都会と言えど街の明かりも減った時間帯。それでも間接照明の灯ったバーの一角で、ひと組の男女が酒を傾けていた。
だがそこに色恋の気配はなく、それでいてなにか近寄ってはいけない雰囲気は漂っており、夜を歩きなれた賢明なものたちは、あえて声を拾おうとしなかった。
それは人の話を盗み効くのはマナー違反だからという、ある意味当たり前の行動ではなかったが、長く夜を楽しむためには余計なものと係るのを極力避けるべきであるという経験則と不文律からだった。
「あなた、とうとうインドの秘薬に手を出したんだって噂よ」
「根も葉も無さすぎて組織の行く末に不安を抱きますね」
にこやかに皮肉を言いながら、彼の内心はそのまま壊滅してしまえと組織を呪った。
「でも確かに髪も肌も艶やかになったわね」
「やってませんよ?そもそもそんな怪しげなものに手を出すとでも?」
「そうね」
彼の言い分はもっともで、麻薬類に代表されるように非合法の薬品類は上の立場になればなるほど手を出すものがいなくなる。下っ端の売人の中には我慢できずに商品に手を出す愚か者もいるが、上り詰めるようなものは経験はあれど依存するような愚は犯さないものだ。
「秘薬、ね……」
ついに押し付けられてしまったものの、危険な成分も雑菌の繁殖も無かったから愛飲してしまっていたが……湯上りにラッシー飲むだけで肌艶が良くなったのは確かだ……マスタルのラッシーは秘薬だった……?いやそうじゃない!どこでインドと関連付けられた?出入りしているのがバレたのか?しばらくマスタルのところに顔を出すのは控えなければ。
そんなことを考えているだなんて知らない美女は、悠然と微笑んで彼に尋ねた。
「顔が怖いわよ?大丈夫?」
「根も葉もない噂が鬱陶しくて」
「そう……」
それでこの話は、表面上終わった。
だが、彼女はそれで納得するような存在ではなかった。根気よく彼の足取りを辿ってみれば、一軒の店舗によく足を運んでいるのが判明したからだ。
「ここ、よね?」
訪れた場所はやや鄙びたビル。普段の自分の生活とはかけ離れた場所ともいえるところだった。
カラカラと扉を開けると、外観にぴったり一致するような内装の中、外観に全くそぐわないインド人と思わしきジジイとおっさんの中間に位置するような、ある意味年齢不詳のおっさんがいた。
色々この店について調べてみた結果は白。本当に施術を受けるためだけに顔を出しているようだ。
調べている最中、様々な伝手により、ここは技術力のすばらしさがずば抜けているというのに、灰汁の強さと並ぶ入りづらさが天然の結界となって人を寄せ付けず、常に人の視線に晒されるような美貌と名声の持ち主がお忍びで訪れても、誰も騒ぎ立てない店だということは把握していた。
余人を寄せ付けないと言えば彼女が世話になっている会員制の高級店もそうなのだが、そういった場所でも事情により視線に聡い彼女は、見られている感覚が抜けきらず休まることがない。
もちろん店員はしっかりとした教育の施された最高の人材ではある。でも、それでも瞳の奥に隠された好奇心や憧憬、あるいは嫉妬に近いものを垣間見てしまえば、気を許すなんてことは出来そうになかった。
とくに、後ろ暗いものを抱える者にとっては。堂々としていればかえって怪しまれないものだが、どこにどんな恨みを持つものが紛れているかなんて、わかったものではない。ゆえに。そんな中で本当に気を抜くなんてことは出来ないのだ。
だというのに。
「横なれ。アイアムヨーガマスタル、安心しろ」
「……あんまり安心できないわね」
いきなりこれ。気が抜けた。抜いちゃいけないのに気が抜けた。警戒するなんてもってのほかな程気が抜けた。滅茶苦茶あやしい人物のフリをしているのがバレバレである。そのうえバレバレだろうと気にしないどころか、怪しまれようがフリだとバレようがお構いなしな自由人っぷりである。
そんなことより、マッサージだ。ぶっちゃけて言ってしまえば、警戒したまんまだと休まらねーんだよ、人体の腰への負担はんぱねーのになんで人間は二足歩行なんだよ、おまけにヒールとか慣れても疲れるもんは疲れるんだぞ、私は癒されたいんだ。
これ。これが本音。
私を解放させてほしい。
ぼうっとしてしまっていたせいか、訝し気な店主が「マッサージするんじゃないの?ヨーガのレッスン?」と尋ねてきたが、マッサージで合っていると告げて、安っぽい……じゃなかった、特売の投げ売り品のバスタオルの上に横になる。
何とも言えないデザインのバスタオルを前にして、どうして無難に無地で作らないのかと不思議に思わずにはいられなかった。ここまでの安物をもうずっと利用していなかったこともあって、妙に新鮮味を感じてしまうのも不思議な話だ。
ごろりとうつ伏せに横になれば男が近づいてきて隣に陣取り、さっきまで別にしていなかった怪しげな笑みを貼り付けて口をひらいた。
「マスタルに任せればイチコロよ!」
「その、取ってつけたような雑な演技はなんなの?」
そのわざとらしい姿に彼女は耐えきれず、とうとう突っ込みをいれてしまったのだった。
「みんなインド人に神秘求めてるからネ!世の中面白く生きないと息詰まる。息止めると健康によくない。あーはははは!」
「真理、ね!」
ついに例のマッサージが始まった。この店の世話になったことのある男性陣が見れば目を剥くこと間違いなしの、丁寧なものでスタートした。そう、優し気にほぐすところから始めたのだ。
女性には優しく。だがその気遣いは男性陣への手荒な施術を知らない彼女には全く通じないものであり、男性陣からしてもちゃんと手加減して始めるなんてことは決して知られる事はなかった。店員がマスタルただひとりなうえ、閑古鳥が鳴いている店に救われたのは、ある意味全員だろう。
だって、知ってしまったら悲しくなるし、微妙な気持ちになるし、疑惑の目を向けられていたかもしれないから。いかにマスタルが性的な目を彼女に向けていなくとも、もしやと邪推する人もいるかもしれないし、差別だと嘆くものもいるかもしれない。実際には区別である。そんな言葉も無用な程、店には客と店員しかいなかった。
「死んじゃうと来世までマッサージ受けられないからね、健康健康」
「そうね」
扱いに慣れてきた彼女の返事は結構な投げやりだったが、それを気にするマスタルではない。器が大きいというか、おおざっぱというか。兎にも角にもマスタルである。
が、マスタルであるがゆえ、それはやってきた。
「私もお客さんも健康ー!」
愉快さを湛えた、輝かしい笑顔で彼の手の動きがほんの少し変わると、音がした。誰しもを高高度から不安の谷底に叩きつけるあの音である。
ミシミシ、ゴッ、バキン
「健、康…?」
マスタルの手によって自分の体から奏でられた音に、真っ黒な組織で女幹部をやっている彼女も、例外なく谷底へと招待されたのだった。
色々と不安を抱えたけれどもやっぱり彼の施術の効果は異様に高く、すっきりとし、彼女からすれば財布の中身が軽くなったとは全く思えない金額を支払い、帰路に就く。とはいっても、仮宿にしている東都内の某高級ホテルだが。
その日の晩は良い気持ちで長風呂をし、酒精を口に含むことも無く、程よいスプリングのベッドに横たわればあっという間に朝を迎えた。実にさわやかな寝起きである。朝の奇妙なダンス……ラジオ体操を第一どころか第二までやってもいいと思わせるほどの気持ちの良い寝覚めである。
一瞬やろうかと血迷ったが、普通のストレッチに変更した。伊達に裏社会を生き抜いてきたわけではない女幹部の賢明な判断能力が光った。
だが本日も悲しいかなお仕事がある。どこかの人力ケルベロスさんほどではないが、彼女も結構忙しいのだ。忙しいから今日も遠慮なく足を呼び寄せて利用した。彼女にとって白いRX-7は、もはや公共交通機関と同義である。利用しない手はない。人力ケルベロスさんは決してしないだろうが泣いていい。
「寝起きは爽快で肌の調子も良好、なんなの……噂が一人歩きしただけだと思っていたのに」
「なんの話です?」
思わずこぼれた彼女の独り言を運転手の耳がとらえた。足になってはやるがタダで乗せてやるとは言っていない。分捕るのは現金ではないが、普通のタクシーの乗車賃より高いものを毟り取る気満々である。無賃乗車なんて絶対にさせない強い意志を感じさせる。心強い。
「バーボン、調べて欲しい人物がいるの。大至急よ」
「あなたが態々?」
言外に自分で調べられるだろうにという不信感をにじませながら。
他にはまた仕事増やしやがって、これで求めてる情報がスマホで検索すれば済むようなモノだったら許さんぞ。黒に繋がってるならまぁ無駄骨じゃないと思えるけど、それでも余計な面倒はなるべく避けたいという感情もあったが、それは全部、ツラの皮の厚さという名のATフィールドで覆い隠されたのだった。
「御託はいいわ。××にあるインド人がやっているマッサーj「大富豪の道楽です」
「道楽」
「息子はニート」
「ニート」
もうすでに調べつくしてある情報であったし、受け渡したところであのヨガとマッサージにしか食指の動かないマスタルが、組織になびくはずも無し。
でも一応、無難な情報だけ渡しておいた。彼女が求めている情報も囲いたいからとかではなさそうなのは、RPGの宿屋に泊まったのかと言いたくなるような、HP全快の肌艶潤う様子を見ればわかる。
……ベルモットも、行ったんだな。
なんだか同志を得たような気持になったが、その結束は脆く、実はマスタルが女性には導入が優しいという裏切りに遭っていることを。