよ)

 

 素直に嬉しく思う反面、マルゼンスキーの中のもう一人のマルゼンスキーは、トレーナーの行動をたしなめずにはいられなかった。

 ただ嬉しいだけではいられない。

 素直ないい子でない。

 そう思えば、マルゼンスキーの興奮も、少しだけおさまった。

 

「でも、ね、トレーナー君。大切なレースの前に、風邪引いたら大変じゃない。もしあたしが、トレーナー君から『寂しい』なんて一言だけでレース場から戻ってきたら、トレーナーくんだってNoって言ったでしょ?」

 

 頬が少しだけ紅いままマルゼンスキーは頬を膨らませながら告げた。

 トレーナーはしかし、『うーん』と唸った後、茶を一口飲んで、茶碗をテーブルに置きながら、苦笑を見せる。

 

「それは確かに、めちゃくちゃNoって言うだろうけれど……なんというか、へへっ、嬉しい、かな?」

「……トレーナー君……もう、そういうところだぞっ」

 

『オトナ』や『お姉さん』でも怒るに怒れないような返答に、せっかく抑えたはずの歓喜が戻ってきてしまう。

 

(すごく嬉しいよ、トレーナー君)

「……ありがとうね、トレーナー君」

 

 マルゼンスキーは再びこみ上げた気持ちを今度は抑えることなく言葉にした。

 穏やかに呟いた言葉に、トレーナーがマルゼンスキーを真っ直ぐ見つめてくる。

 

「「……」」

 

 じっと言葉もなく。

 表情は緊張と言うよりも真摯で、真面目、そのもの。

 トレーナーは、マルゼンスキーを視線で捕らえたままだった。

 

(……えっ、なに、かしら、この、変な感じ)

 

 トレーナーに見つめられたことで生まれる、変な雰囲気の空間。

 怪物、と呼ばれた剛脚による逃げを得手とするマルゼンスキーでも逃げられない空間にあって、彼女はぱちりと瞬きをして、微かに唾を飲む。

 真っ直ぐな男性の目線に、マルゼンスキーはだんだんと、合わせていられなくなっていた。

 

(……ま、マルゼンスキー、落ち着きなさい、お姉さんなんだから、しっかりしないと)

 

 落ち着かない心の動きを、未だにざわつく歓喜の残り香と見なして、マルゼンスキーは自らを鼓舞した。

 

「あ、そうだ、せっかくトレーナー君が来てくれたんだもの、あたしも、お茶飲もうかな。あ、トレーナーくんの服は今、乾燥機かけてるから乾いたらタッちゃんで送ってあげるわね。乾くまで、お茶でも飲みながら、ドラマ見ない? 素敵なドラマがあるの、よっ……」

 

 パンっ、と今思いついたように手を叩いて、口早に発しながら腰を上げたマルゼンスキー。

 そんな彼女の手首に、トレーナーの手が伸びる。

 

「えっ」

 

 ぱっと捕まれた瞬間、全ての音が消えた。

 

「あの、さ、マルゼンスキー。ちょっとだけ、聞いてくれ」

 

 トレーナーの言葉の後、ピアノにも似たシンセサイザーのメロディが鳴り響いていた。

 

 ――深夜一時二〇分。初うまぴょいまであと十五分。

 

「……ど、どうしたの、急に」

 

 トレーナーに手を取られたことで、マルゼンスキーはビデオの逆再生のように体勢を戻して、テーブルを挟んでトレーナーと向かい合った。

 左手首は捕まれたまま、マルゼンスキーを見つめたトレーナーは、そこでようやく……どこか気恥ずかしそうに……視線を逸らした。

 

「……さっき、もしおんなじことしたら、俺は、マルゼンスキーのことNoっていうと思うっていったけれどさ、あれ、やっぱり違うんだ」

「えっ」

「俺、多分、同じことされたら、マルゼンスキーのことyesだと思う。というか、そうなんだって、この道のりの中で、気がついたんだ」

 

 手首からそっと手の甲を伝わって、マルゼンスキーの指を覆うようにトレーナーに握られる。

 ぎゅっと伝わったトレーナーの手の感触は、ごつごつとして硬く、マルゼンスキーの指とはまるで違った。

 

「マルゼンスキーに寂しいって言ってもらえて、俺も、嬉しかった。明日のレースのこととか、いろんなこととか忘れて、ここに来るぐらい」

「トレーナー君……」

「どうしても……伝えたくて。それで」

 

 照れくさそうに、だがはっきりとトレーナーはマルゼンスキーに告げて、掴んでいた手を緩めた。

 

(あ、はなれ、ちゃう)

 

 離れそうになったトレーナーの手を、マルゼンスキーは蓋をするようにもう片手で覆って、はっとする。

 びっくりしたように顔を上げたトレーナーともう一度目が合って、また変な雰囲気を感じてしまう。

 

(……トレーナー、君。あたし、トレーナー君と、なにを)

 

 手を触れあって、見つめ合う二人の距離は少しずつ、近づく。

 

(トレーナー……ああ、でも、そっか、この人は、あたしにとって)

 

 カチッ、カチッ、カチッっと時計の針が鳴る音と、バクバク打つ心臓の音が、どんどん重なって、二人の影も重なる。

 

(いいの、かな)

 

 その直前。

 

 ――ピーーーーーーッ!!!!!

 

「ひゃっ?! え、あれ?! ヤカン?!」

 

 電流が一気に流れるように飛び上がったマルゼンスキー。

 驚くトレーナーの耳につんざくのはヤカンの笛の音だった。

 パッと身を離したマルゼンスキーは、パタパタとキッチンに向かって……やがてリビングのテーブル手前まで、戻ってきた。

 

「……驚かせてごめんなさいね。トロ火がずっとついてたみたい。慌てちゃったわ」

 

 手を合わせて謝罪するマルゼンスキーに、トレーナーは安心したとばかりため息をついた。

 

(……危なかったな。ううん、でも、これはきっとカミサマの思し召しって奴なのよ)

 

 そうして、しかし、マルゼンスキーはテーブルには着かなかった。

 代わりにキッチンとリビングの間の壁にそっともたれながら、腕を組んでみせる。

 マルゼンスキーは、ぴんと落ち着きを取り戻したウマ耳と表情で、穏やかに口を開いていた。

 

「あのね、トレーナー君……きっとね、今君は、あたしのトレーナーくんだから、あたしに優しいだけなのよ」

「えっ……?」

「今日のことは、とっても、恥ずかしかったけれど、嬉しかった。でも、トレーナーくんは、これからだっていっぱいのウマ娘ちゃんと出会っていくでしょ? あたしだって、その中の一人だって、あたしはお姉さんだからちゃんとわかってるわ」

「ま、マルゼンスキー?」

「……改めて、ありがとうトレーナー君。明日のレースに向けて、来てくれたことで、あたしすんごくハッスルできちゃった! だ・か・ら……もうちょっとワガママで、服が乾くまで夜更かし、付き合ってよね」

 

 いつも通りの笑みを、豪胆無比と称された強い笑みを浮かべて、余裕綽々とマルゼンスキーは振る舞う。

 マルゼンスキーは、目を見開いて立ち上がり、そのまま立ち尽くしたトレーナーにぱちんとウィンクして、くるりと背を向けた。

 

「ちょっとだけ待ってて、あたしの分のお茶入れたらすぐ戻るわ」

(優しくて、ありがとう。トレーナーくん。でもあたしと君は、トレーナーなんだもんね)

 

 本心を隠して、上手に振る舞える笑みを、マルゼンスキーは心底感謝しつつ、トレーナーが来てくれたというのに、寂しく思わずにいられなかった。

 

 ――深夜一時三○分。初うまぴょいまであと五分。

 

 いいカモミールの香りが、ほの暗いキッチンに漂う。

 水場の電気だけをつけてあったキッチンで、エアグルーヴから貰ったカモミールティーを蒸らす。

 キッチンに立つマルゼンスキーは、今度こそきちんとヤカンの火が消えていることを確認して、一人苦笑した。

 

(……あたしはウマ娘で、走り続けるの。走るのも、楽しいんだもの。トレーナー君と、どうにか、なんて……ドラマじゃ、ないんだもの)

 

 蓋を被せたカップの縁をなぞりながら告げた言葉への後悔を、マルゼンスキーは少しずつ削っていく。

 

(……カモミールティー、もう少しだけ、あと少しだけ、逃げるための、時間を頂戴)

 

 香りが立つにつれ抽出されていることを感じつつ、マルゼンスキーはカップに触れていた手を離し、祈るように胸の前で組んだ。

 パジャマの裾を巻き込むように組んだ手に、ふと、一歩、足音を感じる。

 

(……ん?)

 

 トレーナーが来たのか、とマルゼンスキーが目線を上げようとした瞬間。

 背中が、温かいスウェット越しの体温に、触れる。

 

「……えっ」

 

 するりと伸びたスウェットの腕が、胸の前で組んでいた手ごと、マルゼンスキーを、後ろから抱きしめてくれていた。

 組まれた腕がマルゼンスキーの右側にクロスを描いて、左耳にトレーナーの優しい声が、マルゼンスキーの名を呼んだ。

 

「マルゼンスキー」

「……トレーナー、君」

 

 ストラトキャスターのメロディとともに、跳ね上がった鼓動が、頬が触れあう程に近いトレーナーの存在を、どんどんマルゼンスキーの中で大きくしていく。

 

「俺じゃ、だめかな。俺は……マルゼンスキーが、いいんだ」

 

 目頭がぎゅっと熱くなって、溢れ出しそうになる涙を拭う手は、もうトレーナーに奪われてしまっていた。

 トレーナーの腕に寄り添うマルゼンスキーの手。

 

「……マルゼンスキーが、欲しい」

 

 マルゼンスキーの耳に、確かに響いた言葉に、マルゼンスキーはそっと首を伸すように振り向いて、ぽろぽろと零れる涙に、再び笑った。

 

「……マルゼンスキーの答え、聞かせてよ」

「……あーあ。もう、強引なんだもん。……捕まっちゃった」

 

 トレーナーのスウェット生地をぎゅっと握りしめるマルゼンスキーの吐息も涙の雫さえ、溶かし込むように。

 二人の影は、キッチンで重なっていた。

 

 ――初うまぴょいまであと零分

 

 ――深夜三時。

 

 真っ暗になった部屋で、ただ、二人の声だけが紡がれていた。

 

「……寝れないの?」

「マルゼンスキーだって、ずっと見つめたままで寝てない。レースは明日なのに」

「あたしはほら、トレーナー君の寝顔、眺めてたいから」

「俺だって君の寝顔、見てみたい」

「……うふふっ、しかたないんだから。あ、そしたら、いっせーのせ、で寝返りしましょう。そしたら、二人とも見れないから、寝るしかないでしょ」

「……そう、だね」

「そしたら、はい、いっせーの、せ」

 

 パスン、と寝返りを打った音が、一つだけベッドを揺らす。

 音無く、シーツが微かにこすれる音だけが、ゆっくりと鳴った。

 

「……あれ? マルゼンスキー? あの……背中に、その」

「えへへっ……さっきのおかえし……ぎゅっーって嬉しいでしょ?」

「あ……寝返り打ってないじゃないか。ずっるいなぁ」

「いいじゃない。明日『も』ハッスルしちゃうんだから」

「……まったく」

「うふふっ、ねぇ……トレーナーくん」

「ん?」

 

 マルゼンスキーの呟きは、代わりに五回、トレーナーの首元で唇が鳴って紡がれた。

 鳴った音の意味は、二人だけに通じている。

 

「……だから、ね? もう少し……その」

 

溢れる気持ちを言葉に出来るほどの二人にだから、明確な宣告は、もはや必要なかった。

 だからこそ。翌日。

 

 ――淀の坂もなんなく乗り越え逃げていく! スーパーカーは淀でも強い!! 一着は、マルゼンスキー!!

 京都の淀の坂を越え、紅い勝負服は、まさしく閃光の如き勝利の軌跡を描いた。

 京都大賞典の勝利の喜びに、ウィニングサークルで抱き合ったマルゼンスキーとトレーナー。

 彼らはくるくると、抱擁のメリーゴーランドをみせつけて、その場にいた記者にやれやれと嘆息をさせているのだった。(終)




テケテーン!
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