彼は疲れていた。とても、疲れていたのだ。だからどこか風の噂で聞いたマッサージ店に行ってみようと、普段はしない寄り道をしてしまったのも致し方がなかった。
運動はしている。だけれども、デスクに噛り付いたり容赦のない光を眼球に叩きつけてくるディスプレイを見つめていたり、飛んだり跳ねたり走ったりドンパチしたりして、体が休まるかと言ったらそんなことはない。寝たところで回復しきる前には起きて職務を果たす必要がある。
彼はそう。とても疲れていたのだった。
そこはオフィス街のややはずれにある、古い3階建てのビルだった。確か以前……それもずっと昔は和菓子屋だった気がする。跡継ぎもなく古い店が暖簾を降ろすことは別に珍しいことではなく、ここも例に漏れることなく消えてしまった店の一つだったはずだ。そこに、どこかの輸入品についてきたような何とも言えないフォントで『インド式マッサージ』とだけ書かれた看板が掲げられていた。
「ここか」
はちゃめちゃに効くとは誰の言葉だっただろうか。風見ではないが、誰か部下だった気がする。その辺の記憶も曖昧になるほど疲れていたし、限界を訴える肩こりはストレッチくらいでは治まってはくれず、鈍い頭痛をもたらしていた。
が、なんといっても適当すぎる看板だし、扉もお洒落さのかけらもない古いくすんだ茶色のアルミサッシ製手動の引き戸だ。壁に至っては塗りなおすのではなく、無理矢理ひび割れにセメントを塗りこんで補修した跡がある。
あからさまな飾らない言葉で……そう、悪くいってしまえば廃墟手前のぼろいビルだった。
「ごめんください」
料金や時間といった説明が一切掲げられていない不安はあるものの、ガラガラと思ったよりもずっと軽い扉をあければ怪しいインド人が、畳の上に敷いた花柄のバスタオルの隣でワイドショーを見ていた。
痩せ気味で、老人に入ったような風貌で、ヒゲに白髪が混ざっていて。
いかにも日本人が想像するインド人といったような風貌の、あやしい男だ。その人物がこちらに目を向けると、にやりという音が聞こえそうな具合に口をゆがめた。副音声でカモが来たと聞こえてきそうな顔だった。
「アイアムヨーガマスタル。横なってー」
それだけである。一切の説明がない。
「ええと。この、タオルの上でいいんですか?」
「ソダヨ横なれロウドゥーシャ」
どうみてもスーパーの二階とかにある衣料品コーナーの特売で買ってきたようなタオルを指さして横になれと言うインド人に面食らいながらも靴を脱ぎ、踵を揃えて並べてから畳の上のバスタオルの横に立った。枕もホームセンターで叩き売りされていそうな代物だ。これにもタオルがぐるぐると巻いてあった。
物は悪いが、きちんと洗濯してあるのが分かるというのが唯一の救いのように思える。とりあえず仰向けでいいんだろうか。
「あの、仰向けでいいんですか?」
「うつぶせろ下向け」
「アッハイ」
なんだろう、このインド人ものすごく有無を言わせない何かがあるぞ。
何が起きても対処がしやすいようジャケットを枕のすぐ横に置いて、指示されたようにうつぶせに横になる。妙な緊張が走った。
「そ~~~~ら、イクヨー」
「んッ!!ぐ、が!」
気の抜ける掛け声が掛かったと思った瞬間、容赦のないマッサージが始まった。バキンだのゴキンだの、耳に優しくない音が聞こえる。遠くからはどこのゴミ捨て場から拾ってきたんだと言いたくなるような古いラジカセからカレー屋でよく聞くようなBGMが聞こえてくる。そのCDどこで売ってるんだ。インドか。インドで買って持ってきたのか。直輸入だな、と寝ぼけた頭は案外マッサージ音と合うなと考えていた。考えた瞬間、マッサージ音ってなんだ。普通マッサージはこんな物騒すぎる音を立てないぞとぞっとする。
これは、マッサージというより、関節を破壊されている音なのでは……?
だが、骨折や関節を外されるような痛みはない。確かに痛みに襲われてはいる。だが、痛気持ちいとでもいうべきだろうか。とにかく『効いている』感が凄まじい。そう、とても。とてつもなく効いているのだ。決して痛みを快感に捉えているわけではない。それだけは断じて違うと言い切れる。
「ロウドゥーシャみ~んなカッチカチ!お客さんもカッチカチ!ロウドゥーシャだからカッチカチ!ほーれほぐれろ、ほぐれろ、労働者ぁ!」
「ぁ、ぐ……!」
コイツ絶対に日本語ぺらっぺらだろ。なんでわざわざ怪しすぎるイントネーション挟んでくるんだ。やめろ。笑う。怪しすぎて笑う。
「あーっはっははは!健康なてく!あーはははははは!」
「く、……ッ!」
お前が笑うのか。お前が笑うのかよインド人。
この、笑えるのにマッサージに夢中になるあまり笑うことが出来ず、痛いのに滅茶苦茶に気持ちのいいマッサージは、気が付けば終わりを迎えていた。……からだが、いように、かるい。まるで うまれかわったかのような かるさ。
感動を覚えながらボンヤリとする頭のまま肩を回す。張るような感覚も重さも消え失せ、頭痛もない。そう、嘘のように疲れも消えているのだ。あと3年は戦えるような気にさえなってくる。
そんな様子を優しい瞳で見つめる怪しいインド人がまるで聖者のように見えてくる。ああ、ありがとう。あなたは本物の聖者だ。聖者がゆっくりと口をあけた。
「二千円。二千円よこせ」
聖者は価格設定も聖者だった。口調はどう控えめに聞いても恫喝じみていたが。
「あ、はい二千円ですね」
「二千円寄越したらささと帰れ。ほれ二千円だ」
こうして追い立てるようにして二千円を支払ったあと、「良くなっただろ帰れ」と本当に追い立てられて店を出た。
「……また来ます」
「つぎも二千円忘れるな、ロウドゥーシャ!」
おそらく日本語は堪能だろうに相変わらず片言っぽい日本語は継続するようで、今度こそ笑いながらアスファルトを踏みしめた。
今日はちょっといい酒を飲もう。そんなことを考えながら。