「当然、冗談に決まってんじゃん?」   作:にゃんこぱん

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ジョーダンのストーリーが半端なく良かったので初投稿です。


ジュニア級
類友ってやつ?


 レースの世界は蟻地獄に似ている。

 

 ぐるぐると回り続け、落ちないように必死に足掻いて、足掻いて、足掻いて──アリジゴクに捕まらないように、必死に上へ登り続け、砂が落ちるのにも気がつかないで、ただ上へ走り続ける。そしてそれに捕まったが最後。

 

「──でさ、あいつアカBANされたんだって〜! ヤバくね!?」

 

「うそ、ウケる! てかあんなダサい粘着してっからじゃん、インガオーホーってやつ?」

 

「ホントホント! あ、てか今月の月間ウマティーン読んだ!? シチーがさー、もうマジかわいくてさ!」

 

「それな! Noekoとのコラボのやつっしょ!? マジ熱かったよね!」

 

「熱いとかウケるわ〜」

 

 青春というカーペットの上をはしゃぎながら歩いていくのは、爪の先まで粧し込んだ少女──ウマ娘たちだった。流行と自分のセンスを混ぜ込んで、制服という限られたキャンパスの上に自身を演出する。

 

「てか、ジョーダンってばこれから選抜レースじゃね? こんなとこでのそっとしてていいん?」

 

 水を向けられたのは、つけ睫毛やネイルに薄い化粧をした鹿毛のウマ娘"トーセンジョーダン"。その容姿を表現する言葉は多々あれど、ギャルと呼ぶのが最も相応しい。

 

「あー、いーのいーの。もーちょいしたら行くし」

 

「え? でも準備とか」

 

「いやー? ま、だいじょぶっしょ。へーきへーき」

 

 気楽に言い放って、トーセンジョーダンは話を戻すようにまた適当な話題を放り投げた。

 

 友人たちも、本人がそう言うのならそう深掘りすることは出来ず、追求することはしなかった。そのぐらい突っ込んだ関係ではなし──何より、本人があまり聞いて欲しくなさそうだったので。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 選抜レース。

 

 未来と才能あるウマ娘による、デビュー前の前哨戦である。年四回開催される選抜レースでは、デビュー前のウマ娘たちが鎬を削り合い、自身の実力を証明する重要な機会。

 

「はああああああああああっ!」

 

「負けるかぁぁぁぁぁああああああっ!」

 

 先頭を争う二人が縺れ合ったままゴールイン、舞台は芝1200mのターフ。声援と興奮の声を飛び交う中を制したウマ娘が、戦いの熱に浮かされたままぼんやりと掲示板を見上げて、数秒間それをじっと眺め──静かに、ガッツボーズをした。

 

 ──それを、眺めていた。

 

 眺めていたと言うよりは、観察していたと言うのが正しいだろう。彼女たちの走りや細かな癖、速度など。気がついたことは全て手元のノートに書き込んでいく。

 

「こんにちは、明日原トレーナー。隣いいですか?」

 

「……ええ、どうぞ。あなたも?」

 

「トレーナーですから」

 

 コンクリートの階段に腰を下ろしたのは桐生院葵──名門の生まれであり、全距離適正ウマ娘のハッピーミークの担当である。先日のURAファイナルズでも優秀な成績を収めている。

 

「明日原トレーナーもスカウトされるんですね」

 

「いえ……まだ、そう決まったわけでは」

 

「え、しないんですか?」

 

「……そういう訳でも」

 

 ない。

 

 そう言い切りたかったところだが、どうにも断言しきれなかった。

 

「ただ、理事長にせっつかれていまして」

 

『迅速ッ! 然らば首を飛ばすぞッ!』──いや、冗談だ。理事長はそんなことは言わない。言わないが、大体似たようなニュアンスであったことは確かだった。

 

 げんなりとした様子でトレーナーは顔を落とした。

 

「その、彼女の……」

 

「……ええ。まあ、なんですかね。散々事例は学んできたはずなんですが、聴きしに勝る体験……というべきでしょうか。出来れば、もう二度と同じ目には遭いたくありませんが……」

 

 「最初の三年間」を終えた担当ウマ娘とその担当トレーナーの距離感は親密になる。もちろんそれぞれの距離感は存在するが、少なくともただの仲間とか友達とかコーチと教え子とか、そういった尋常のそれではない。

 

 ウマ娘にとってトレーナーというものは、レースという死線を共に潜り抜けた戦友であり、心から信頼できる大人であり、自分を導いてくれた敬愛する人であり、でちゅね遊びでオギャって甘えてくれる人──失礼、妙なノイズが混ざった。

 

 新人トレーナーは綱渡りだ。その新人という称号を見事返上し、中堅やベテラントレーナーになれるのは一握り──とまでは言わないが、ある程度絞られることは確かだ。なぜなら担当ウマ娘に(主に故郷とかに)お持ち帰りされるためである。トレセン学園は婚活会場ではないと言い放ったのは一体誰だったか。本当にそんな人居たっけ? 気のせいじゃない?

 

「あー……その、大変……でしたね?」

 

「……ええ」

 

 たった一言に込められた苦労がどれほどのものか、桐生院は察せずにはいられなかった。そして掛けるべき言葉がなんなのか全く分からなかった。

 

「結局、どうなったんですか?」

 

「とりあえずは、先送りということで……進学するよう説得しました。大学で遊び回らせておけば、それなりに視野も広がるはずでしょうから」

 

「……それでよかったんですか?」

 

 迷いがちに、しかし聞かずにはいられなかったのだろう。桐生院は遠慮しながら、それでも微妙そうな顔で聞いた。

 

「……それ、聞きます?」

 

 さっきから沈黙の間がやたらと多かった。無理もない、かなり()()()()()()()()で、耳も目も頭も痛い話だったからだ。トレセン学園の闇とも言う。

 

「……いえ、明日原トレーナーと彼女が決めたことなら、私からは……何も」

 

 >そっとしておこう。

 

 桐生院がそんな感じの選択肢を選んだのかは分からないが、深く踏み込んでも誰も得をしない話だったことだけは確かだった。

 

 どんよりとした空気が立ち込めていたので、桐生院は話題を変えることにした。桐生院はもはや社会に出たばかりでの新人ではない。右も左も分からず奔走していた一年目とは違う、立派な大人なのだ。ましてや名門の出、話術などお手の物──。

 

「き、今日は天気良いですね!」

 

 桐生院は天気デッキの使い手だった。話題転換×。

 

「……ええ。天気……良いですね」

 

 こっちもこっちで引きずられていた。天気の話題はそう大して広がらないことに気がついていない。

 

 ──まずい。桐生院は焦った。話題選びを間違えてしまった。迂闊にその手の話題を振れば、明日原が落ち込むことなど分かっていたことだというのに。

 

「その、いい子は見つかりましたか?」

 

 桐生院による起死回生の一言。無難かつ王道の話題振り──選抜レースを見に来ていて、二人とも学園と契約をしている中央トレーナー。十分な手応え。

 

「いい子──まあ、光るものを持っているウマ娘は流石に多いですね。この学園に入学しただけはあって、素質はあると思います。ただ、トレーナーとウマ娘には相性というものがありますから。迂闊に動きにくくて」

 

「相性──確かに、仰る通りですね。やっぱり明日原トレーナーは頭の回転が早いウマ娘とかが相性良さそうですからね」

 

「いえ……一概には。()()との数年間で分かったことですが、同じタイプ同士だからといって相性がいいとは限らないのではないかと。凹凸がピッタリと嵌り合うように、真逆のタイプが上手くいく場合も多い……あなたはどう思いますか、桐生院トレーナー」

 

「言われてみれば、私も同じような気がしますね。ミークは結構静かで、色々考えながらやってますけど、私はあんまり考えずに行動に移すというか、視野が狭い場合が多かったです。ほんと、もっとちゃんとしなきゃって思ってるんですけど、なかなか治らなくて……。この前なんて、ミークと出かけた時に天気予報をちゃんと確認してなくて──」

 

 ハッピーミーク──桐生院の担当ウマ娘である。

 

 桐生院は苦笑いしながら、一緒に雨に降られながら走って帰ったことを語った。運悪く傘が買えず、学園に戻るまで大変だったのだという。

 

 ただそれは、ミークと一緒にイベントに遊びに行ったときのことで、調子の悪かったミークを励ますために行ったことだった。そればかりに気が向いていて、他のところに注意が回らなかったのだと。

 

「風邪を引かなかったのは、不幸中の幸いだったんですけどね。あはは……」

 

 苦笑いする桐生院に、ふっと軽い笑みを溢して明日原は言った。

 

「僕はあなたのそういうところ、好きですよ。桐生院トレーナー」

 

 明日原はいい意味でも悪い意味でもたまに言葉を選ばない癖があった。コミュニケーション能力×かな? 

 

「あはは、ありがとうございます……はいぃ!? す、好き……っ!?」

 

 桐生院の顔色が瞬く間に変わった。かなり赤い──が、明日原の方は選抜レースに出場するウマ娘の方を眺めていて気がついていない。ラノベ主人公か。

 

「ええ。何事も思い立ったが吉日……そのスタンスからは、学ぶべきことが多いと常々思っています。参考になることも多かったですから」

 

「ああ、そういう……」

 

 大体こんな感じだった。どことなく桐生院ががっかりしているように見えるのはおそらく気のせいだろう。

 

「それで、桐生院トレーナーもスカウトを?」

 

「…………はい。そうです」

 

 声に棘が混ざっているように聞こえたのも、おそらくは気のせいだ。明日原は軽く首を傾げたが、きっと気のせいだろうと思うことにした。

 

「優れたトレーナーというものは、理論と経験の二つを重ね備えていると思います。今まで私は、ミークのコーチングを理論に頼っていました。愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶとは言いますが……経験というものも重要なことの一つだと感じたことは、ミークと一緒に頑張っていく中で数えきれないくらいでしたから」

 

「では、なぜスカウトを?」

 

「実は……ミークは、引退を視野に入れています。過去のデータから推測しても、身体能力のピークはもう過ぎているんです。その前に、これまでに得てきたものを次に伝えていきたいって。得てきた喜びや、達成感や夢を後輩に受け継いで行って欲しいって──ミークにそう言われて」

 

「……それで、スカウトを」

 

 脈々と受け継がれるウマ娘たちの想いを継承していく。トゥインクル・シリーズを駆け抜けたウマ娘たちは、なぜだか皆口を揃えてそう言う。

 

 想いは受け継がれる。こうやって引き継がれていく。

 

「あと、さっさとしろって急かされてて……」

 

 ついでに口が滑った。

 

「……なんの話ですか?」

 

「あ、いえ! なんでもないです!」

 

 この場にハッピーミークが居なくて良かった。もしもこの会話を聞いていたら、自身の担当トレーナーである桐生院と明日原にブチギレしていたかもしれない。

 

 ただ大抵の場合、トレーニングの役にも立たない四方山話に過ぎないが。

 

「あ、ほら始まりましたよ次のレース!」

 

 都合よくゲートが開いたのを利用して、桐生院はささっと誤魔化した。

 

 明日原は釈然としない思いを抱えつつ、手元のノートにメモの用意をするが──。

 

「……随分遅れている子がいますね」

 

「あ、あの子……知っています」

 

 バ郡から5、6バ身ほど遅れながら走っているウマ娘が一人。どうしても悪い意味で目立っている。

 

「有名なんですか?」

 

「はい……あんまり、良い方向ではないんですが。数ヶ月前までは、いつも一生懸命トレーニングしてたので覚えてます。それから故障か何かを起こしたみたいで、最近復帰したみたいなんですけどあんまり態度が良くなくて……」

 

「……。故障」

 

「はい。えっと、確か爪が弱いとかで──」

 

 あまり積極的に話したい話題ではない。桐生院はそう言葉を濁すが、明日原は思案の表情を浮かべながら、視線の先にそのウマ娘をじっと捉えていた。

 

「……彼女の名前は?」

 

「気になるんですか?」

 

 返事は返ってこなかった。桐生院がそっちを見ても、明日原は相変わらず静かにレースを眺めている。

 

 そんな様子に少しだけ呆れて、桐生院はため息をついた。

 

「彼女の名前は────」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 砂の海に沈んでいるような、そんな気分だった。

 

 トーセンジョーダンはレースを終えて、すぐにその場所から逃げ出した。

 

 酷い結果だ。酷い過程だ。今まで微かながらも積み上げてきた自信、そしてかつては存在していたはずの実力は水に浸った紙切れのようで、本当にそんなものが存在していたのか今では分からなかった。

 

(なんで、走れなかったん)

 

 逃げ隠れるように走り込んだ体育館の裏で、壁に持たれかかって座り込んだトーセンジョーダンは地面をぼんやりと眺めていた。

 

(なんで、足……動かなかった)

 

 酷い結果だった。

 

 当然なのかもしれない。きっと周りの子たちは自分よりもずっとずっと努力して、自分よりも多くのものをレースに捧げてきたのだ。自分など──負けて当然だったのだろうか?

 

(わかんない)

 

 勝てるとは思っていなかった。でも負けるとも思っていなかった。だっていつもこんな風にやってきて、なんとかなってきたのだ──この爪さえなければ。

 

 アタシの体なら、アタシの役に立てよ。どうしてそんなことも出来ないんだ、この──役立たずは、どうして。

 

(わかんない)

 

 前へ行けなかった。足は残っていたはずなのに、前へ進めなかった。目に見えない壁みたいなものに押し返されて、走ろうとしても走れなかった。

 

(わかんない)

 

 こんなはずじゃなかった。そうでないのなら一体何のためにここへ来たんだ。

 

「くそっ! くそ、くそ、くっそぉぉぉ…………っ!」

 

 地面を叩いても痛いだけだ。そう分かっていても、結局何度も何度も鈍い音が響いた。

 

 ガサ、と──突如として物音がして、反射的に振り返った。

 

 男が立っている。まだ若いが、立ち振る舞いや雰囲気から新人という感じではなさそうだ──どうでもいい。

 

「……なに?」

 

 真剣な表情でこっちを見ている男に、無性に腹が立って──。

 

「大丈夫ですか?」

 

 大丈夫か、だと? これが大丈夫に見えるのか? 大体お前は誰だ。

 

「……失礼。僕は明日原、学園のトレーナーです」

 

「あっそ。で何? 言っとくけど用事とか受け付けてねーから、今」

 

「先程のレースについて、気がかりなことがありましたので」

 

 "どうして練習に来ないの?"、"遊んでばかりじゃない"、"真面目に走れないの?"──脳裏によぎる数々の言葉。しかし、どんな表情でそれを言われたかなどもう思い出せない。ただ何体ものマネキンにそう言われたかのような、不気味で嫌な感覚だけが残っている。

 

 次に続く言葉など聞くまでもなかった。くだらない正義感だろうか。レースには真剣に向き合え、とか。 

 

「……あんたもそれ? もういいって、十分過ぎっつーか」

 

「いいえ、僕は──」

 

「分かってるし。わざわざ言いに来なくたって、あたしが一番分かってんの! でもいい、信じてもらおうなんて考えてない!」

 

 分かっている。普段の態度から、周囲からは敬遠されていることなど自分が一番よく分かっている。昔からそうだった。一線引いたような周囲の態度、怖がるような視線に隠れた侮蔑の感情。"あいつなんて、どうせバカなんだし"──うるさいな、聞こえないところで言ってよ。

 

「説教するつもりなら放っといてッ! あんたもどうせ──」

 

 あたしを、見下すんでしょ。

 

 そう呟いて、トーセンジョーダンは俯いた。春の終わりの風が、短く揃えられた雑草を微かに揺らす。その後に残ったのは、ただ息苦しいだけの沈黙だ。

 

「一つだけ、聞かせてください」

 

 それを破ったのは男の声。トーセンジョーダンは俯いたままだった。耳を塞ぎたかったが、もうどうでもよかった。

 

「さっきのレースで……君が怖がっていたものは、一体なんだったんですか?」

 

「…………?」

 

 一瞬のフリーズ。怖がっていたもの? えっとつまり……怖がっていた? 一体何に? 

 

 それまでの激情も忘れて、思わず顔を上げて男──トレーナーを見た。冗談のつもりではなさそうな、真剣な表情でそう言って、返事を待っている。

 

「あたしが……怖がってた? な、なんで?」

 

「それを聞いているんですが……」

 

「知らないって、別にあたしは怖がってなんて──」

 

「右足の爪……でしたか。怪我の再発を恐れているのかとも思いましたが、少し違うようにも思いました。無意識に右足を庇っている走りもあるでしょうが、どっちかと言えば精神的な原因によるものでしょうか?」

 

 凍った。

 

「……は、はあ?」

 

「君がレースを諦めたとは思っていません。ただそれでも体に力が入っていなかったのは、精神的な恐れがあったから。……違いますか?」

 

「…………わかんない」

 

 正直なところ、何を言っているかはよく分からなかった。だが……納得しかけたところもあったことは否定できなかった。だが分からなかった。そうなのかもしれなかったが、どうしてそんなことが分かるのだろう。

 

「わかんない。わかんない、わかんない……わかんないんだよ」

 

 自分のことなのに分からない。どうしてなのかなんて分からない。こんなことは初めてのことだったのだ。わかる訳が無い。考えたって無駄で、教えてくれる人も誰も居なかった。くだらない意地が邪魔をして、誰にも話せなかった。

 

「……そうですか」

 

 それは理解を示す言葉ではない──トーセンジョーダンはそれを失望の言葉だと、よく知っている。顔を上げたくない。

 

「では、もう一つだけ質問をさせてください」

 

 トレーナーは静かな声でそう言った。

 

「──勝ちたいですか?」

 

 何を。

 

 何を、当然のことを──。

 

「……ってる」

 

 何を、当然のことを──!

 

「勝ちたいに、決まってる……っ! 勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたいっ!!!」

 

 みんなそうだ。負けたいウマ娘など居るものか。勝ちたい。輝きたい、勝って勝ち取りたい。自らを──。

 

「でも分かんないんだよ! なんで勝てないの!? なんでちゃんと走れないの!? あたしの体なら、あたしの言うことを聞けって、動けって思っても、動かなかったっ、走れなかったっ!」

 

 分からない。走ろうとしたら走れた。でも追いつけなかった。背中ばかりが遠ざかって、息苦しくして、目が眩んで──苦しくて。

 

「……もう、諦めよっかな」

 

 苦しかった。現実は想像よりもずっと厳しく、思わぬ方向からの苦難が襲いかかってくる。全力で走って負けるならまだマシだ、だがそれも出来なかった。一度は爪のせいで、二度目は訳のわからない恐れとやらのために。

 

 正面から勝負もできず、全部台無しになった。何もかも、何もかも、何もかもが──意味のない、徒労に終わって何も残っていない。

 

「……蟻地獄」

 

「……何? アリジゴク……って、ぐるぐるするやつ?」

 

「レースの世界は蟻地獄に似ていると僕は考えています。もちろん個人的な考えに過ぎませんが──この世界で輝けるのは、ほんの一握りです。少し授業をしましょう」

 

 妙なことを言い始めたトレーナーを怪訝な顔で見上げる。

 

「さて、問題です。中央──トゥインクル・シリーズでは、一年間にどれだけの数のレースが開催されていますか?」

 

「は? え、えっと……1000回、ぐらい?」

 

「いいえ。正解は約3400レースです。去年は3330レースでした。……続けましょう、これに地方を含めるとまた膨れ上がります。では第二問です。地方レースは一年間でどれくらいの数開催されているでしょうか?」

 

「…………えっと、中央が3400くらいなら、地方は4000回くらい……?」

 

「いいえ。正解は約15000回」

 

「……そんなあんの?」

 

 微かに驚きながら、トーセンジョーダンは呟いた。

 

「ちなみにですが地方レース場は合計で15ヶ所なのに対し、中央レース場は10個所です。まあ単純な比較は難しいですが……。では第三問、中央の重賞レースは、いくつありますか?」

 

「……えーっと」

 

 正直分からなかった。トレセン学園に入学したのだから、それぐらい分かってもいいだろうと自分でも思ってはいるのだが、実際わからないのだから仕方がない。そのぐらい、目を逸らしながら考えているフリをしているトーセンジョーダンを見ているトレーナーにも分かっているはずだ。

 

 だが、トレーナーは待ち続けた。

 

「……500個くらい?」

 

 そんなにあってたまるか。

 

「残念。正解は138レースです。では第四問──そのうち、G1レースはいくつありますか?」

 

「え、えっと……40レース、とか?」

 

「惜しいところですね。正解は年間26レースです。……授業は退屈そうですね。そろそろ最後の問題にしましょう、第五問──」

 

 少々学力の少ないトーセンジョーダンに少しの苦笑いをして、トレーナーは変わらぬ調子で続けた。

 

「G1のレース、まあフルゲート18人のレースとしましょう。そのレースには18人出走しますが、その中でレースを勝てるのは何人ですか?」

 

 流石に分かった。

 

「……一人だけ」

 

「はい、正解です」

 

 それがレースの厳しさであり、栄光の裏返しだ。トレーナーは続けた。

 

「去年の日本の出生数は約90万人──まあ少子化の時代ですが、そのうちウマ娘の割合は大体10%だと言われています。よって去年、日本には約9万人のウマ娘が生まれることになりました。君の世代ではもう少し増えて、大体11万人ほどになるでしょうか」

 

 また話が変わったし変な話が始まった、とトーセンジョーダンは思った。このトレーナーは明らかにちょっと変な人だと思った。正直めんどくさいのに捕まったとさえ思った。

 

「日本ダービーというG1レースがあることを知っていますか?」

 

「……バカにし過ぎ。なんか、すげーレースなんでしょ」

 

「ええ。伝統と格式あるレースで、一言で表すならば──その世代のチャンピオンを決めるレースです。クラシック三冠の一つであり、最も幸運なウマ娘が勝つと言われてはいますが、代々のダービーを制したウマ娘は皆強者でした。それこそ、彼女たちがその世代の顔と呼んで全く遜色なく、ただ一人だけが勝ち取る栄光を手にした──想像してみてください。11万人のうち、ダービーを勝つのはただ1人だけなんですよ」

 

 相変わらず一言の文章量が多くてよく分からなかったが──最後の言葉だけは、理解できた。11万人のうちの1人。

 

「僕もその熱に浮かされた者のうちの一人です。ですが時々、それらが蟻地獄に思えて仕方がない。美しく残酷な世界であり、厳しくも輝く業界です。砂に飲まれたが最後──ですが、それでも足掻くのならば、上を目指すのなら……」

 

 トレーナーはそこで言葉を区切った。

 

「勝負の世界に身を投じるのなら、一度も負けたことのないたった一人の例外を除いて誰しもが必ず一回は負けます。URA開催の未勝利戦は年間約3400レースのうち1240レース──つまり、それだけ勝てないウマ娘が存在しているということです。これらを踏まえた上でもう一度聞きましょう」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 返事は無かった。トーセンジョーダンは黙って顔を伏したまま。

 

「……1時間後に、またこの場所に来ます。もしもあなたが、それでも勝ちたいのであれば来てください。では」

 

 そう言い残してトレーナーは踵を返す。

 

 残されたトーセンジョーダンは、悔しげに唇を噛んだ。

 

「……ふざけんな、ふざけんな……っ…………」

 

 勝手なことばかり、好き勝手に言いやがって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 選抜レースの後は、新作のコスメを見に行こうと決めていた。府中から新宿にでも足を運んで、そのあとは原宿で古着屋でも冷やかそうと。約束していたことだった。

 

 元から、トレーナーが付くと考えていなかったのかもしれない。そもそも視界にも入っていなかった。きっとトレーナー側もそうだろうと、いやそうであって欲しいとさえ思う投げやりな気持ちでいた。

 

 夜はゆっくり湯船に浸かって、入念にマッサージでもして体をほぐして、サブスクで見ているドラマの続きを見ながら寝よう。そう思っていたし、そうするつもりだった。

 

「さ、終わった終わった! 今日は打ち上げじゃー!」

 

「もうヘトヘトなのによくそんな元気あるわー……」

 

「上げてこ上げてこー!」

 

「ウケねーわー……」

 

「いやウケろし! ここで行かないのはヒヨってんぞー? ね、ジョーダン?」

 

「……え? あ、話聞いてなかったわ。なんて?」

 

 ──そうする、つもりだったのに。

 

 友達と合流してからのトーセンジョーダンは、誰がどう見てもわかるほどに放心していた。

 

「だーかーらー、てかあんたが言い出したんじゃん。行くっしょ、お・で・か・け!」

 

「あ、うん。てか、どこ行くんだっけ」

 

「……ダメだねこりゃ。ねージョーダン、なんかあったんならやっぱやめとく? しょーじき明日でもいいしさー」

 

「それね。行くんならガッツリ行かんときびーじゃん。疲れてんなら言えし」

 

「……や、行く行く。行くっつーの。何もない、切り替えてくわー」

 

 ──時計を、ふと見た。

 

 "約束の一時間後"はまだ40分ほどあった。いやどうでもいい、一体何を気にしている? そんなものはどうでもいい。一体何の義理があって、何の理由があって。何のために? あんな言葉を間に受けてどうするつもりだ?

 

 くだらないものだ。気にするな。

 

「……オッケ、じゃあさっさと行こ。あ、てか夜飯どうする? あこ行かね、あのイカ墨パスタの店!」

 

「イカスミとかガチでウケるわ。インクとか食えんの?」

 

「インクじゃねーし! 一回行ってみよって。どう?」

 

「なしよりのあり麻呂で」

 

「意義なーし。ジョーダンは?」

 

 何も気にするものか。いつも通りでいい、いつも通りにしていればこの焦燥も胸元を過ぎ去って、彼方に消えていく……はず、だ。

 

 だから、いつも通りに振る舞え。

 

「え? ああ、うん。イカ飯の話?」

 

「…………マジでダメじゃん、これ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……何をしてるんですか?」

 

 ──既に日は落ちていた。

 

 落ちていたどころか、もう日没から二時間以上経過している。夕暮れのトレーニングに勤しんでいたウマ娘たちももうとっくに引き上げた後のグラウンドは静かだった。夜の照明設備もあるにはあるが、今はその役目を休んでいる。

 

 春先の夜は冷える。だというのに、明日原はまだそこに居た。

 

「……駿川さん。どうも」

 

「はい、こんばんは。もう一度聞きましょうか?」

 

「いえ……。見回りですか?」

 

「帰ろうとしたら、暗い中に人影があったんです。気になって当然ですよ──まあ、もう少ししたら見回りの警備員が来るはずですが……」

 

「……そうですか」

 

 明日原はそんな呆れの言葉を言う駿川たづな──理事長秘書に微かな視線を投げて、また暗いターフに顔を戻した。

 

「もう。何をやっているかは知りませんが、まだ寒いんです。風邪でも引いたら大変ですよ?」

 

「……そうですね」

 

「はぁ、全くこの人は……」

 

 仕事上がりのたづなはコンクリートの段差に座ったままの明日原の隣に腰を下ろした。

 

「スカウトは順調ですか?」

 

「さて……どうでしょう。まあ……順調かどうかは、どうにも。空振りで終わるか、もしくはもう空振りした後か……今はまだ、何とも」

 

「それでこんなことしてるんですか?」

 

「……まあ、そういうことになります」

 

 約束の一時間後からもう何時間経ったか。少なくとも三時間以上は経過しているだろう。いい加減本当に体が冷え切っているし、これ以上は冗談抜きで風邪を引く。

 

 たづなは呆れた様子でため息をついた。

 

「もっと普通にスカウト出来ないんですか?」

 

「僕も丁度、似たようなことを考えていたところです。スカウトは二度目ですが、難しいものですね」

 

「スカウトをそうやって括らないでください、普通のスカウトはもっと普通です。もう少し何か、器用なやり方もあると思うんですけど……」

 

「そう願います。……どうにも、難しいものですね。正直もう二度とあんな目に遭うのは御免だと思っていましたが、僕は結局こうしてトレーナーを続けている」

 

「その、彼女のケースは結構少数派といいますか……。でも半分くらいは明日原さんの責任とも言いますか……」

 

「身に染みています。まさかあそこまでゴネられるとは思いませんでした。ただ今度のスカウトが仮に成功しても、そういうタイプではないでしょうから。その点だけは安心しています」

 

「どうでしょうね……」

 

 それはフラグでは、とは言わないのがたづななりの優しさだったのかもしれない。

 

 夜風が微かに髪を揺らしている。昼間であれば爽やかなものだったのだが、何にしても寒すぎる。春の過ぎ去らぬ今の時期には、風物詩にもならないただの自然の厳しさだ。

 

「それで、いつまでここに残るつもりなんですか?」

 

「もう20分ほど。それで来なければ、今日のところは諦めて帰ります」

 

「……はぁ。ちょっと待っててください」

 

 そう言い残してたづなは立ち上がって、校舎側へ向かった。2分もしないうちに戻ってきて、缶を明日原に差し出す。

 

 それを受け取ると、結構熱かった。ありがたい差し入れということらしい。

 

「風邪、引かないでくださいね」

 

「……ありがとうございます、駿川さん」

 

「はい。では、私はこれで──ああ、そういえば今週の金曜日、空いてますか? 良かったら夜ご飯に付き合ってくれると嬉しいです」

 

「……また連絡します」

 

「はい、お待ちしてます。では」

 

 コツコツとした足音とともにたづなは去っていった。缶から感じられる暖かさに感謝しつつ、プルタブを開けて──。

 

 やがてそれを飲み干して、いい加減低体温症になるぞと思い始めた頃。

 

「……マジで、居んじゃん」

 

 若干引き攣ったような声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 信じられなかった。

 

 この現代にまだこんな特大のバカが生きていたことに、軽い感動すら覚えるほどに。

 

「遅かったですね」

 

「……や、遅かった……っていうか、え? あんた……いつから居たの?」

 

「あの後から一時間後に行ったのですが、居なかったので……それからは、ずっと」

 

「……ひ、引くわ。マジで。ヤバ。ヤバいっしょ。マジであんたヤバいっしょ。こんなクソ寒い中……待ってたの?」

 

「ええ」

 

「待ってる間、何……してた?」

 

「特に何も」

 

 ヤバい人だ。直感で分かった。この人、もしかしたら自分よりバカかもしれない。こんなぶっ飛んだヤバい奴がトレセンにいるのかと戦慄さえした。

 

「ああ……僕は担当を持っていないから、案外暇なんですよ」

 

「いや……そういうことじゃなくね? てかあんた……おかしいって。いや、マジであんた頭おかしい。脳みそバグってるわ、マジでこんな奴いるんだ……」

 

「ですが、君も来た」

 

 約束の時間などとっくに過ぎていた。

 

 認めよう、出来心だったのだ。ちょっと覗くだけというか、気の迷いというか。1000%有り得ないと分かっていても、どうしても──何をするのも手につかなかったから、その迷いを晴らすための確認としてここへ来た。言うなれば、そこに誰もいないことを確認するためにわざわざ寮から来た。それだけだったはずなのに──。

 

「約束の時間からは随分遅れましたが、まあ誤差でしょう。僕も随分待った甲斐がありました」

 

 なぜか変な人が居るし、もう訳が分からなかった。

 

「ここへ来たということは、君がまだレースを諦めていないということ……それで合っていますか?」

 

「諦めてないっていうか、あたしは別にそんなつもりできたんじゃ──」

 

「答えてください。君はまだ、走りたいと──勝ちたいと、そう思っていますか?」

 

 有無を言わせぬ言葉で、つまり答え方は二つあった。すなわち、イエスかノーか。単純な答えで、重要な選択。

 

「……あんたはさ、なんで、あたしにここまですんの?」

 

 そう問う。

 

 考えれば考えるほど分からない。そもそもこっちにしてみれば今日が初対面なのだ。何も知らない。ただのスカウトかとも思ったが、選抜レースで不甲斐ない結果を残した自分を選ぶ意味が分からない。

 

 そもそもで言えば、スカウトしたいとも言われていない。意味不明な質問ばかりされただけだ。余計に分からない。何が起こっている?

 

「……そうですね。一言で言うなら……なんとなく、ですね」

 

「……? なんて?」

 

「何となく、そうしたいと思ったからです」

 

「……なんて???」

 

「ですから、何となく──」

 

 またも耳を疑った。こんなバカがいるのか? どういうことだ、さっぱり訳がわからない。

 

「君の力になりたいと、何となく思いました」

 

 ──。

 

「……そっか、分かった。ずっと考えてたけど、やっと分かった。あんた……バカなんだね」

 

「不本意ながら、よく言われます」

 

「だろうねー! っふふ、あたしもバカだバカだって思ってたし、そう言われてきたけどさ。あんたには負けるわ。ムリムリ、もうボロ負けー。バカ勝負であたしに勝つとかマ? もうクソバカ。信じらんない、マジでギネス級のバカ。っくく、あ、あははははははっ! マジウケるんですけど!?」

 

 大笑いした。

 

「あはははははっ、マジウケるわ! バカ過ぎてバカとか、何それチョーウケるんですけどっ!  ひひ、あははははっ、あーっははははははっ! ひぃーっ、お腹痛い!」

 

 久しぶりに、心の底から笑った。

 

 自分よりバカなヤツなんていないと思っていた。けどここにいた。だから面白くて仕方なかった。本当に信じられなかった。

 

「あっはははははは! あっははははははは! あっははははははははははっ!」

 

 笑いすぎではなかろうか。自分でもそう思うくらい──。

 

「いえ、笑い過ぎでは?」

 

「ひっ、ふ、ふひっ、あははっ、はー……いや、ごめんて。でもあんたもわりーって、あームリ。もうお腹痛くて割れるわ。裂ける、ガチで死ぬって! あっはは、こんな笑ったのマジで久しぶり……」

 

 流石に笑いも落ち着いてきて、笑いすぎて痛いのを堪えながら微妙な顔をしているトレーナーの隣に座った。

 

「ねえ、あんたってトレーナーっしょ?」

 

「はい」

 

「で、何となく……ぷくくっ、な、何となく……あたしの力になりたい、って?」

 

「そんな笑うとこありましたかね……」

 

「ごめんって、もう笑わん笑わん……く、くくく……っ」

 

 ダメだ。ここでも多少は真面目にしなきゃいけない場面だと分かっていても面白すぎた。変人通り越して奇人だ。

 

 気を取り直そう。きっと大切なことで、こんなバカに出会ったことはある意味幸運なのかもしれないのだから。

 

「でさ、ならさ、あんたがトレーナーで、あたしの力になりたいとか小っ恥ずかしいこと言っちゃうタイプならさ、それって──」

 

 それはとても簡単な事実なのではないか? 本当に簡単で、単純なことなのではないか?

 

「あんたが、あたしを勝たせてくれるってことで……いいの?」

 

 その言葉を聞いて、トレーナーは微かに目を開いて、笑った。

 

「ええ。君が勝ちたいと望むのならば、僕はそのための力になります」

 

「……!」

 

「改めて、自己紹介を。僕は明日原。君の名前は?」

 

「……トーセン、ジョーダン」

 

「いい名前ですね。では──よろしくお願いします、トーセンジョーダン」

 

 明日原は握手を求めるように右手を差し出した。

 

 ──それが、なぜだかとても衝撃的だった。握手とはきっと対等な者同士で行うものだと思っていたから、それが自分に求められていることに驚いた。真っ直ぐに見据えてくる明日原の瞳は、自分を一人の対等な生き物だと認めてくれているようで。

 

「……うん。よろ、あっすー」

 

「……。もしかしてあっすーとは、僕のことですか?」

 

「うん。だけど? ヤだった?」

 

「いえ……君がそう呼びたいのであれば、それで」 

 

 あっすーという気の抜けた呼び名に微妙な顔をしつつ、明日原は結局文句は言わなかった。

 

 この日から、トーセンジョーダンのトゥインクル・シリーズに挑む日々が始まった。

 

 

 

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