揺るがせ衝撃、異次元に届くまで 作:スターク(元:はぎほぎ)
今の僕の相棒はディープなんだ。
素晴らしい馬なんだ。
ディープを栄光に連れて行く事に、今は集中するんだ。
そう頭では分かっていても、ふとした瞬間に見てしまう。
ディープと走った
後方からディープと追い上げる時、その視線の先を駆ける彼の幻影を。
もう君は、どこにもいないのに。
何故思い出してしまうんだろう。
なぜ今になってぶり返すのだろう。
彼とディープを比べたあの質問の所為?いや、違う。目を背けていただけだ。
ディープと出会えて、埋めた筈の心の穴。でもそれは埋めたんじゃなくて、隣に築かれた山で隠しただけという事。
その山が、穴を埋めるに足る程の輝きを放つからこそ露呈した闇。
ディープと、彼。
鹿毛と、栗毛。
追い込みと、逃げ。
彼らが得る景色は違う。当たり前だ。一緒くたにする方がおかしい。ディープはディープ、彼は彼だろう。
何故、埋め合わせられると思った。
なんて事はない。二頭を比べていたのは、他ならない僕じゃないか。
「……ああ、…っ」
あの日曜日。彼が僕を投げ出していれば。
僕がすぐに降りていれば。
いっそ手綱を離して地面に打ち付けられていれば。
君に、“転ぶ”という選択肢を僕が与えられていれば。何か、変えられたんだろうか?
問いに答えてくれる存在は、もうこの世にはいない。
その沈黙は、僕の心に巣食い続ける。彼が虹の向こうに消えたその日から、ずっと。
〜〜〜〜〜〜
日に日に酷くなっていく顔色を押して、お兄ちゃんはぼくの背にまたがった。その顔を見る度に、ぼくは“サイレンススズカ”への怒りを燃やす。
お兄ちゃんを悲しませるなんて許せない。ぼくが絶対に、今日こそぜーったいに笑顔にするんだ!
「——さん、アンタは」
「大丈夫です……っ、いこうディープ」
いつも通りの、でもいつもより固くなった声を受けてぼくは歩みを進める。
今日はニンゲン達がいつも
『よろしくね』
『よろしくー』
『おう』
声を掛け合って、コースに入るなり開始。お兄ちゃんもスッと姿勢を変えて、調子の悪さなんてまるで見せない。
前の
でもいつもと違うのは、今回は本番さながらの
(お兄ちゃん、見ててね)
ニンゲン達は
サイレンススズカってヤツの走りがどれ程の物だったのかは知らないけど、それはそれは凄かったんだろう。周りから褒めそやされるお兄ちゃんが、今も忘れられないぐらいに。
でも。
(ぼくの方が、絶対にすごいもん)
ムハイサンカン?っていうぼくの称号は、ぼく以外にはとある一頭の馬しか達成してないらしい。そしてその馬の名前は、ニンゲン達の話を聞き取れないなりに盗み聞きした上では、少なくとも“サイレンスなんちゃら”ではなかった。
つまり、ムハイサンカンを取れてないサイレンススズカはすごくない!取れてるぼくの方がすごい!!多分!
だから今回のオイキリで、凄いタイムとか末脚とか出してお兄ちゃんを驚かせてあげるんだ。それで、サイレンススズカの走りよりも強く強く覚えてもらう。そうすればお兄ちゃんはサイレンススズカなんて忘れて、ぼくに夢中になって元気になる。うん、ぼく天才!
「ディープ」
「
なんて考えてたら、集中してないのがバレて怒られちゃった。流石はお兄ちゃん、なんて考えてる場合じゃない。目の前の事にしっかり向き合わなきゃ、お兄ちゃんを驚かせるなんて……
と思って、前を見たその時。
『…あれ?』
ぼくは、ぼくの置かれた状況が少しおかしくなっている事に気付いた。
『ね、ねぇ』
『ゼェ、どうした』
『菊花賞馬さんは息も上がらねぇのか、こちとら必死なのに』
ダメだ、前の二頭も気付いてない。その上に乗ってるニンゲン達も。
見えないの?なんで?どうして?
『前に
ぼく達のコースで、ぼく達の先を行く茶色いお尻。その向こうに見える後頭部には、草と同じ色の
そんな馬が、トロトロ走る二頭を置き去りにしていく。その後ろを走る、ぼくもまた。
『早く行かないと、追いつけないよ!』
『何言ってんだ、誰を追いかけりゃ良いんだ?』
『今回走るのは俺達だけだろう』
『違うよ、そうじゃない!』
そうは言ってみたものの、ぼく自身もよく分からない。今言われたように、この走りはぼく達3人だけで行われている筈で、でも
“あの馬に追い付かなければならない”
って焦りが確かにここにあって。
「
最後の望みを懸けて、背中のお兄ちゃんに託してみても。
「……落ち着け、ディープ。慌てるな」
やはり駄目だった。そうしている間にも、その馬はどんどん走って先にコーナーを曲がって行く。
そして、その最中。その馬と目が合った。
————来い。
……ああ、くそっ!
「なっ、!?」
『ディープ、どうした!』
周囲の制止も、お兄ちゃんの手綱さえも振り切って全力疾走。振り落としたりはしない、でも手加減なんて出来ない。
あのままだったら追いつけなくなる所だった。ここしか無いんだ、無かったんだ!お兄ちゃん、ごめん!
「何があったディープ!?くそっ、どうして急に……」
頭上から聞こえる苦しい声に申し訳なくなりながらも、ぼくは足を止めない。なんとか前を走る馬の後ろにつけて、様子を伺う。
近くに来てようやく分かったけど、とても綺麗な走りだった。流れるように運ばれる足に一切の淀みは無くて、コレがぼく達馬の理想形だと言われても素直に信じれてしまいそうな程に。
『何だよお前!ぼくに何か用なの?』
『…』
『なんか言ってよ!!』
イライラしてしまった理由は、ぼく自身にも分からない。日々溜まっていた分が、八つ当たりみたいに吹き出しちゃったのかも知れない。
でもこの時のぼくは、どうしてかその怒りが正しい物であるかのように思い込んでしまっていた。そしてその理由も、一瞬後に否が応でも理解してしまう事になる。
その馬はコーナーで一層体を傾けた。最後の直線に入る前、そこで出す全力に備えるように。
そしてその傾きで、彼の胴に掛けられた布が見えた。そこに書かれた、ニンゲン達の文字も。
読めない筈なのに、その時だけは直感で理解してしまった。何という名前が、そこにあったのか。
『お前は——ッ!?』
瞬間、信じられない光景がぼくの目の前で巻き起こった。その馬は今までずっと前で走って消耗していた筈なのに、そんなの知るかとばかりにぼくを突き放したんだ!
今までこんな馬、相手にいなかった。でも負けられない、負ける訳にはいかないんだ!!
「何を、何を追ってるんだディープ!」
お兄ちゃん、それどころじゃない!お願いだから邪魔しないで!!
ああ、むかつく!あの馬にも、それを追ってる内に楽しくなってきた自分にも!だって初めてなんだもん、こんな速い馬と戦うなんて!
「…くっ!」
すると意思が通じたのか、背中が軽くなる感触。でも振り落とした訳じゃない、お兄ちゃんは今も背中にいる。
やっぱりお兄ちゃんは凄いや、と思うと同時に、ぼくは彼の後を全力で追い上げた。届かない、でもちょっとずつ詰めてはいる。いや全然だ、彼はまだ速くなるだろう。なんとなくだけど分かるんだよ。
最後の直線で追い越す為には、もっと!もっと速く!今までのぼくなんて置き去りにする勢いで、この瞬間に成長し続けるんだ!!
『……』
『だから!その無言を!やめてって!!』
死に物狂いで並びはしたものの。また視線が交わるけど、彼は何も言ってくれない。その度に僕の苛立ちは高まるばかり。
『負けられないんだ、お前だけには!』
叫ぶ。その音も自分の力に変えたくて、全力で。
『お兄ちゃんの為にも、お前だけには!!』
一瞬、彼の表情が強張った気がした。でも瞬きしたら元通りだったから、多分気のせい。
コーナーでは追い越し切れない。でも最後の直線、足が残っている方が勝つ!
いくぞ、勝負———
『……え?』
気が付くと、彼はどこにもいなかった。
僕の前にも、横にも、後ろにも。
『え?』
体だけが動き続けて、でも心はもうここに無いような感覚。歩幅をそのままに首を傾けて周囲を見ても、あの草色のお面はどこにも見えない。
そのまま、ゴール。虚しさを抱えて、ぼくはコースを振り返った。
どこだ。
どこだ。
『……だ』
「え……」
どこだ。
『どこだッ!!』
やはりどこにもいない。なんで消えた。消えるならなんで現れた?
『どこにいる、サイレンススズカ———ッッ!!!』
あらん限りの声で嘶いても、周囲は驚くばかりで答えてくれず。
我に返ったのは、オイキリ仲間が遅れて到着した後、お兄ちゃんが首を叩いてくれた時の言葉だった。
ーーーー
ディープの異変の原因は、僕はさっぱり分からない。
少なくとも騎乗前に異常は無くて、騎乗後にもアクシデントなんて無かった。本当に、追い切り前、いや追い切りに入った直後まで本当にいつものディープだったのに。
でも、乗ってて分かったのは“彼が前を行く何かを追いかけていた”という事だけ。あのコーナーから最終直線に入って直後まで、ディープは何かを追い抜かす為ひた走っていた。滅多に出さない
「ディープが、本気にならざるを得ない相手」
あの時、僕の目には何も写っていなかった。だからこれはオカルト的な妄想になるが…ある程度は絞り込めなくもない。
前の二頭になんて目もくれずに追い抜かして、まるで常時スパートみたいな力の入れ込みよう。置いていかれる事を避けてるみたいなこの感覚を見るに、相手は相当な逃げ馬だろう。ディープが危機感を抱くほどの大逃げの。
……そんな稀代の逃げ馬なんて、一頭しかいない。
けれど僕に、その答えを出す勇気は無かった。
「まさか、な」
いや、勇気ではない。これを正確に言い表すとするなら、恐怖。
今その名前を口に出したら、今度こそ僕は決壊してしまう気がする。だから、こうやって避けて蓋をする。
そんなの意味無いなんて、遥か昔から分かり切っていたというのに。
コースから出る折。僕の震えを、ディープはしっかりと感じ取っていたらしかった。