――九月上旬のフランスの昼下がりは、雨降りしきる灰色の空をしていました。
髪にもしっとりとした湿気が染みこんでいて、額のダイヤモンドの流星も、その稜線をどこかくすませています。
「……雨、止みませんね」
「……うん」
私……サトノダイヤモンドの呟きに微かに、唸るようなトレーナーさんの吐息が答えました。
モスグリーンのワンピースをそっと揺らす尻尾から、塗り立ての椿オイルの香りがしています。
この椿オイルはウマ娘向けの尻尾オイルで、香りが良くてとても好みでした。
フランスに来てから、いつでもこうしてお気に入りの香りをさせられるのは良いことです。
……が、今はターフの匂いが恋しくてたまりませんでした。
「こんなに長雨だとは思っていませんでした」
私の呟きに窓が微かに白く霞みました。
オーベルジュデュジュドポームのスイートルームから望むシャンティィ城は、雨に濡れ、写真の中で勇壮に輝く尖塔も、今はどこか色褪せています。
部屋の中、テレビから流れるフランス語の天気予報も……簡単な言葉と、アイコンから察する限り……まだまだこの雨は降り続けることを知らせています。
「このままだと……明日のレースは、場が重くなりそうだが……」
私の隣で、窓の外をじっと見つめるトレーナーさんはそういって、少し困ったように微笑まれました。
「まぁ、却ってゆっくりできたと気持ちを切り替えていこうか。本番は、凱旋門な訳だし」
トレーナーさんが困ったようだったのは、私が、雨を苦手なのをよくご存じだからでしょう。
心配をかけさせないためにかけられた言葉は優しく、ありがたいものでした。
「……そうですね。天候は仕方ないですから」
とはいえ、私が返す笑みも少し困ったものになってしまっていたでしょう。
幼馴染みの
前哨戦として設定したフォア賞に向けて、まともな現地レース場での練習許可が下りず、私達はずっとホテル内のトレーニング器具での身体調整を余儀なくされていました。
(……長雨なんて、なんだか不吉です)
もちろん、天候は仕方のないことだってわかっています。
日本にだって梅雨はありますし、そもそも私のデビュー戦は雨の日のレースでした。
苦手、といってもレースは迫り来るもので、そこでの勝敗を受けて、本来戦うべき場所にむけての挑戦をすべきだということも、三年間のトレセン生活の中でたくさん学びました。
(……なんだか不吉で……すこし、嫌だなぁ)
でも、どこか、運命付けられたものを感じてしまっていた私は吐息に曇った窓を拭って、窓の向こうの空を、その分厚さをじっと見つめることしかできませんでした。
ふと、そんな私の隣で、トレーナーさんが思いだしたように呟きました。
「……ああ、そうだ、ダイヤ。この後、せっかくならアレを開けようか」
「? アレって?」
「ほら、チェックインの際に受け取ったブドウジュースだよ」
「あっ、凱旋門賞出走にむけて、サトノグループへお祝いで頂いたものですね」
トレーナーさんが頷いて、部屋備え付けの冷蔵庫から取り出したのは、フランスにある父の会社の取引先からいただいた、ブドウジュースでした。
なんでもとっても歴史のあるワインセラーの作っているブドウジュースらしく、ブドウジュースと言われなければ、パーティなどで見かけた高級ワインのようです。
「本場フランスのブドウジュースだから、きっと美味しいし……それに」
「それに?」
トレーナーさんがグラスと冷えたボトル、アイスペールに氷を用意しながら、ふふっと楽しげに唇を震わせます。
まるで、とっておきの秘密を教えてくださるようなその唇に、じっと私の目線は吸い付いていました。
「こういうボトルを飲みきった後、飲みきった人はボトルの中に他の人への願い事を告げると、幸福と共にその願い事が叶うってジンクスがあるらしいよ。せっかくだし、俺もジンクスにあやかってみようかなって」
にこっと微笑むトレーナーさんに、私は瞳をぎゅっと見開いていました。
次いで咄嗟に喉から突いて出しかけた言葉を寸でのところで止めました。
ゴクリと飲み込んだ生唾を、ぎゅっと胸元で組んだ手の汗を、私は多分、一生忘れません。
(……その、ジンクスは……本当は、そうでは、ないです。でも)
迷いは、したのです。
トレーナーさんの言うジンクスは、知っています。
ただ、幸福が訪れる、という意味ではありません。
きちんと正しいことは言わなければ悪い子です。
でも、私はそれを、伝える言葉を、反射的に呑み込んでいました。
(し、幸せになる……それは、間違って、いないです。間違っていませんけれど……けれどまさか、トレーナーさん……私に……私から?)
いずれにしても、良いジンクスであることは、間違いはありませんでした。
幸福が訪れるのも、大きくは間違っていません。
それでも。
「……そ、そうですね……幸せなジンクスは、いっぱい受けていきましょう!」
そのジンクスの本当を、意図的に伝えるのを止めた私の心臓が、どくんと一つ、高鳴りました。
ふと、もう一度見た窓は外の景色よりも窓を見つめる私を映しています。
ほんのりと頬がそまった私を。
気がついて頬をもにっと揉み込んだ私を、窓は雨に濡れながら、ただ写していました。
――
――九月十日 十四時二十分。初うまぴょいまであと1時間
****
――九月十日 十四時三十分。初うまぴょいまであと五十分。
「「美味しい!」」
昇り立つジューシーなブドウの味が、頬をぎゅっと喜ばせる。
二藍のジュースがグラスの中を華麗に踊った。
喜びと共に互いのグラスを傾けた『俺』とサトノダイヤモンドの声が重なって、昼下がりのスイートルームに響いていく。
(めちゃくちゃ美味い……いやほんとに)
開け慣れないコルク栓を丁寧に開けて注いだ瞬間からかなりいい匂いがしていたが、口に含むとその格別な美味さに驚きが先にくるほどだった。
「いやぁ……こんなに美味しいのは飲んだことない……めっちゃ高そうだ」
これほど上等なブドウジュースだと、おそらくワインとそう変わらないお値段なのでは……と小市民の俺はつい、浅慮な想像を巡らせてしまう。
「とっても美味しいです! 頂いた方には感謝をお知らせしないといけませんね!」
対して、サトノダイヤモンドは喜びのままに、感謝をというお嬢様らしい行動を口にした。
「そ、そうだな……確かに!」
「メッセージカードに……あ、ありました、ご住所が書かれていますから、お部屋の便せんからお送りしましょう!」
言うが早いか、サトノダイヤモンドはさっと部屋そなえつけの樫のテーブルから便せんを取り出し、ささっと日本語の文面を書き出していく。
「ええと……フランス語の翻訳は……お父様に送って聞いてみようかなぁ」
ふふっと楽しげに便せんにペンを走らせる彼女は、とても素直で、生まれ持った高貴さのまま、明け透けに振る舞う。
そんな彼女の有様にまだ少しついていけていない自分が情けない。
が、それでも前よりその気持ちに寄り添える自分は、どこか誇らしく思えていた。
「フランス語の方は、せっかくだし、あとでコンシェルジュにお願いしたらどうだろう。今はせっかくのジュースを味わった方が、味が変わって行くものだし、いいんじゃないかな」
「あっ、それもそうですね! ……そ、そうしたら、はい、お礼は後でにしますね」
ふわりと微笑むダイヤが、くっとグラスを傾けてほうっと幸せそうな吐息をついた。
俺もダイヤにならって一口味わう。
空気にふれて少しずつ味が深く変わって行くブドウジュースの味わいに唇を濡らし、グラスから目線をあげて彼女をぼんやりと眺めていた。
「ふふっ……明日は頑張らないと……! こんなに美味しいジュースを送っていただいた方の思いにお答えしたいですし!」
(……本当に、海外に来ちゃったなぁ)
ウマ娘の歴史においては新興のサトノグループのご令嬢にして、彼女の一家に囁かれたサトノのジンクスを打ち破ったG1ウマ娘、サトノダイヤモンド。
幼馴染みのキタサンブラックとの宝塚記念を制して、凱旋門賞への挑戦権を得た彼女と共に海外に飛び立つことを、俺はどこか運命的に感じていた。
(『トレーナーさんと異国の街並みを歩いてみたい』……まだ雨でゆっくりとは歩けていないけれど、もう、異国だものなぁ)
それは昨年末クリスマスの折に彼女から聞いた言葉だ。
思ったことを素直に言っても良い、と常日頃伝えてきた彼女の偽らざる思いだったろう。
もちろん言葉に対して、成すということは容易なことでない。
「その意気だ。……ああ、そうだ、コンシェルジュの方にお知らせするときに、明日のレース場入りも、少し早めにするようにお知らせしよう。準備が整っていないレース場へは立ち入り出来ないけれど、作戦は早入りした会場の雰囲気をもって決めるとしようか」
「ふふっ、なんだか潜入作戦みたいでわくわくしますね」
「なにせ日本とは違う勝手だからな、今日までレース場が使えなかった分の情報を収拾するようにしていこう」
彼女の才能とそれを生かし切る努力あってこそだとはわかっているし、彼女の努力を一番見てきたのは彼女のトレーナーである俺だという自負もある。
だがクリスマスイルミネーションの中で輝いていたあの日の言葉があってこそ、俺は彼女と共にこのフランスの地に立てている気がした。
(……運命、なのかな。なんだか不思議な気分だ)
俺はふと、ブドウジュースの中に写る自分の顔を見て、改めて一口、豊潤な果実味に口を潤す。
(でもだからこそ……どこかで、この気持ちに……ダイヤへの想いには向き合わないといけないよな)
思いつつ、そっとダイヤの方を見た途端、視線がぱっちりと噛み合った。
合わさった視線のまま微笑み合って……ダイヤの方が、愉快そうに笑い出した。
「……ふふっ、ふふふっ」
「どうした?」
「いいえ、なんだか、足の高いグラスでこんなに美味しいブドウジュースを飲みながら、レースの相談をしている、だなんて、とってもオトナみたいで……なんだかちょっと背伸びしているみたいだなぁって」
「……ならオトナなダイヤは、レースのためにこの辺りにしておくかい?」
「いいえ、オトナなので、もっと欲しいですっ」
「いいのか、そんなに欲しがりさんで」
「ええ。なんてったって……明日に備えての験担ぎ、なんですもの。どんどん頂きますっ!」
グラスを差し向けてくれたダイヤの方へと、ブドウジュースを注いでやると、ふわっとまた、薫り高いブドウの香りが鼻を掠める。
ダイヤの椿の甘い香りが混じり合って、刹那、艶めく彼女のウマ耳がくるんと愛らしく跳ねるのに、目を奪われた。
「……トレーナーさん?」
「あ、ああ……いや、なんでもないよ」
「ふふっ、もしかしてジュースで酔っちゃったんですか?」
「まさか。オトナなんだしジュースじゃ酔わないよ」
「コドモでも、ジュースじゃ酔いませんよ?」
「それもそうか」
からかうようにいうダイヤと、くすくすと冗談を言い合える関係を構築して、今年で四年目。
すなわち彼女のトレーナーとして過ごして、四年。
一族の誇りと悲願を叶えるために縮こまっていた彼女を、好奇心と探究心の赴くままに誘っていく中で、芽生えたものを、俺は少し持て余していた。
(……まだ、コドモ、コドモと思っていたのに……俺は、サトノダイヤモンドを……オトナみたいに、思っている)
グラスを傾けてブドウジュースを味わうダイヤの白い喉に目線が奪われる。
グラスの縁が離れて、まるでルージュのように色めく唇に、濃い桜色の舌が這うのを、見てもいられなくなる。
それでも目線を戻した先で、舌鼓を打つダイヤの潤んだ瞳が、紅潮した頬が、心の逡巡をかき立てるようだった。
(……『本格化を迎えたウマ娘の成長度合いは、人間で言うところの十八歳まで一気に身体と精神が成長するに等しい』……トレーナー試験で学んだことは、覚えている。でも、だからこそ……こんな、こんな気持ちは、ダメだろう)
自分のグラスにもブドウジュースを注ぎ入れ、湧き上がるような高鳴りを押さえ付けるように口に含む。
(彼女にはもっと相応しい相手が、必ずいつか現れる。そんな相手との幸せを願ってやるのもトレーナーの勤めだ)
どんな気持ちであっても、極上のジュースは口を愉しませてくれた。
味わいに浸っていれば、昂ぶりそうになる気持ちから目を離すことができる。
(彼女を夢の凱旋門賞ウマ娘にするために、俺はここに来たんだ。ああ、そうだ、良い機会だ。ボトルを飲みきったらその時……ダイヤがもっと、幸福になりますように、そして……俺の気持ちは、ちゃんと、元のトレーナーとしての思いに戻る様に、祈らないとな)
酸化するブドウジュースがゆっくりと味を変えるに従って、俺達はジュースを飲み進める。
二人きりで過ごす、ゆっくりとした時間の中。
徐々に減っていくジュースの量を見ながら、俺は密やかに自分の想いへの決別を心に誓おうとしていた。
****
――九月十日 十五時。初うまぴょいまであと二十分。
カチッと、大きく時計の針が鳴りました。
「「……あっ」」
重なった言葉とともに時計をふと見やった私とトレーナーさんの声が重なって、視線が、合わさりました。
「……だいぶ、勢いよく飲んだもんだな」
「え、っあ、ええ! そうですね」
そうして、トレーナーさんが告げる言葉に、私はどきりと、忘れようとしていた心臓の高鳴りを思い出します。
トレーナーさんと、明日のレースの話や、注目のライバルのお話をしながら過ごしている内に、もうボトルは飲み干す、ぎりぎり。
あと一杯を飲んだ人が、ジンクスの対象になる、そこまで、ボトルの中身は減っていました。
(……今こそ、言うべきでしょうか? ボトルに関する本当のジンクスを)
かかりそうになった気持ちを静めるためジュースを一口含みながら、私はトレーナーさんのお顔を上目に見つめてしまっていました。
(トレーナーさん……私のことを、包み込むように受けとめてくださるような、素敵で、大切な人)
複雑に空気に触れて変わった味が、より深い果実味になって舌を愉しませてくださる中で、思い出すのは昨年のクリスマスのこと。
あの日、イルミネーションの中で、一緒に異国の街並みを歩いてみたいといった私にトレーナーさんは『君が望んでくれるのなら、行くよ』と言ってくださいました。
(……トレーナーさんと、
私の想いにきちんと向き合って、いつも周りの方々を振り回してばかりのワガママな私を、トレーナーさんはいつも、そのまま受けとめてくださっています。
そんな素敵な方と出逢えた嬉しさ……そんな貴方を思うことで湧き出た力で、ここまで来ることができました。
(だからきっと……ボトルを飲みきると叶うジンクス……そう、ボトルを飲みきった人が今年結婚できる……そのお相手は……うん、貴方しか、トレーナーさんしか、いない。うん、そうだよね)
トレーナーさんから持ちかけていただいた験担ぎは、きっとこの勝利をもって、私と添い遂げる決意を固めていただける……そうした運命の導きなのかな、と私は受け取っていました。
父も、母も、びっくりするかも知れません。
私だって、ドキドキしてたまらないのですから。
でも、私は、サトノダイヤモンド。ジンクスという常識をこれまで打ち破ってきたウマ娘。
これまでジンクスを打ち破ってきたウマ娘だからこそ、良いジンクスをもってこの先を進むことこそが、運命だったのかも知れません。
……なんだか、ふわふわの気持ちが、とっても都合よく頭の中に囁いている気もします……それでも!
(でも……うん、嫌じゃない。むしろ……ううん、すっごく……嬉しいです)
熱くてはち切れそうになる胸の鼓動と一生を歩んで下さるという未来に向けてのワクワクが、私の頬を、耳までをも真っ赤にしていきました。
「……大丈夫か、ダイヤ」
「えっ?! あ、い、いいぇ、大丈夫ですよ!」
「顔が……というか耳まで赤いぞ」
「い、いえ、大丈夫です、本当に!」
私を心配して下さるトレーナーさんのお言葉は本当に優しくて、私はふるふると頭を振って、大丈夫だと伝えました。
そうして頭を降る中で、意を決します。
「本当に大丈夫ですから……あの、私に……最後の一杯をいただけますか?」
(これを飲んだら……ジンクスの本当を伝えて……私……私っ! )
ジンクス破りの行き着く先、良いジンクスに乗ってトレーナーさんの、お嫁さんになると心に決めた、最後の一言を呟いて、私はグラスを差し向けました。
そんな私に、トレーナーさんは。
「えっ……だ、ダメだよ」
「……………………………えっ」
言葉を失うような、一言を仰いました。
****
――九月十日 十五時十分。初うまぴょいまであと十分。
時が一瞬、止まったようにサトノダイヤモンドの表情が固まった。
グラスの縁をこちらに差し向けたままのダイヤに、俺は小首をかしげる。
「えっ……おーい、ダイヤ?」
「……」
ダイヤはまるで俺の声が聞こえないかのように固まったままで、微動だにしない。
俺はそんな彼女を前に、ボトルを抱くようにした。
「最後の一杯は、俺がダイヤの幸福を祈ろうと思ってたんだから。ダイヤが飲んだら俺への願い事が叶っちゃうだろ? 明日のフォン賞、凱旋門賞の勝利を願うなら、俺が飲まなきゃダメじゃん」
「えっ……あっ、えっと」
俺の言葉にダイヤは微かに顔を横に振る。
なにか言いたげだったが、パクパクと開いたり閉じたりする小さなダイヤの唇は、言葉を紡ぐまでには至らず、顔は真っ赤なままだった。
俺は珍しいダイヤの表情に少し疑問を抱きつつも、改めて苦笑を見せながら彼女に告げる。
「……だから、俺が最後に飲むよ。明日のダイヤの勝利を、そして凱旋門賞ウマ娘になることを、祈って飲むからさ」
笑みとともに自分のグラスに注ぎ口を差し向け、残りの雫を注ぎ入れ……ようとした継ぎ口を、がしっとダイヤの手が取った。
「えっ? ダイヤ?」
「ち、違う……違うんです……」
「違う? 何が?」
「トレーナーさんの……ジンクスは違うんです……その……本当は」
ダイヤがぐっと握り混んだ注ぎ口を離さないまま、わなわなと紡ぎ出す。
そうして今度は自分のグラスに注ごうとするので、慌てて注ぎ口に俺は自分のグラスを寄せた。
「え、いや、ダイヤちょっと」
「本当は、違うんです、トレーナーさん!」
「いや、だからなにが!?」
「ですから! 本当は最後を飲みきった人が今年中に大切な人と一生一緒にいられる! ってジンクスなんです! これは!」
つつーーっとグラスに、ブドウジュースの最後の一滴までが、注がれる。
注がれたグラスは……俺のグラスだった。
自分のグラスに注がれなかったブドウジュースを見て、ダイヤの表情がみるみるうちに青白くなっていく。
だが俺はと言えば……彼女の熱が移ったように、顔が熱く、真っ赤になっていくのを感じていた。
「……なぁ、ダイヤ」
「……はい?」
「……俺のジンクスが間違ってたってこと、だよな?」
「ええ……そうです」
「本当のジンクスは、最後を飲みきった人が、今年中に大切な人と、一生一緒にいられるって、こと、なんだよな?」
「え? はい……そうですけれど……」
「……それを、ダイヤが飲もうとしてたのか」
「ええ、そうですっ……あっ! え、ええっと!」
「……一生、一緒にいたい人、いるのか」
俺の問いかけに、青白くなっていたダイヤの肌が、ふわっとまた桜色に染まっていく。
紅潮して染まっていく頬が、消え入りそうな声で「……はい」と呟くのをきいて、俺の心がドクドクと鳴り始める。
「……それって、その……キタサンブラック、とかかな」
「……違います。それに……キタちゃんとは、ずっと、大切なお友達です。ジンクスでなくても、離れるなんてありえません」
「なら……マックイーンとかかな、憧れてたし」
「……マックイーンさんだって、ずっと、大切な憧れの人です。ジンクスにだって、頼りません」
「……だとしたら……その大切な人って、もしかして、俺、だったりする?」
「……ズルいです……そんなにっこにこでいぢわる言うなんて」
言われて気がつく。
ああ、頬が、痛いくらいに笑んでいた。溢れ出る喜びが、表情に出てたみたいだ。
ならば、と俺はボトルをそっと傍らのテーブルに置く。
最後の雫が注がれたグラスを手にして、ダイヤの傍らにそっと歩み寄った。
「いぢわる、だったかな」
「……いぢわるです。でも……私が一緒にいたい方は……わかっていただけましたか?」
「うん、わかった。でもだったら……これは独りで呑んじゃイケないと思うんだ」
「……え? それは、どういう」
ここぞとばかりに告げた言葉に、ダイヤは心底不思議そうに小首をかしげた。
こういうところで、彼女は純朴で、愛らしいほど素直だ。
(……ああ、俺も……そんな彼女に、ならうべきだったんだ)
先ほどまで抱いてた逡巡が馬鹿らしく思える。
俺の思い込んだジンクスで願おうとしていた『サトノダイヤモンドとふさわしい相手との出逢い』なんて、彼女自身が願っていなかった。
代わりに、今、俺は気持ちを新たにぐっと最後のジュースを一口に含んだ。
果実味に渋みが出て、味わいとして濃厚な、オトナの味。
「「……んっ」」
そうしたオトナの味わいを、俺とダイヤは、ゆっくりと柔らかな感触と共に味わう。
ごくん、と呑み込んだ音と共に、ふっと二人で微笑み合って囁いた。
「……これで、二人とも、最後を飲みきった二人なワケだ」
「……いいえ、まだグラスの中には残っています」
「……飲む? ダイヤ」
「……ええ、もちろんです。……トレーナーさんと一緒ならっ」
「……そっか」
二人とも、顔は真っ赤だった。
けれど微笑んだ眼差しに、頬に、視界に、唇に。
互いの姿とぬくもりと、飛びっ切りのブドウジュースを感じながら、最後の一滴までを存分に、俺達は堪能し合うのだった。
―九月十日 十五時二十分。初うまぴょいまであと零分。
****
十月の初旬。
シャンティィ競技場の観客は、永遠に輝く眩き閃光を目の当たりにすることになる。
日本からやってきて、世界最高峰のターフを焼き尽くした、史上最高の差し切りが、世界のファンを、ウマ娘を驚かせた。
日本ウマ娘界そのものがかねてより望んできた悲願と、敗れなかった未勝利のジンクスを、サトノの至宝が打ち破った。
そんな彼女の成した偉業は新たなる時代のウマ娘達を奮い立たせると共に彼女がウィナーズサークルで告げた、生涯の伴侶の宣言が、故郷の知人に驚天動地の衝撃を与えるが、それはまた、別のお話。