揺るがせ衝撃、異次元に届くまで   作:スターク(元:はぎほぎ)

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馬編-ぼくは君になりたかった【後編】

 これじゃダメだ。()()()()()()あの日から、ぼくはずっとそう考えていた。

 負けたとは思っていない。実際、あのコーナーでぼくは彼に追い付いたんだ。

 

(でも、彼は本気を出してなかった)

 

 彼——サイレンススズカはあそこから更に速くなる。だから最後の直線が、ぼくと彼の決着の時だったのに。

 その前に、彼は消えてしまった。走り終えてどこを見ても、あの草色のお面も茶色の体も見つからなかった。

 そして、その走りでもお兄ちゃんの笑顔は取り戻せなかった。

 

(ぼくじゃダメなんだ)

 

 全力だったのに、それでも影を取り去れなかった。

 お兄ちゃんに必要なのは、ぼくじゃない。

 

(悔しい)

 

 あの綺麗な走りじゃなければ。

 悔しくて、悲しくて。どうしようもなくイライラして。

 でもぼくは、ぼくのこんなワガママよりもお兄ちゃんの方が大事だから。

 だから、ぼくは————

 

 

「行こう、ディープ…ディープ?」

 

 頭の上からの声に、僕は鼻息で返した。『うん』って意味と、『見てて』って意味で。

 そうだ、ぼくはこのレースで

 

「シンボリルドルフを、超えよう」

 

 サイレンススズカに、()()んだ。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

『こりゃいけませんな』

 

 ゼンノロブロイは、噂に聞いた新星を前にため息を一つ。

 限界を感じ始めたこの頃、今日この日に来るであろう衝撃にトドメを刺される予感はあった。しかし……

 

『よもやその新星君があのような有様とは』

 

 レース中でもないのに凄まじいプレッシャー。その出所に視線を向けながら、ゼンノロブロイは思わず後ずさる。

 有様とは言ったが、決してマイナスの意味だけではない。覚えたのは、寧ろ恐怖。

 

『アレがまだ爆発を残してるとすると、本番が恐ろしいというもの…あぁ、周囲はおろか乗ってるニンゲンまで惑わせてるじゃないですか』

 

 自らにも一度乗った凄腕のニンゲンから発せられる戸惑い。見ればそのニンゲンもまた本調子ではないようで、『いよいよどうなるか分からなくなってきたぞ』と警戒心を高めていく。

 とはいえこちとら厩舎(いえ)のボス。斜陽といえど、若手には負けられない。

 

『そうは思いませんか?』

『なぜ俺に話を振る』

『近くにいたので』

『……』

 

 その馬はすぐには答えない。ただ自らを鼓舞するように息を吐き、ゲートへと向かう。

 

『ゴールへと走る。それだけだろう』

 

 俺たちがするべき事は。

 言い捨てられたその言葉に、ゼンノロブロイは『そうですな』と返し。“5”と書かれたゲートに入っていく彼を見送ったのだった。

 

 

 

 

—————

 

 

 

 

 

『うおっ…』

『ヒェッ』

 

 ぼくが入っただけで、両隣から変な声が聞こえてきた。何かあったかな?

 いや、何かあっても関係ないんだ。ぼくはこのレースで勝つ。勝って、お兄ちゃんを助け出す。その為にも、他の事に気を使ってる場合じゃないんだ。

 時間が惜しい、全部()()()()時間に費やせ。彼ならどうする。ゲートが開いた時、彼ならどうする?

 

 決まってる。

 

 

《“最強の衝撃”対、歴戦の古馬。史上初の無敗の四冠へ、ディープインパクトのスタートは…》

 

 

 今だ!!

 

 

《良いスタートを切った!ここから後ろh…えぇ!?》

『なっ…』

『ハァ⁉︎』

「えっ———!?」

 

 ニンゲン達の声、周りの馬の声、そしてお兄ちゃんの声。

 でもぼくは止まらない。

 

《ディープインパクト()()()()()()()()()()()()()ですっ!!コレはどういう事だ豁ヲ雎、折り合いはついているのか?!》

「ファッ!?ウッソだろお前」

『ニンゲン達の話と違うじゃん!』

 

 ええいうるさい!こんなの聞こえないぐらい前へ、前へ!

 彼ならそうした!ならぼくだって!!

 

「ディープ、落ち着くんだ!まだ正面スタンド前ですらないんだぞ!?」

 

 そんな事は分かってる。お兄ちゃんは前のレースで間違えて急いじゃった時の事を思い出してるんだろうけど、でもぼくは止まるつもりなんて無い!

 

《ディープインパクト未だ先頭、屋根の指示に全く従わない!?最早逃げも逃げ、大逃げの体制で第一コーナーを曲がりホームストレッチへ。全てが狂ったかのような中山競馬場2005年冬、先頭にはタップダンスシチーが食らいつくがどうなるか!》

『むりぃ〜』

「くっ、下がるか…!」

 

 まだだ。こんなモンじゃない。こんなんじゃお兄ちゃんの求める彼には届かない。

 もっと、見てる皆が目を見開くような差を…!

 

「っ、これは…」

 

 お兄ちゃんの気配が揺らぐ。ぼくに彼の影を重ねてくれた可能性を信じて、ぼくは更にギアを上げた。

 まだ1週目。まだいける、“きっかしょう”を走り抜けたぼくなら!

 

《混沌とかしたレース場に歓声が轟く中、1000m通過タイム出ました!57びょ…え》

「ぇ……」

「…あっ」

「おい、これって…」

 

《57秒台!これはあの()()()()()()()()と同じタイムだ!?》

「「「ワァァァァァァッ!!!」」」

 

 いつもと違う、一瞬の途切れの後に爆発する声。でもぼくに、その意味を考える暇なんて無い。

 がむしゃらに足を動かすので精一杯だ、他に何も考えてられない。あの動きを、前に見たあの身体運びをなぞるのでもう頭が…!

 

『……ぁっ、はァ……!』

 

 ヤバイ、思ったより息が苦しい!足も重い!!でもやめるもんか、まだいける!!!

 サイレンススズカはここから加速するんだ!そうでしょ、お兄ちゃん!

 

「……くれ」

 

 お兄ちゃん?何か言った!?

 ほら、ぼくがサイレンススズカだ!その証拠にホラ、もう後ろがあんなに遠い!

 

「…め……れ……」

 

 最後の曲がりだ!さぁ、最後の力を振り絞れぼく!

 お兄ちゃん、これでしょ?これがお兄ちゃんの求めたサイレンススズカでしょ?!

 だから喜んで!頑張って!早く手綱を、

 

「お願いだ。

 

 

もうやめてくれ、ディープ」

 

 

 

 え?

 

 

 

 

 

《これはまさか、まさかなのか!ディープにサイレンスの魂が宿ったかのような走り、今それが沈黙の日曜を栄光に変えるべく戻って来たというのか!?さぁ最終コーナー、断トツの先頭で戻ってきたのはディー……これはどうしたディープインパクト、ここに来て失速!?》

 

 

 

 

 背中に感じた冷たい滴は、きっと幻なんかじゃない。

 手綱越しに伝わる震えた手の感覚は、絶対に気のせいなんかじゃない。

 その事がぼくに、否応無く現実を突きつけてくる。

 

 

 ぼくが、お兄ちゃんを泣かせたの?

 

 

 足から力が抜ける。とっくの昔に力を使い切って、もう回らない。息も底をついて、冷たい空気を吸い込んだ肺が痛い。

 興奮で誤魔化していたそれらが今、一気にぼくに襲い掛かった。

 

『ぁ、あ、ぁぁ……』

 

 切り裂いていた風が壁になり、蹴り飛ばしていた土が足に絡まる。

 無数の線になっていた景色が、止まっていく。

 

『若造』

 

 聞こえてきたのは後ろから。いつの間に近付いてきていたのか、そこには一頭の馬がいた。

 いや、それだけじゃない。ぼくが遅くなり過ぎて追い付かれたんだ。

 

『やってくれたな。お前の所為で、ニンゲン達の思惑は全部ご破算だ』

『ぐ、ぅ、あっ』

『だが……自分を見失うような青二才が、出しゃばって良い舞台じゃぁないんだよ此処はッ!!』

『……!待っ——』

 

《ディープインパクト逆噴射、観客席から巻き起こる悲鳴を掻い潜って飛び出たのはハーツクライだ!グチャグチャになった馬群を切り抜け、ディープに並ぶいや並ばない!華麗に差し切り一頭、全速力で直線に向かうーー!》

 

 黄色いニンゲンを乗せた彼は、そのまま飛ぶように走り去って行ってしまう。残されたぼくは、ただただ惨めで仕方がなくて。

 何がダメだったのか、何がお兄ちゃんを悲しませたのか、ぼくは何を台無しにしてしまったのか。そんな考えばかりが頭の中で回り続けるばかりで。

 

『ぜぇ、ぜぇ、流石にもう限界ですか。引き時ですね』

 

 更に横に並んできた5歳馬(おじさん)に気付くのも遅れる始末。そんなザマを晒すぼくに、おじさんは息切れしながら話しかけてきた。

 

『新星君、君が誰を追いかけてたのかは知らないし、興味も無いよ。けれどね、先輩として、その様相は頂けませんな』

『アナタは…』

『“君”は一体“誰”だい?』

 

 唐突な、でもさっきの馬の言葉と通じるような質問。ぼくは咄嗟に応えられず、でも絞り出すようにしてようやく口に出来た。

 

『ディープ…ディープ、インパクト』

『そう、君はディープインパクトだ。ニンゲン達は君をそう呼び、君に夢を託している』

 

 何かを肯定するように、肯いたおじさんは、じっとぼくを見つめて言い放った。

 

『君はディープインパクト。そして君が、追いかけてた誰かさんは、そうじゃないだろう?』

 

 ハッとする、とはこういう事なのかも知れない。それだけおじさんの言葉はぼくの芯に響いた。そこにあった記憶を、強引に掘り起こす劇薬だった。

 

 暖かくなってきた時の、一番最初の大きな皐月賞(レース)。そこでお兄ちゃんが、ぼくを撫でてくれながら呼んでくれた名前は。

 その少し後、暑くなりかけの時の大きな東京優駿(レース)で、お兄ちゃんが口遊(くちずさ)んでくれた名前は。

 

 

 サイレンススズカじゃない。

 ぼくだ。

 

 

『ぼくは…()()()()()()()()() () ()だッ!!』

「……!」

 

 

 尽きた身体になけなしの力が宿る。残りカスのそれは、でも先程の“0”に比べれば無限にも思えた。

 

「ディープ…あぁそうだ、まだ終わってなかったな……!」

 

 決死の加速を繰り出して、先に行ったあの馬の背を追う。お兄ちゃんもそれに応えてくれて、待っていた鞭が飛んだ。

 ありがとう。それだけで、ぼくはどこまでも走れる。

 

『やれやれ、私も負けたくないのに…悔しいですが、託すのが最後の仕事のようですねっ……』

『うおおおおおお!!』

 

 今度は何も聞き逃さない。歓声も、罵声も、怒声も、皆耳が拾っていく。それを少しでも力に変えて、走り続ける為に。

 “勝ち”を目指す、その為に。ぼくに夢を託してくれた、お兄ちゃん達の為に。

 

《ハーツクライ先頭、これは決まっ…てない!?ディープインパクト来た、ディープインパクト復活!己の魂を取り戻した無敗三冠が、歴史を塗り替えるべく息を吹き返して迫りくる!ハーツクライ逃げ切れるか!》

『嘘だろ!?勝ち逃げ台詞のつもりだったってのに!』

『負ける…もんかぁっ……!』

 

 近付く背中、でもまだ遠い!お兄ちゃんも必死で体重を消して制御してくれてるけどまだ足りない!

 底力を探さなきゃ、探して絞り出さなきゃ!!

 

『ぼくが…皆の夢なんだァァァ!!』

 

 そう思った瞬間、力が湧き出る。これを出し尽くしたら今度こそヤバイという実感があって、でも躊躇はぼくには無かった。

 足の回りが早くなる、呼吸も早くなる。その分だけ体が前に進む、進む。

 そして、並ぶ。

 ここまでくれば、お兄ちゃん!

 

(今だっ!)

(うん!!)

 

 言葉は通じなくても、ぼくとお兄ちゃんは最強コンビなんだ。それを今見せつけてやる!

 

《並んだ、並んだ、波乱のレースは二頭の叩き合いに(もつ)れ込み……っ、またもやディープが競り勝っての一直線!!》

『いける———ッ!!』

 

 

 

 

『皆の夢、だと?』

 

 

 肝が、冷えた。

 

 

『俺もそれは…同じだァァァァッ!!』

 

 

 爆発した。

 爆発された。

 お兄ちゃんがつけてくれた差が一瞬で無くなったのは、明確にぼくの所為で。

 そして彼の、強さの証。

 ぼくの、苦い苦い大事な記憶。

 

《いやハーツクライ!ハーツクライだゴールインッ!!ハーツクライ手を上げました、繝ォ繝。繧ァ繝ォ手を挙げたッ…!》

 

 

 

 

 

 

 出し尽くしたらヤバイ力は、出し尽くしたら本当にヤバかった。

 何がヤバイって、すっごい筋肉痛。そしてダルい。ニンゲン達にショックウェーブ(ブルブルする奴)を当てて貰ってもマシになった気がしなくて。

 でもそれよりも、悔しくて悔しくて。

 

『…負けちゃった』

 

 ハーツクライさんに、ぼくは負けた。馬生で初めての敗北だった。

 サイレンススズカとかそれ以前の問題。目の前の相手すら見れてなかった、ぼくの完全な落ち度だ。

 そして同時に、とても大事な経験にもなった……と、負け惜しみ抜きでも思う。

 

『強く、なりたい』

 

 “ムハイサンカン”の“ディープインパクト”として。ぼくの出来る、ぼくだけの走りで。

 いつかハーツクライさんにリベンジして、その先へ。

 あの異次元の走りに届くように。

 

 そんな事を考えていると、慣れ親しんだ気配を感じた。思わず飛び起きたぼくが見たのは、愛しいお兄ちゃんの顔。

 どうにも気不味いけど、それは向こうも同じようで。お互い同時に目を逸らして、それがおかしくてまた向き直る。

 

「ディープ、ごめんな」

 

 お兄ちゃんが口を開いた。

 

「僕が情けないばかりに、お前に無理をさせてしまった。僕の心の傷を埋めようとさせてしまったんだね」

 

 ニンゲンの言葉だから内容は分からないけど、ニュアンスは大体把握できる。明らかに自分を責めてるお兄ちゃんを慰めたくて、ぼくは柵から頭を出してお兄ちゃんに押し付けた。

 ぼくがサイレンススズカになろうとしたのは僕の意思だ。それはお兄ちゃんの為ってつもりだったけど、同時にぼく自身の為でもあった。

 あの鮮やかな逃げ足に、ぼくはどこかで惹かれて、囚われてしまっていたから。

 だからお兄ちゃんが落ち込む必要なんて無いんだよ。

 

「…優しいな、お前は」

 

 そんな意志が通じたのか、お兄ちゃんもまたぼくの頭に頬を押し付けてくる。馬のそれとは違う、柔らかくて頼りない感触。でもこれが好きなんだ、ぼくは。

 好きだから、頑張れるんだ。

 

「強くなろう、ディープ。僕の新しい夢」

 

 うん、強くなろう。ぼくはぼくの道を、お兄ちゃんの夢を乗せて走るよ。

 

「他の何物でも無い、僕と君だけの夢を、今度こそ」

 

 もちろん、という意味を込めて嘶いた。

 春も夏も秋も冬も超えて。ぼく達だけの夢を、焦がれ果てたその先へ。

 勝利というただ一つのゴールへ、君と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サイレンススズカ。

 ぼくは君じゃない。そして君もぼくじゃない。

 ぼくは君にはなれないし、君もまたぼくにはなれない。

 でも、そう———きっと、乗せた人は同じなんだろう。重ねた夢は違っても、重ねた想いは同じだったんだろう。

 そして君は、その道を走り切れなかった。道半ばで、君はお兄ちゃんと離れてしまったんだね。

 その無念が、あの日ぼくの前に現れたのかな。あれからどれ程経ったかもう分からないけれど、君は行くべき場所に行けたのかな。

 だとしたら、今の()は。

 

「ディープ」

 

 あの敗北の後、色んなレースをお兄ちゃんと一緒に走り切って、海の向こうとかにも行って。そして見守られながら目を閉じる僕は、君と同じ場所に行くのかな。

 

「君は、僕の自慢の相棒だ」

 

 お兄ちゃんの言葉に目を細めた。もう殆ど聞き取れないけど、褒めてくれる言葉が最後まで嬉しかった。レースしなくなってからずっと、近くに寄っても乗ってくれなくなっちゃったのが心残りだけれど。

 

 僕は、僕の道を走り切ったよ。

 ああそうだ、()()をつけよう。あの日、途中で終わった勝負の続きを。

 お兄ちゃんの心を連れて行った君と、お兄ちゃんの夢と共にあった僕で。

 どちらが最強で、最高な、お兄ちゃんの相棒なのかを。

 

 光が近づく。これが終わりなのかな。

 同期の皆、僕より後に来てね。

 ハーツクライ先輩、貴方とも全力の決着を。是非向こうで、今度こそ。

 エアグルーヴさんは…向こうでまた会えるかな。おっかないけど優しい馬だった。

 お姉ちゃん、優しさをありがとう。幼い頃からずっと温かかった。

 世話してくれたヒト、いつもご飯美味しかったよ。

 お兄ちゃん。いつか、また。

 

 さぁ、サイレンススズカ。首を洗って待っていろ。

 この衝撃が、君の異次元を揺るがすその日まで。

 きっと、絶対に追いついてみせるから。

 

 

 その決意を最後に、僕———ディープインパクト号は、その生涯を終えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、()が目覚めた。


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