お付き合いくださり、ありがとうございました。
マッサージ屋の営業時間は安定していない。不定休なんて程度ではない。
今日日検索すれば大概の店舗の営業時間は判明するというのに、この店に限って言えば趣味であり娯楽の一環であるせいか、はたまたマスタルの性格ゆえか、なんでも己の望むままに生きてこれた環境のせいなのか。とにかく自由である。
あらかじめ電話をかけて本日の営業について尋ねておくのが一番正確ではある。
あくまで一番正確なだけであり、案の定きちんと電話での確認を取り、「今日?ヤッテルヨー、営業中営業中」という言葉を信用して来店した年上の部下が、すごすごと来た道を戻ることになった出来事もある。公安内部でまことしやかに囁かれる、『風見の泣き戻り事件』である。後にこれは電話を掛けた時点では営業中であったが、途中で近所の小学生に混ざってダルマさんが転んだをやっていたため臨時休業になっていたと判明した。
なにをやっているんだインド人。遠い異国の地に来てまで子どもたちと触れ合いたかったのか。ニートの息子を構ったらどうだ。とっくに成人していて妻までいるのは承知しているけど。不審者も多いご時世、地域の子供たちを見守ってくれていたのは感謝するが、その怪しい言動のまま子供に間違ったインド人像を植え付けるのはいただけない。そのうえそれがウケて妙に子どもに人気なのも腹が立つ。
なぜこうも八つ当たり気味なのかというと、ベルモットの詮索でマスタルとの関係から公安まで辿り着く危険性を感じ、ここしばらくはマッサージを受けに行くのを自粛していたからだ。そしてこちらが自粛していても周囲はそうでもない。風見がこちらが行けないのを知りながらも、己の欲求に従ってマスタルのもとへ行って泣き戻ってきた話を聞いた時は、とてもとても胸がすく思いになった。お前だけにいい思いなんぞさせるものか。僕らは業務上、運命共同体も同義。死なば諸共。だがそれはプライベートでは発揮されない。悪いな風見、今日は全面的にオフにすると決めているんだ。お前もよかったら後日訪れると良い。今日はこちらが堪能させてもらう。
ああ、このいっそ懐かしさすら感じるおんぼろの戸口をどれ程夢に見たことだろう。そんな妙な感動を抱いてしまったのも、仕方がない話だ。かれこれ実に三か月ぶりの訪問だ。正直に認めよう、もうマスタルのマッサージのない生活なんて耐えられない。冷蔵庫や洗濯機のない生活が苦痛であるように、マスタルのマッサージの恩恵がない暮らしは、知ってしまった後ではもう戻れない。マスタルは白物家電なみに生活に必要なものなんだ。
……もういっそ永住してくれないだろうか。一家に一人マスタル……は、だめだ。さすがに鬱陶しい。街中の至るとこで溢れかえるマスタルや、田舎に不法投棄されるマスタルのことを考えてしまったなんてことはない。溢れかえる胡散臭いインド人だらけの日本など、僕の知っている日本じゃない。もっとこう、奥ゆかしい感じが日本だ。
馬鹿なことを考えつつ扉を開ける。鍵は開いていた。いける。
「こんにちは……!」
感極まった挨拶をしてしまった。若干声が震えてしまった気がする。なんだこれ生き別れの親子の再会か。マスタルが親だとすると生活面は苦労しないどころかうっかりしたらご長男と一緒の道を辿りそうだが、日本で育った気質がそのままなので苦労はしそうだ。でも親族ならマッサージ受け放題なのでは?いやダメだ、親にマッサージさせてぐうたら過ごすなんて、絶対にダメな奴だ。自分の中の倫理観とか道徳観念が全力で説教をしだす。誘惑は感じてしまうけど。
「なんだオメー久々来たな。ヨーガマスターしたから、もーマッサージ要らないんじゃないのか」
なんだそれ。どこ情報だそれは。運動はしているけど、ストレッチはするけど、ヨガはやってないぞ。
怪しげなソースのない情報源を探りたい気持ちはあるものの、ベルモットもインドの秘薬とか適当なことを言っていたので無駄な情報を追うのはやめる。
今欲しいのは情報でも噂を流した阿呆への制裁でもなく、癒しだ。歓迎されてないような言い方をされてしまったけれど、熱烈な歓迎よりも物理的な癒しを欲しているんだ。だから、そう。この殺伐ささえ感じる出迎えにすら癒しを感じるのは止めるんだ降谷零。ああ変わらないななんて安心感をこんなところで得るんじゃない。これは、あたたかで平和な象徴なんかじゃないんだぞ。しっかりしろ。癒しはこれから受けるんだ。もう受けたような気持になるんじゃない。フライングにも程があるぞ。パブロフの犬か。僕は国家の犬でありたい。犬のおまわりさんだわんわん。……違う、本当に落ち着け。
「あはは……ヨガはやってないですよ。ちょっと最近忙しくて来れなかったんです」
来たくても来れなかった思いは本物なので、言葉に重みが増した気がした。その重みで全身の疲れを自覚し、いそいそと例のバスタオルの上に横になった。マットレスなんて気の利いたものはない、畳の上に直敷きのそれに。いや、畳だって日本のマットレスだ。だからこれはマットレスに敷かれたタオルなんだ。たとえ畳が日に焼けてい草の香りもなければ色だって黄色になり、しかもところどころ毛羽立ってしまっていたとしても。……いい加減畳替えをしろ。腕のいい畳屋を紹介するぞ。
「ソナノ?まぁまぁ。よく来たから今日は張り切っちゃうヨ」
「お願い、じまぁ!?」
だから、最後まで、言わせてくれ。今日はあんまり遮られないと思った矢先にこれだ。相変わらずのマスタルっぷりだ。やめろ落ち着け自分の精神。これこそマスタルだなぁって安心感を覚えるな。それは危険な兆候だ。
久しぶりなのが作用しているのか、マスタルがとても張り切っているのが作用しているのか。みしみしという音が続いたと思ったら、身体から鈍い音が響く。
なんだか、そういう楽器になったような気分になってきた。本日のバックミュージックが和太鼓演奏セレクションなのも相まって、重低音が実にそれっぽい。というかマスタルは本当にどこから音源を調達しているんだ。まさか、どこかの路上やリヤカーで不法に販売されている、いわゆるドロボウ市のようなところから仕入れているんじゃないだろうな。公安案件ではないが、非常に気になる。年代物のラジカセと相まって違和感がない。
「ふんぬッ」
「……ッ!!」
どうでもいいことをつらつらと考えていると、いままで聞いたことのないマスタルのひっくい掛け声とともに背中と腰の間あたりに、かつてないほどの衝撃が加えられた。その衝撃が骨や筋を伝って全身に広がり、声も出ずに悶え、身体はいきなりのことを警戒するように強張った。
一瞬思考が空白に塗りつぶされた。これは、本当にやってしまったんじゃないか?マスタルの技術は信頼しているが、あまりにも不穏。少しの空白を置いて戻ってくる体の感覚と、緊張状態からの解放で一気に血流が良くなるのがわかる。そして、なぜかあれほど強張っていたのに頭のてっぺんからつま先まで脱力した。もう指一本たりとも動かしたくないほどの解放感。なんだこれ、本当に動かない。いや、動かそうと思えば動く。動くんだが、動かしたくないと意志に反して体がごねる。
「ぁあ~……」
「ソウネ、ソウヨネ、ソウナルヨネ!マスタルの張り切り受けた奴、ミンナそーなるヨ!」
「これは……もう、だめです」
「安心しろロウドゥーシャ、今すぐ陸上競技やれる体にしてやる。世界リクジョもバッチシよ」
毎度思うけど安心できないからな。特に今日のは酷かったからな。それと、なんでいきなり陸上競技なんだ。そのうえさっき陸上ってちゃんと言えていた癖にそこで片言を入れるのか。誤魔化せよ。一度やったんなら持続させろ。なんでいつも適当すぎる片言演技なんだ。いま力が抜けているんだ、上手く笑えないのにやめてくれ。腹筋どころか背筋も引き攣る。死にかけの魚みたいな姿になる。
「ほ~~ら、チカラ戻る。不思議なパワーで動けるようになる~」
「う、ぐふっ、ごほっ」
笑い声を無理矢理飲み込んだせいで息が詰まった。いままで散々耐えてきたというのに、ついに敗北して咽てしまった。
不思議な力もくそもないだろ。もしかしたら気功とかそういうことが言いたいのかもしれないが、マスタルのことだ。いちいち説明するのが面倒だから、不思議なインドパワーとでも思わせておけばいいとでも考えているに違いない。……これまで通い過ぎた弊害か、マスタルの思考の一部をトレース出来るようになってきた自分が恨めしい。
「インドパワーすごい?すごい??スゴイヨネー!!あーっはっはっははは!」
ほれみろ!!やっぱりそうだ!!当たってもこれほど嬉しくない推理もないけどな!!
楽し気な高笑いをあげながらも、マスタルの手が止まることはなく、身体はどんどん手入れをされて健康になっていった。
「おしまいだよ~」
「…………。」
色々精も根も尽き果て、動きにキレはないがやけにスムーズになった体を起こし、無言のまま財布から二千円を取り出す。増税しようがお値段そのまま。キャッシュレス決済なんてものは存在しない現金払い。雑な会計だが脱税はしておらず、きちんと納税されているので文句はない。
そもそも一日にやってくる人数が少ない。当たり前だけど、普通はこんな胡散臭いうえにオンボロなマッサージ店に人は来ない。どこかクリニックを思わせるような清潔感や、癒しを感じるような少しだけ現実離れしたインテリアで装飾する店に人は行く。腕はよかろうと、接客態度もこれだしな。
「うひひ」
たったの二千円を広げて口元を隠して、いかにもな笑い声をあげる店主。端金と言っていい金額でよくもまあそんなに悪い顔が出来るものだ。それやる必要あるのか?キャラ付けなのか?似合い過ぎて思わず目を逸らした。直視していたら不思議なインドパワーに魅了……じゃなかった、あやしい行動に突っ込みを入れたくなってしまうから。
「そだ。オニーサン」
「なんでしょう?」
いつものように別れの挨拶をして扉を開けると、マスタルが話しかけてきた。なんだ?水分補給ならこの後ちゃんとやるから、久々のマスタル節で疲弊した精神を休ませてくれ。体は万全と言っていいくらい癒えているが。
「明日ネー、鈴木のそだん役んとこでヨーガやるから、一緒にレッスン受けるとイイヨ」
「……話が急すぎてついていけないんですが」
「みんなでヨーガやる。みーんな健康になる。そして平和」
「いえ、そうじゃなくって」
いきなり着いていっていいのかとか、そもそもこちらの都合をちゃんと考えているのか。でも。
「そのうちレッスン受けさせてくださいね」
平和が一歩でも進めたら。一歩進んだのなら、また新たな不安要素に取り掛かるのが仕事で、きっと叶えられない約束だけど。
「ダイジョーブ、ダイジョーブ。カーリーと戦うより簡単!」
「戦神と戦う予定はありませんよ?」
こちらの返事に気をよくしたらしいマスタルが、焼けた肌に似合いの白い歯を見せながら手を振った。
平和はまだだけど、平穏になったなら彼のところでヨガを習うのもいいかもしれないな。きっとそれは、楽しくて笑い声が絶えなくて。平和の象徴みたいな時間なのだろう。それまでは、習わないで通わせてもらうとしよう。
「それでは、また」