聖夜、触れあって
十二月二十三日。十九時二七分。
世の中は週末に迎えるクリスマス一色に染まっていた。
灰色の雲に覆われた府中への街路に、雪がふわりと舞う。
「……雪、降ってきたね」
「あ、ほんとだ。寒くないか、ドーベル」
「大丈夫。……トレーナーがくれたマフラー、温かいから」
「そりゃよかった」
ハハッと笑うトレーナーは、いつもより少しパリッとしたスーツにコート姿で、コートの隙間から覗くその胸元にはアタシが去年あげた、ブローチが下がっていた。
キラッと柔らかく光るブローチに、うっすらとトレーナーの笑顔が肌色として映り込んでいるのが見えた。
(ああ、やっぱり、似合う)
ぴんっと伸びた黒鹿毛のウマ耳に力が入らない。
ブラッシングした尻尾だって、なんだか振りが強くなっている気がした。
白のロングワンピースを揺らす脚だって、タイツを履いているってだけじゃなく、なんだか軽やかになっていた。
(……選んで良かった)
心の中で安堵しながら、安堵以上の嬉しさをアタシ……メジロドーベルはマフラーの中で噛みしめた。
柑橘系の優しい匂いがする。それは、いつものトレーナーの匂いだった。
つい一時間前までアタシ達はクリスマスパーティをしていて、トレーナーのプレゼントをアタシが引き当てていた。
梱包の中で微かに香りが移ったのだろう。
マフラーは、カシミヤの毛が肌にも心地よくて、私の頬は温かく緩んでいた。
って……ううん、緩んだ原因は、それだけじゃない。きっと違う。
「にしても、会えて良かったな、チーフに」
「……うん。郵送も考えてたけれど、直接会って渡したかったから」
そうだ、嬉しい、と頬が緩んだのはクリスマスパーティを途中で抜け出した理由の方。
元チーフトレーナーが、偶々経過観察の通院に近くまで来ていたことの方だ、うん、間違いない。
「チーフも嬉しそうだったよ」
もう【元】がつくチーフは元気そうで、アタシのレースを楽しみに見てるって言ってくれた。
昔だったら、ただ単に恥ずかしがってしまったかも知れない。
でも今のアタシは違う。
週末には、有マ記念が待っている。
ブライトやエアグルーヴ先輩だけでなく、セイウンスカイやグラスワンダーみたいな名のあるウマ娘も参加する、年末の大一番。
ただ参加するだけじゃなく、今度は胸を張って、戦う者として参加する。
「……絶対、勝とうね、トレーナー」
だから、【元】チーフには、有マ記念の特別招待券をお渡しした。
今までだったら、怖くて言えなかった「アタシを見てて欲しい」って一言を今度はちゃんと冷静に伝えられた。
チーフは「いっぱい、応援するわね。楽しみにしているわ」って笑ってくれた。
応援している、という強くて泣きそうになる想いのこもった一言を、アタシはちゃんと受けとめられるようになっていた。
その一言を受けとめられるアタシを作ったトレーナーを、ちらりと見る。
「大丈夫、ドーベルは、勝てるよ」
「もう、いつも、根拠無いんだから」
目が合ったトレーナーは誇らしそうにいうから、つい、子どもみたいだってアタシは笑ってしまった。
そうして、もう一度、ちらりと見るトレーナーは前よりも、大きく見えた。
チーフの傍らにいた時より半歩近い位置を歩くようになったからも、在るかも知れない。
でも多分、それだけじゃない。
チーフからも「ベルちゃんは、ずいぶん優しい顔になって、私は嬉しいわ」って言われて、もう隠せないことは分かったから。
今のアタシは、きっとアタシだけで出来てない。
いつも、アタシのことを優しく見守ってくれたトレーナーが、アタシを作ってくれている。
「っ……」
恥ずかしくなって赤くなりそうな頬を、さりげなくアタシはマフラーで隠す。
視界の端で見るトレーナーは、アタシの様子に気を向ける素振りはなかった。
(……勝利のためにも、今日を楽しんで、明後日に備えないと)
気を取り直せと自分に呟いて、トレーナーと共にトレーナーのマンションへの道を行く。
途中で抜け出してしまったクリスマスパーティの続きが、この道の先で待っている。
(うん、今日は、楽しむんだ)
学園ではそこかしこでクリスマスパーティが開かれているし、寮は有マ記念に向けてかなりピリピリとした空気になっていて落ち着かない。
それでもクリスマスパーティがしたい! って泣きついてきたタイキシャトルの願いを、トレーナーが聞いてくれた。
タイキシャトルやメジロブライトだけでなく、メジロパーマー、ダイタクヘリオスもきて、なぜかメジロライアンまで参加した、クリスマスパーティ。
タイキのハイテンションだけでなく、ヘリオスのテンションも相まって、これまで以上にハイテンションなクリスマスパーティだったけれど。
今日という日をアタシは結構楽しんでいた。
「ああ、そういえば、タイキ達から返信あったか?」
「あ、ううん、なにもない」
「もしかしてケーキ食べるの待たせてしまってたらと思ったけれど……気がついてなかったかな」
「それはあるかもね」
パーティはあとクリスマスケーキを食べる最後のフェーズだけを残していた。
チーフに会いに行く、って伝えたアタシ達を快く送り出してくれた皆には悪いから、先にケーキを食べていてってメッセージを出したのだけれど、返信は間もなくトレーナーの部屋にたどり着く今になっても、来ていなかった。
*****
十二月二十三日。十九時四十二分。
エントランスからエレベーターに入ってからはお互い少し早足で向かった、トレーナーのマンションの部屋。
先にドアノブを掴んだアタシが、慌て気味に開け放った。
「ごめんお待たせっ……ってあれ?」
「……だれも、いない?」
クリスマスの装飾が残ったまま、電気だけが消えた部屋には誰も居なかった。
といっても、荒らされたと言うよりは、出て行く前よりどことなく綺麗に整頓されていた。
「……え、どうしたんだ? 食器とかも全部綺麗に洗ってある?」
背中の方から、コートを脱ぎながら、水場の様子を確認するトレーナーが不思議そうに呟く声も聞こえた。
リビングはエアコンがついたまま、電気だけが消されていた。
きょろきょろと周りを見渡しても、部屋にタイキ達が潜んでいるような気配はない。
そうして歩み寄ったテーブルに、アタシは一杯のクリスマス料理達の代わりのように、一枚のメモと、色紙が置いてあったのを見つけた。
「……『Good Luck!』ってこれはタイキの文字……『MDYB5M、二人で楽しくテンアゲ!』……これは、多分ヘリオスね、えっと……『ごめんねドーベル、パーティの目的、この色紙渡すことだったの。ってことでアタシ達は学園のほうのパーティに合流するね。……二人でごゆっくり! ケーキは、先に美味しく頂きましたっ!』って……パーマー? 色紙?」
メモ書きに残されていた言葉を理解できないまま首をかしげ、表面が伏せられた色紙を何気なくめくった。
「えっ……」
見た瞬間、アタシは、色紙を掴んだままキッチンにいるトレーナーに向かって駆けだしていた。
「トレーナー! これ、これ見て! あの子達、これ、アタシにって!」
「っと……ふふっ、粋なプレゼントだな」
「これ……渡すために、クリスマスパーティって……もう」
アタシの勢いにびくっとなったトレーナーが、ふにゃりと微笑んだ。
そうして、キッチンの照明をつけてくれる。
暖色の明かりの中に、色紙の文字がさっきよりハッキリ見えた。
トレーナーに向かってつきだした色紙をゆっくりと自分の方に向けて、アタシはそこに描かれたたくさんの言葉に、指を這わせる。
「……ははっ、『応援してますわ、ドーベル!』……これ、マックイーンの字だ」
そこには、タイキやヘリオスといったパーティに参加したウマ娘だけじゃない、他の皆のメッセージが描かれていた。
――『一緒に鍛えた筋肉は裏切らないよ、ドーベル!』
――『有マの星は譲りませんよ! 先輩!』
――『ドーベル先輩のカッコ良さを焼き付けたいです!』
――『キングに並び立つ女王として応援していますわ!』
――『バイブスマックスで有マをグルービィ!』
――『次のメジロは私達で』
――『今度の花は私が送る。追われる強さを魅せてみろ』
――『竜驤虎視』
――『心に立つ矢、受けて頂きます』
――『ファイト、ドーベル』
――『釣られる覚悟をしといてくださいねっ
――『今年は三番手も一番も、譲りません……って感じでお互いがんばろ』
――『Congratulations!』
――『招福万来です!』
思い思いで描かれた言葉が、じんわりと心に満ちていく。
真っ直ぐに励ましてくれる声も、煽るような言葉も、みんな、気持ちがこもっていて温かい。
「ねぇ、トレーナー。皆の声援って、こんなに温かかったんだね」
じわっとこめかみが熱くなる。
ただ、出そうになる涙は、ぎゅっと飲み込んでおいた。
まだアタシは戦ってない。
これから戦いにいくために、この想いを受けとめて立たないといけないんだ。
「……きっと、ドーベルはずっと昔から知ってたさ。でも、触ったことないものに触れるのは怖かっただけなんだよ」
トレーナーの声がゆっくりと耳に触れる。
顔をあげたアタシを、トレーナーはまっすぐに見つめていた。
キラキラとした、出逢った時から変わらない、アタシへの確信に満ちた瞳。
力強くトレーナーは言う。
「ゆっくりでいいんだ。今みたいに、落ち着いて、真っ直ぐに触れることができれば、きっと怖くなくなる。ドーベルは、強いウマ娘だから」
ふわりと頬笑むトレーナーに、アタシは色紙をぎゅっと胸に抱いた。
色紙の硬い紙の感触が、身体の中に刻まれる。紙の上に刻まれた様々な言葉が、触れた手指から身体の中に伝わってくるみたいだった。
伝わってきた皆の気持ちで、応援に怖がっていたアタシが、少しずつ崩れて、解けていく。
全てが崩れるには、きっと、アタシ自身が、もっとまっすぐ見つめ合わないといけない。
でも、そのための大きな一歩を、アタシはもう、踏み出せるんだ。
「うん。……頑張るよ、トレーナー」
「その意気だ。……それじゃ、とりあえず……残してくれてるケーキ……いただくとするか。お湯沸かすよ」
「……うんっ!」
にへらっと途端、トレーナーの笑みに空気が緩んだ。
ヤカンに手を伸ばしたトレーナーに力強く頷いて、アタシは部屋の隅においておいて、色紙を丁寧に自分の手荷物を持ってきていた少し大きめのカバンへとしまい込む。
そうして、ふと、気がついた。
(……アレ? アタシとトレーナー……二人きり?)
ぴくんっ、とウマ耳を立てた状態で、首を動かさないように顔を横に向けた先、キッチンではコートと上着を脱いだトレーナーが、鼻歌交じりに珈琲の準備をしていた。
耳に聞こえる部屋の中の気配は、アタシとトレーナーだけで、頭の中にちらっと、既視感が顔を出す。
(なんか、この展開、漫画で見たような……)
クリスマスパーティを抜け出して、二人きりになった、素直になれないヒロインのお話。
随分前に夢中になったけれど……あのヒロインってどうなったんだろ。
(って……まさか、漫画じゃあるまいし)
ぼうっと浮かびかけた妄想を頭をふって拭う。
アタシはキッチンのトレーナーの元へと歩んだ。
珈琲をいれてくれるトレーナーに向けて声をかけて、ケーキ皿へと二人分のケーキを分ける手伝いをする。
なんてことはない……なんてことは、ない? トレーナーの家での、クリスマスが再開されていた。
―――聖夜、触れあって。
―――初うまぴょいまであと1時間
****
――十九時五二分。初うまぴょいまであと五五分。
「……改めて……メリークリスマス」
「ふふっ、珈琲で乾杯なんて変なの」
湯気が立つ香りの良い珈琲を軽く上げたトレーナーに、アタシはくすっとしてしまった。
笑みつつ応じて、きめ細やかなクリームで作られたショートケーキにフォークをいれる。
銀色のフォークが断つ階層になったスポンジ生地には、丁寧に重ねられた苺が鮮やかな色を輝かせていた。
口の中に運べば舌の上でもちっとする程の細やかな弾力の生クリームを感じた後、甘酸っぱい苺の酸味が、スポンジの卵の甘みに香り立ってきていた。
「んーっ、美味しいっ!」
「うん、これはいいな」
雑誌で見た話題のケーキ屋さんのショートケーキは、せめてこれぐらいはとカロリー計算もきっちりして待ち侘びた分、極上のおいしさだった。
トレーナーのこだわりらしいライトローストの珈琲が舌には優しくよりそって、クリームの重さを払ってなお甘い余韻を残してくれていた。
「いやぁ……今年はクリスマス、ゆっくり過ごせて助かる」
「まぁ……そうなるようにアタシも手伝ったからね」
「ほんとに助かったよ、ドーベル、ありがとう」
ぴったりと手を合わせて頭を下げるトレーナーは、心底ほっとしたように笑んで、おそろいのショートケーキに舌鼓を打っていた。
美味しそうに食べるトレーナーは幸せそうな顔をしていた。
パーティで食べたいとトレーナーに強請って、昨日一緒に並んだ甲斐を感じてもらえたと思う。
「手伝わせたのは悪かったけれど……コンディションは正直、俺としては過去一番だと思ってるぐらい、良くなってると思う」
アタシが二口目を食べている中で、ふと、トレーナーがフォークを置いた。
真面目な口調に、ケーキから目線を上げた先、トレーナーはテーブルの上に指をくんで、穏やかな表情をしていた。
節の大きな、男の人の手を組んだトレーナーは、いつもと少し違って見えた。
穏やかなのはいつも通りだけれど……なんだか、少し、緊張したような、雰囲気。
「……トレーナー?」
微かに感じる違和感に、アタシもフォークを置いて、小首をかしげる。
なにか、真面目な話があるのかも知れないとかまえたアタシに、トレーナーは意を決したように唇を結んだ。
そして、テーブルの下のあたりから、薄い……板状のものを、アタシに差し出してくる。
「……その、これ、あげる」
「……なに、これ?」
「ふちにあるボタン、押してみて」
文庫本サイズの黒くて薄い板は、大きなスマホみたいなものだった。
トレーナーに言われるままアタシがボタンを押すと、うっすらと光を放ってアタシの写真が浮かびあがって……そこに、メリークリスマスと飾られた文字が、浮かび上がってきていた。
「えっ……」
「ってことで、俺からもプレゼント、デジタル写真立て! わーい」
驚くアタシに、安堵したように頬を緩めたトレーナーの気の抜けた『わーい』の声。
アタシは目をぱちくりさせて、タイキと共にぎこちなく笑うアタシの写真を眺めていた。
「あ……いやだったかな? 意外とちっちゃい奴ならお手頃で……というか、アクセサリーとか、そんなにお金かけたもんじゃなくて、ごめん」
気遣うようなトレーナーの言葉に、アタシは少し慌てて首を横に振って見せた。
そっとデジタル写真立てをめくると、さっきのパーティでも撮っていたのだろう、ヘリオスとはしゃぐアタシがいた。
桜花賞で走っているアタシや、去年のクリスマスの帰り、トレーナーが記念にっていって無理矢理撮った大きなモミの木の下の写真とかもあった。
……これまでの、今日にいたるまでの、いろんな思い出の中のアタシがいた。
「……さっき、トレーナー、タイキ達とだってプレゼント交換したじゃない」
「ああ、あれはみんなとのプレゼント交換じゃないか。これは、ドーベルにわたしたかったんだ」
アタシの言葉に、トレーナーが言って、そっとそっぽを向くように目線をそらした。
その頬が少しだけ赤いのを、アタシは見た。
「本当は、有マの時に渡そうと思ったんだけどさ。さっき、色紙をもらってたドーベルを見てたら……今日、渡した方がいいかなって思ったんだ。まぁ、写真もあんまり上手くなくて、ちょっと明るさがくらかったり、ピンボケしてたりするかもだけど」
トレーナーが言う通り、写真はいくつか、暗くてよくみえなかったり、ピンぼけてたりする写真もあった。
でも、アタシにはどんな時の光景で、どんな会話したのか、克明に思い出せた。
「それでも、こうして応援してくれる皆と過ごせた日はあったよって、ドーベルに渡しておきたかったんだ」
ヘラヘラっと少し頼りないけれど、アタシの三年間は、トレーナーと一緒にあったって、わかる。
「君を追いかけてる人も、君と一緒に走りたい人もいる。君が頑張ってきた全てが、ここにくるための道だったんだ。だから……俺も明後日の有マ、楽しみにしてる」
トレーナーが楽しみにしてる、って言葉の意味は、わかってる。
アタシの脚質は、有マには向いてない。
でも、それでも挑むって決めたアタシのことを、トレーナーは決して否定しなかった。
そう、誰より早くアタシのことに気づいて、どんな時も優しく導いてくれた。
めんどくさいアタシの不安をわかってくれたのも、アタシの速度にあわせてくれたのも、全部。
トレーナー、だったよね。
「……今年、なんにもお返しもってきてないのに」
つんと言うアタシに、トレーナーは苦笑する。
「いいんだよ。俺が勝手にしたことだから」
ふにゃっとした笑みは、ズルい。
じんわりと髪や指の先から炙られる感覚がする。
「にしても、こうしてみると、ドーベルって結構おちゃめだよね、ほら、これとか」
「……その言い方はちょっと恥ずかしいんだけれど」
「いいじゃないか。表情、柔らかくなってて、いいと思う。パーマーともさっき話してたんだ。ドーベルの表情、ずっと優しくなったって」
すっと節の太いトレーナーの手が、アタシの手の中の写真立てを
一つ一つの思い出に、上昇していく何かが、ふわふわと身体の中を浮き上がらせていく。
勝てた嬉しさも、勝てなかった悔しさも、勝つための苦しさも、勝った後の渇望も。
色とりどりのふわふわとしたものが、アタシの中に満ちていく。
まるで漫画みたいに、アタシがアタシでなくなっていく感覚を、流れる写真の中に感じていた。
****
――二十時二七分。初うまぴょいまであと二十分。
「……気に入ってくれて、よかった。……珈琲、空いたみたいだからお代わり、いれるよ」
ふと、トレーナーの指が視界から離れて、その手の元、トレーナーの身体が背を見せた。
テーブルから腰を上げ、キッチンに向かうトレーナーに、そっと手を伸ばしかける。
でも、伸ばしかけて、止まった。
(……なに、しようとしたんだろ、アタシ)
伸して、何を掴もうとしたのか。
掴もうとした手が向かう先にあるものが見えなくて、身体は勝手に怖じ気づいていた。
キッチンに向かうトレーナーの身体が、膝を立てて、視界の中でゆっくりと体勢を変えて、キッチンへと進もうとしている。
ごくり、と喉を鳴らす、引き延ばされた一瞬。
その刹那に思う、掴みたいもの、触れたいもの。
アタシが、本当に触れるべきは、なんだろう。
――落ち着いて、真っ直ぐに触れることができれば、きっと怖くなくなる。
(…………あーぁ、もう。トレーナー、なんでも、教えすぎだよ)
思い出すのは、トレーナーの言葉。
怖じ気づいた身体に言い聞かせる、落ち着いて、真っ直ぐに触れるべきもの。
それを、アタシは背中から、腰にしがみつくように、抱きしめる。
「うっ……えっ……」
驚いた呟きが頭上から聞こえる。
テーブルから離れようと膝立ちになったトレーナーの腰に、アタシはしがみついていた。
背中にぴたりと身体を擦りつける。
熱くて広い背中にふわっと、柑橘系の香りと……少しだけむっと匂い立つピリピリとしたものが吸い込む空気に混じっていた。
「な、なに、なにどうしたドーベル?」
驚いたまま、声を震わせるトレーナーは、何故か両手を天に向かってあげていた。
まるで銃を突きつけられでもしたみたいなトレーナーに、アタシはぴったりと頬を当て、ウマ耳も寄せていく。
「……触れば怖くなくなるって言ったの、トレーナーでしょ」
「えっ、えっと……俺、も、もしかして怖かった?」
「そんなことない。……ううん、本当は、まだ少し怖い」
「……ごめん?」
「謝らないでよ。……今は、怖くない」
びたっと止まったままだったトレーナーの身体が、じんわりと腕の中で熱くなっていく。
トレーナーのシャツ生地が、僅かにむっと蒸れているのを感じながら、目線を上げると、トレーナーの手がゆっくりと降りてくる。
アタシがしがみついた手の上に、降ろしたトレーナーの腕の先、節くれ立った手が重なった。
「「……」」
トレーナーに、アタシの手が触れられている。
男の人の手は大きくて、熱くて、少しだけしっとりしていた。
「……寒くないか、ドーベル。手、冷たい」
「……大丈夫、あったかいから」
すうっと息を吸う。
トレーナーの匂いがアタシの身体に染みこんでいく感覚がした。
いつだって、隣にいてくれた。
誰かになろうとしていたアタシをぶれず、アタシ自身を見つめたままいてくれた背中の匂いは……ドキドキして、落ち着かないのに落ち着く匂いだった。
「……心臓の音、すごいね」
ぴたりとくっつけた耳からは、バクン、バクンと爆発するみたいなトレーナーの心臓の音が聞こえた。
アタシの心臓の音とは違う。
……アタシの心臓の方が、もっとドクドクドクドク、せわしない。
「そりゃ……そうだよ」
トレーナーが、困ったような笑みの呼吸をついた。
「それは……生命の危機?」
「いや……どちらかというと、感情の爆発と戦ってる」
感情の爆発、とはなんだろう、と思うアタシに、恥ずかしそうに、トレーナーが言う。
「ドーベル、いい匂いするし」
「えっ……変な匂い、してた?」
香りのことを言われて、反射的に身体を離す。
でも手はトレーナーに重ねられて離せなかった。
アタシの腕の中で、そっと体勢をこちらに向けたトレーナーが、肘からゆっくりと肩にそって手を滑らせてくる。
トレーナーの大きな手に触れられて、ぞくっと柔らかな甘いしびれが身体に走った。
そのしびれは、イヤじゃない。
優しくて、熱い感覚だった。
「……違うよ」
トレーナーが、包み込むようにアタシの肩を掴んで、アタシは引き寄せられる。
「……いつも、いい匂いで、ドキドキする」
「えっ……ひゃっ……」
ぎゅっとトレーナーの腕の中にアタシは埋もれる。
背中に回ったトレーナーの腕、頬で感じる、トレーナーの心臓の鼓動。
男の人の身体は、どこもかしこも、大きかった。
「っ……」
トレーナーの呼吸が、首筋を撫でた。
ぞわぞわっとした恥ずかしさと疼くくすぐったさが、腰をもどかしく揺らしてくる。
「……そ、そんな嗅ぐの……恥ずかしい」
気恥ずかしさに、眦に雫があふれたアタシが呟くのに、トレーナーが少ししょんぼりとしたような瞳で、アタシを見る。
その瞳が
「……ドーベル、もし、怖かったら、思いっきり突き飛ばしてくれて、いい」
だからこそ、優しくアタシを包み込みながら、トレーナーは真剣な口調で諭してくれた。
ウマ娘が本気を出したら、うん、確かにトレーナーを、突き飛ばすことはできる。
怖いだけの今までだったら、もう、突き飛ばしていたと思う。
でもアタシは今、受けとめて拒否しない代わり、心の中がいっぱいいっぱいだった。
「……なんで、そんな余裕のある、セリフ」
アタシがこんなに余裕無いのに。
トレーナーはどうして、そんなに優しいんだろう。
素直にはなりきれないアタシに、トレーナーの言葉は被せ気味に帰ってくる。
「違う」
「だってっ……」
いつもより低く、スパッと言い切る言葉にたじろぎそうなアタシを、トレーナーの腕は逃がさない。
真っ直ぐ見つめるトレーナーの瞳に、アタシはいっぱいに映っていた。
「……余裕なんか、在るわけ無いから、言ってるんだ」
瞬きをしても変わらない景色。
トレーナーの中にアタシが満ちている。
トレーナーの腕から伝わる、熱い感情がアタシ色になっていた。
「……ドーベルのこと、大切にしたい、けど……抑えられる気も、しないから」
トレーナーはそういって、ぎゅっとアタシの肩に、額を乗せた。
アタシとは違うトレーナーの耳が、口元にくる。
肌が触れて、身体に触れて、ピンク色のふわふわしたものが、さっきからずっと止まらない。
漫画みたいだけれど、漫画よりも、ずっと恥ずかしくて頭が沸騰しそうだ。
しかも、ページをめくって終わりじゃない。
(なら……アタシは、アタシだけの続きを、もっと知りたい)
トレーナーの肩に、そっと腕を回す。
トレーナーの耳元に、唇を寄せて、呼吸みたいな声でアタシは呟いた。
「……あんまりハレンチすぎたら、蹴り飛ばしちゃう、かも」
「……ははっ」
「……なに、笑ってるのよ」
「そういうところ……かわいいなって」
「もう……っ!」
茶化すようにいうトレーナーが、アタシの肩から額を上げた。
呼気が唇に触れあう距離で、アタシはトレーナーと見つめ合う。
刹那、一瞬だけ息を吸い込んだ。
息を飲んだというよりも、多分、離れないための助走みたいなもの。
トレーナーの背で絡めた腕を、アタシは決して、離さなかったから。
****
――初めてトレーナーに触れた。
「……ありがとう、トレーナー」
――触れた場所から、知らない感情が、感覚が溢れて染みこんでくる。
「アタシを見つけてくれて。アタシを見ていてくれて、ありがとう」
――アタシとは違う身体、でもアタシと同じように、きっと心が赤く熱くふわふわになっているんだってわかる。
「これからも……アタシを見つけて。トレーナーに、見てて欲しい」
「……うん。いいよ」
――肯定してくれる一言の重みが気持ちいい。
「ありがとう……トレーナー……っ」
――感謝に溢れてくる、最大限のふわふわとした感覚。
「これからも……ずっと」
――二人分の感覚を混ぜ合わせる度、境界線は溶けていくようで、アタシがアタシでなくなることが、すごく怖いのに心地良い。
「うん、おねがい、っ……トレーナーっ」
――ああ、きっとこれが。
――好きってことなんだ
――初うまぴょいまであと零分
ちょっとかかり気味。