初うまぴょいまであと1時間-シーズン2-   作:初瀬川みそら

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ビターなカレンチャンのお話は削除しました。


#カワイクナイホントノワタシ-カレンチャンの場合

 12月上旬の香港。

 日本と異なり、外はうっすらとした熱気につつまれていたが、ひとたび分厚い自動ドアがしまると、中はひんやりと澄んだ空気に満ちていた。

 

「……ふうっ」

 

 すんっ、といいミントの香りのするエントランスホールを突き進んで、エレベーターで最上階へ。

 エグゼクティブなホテルにふさわしい、最高級のリストランテ………ヴィゼ・ノワール・インタナショナル オブ 香港、さらにその中でも、トップクラスの個室を目指して、彼は行く。

 エレベーターから出てきたと共に迎えてくれた上品な制服を来たスタッフに名前を告げる。

 流暢な日本語で受け答えをしてくれたスタッフから、事前に預けておいた一輪差しのフラワーケースを受け取ってから、改めて喉元のブラックタイに手をかける。

 ごくりと緊張からくる生唾を飲み込むのにも少し突っかかる。

 着慣れないタキシードは肩に張り付くようで、股周りに張り付くさらさらとした生地がむずがゆい。

 

「……コホン」

 

 だが、それらすべてを飲み込むように、トレーナーは自分に言い聞かせるための咳払いをした。

 

「……お待ちの方は、すでにこの先でお待ちです」

「あ、ありがとうございます」

 

 にこやかなスタッフにトレーナーはなんとか、唇をつり上げて答えて、指し示された小さなエスカレーターに脚をかけた。

 すうっと息を飲んで、1つ深呼吸をすると、幾分か気分が落ち着いた。

 トレーナーはフラワーケースを自らの肩口に立てかけるようにして、エスカレーターに身を任せる。

 普段なら気にならない程のエスカレーターの駆動音が耳に障る。

 戯れにキョロキョロと視界を揺らしてみれば、豪奢な龍の意匠が壁にちりばめられていた。

 黒と深い緑、それぞれの意匠を金で飾り立てる、華美と重厚さが両立する空間が、トレーナーの緊張を引き上げる。

 上品なベルベットの絨毯の縁が、エントランスホールの豪華さを匂わせていた。

 エスカレーターの終わり際、エントランスホールは広く、トレーナーを出迎え、その視界が広がった先。

 

「「……あっ」」

 

 トレーナーと、その視線を釘付けにする、一人のウマ娘の声は重なっていた。

 その声は微かに空気を震わせた程度で、お互いの耳には音として届いていなかったが、表情でその声は二人の耳に届いていた。

 聞き慣れた互いの声の気配を感じた、ただだけで、気圧されるような緊張感が、一瞬で霧散して二人だけのものに変わって行く。

 

「もう、おそいよ、お兄ちゃん」

「おまたせ、カレン」

 

 怒っているようで、喜んでいるのが声から伝わる。

 答えてカレン、と呼んだウマ娘を前に、トレーナーにはもう緊張はない。

 緊張を感じる余裕すらなくすほどトレーナー瞳いっぱいに、黒い花の様にそのウマ娘は咲き誇っていた、

 黒いイヤーカフは、童話のチェシャ猫のようにカワイイ。

 艶々とした垂れ目の瞳は、アメジストのように妖しくカワイイ。

 精巧な人形ですら見劣りする端正な面立ちは小さく、大胆に開いたデコルテまで一片の曇りもなく透き通るような肌がカワイイ。

 真っ黒なドレスはエレガントさを漂わせ、二の腕から先のシースルーが妖艶に肌をちらつかせてカワイイ。

 薄いレースのグローブのなか、桃色に整えられたネイルも、シルクの滑らかなヒールの先まで、彼女のカワイイにはいつもどおり隙が無い。

 そして。

 

「えへへっ、うん、たくさん待ったから……言って欲しいな。今日のカレン、どうかな?」

 

 彼女の唇に、艶やかに引かれた真紅(スカーレット)のルージュはカワイイ、だけでなく息が飲むほど、美しかった。

 

「……宇宙一、カワイイよ」

 

 あらゆる万感の思いを込めて、トレーナーは彼女への称賛を口にする。

 唇を綻ばせるウマ娘、カレンチャンは、そんなトレーナーへとそっとレースの左手を差し向けた。

 

「うん! 今日のカレンは、お兄ちゃんだけのカワイイカレンだもの! ……それで……これは?」

「カレンにいわれた、俺なりのプレゼントってやつ。綺麗なバラだったから……一輪だけだけど」

「……お兄ちゃんが選んだの? 今のカレンのために?」

「うん、そうだよ」

「……えへへっ、ありがと、お兄ちゃんっ」

 

 紫のアイシャドウがぱちんっとウィンクして、トレーナーの心を打った。

 カレンチャンの手をとって歩む先、広げられた扉の向こうには、香港を一望する夜景を覗く、上質な個室が待ち受けていた。

 

 12月上旬

 明日は一年をかけて挑戦した海外遠征最終地、香港スプリントを控えた夜。

 トレーナーとその担当ウマ娘、カレンチャンは昨年のクリスマスにしたディナーの約束を果たそうとしていた。

 

 ――#カワイクナイホントノワタシ 初うまぴょいまであと1時間

 ――20時15分 初うまぴょいまであと1時間

 

「……あー、美味しかったぁ」

「えへへっ、香港でこんなにすごいフレンチなんて、カレンびっくりしちゃった」

 

 プティフールまで来た香港の超一流フレンチでのディナーは、どれもこれもが素晴らしい見た目と味で、トレーナーとカレンチャンは五感での満足を十全に感じていた。

 丁寧にナプキンを唇に当てて、ソースの残りを拭ったカレンチャンの表情も、朗らかに緩んでいるのを見て、トレーナーの頬もゆるりと弛緩した。

 

「すごいのはカレンだよ。香港スプリントの主催にこんなお店を紹介してもらえるんだから」

「うん、カレンのウマスタのフォロワーさんなんだ」

 

 にこっとするカレンチャンに気負いはない。

 カワイイを突き詰めて、ウマスタ、ウマチューブ、ウマッターとさまざまなSNSを使いこなす彼女のフォロワーは、もはや彼女自身でもどんな人間やウマ娘がいるのかは把握できていない。

 だが確実に、カレンチャン自身のカワイイに共感している、という自負がカレンチャンには見て取れた。

 カレンチャンにとってはそれが一番で、それに応える為の努力を重ねていることを一番知るのは、トレーナーだという自負もなによりトレーナー自体にあった。

 だからこそ、気になってトレーナーは尋ねる。

 

「そのウマスタの更新は、しなくていいのか? すごい綺麗な光景だし、フレンチもすごかったのに」

 

 トレーナーの言葉に、カレンチャンはゆっくりと首を振った。

 椅子に置かれたハンドバックの中にスマホもしまい込んだままの彼女は、さまざまに煌びやかだった料理を一枚も写真に撮らなかった理由を端的に答えた。

 

「今日はウマスタも、ウマッターも、ウマチューブも、もう更新しないって決めたから」

「どうして?」

「……だって」

 

 不思議そうに聞くトレーナーに、カレンチャンはそっと黒レースの人差し指を真っ直ぐ唇に立てて見せる。

 

「今日のカレンは、もうお兄ちゃんだけのカレンだから、だよ」

「……っ」

「……ずっと楽しみにしてたからね。今日は、特別なの。カレン、今日はきっと忘れられない時間だから」

 

 じっと見つめるカレンチャンの頬に、淡く朱が増したように見えた。

 いつもなら、そういって『なんて、どきどきした? お兄ちゃん』と茶化すようにいうところ、カレンチャンは、穏やかに微笑んだまま、手を膝元にゆっくりと戻していた。

 

(……カレンが、いつも以上に、大人っぽく見える……って、なに思ってんだ、俺……)

 

 いつものような調子でないことに、トレーナーの心は、大きく掻き乱されていた。

 校門での突然のスカウトから4年。今年は、カレンチャンともに、世界各国のレースを戦ってきた。

 フランス、サウジアラビア、アメリカ……そして、この香港スプリントが、今年最後のレースになる。

 

(そうだ今日は……明日の香港スプリントの決起会の、ため)

 

 心の中で言い聞かせながら、トレーナーが思い出すのは、昨年のクリスマスのことだ。

 スプリンターズステークスを制した彼女へのクリスマスのご褒美に、ヴィゼ・ノワールのクリスマスディナーチケットを渡したことがあった。

 トレーナーという立場として、友人と一緒に行っておいでとつげたが、カレンチャンはそれを明確に拒絶した。

『お兄ちゃんはズルしてる』

 彼女らしい独特な言い表しは、トレーナーの本心を見透かす、聡いカレンチャンの意地の言葉だった。

 あれから一年。

 URAファイナルズを制し、CC賞という特別賞を得たカレンチャンとともにトレーナーは世界に挑み、さまざまな栄光と苦節をカレンチャンとともに過ごしてきた。

 世界にカレンチャンのカワイイを広める、という一見荒唐無稽な旅路を、二人はやってのけたのだ。

 その結果として、今やウマスタのフォロワー数は世界一位になっていた。

 

(……でも、明日の、香港スプリントは)

 

 だが、一方で、その旅路の中でトレーナーだからこそ、見えていたものがあった。

 ちくりと胸を刺すような痛みを幻視しつつ、ちらりと傍ら、一輪差しの赤いバラの入ったフラワーケースを視界に捕らえて……カレンチャンへと流した視線が、ぴたりと、カレンチャンとあった。

 

「あっ……」

「……えへへっ……だめだよ、お兄ちゃん。もう、ズルしちゃ。今夜は、きっと最後の夜なんだから」

「……最後なんかじゃ、ないだろ」

「……」

 

 トレーナーの言葉に、にこりとしたまま、カレンチャンは答えなかった。

 彼女の背中、ゆっくりと近づいてくるプティフールをもったスタッフにトレーナーはふと、窓の向こう、香港の夜景を望むバルコニーを見て、1つ注文を加えた。

 

「……いこう、カレン」

「……うん」

 

 スタッフが案内する背中に向かって席を立ったトレーナーは、カレンの手を取った。

 小さなカレンの手は、少しだけ震えていた。

 

 ――20時30分 初うまぴょいまであと45分

 

 眼下に広がる煌びやかな街の明かりは、香港という都市の活気を表して100万ドルの夜景とも賞される。

 穏やかなルーフバルコニーは最上階だけあって空気も澄んで少しひんやりと頬をそよ風が吹き抜けていった。

 香ばしい焼きカスタードのプティフールに、風に香り立つ東洋紅茶が合わさって出された、コースの最後を、トレーナーの提案で二人は夜景を眼下にした外で頂くことにした。

 給仕をするスタッフも席を立って、二人きりのルーフバルコニーは、かつて見た星空よりも、近く空に面していた。

 

「「……」」

 

 二人の間に、しばらく言葉はなかった。

 だが二人は二人とも、かつての星空を思い浮かべているのは、空気が感じられていた。

 遠く、街のざわめきが残響の様に聞こえる最上階のバルコニーに、二人は静かに夜景を眺め、そっと香りのよい紅茶に唇を濡らす。

 並んで座るスウェードのソファにあって、トレーナーの肩に、そっとカレンの頭がよりそった。

 

「……ねぇお兄ちゃん」

 

 沈黙を先に破ったのは、カレンチャンだった。

 

「ん、なんだ」

「……お兄ちゃんは、トレーナーを続けるの?」

 

 ふわりと、夜風がカレンチャンの髪を揺らす。

 肩に寄せられ、前髪が揺れてトレーナーからは、カレンチャンの表情がうかがい知れないまま、トレーナーはその問いに答える。

 

「続けるよ。ずっと俺はカレンのトレーナーだ」

「……カレンがイヤだっていったら、辞めてくれる?」

 

 耳に触れた言葉に、トレーナーは微かに目を見開き、そして手に持っていたカップを置いて、よりそってくるカレンの手に触れた。

 

「……カレン」

「……ワガママだってわかってるよ。でも……カレン以外のトレーナーになってほしく、ないんだもん」

 

 ぎゅっと握りしめた手が、さっきよりも震えて、くっと見上げてきたカレンチャンの瞳は、涙に潤んでいた。

 

「……なんで……カレン、こんなに幸せなはずなのに。お兄ちゃんが、ディナーに連れて行ってくれたなんて、本当に、幸せなはずなのに、怖くて……この時間が、終わるのが怖くてダメなの。終わったら……明日がきちゃう」

「……カレン」

 

 彼女のレースの手袋ごと、自分の指を絡めるようにトレーナーは手を繋ぐ。

 だが、彼女を容易に励ますような言葉は、思いついても必死に口の中で噛みつぶすほか無かった。

 その有様が、カレンチャンには伝わると分かっていても、そうせざるを得なかった。

 

「……やっぱり、お兄ちゃんは、大人だね」

 

 ふわりと、無理に笑おうとするカレンチャンに、胸が締め付けられるような気持ちがしていた。

 だが彼女の状態は、他でもない自分自身が何よりもわかっていたからこそ、容易なことは口に出来なかった。

 せめて、と言葉に出来るのは……彼なりの願いだけだった。

 

「大人なもんか。カレンと、こうしてここにいる時点で、大人じゃないよ」

「……勝てない(カワイクナイ)ウマ娘だから、最後に慰めてくれたんじゃないの?」

「そんなことは、ないよカレン」

 

 ぶっきらぼうな、彼女らしくない本当の彼女をみながら、それでも、トレーナーは否定する。

 ……最初を感じたのは、夏の頃から。

 そこから徐々に、徐々に明確化していったもの。

 ラップタイムも、コンディションも、なにもかも上り調子のはずなのに、勝てなくなっていく、なにか。

 彼女の背後を常に追いかける『鹿毛の龍王』を要因にしたものでは無い、圧倒的な何か。

 それは運命のような、残酷なプレッシャーとなって、カレンチャンを覆う、大いなる影。

 そこに飲み込まれているカレンの明日は、過去一番に不透明な色となって見えていた。

 

 

 ――20時45分 初うまぴょいまであと15分

 

「そんなことは、ないんだ、カレン」

 

 バルコニーの夜風が、そっと止んでいた。

 トレーナーは、カレンの手を両手をとって、にぎった。

 小さな体。触れれば折れてしまいそうな程に繊細な彼女の手。

 そこへそれでもトレーナーは自分の想いをねじ込むように、手を触れる。

 

「君の目指すカワイイを俺は……もっと見たい……ただ、それだけでここにいる」

「……お兄ちゃん。でもカレン、明日、きっとカワイイカレンには」

「……いいや、違う」

 

 引きそうになるカレンチャンの体を支えて、トレーナーはカレンの手を、逃さない。

 ソファの上、トレーナーに支えられるように腕に抱かれて、カレンチャンを言葉が打つ。

 

「カレンは、ずっとカワイイ。カワイイを背負ってきたんだ」

「うん……」

「そんなカレンが、挑戦する前から、カワイクナイなんてことにはならないよ。だから明日は……皆のカワイイカレンじゃなくて、俺のカワイイカレンを、俺に見せてくれ」

「………っ!」

 

 カレンチャンの瞳が大きく広がる。

 紫色の瞳に、煌びやかな香港のネオンは、宇宙光の瞬きのように輝いて、トレーナーに宇宙一カワイイカレンチャンを見せつける。

 

「……お兄ちゃんにしか、見せたくないのに……そんなこと、いうんだ」

「俺のカレンは、宇宙一カワイイんだ。見せたくなるのは、しかたない」

「でも、いいの? カワイクナイカレンになっちゃうかも」

「いいやならない。俺のカワイイカレンは、そうはならないって、知ってるから」

 

 半ば願いのように、トレーナーが告げる言葉に、カレンの頬が緩む。

 仕方ない、と諦めたような、そっと何か憑き物が落ちたような、そんな呟きが漏れた。

 

「……ズルいなぁ……好きになっちゃうもん、そんなの」

 

 夜風が、一瞬だけ耳を強く掠めた瞬間の言葉を、トレーナーは聞き逃した。

 

「……えっ? なにか、言った?」

「なんでもないよ、お兄ちゃん」

 

 そして、代わりに、飛びっ切りのカワイイカレンが、トレーナーの首へとするりと腕を絡めさせていた。

 

「……でもさ……お兄ちゃん、あのお花は、どうしようか」

「……えっ」

 

 ただ、一言。

 それだけで、トレーナーの背中にはさっと冷たいものが走っていた。

 すべてを見透かしたように、そして同じソファの上、太股が触れあう距離で首に腕をかけられた格好で、カレンチャンのいたずらっぽい笑みが、真紅のルージュで描かれた。

 

「あ、いや、それは……」

「……言ったでしょ? もう、ズルしちゃ、ダメって」

 

 にんまりとしたカレンチャンの笑みがそのままゆっくりとトレーナーに近づいてくる。

 

(しまった、油断っ……もしかして、意味、知って)

「……カレンに、一輪差しのバラ……」

 

 首を挟み込むようにした腕に、トレーナーの逃げ場はない。

 むっと淡い桃色の香りが、カレンチャンとトレーナーの間に香り立つ。

 

「それって……その意味ってぇ……」

 

 真紅のルージュが目を灼いて、釘付けになるトレーナーの視界。

 逃れられないことが、最後の言い訳になって目をとじたトレーナー。

 その耳たぶを、熱い吐息が触れる。

 

「えっ」

 

 間抜けな自らの声の後、辺りの音が、一瞬、消える。

 

 ――カレンのこと、大好き、ってことでしょ?

 

「っっっっ!!!!」

 

 耳たぶを、鼓膜を、脳髄を震わせる、圧倒的なカワイイカレンチャンの言葉が、トレーナーの心を揺さぶり立てた。

 息を詰まらせ、目を見開くトレーナーにカレンチャンはそっと耳元から唇を離して、ゆっくりと微笑んで見せた。

 

「……ほんとに、ズルいんだもん、お兄ちゃんってば……これぐらいは、お返しだよ」

 

 ふふっ、と楽しげにいうカレンチャンは、そっと眦に溜まる涙をぬぐいつつ、トレーナーの首を解放した。

 太股が触れあう距離のまま、涙を拭ったカレンチャンはそうして、黒のドレスの胸元へと指を差し入れて、小さなカードキーをチラリと見せた。

 このレストランの下層……エグゼクティブなホテルのカードキーだ。

 レースのためにとったホテルとは違うが、カレンの手配は、既にまわっていたようだと、トレーナーは瞠目する。

 ぷんっと甘い香りが漂うカードキーを人差し指と中指で挟んで、ヒミツのことを喋るように、人差し指を唇の前でカレンチャンは立てて見せた。

 

「……でもうん。騙されてあげる。ズルいお兄ちゃんに。明日、お兄ちゃんだけのカワイイカレンを、見せてあげる。だから……その代わり……これは、揺らがないために。いっぱい、責任、とってもらうんだから」

 

 ――香港の夜風に、大きなため息が混じって流れる。

 二人のカードを持たないカレンチャンのもう片手は、しかし、トレーナーとしっかり指を絡めて組まれていた。

 

 

 ――20時55分。初うまぴょいまであと5分。

 

「……だめだよ? 見せてあーげない。だって言ったでしょ? お兄ちゃんだけのカレン、なんだもん」

 

 ――21時。初うまぴょいまであと零分。

 

 

 ――翌日。

 

 香港スプリントの一着に、会場は大いにざわついていた。

 歓声と困惑、いや、むしろ多くのざわつきの中に狂信的な歓声が混じっている様な、異様な有様だった。

 

「……なんで……そんな」

 

 二着に沈んだウマ娘は、鹿毛の髪を払って、息を切らしながら、一着を奪ったものを呆然として見ていた。

 今、ターフを見たものは、間違いなく自分を一着のウマ娘だと勘違いするだろうほどに、一着のウマ娘は憔悴して、ターフの上に手をつき、肩で大きく息をついていた。

 

「ぜぇっ……ぜぇっ……げほっ、げほっ……はあっ……」

 

 彼女の代名詞である、カワイさの欠片もない、がむしゃらな走り。

 いつもよりも1ハロン早くから開始されたスパートは、レースの誰よりも早く、もはや暴走に近い。

 体は熱く、喉が痛い、脚の感覚も無かったろう。

 心臓が爆発してしまいそうな、今までの彼女にはありえない走り。

 だが、それでも、彼女の意地は、子鹿のように震える脚で、彼女をターフに立ち上がらせる。

 彼女は、香港スプリントの地を、先頭で走り抜けた自信だけで、大きく手を掲げる。

 

「……一番だけは、譲れない……」

 

 カレンチャンの掲げた手に、香港の地が、爆発したように歓声で燃えさかった。

 

「……カレンを、一番にカワイイって思わせるんだ……っ!」

 

 つぶやいた言葉の凄みに気圧されるように、尻餅をつく鹿毛のウマ娘。

 そんな彼女にカレンチャンは微笑む。

 悠然と、ただカワイイから、強くカワイイ、カレンチャンの新たな歩みが、始まった瞬間だった。

 




ほんとのわたし

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