12月だった。
秋晴れを通り越して冬晴れの、気持ちよく澄み切った空が冬の到来を教えてくれていた。
明日原は珍しくのんびりしていた。ようやくスカーレットが大学生活へ戻っていったので、胃痛の種が一つ無くなったのである。
無論かつての担当だ。多少の寂しい気持ちもないではない。胃は痛いが、しかし明日原は非常に晴れやかだった。
ウオッカがジャパンカップを終えて、正式に現役を引退することを表明。ウオッカの4年に渡る現役生活が終わりを告げたのである。加賀ほどではないが、明日原も少し肩の荷が降りた気分だ。いや本当に勝ってくれてよかった。ウオッカが負け続けたことで明日原も負け続けたのだが、ジャパンカップでだいぶ取り戻せたのである(無論、何をとは言わないが)。
それにしても非常に冬だった。今日は月曜の午前中、こうも寒いと気が滅入るばかりだが、それでも明日原は本当にのんびりしていた。何せ11月は胃も痛かったし忙しかった。スカーレットとウオッカがジョーダンをいじめている裏側で、明日原は対戦相手の分析やレース展開の予想に追われていた。ジョーダンを集中させるためにメディア対応の一切を明日原が引き受けていたのも大きい。
12月は師走と呼ばれ、非ッ常に忙しい季節だが、明日原にとってはむしろ11月の方が師走だった。後はホープフルステークスに向けて調整を重ねていくだけなのである。
だからというわけではないが、自分へのご褒美として明日原はコーヒーブレイクの時間を味わっていた。
トレーナー室の扉が開いた。ふわりと廊下の冷気が部屋に混ざってくるのと同時に入ってきたのはトーセンジョーダン。どことなく暗い顔をしているね、どうかしたのかな?
「……まったく。サボりですか?」
最近は真面目に授業に取り組むようになったと聞いていたのだが、やはり人間の習慣とはそう簡単には抜けないようだ。だが誰にだってそういう時期はある。受け入れつつも、授業に戻るように促してみよう──。
ジョーダンは暗い顔のままで、何も答えはしなかった。
思えばずっとそうだった。ジャパンカップのウオッカ引退ライブの時も上の空だった。帰ってくる時の会話もずっとぼんやりしていた。ウオッカの姿に感化されたのか、あるいはまた別の要因か。まあこういうものは知らない間に治っているものだ。気にしすぎるのも逆によくない。
「……ねえ」
不意にジョーダンは呟いた。
「あんたにとって、あたしって何なん」
…………。
明日原の顔が引き攣った。やばい、何があったのかは分からんけどこれはやばいやつだ。
「教えてよ、明日原。あんたにとって、あたしは何なの」
一筋の冷や汗が、つーっとこめかみを伝っていった。
一難去ってまた一難。11月がジョーダンにとっての苦難の一ヶ月であったように、今度は12月が明日原に襲いかかる。
GⅠホープフルステークスまで、残り28日。
ー ー ー
ことの発端は、先日のジャパンカップまで遡る。ジャパンカップ、つまりウオッカにとっての最後の戦いは喝采と共に幕を下ろし、一人の名バのラストランとして相応しい歴史に残るレースとなった。
担当があんな大舞台で引退しますなどと宣言してしまったものだから加賀の胃痛はさあ大変、後処理というか、主にマスコミ対応に追われていた。一方でウオッカは憑き物が落ちたようで、授業をサボってバイクのツーリングをしていた。タンデムの後ろ側にスカーレットを乗っけていたので、二人の仲は修繕されたということなのだろう。
めでたしめでたしで終わった。加賀の胃袋は破れるだろうが、担当の長い戦いが終わったのだ。加賀もようやくもう二人のジュニア級の担当へとフォーカスすることが出来る──とはならなかった。
「おい加賀ぁ! 準備しろ、行こーぜ!」
「………………ど、こ、に、行、っ、て、い、た!?」
URAへの登録抹消手続きとか、引退に際して必要な書類だとか──何より、引退式だとか。
そこいらのウマ娘が引退します、ならば"はいそうですか"で通るのだが、ウオッカほどのレベルになればURAとしても"そうですか引退するんですか"とはならない。まあシニア級2年目の末というタイミングはそう不自然なものでもないが、あまりにも突然過ぎた。
「引退式だぞ引退式! お前さんにはこの名誉が分かんねえのか!? お前があまりにも遊び回っているから俺が全部決めてやったぞ! 5日後! 東京レース場、18時からだ! 分かったな!?」
「へいへーい、分かった分かった。分かったからさっさと準備してくれよー、時間ないんだってー」
「お前さんは一体何を言っているんだ……。時間がないのはこっちの方だよ、帰ってきたんなら確認してほしい書類とか幾つかあるんだが──」
「ああもううっせえなー! いいからさっさと来るんだよ! 温泉旅行、行こうって約束してたろ!?」
──問答無用で伝統の行事『温泉旅行』へ運ばれていった加賀を見ながら、明日原は静かに合掌した。もう帰ってこれないなあの人。どうか安らかに成仏してほしい。もう助からないゾ♡
まあ本音のところを言うならば、明日原も肩の荷がようやく降りた。ウオッカとスカーレットの物語はようやく本当の意味で終わったのだ。これからはジョーダン一人に本気で集中することが出来る。ホープフルステークスも控えていることだし、これから気持ちを新たに集中していこう──そう、思っていた。
「あんたは、あたしのこと──どう思ってんの」
トーセンジョーダンはあまりにも平然としているように見えた。特別怒ったり悲しんだりしてはいなかった。だがそれにしては声色にも表情にも影が混ざりすぎている。表面だけは穏やかな海面の下では激流が荒れ狂っている──明日原はそんな光景を反射的に連想した。
ジャパンカップ──スカーレットにナデポを実行した明日原と、照れながら明日原に甘えているスカーレットを目撃してしまい、トーセンジョーダンの脳は無事に破壊された。
「答えてよ」
そんなことを知る由のない明日原は、穏やかな午前が粉々に砕け散ったことを悟って、静かに冷や汗を流した。
ー ー ー
冬に入ったこともあり、学期末テストがあった。レースを控える生徒も多い中、12月の初頭に定期考査──と呼ぶほどのものではないが、とにかくテストがあった。
どうせやらないわけにはいかない。年末はレースが忙しくなるが、かといって年明けの緩んだ時期にテストなど学園側もやりたくないに決まってる。そんなわけで、12月の初週に始まった学力試験。
ジョーダンは当然補習組、もはや顔馴染みとなったメンツと共に1教科ごとに2回くらいの追試を受ける羽目に──
「……うそ。どうしたジョーダン。わ……悪いものでも食べたの?」
ならなかった。
動揺のあまりゴールドシチーがそんなことを言い出す程度には、ジョーダンの成績は向上の一途を辿っていた。
「ここ、この数式……どうやってカンニングした? カンペ持ち込んでも無理でしょ、これ難問──」
どうやって解いたのか、ではなくどうやってカンニングしたかを聞くあたりにシチーの動揺が表れていた。ジョーダンがカンニングをするタイプの生徒ではないことなど、よく分かっていたというのに。
「……へ? あ、どした?」
「だから、ここの問題の話!」
「え? えっと、いや……別に、フツーにやっただけっていうか……いや、まあムズかったけど、こんなん発想の問題じゃね、って。なんか降りてきたんよ、空から答え」
「………………」
ツッコミどころがありすぎて、シチーはどこから突っ込んでいいのか分からなかった。まず一つ目、ジョーダンが最も苦手としていた数学で7割近い正解率を叩き出していること。これだけでも天変地異レベルなのにも関わらず、ジョーダンの様子は変だ──いや、普通にしてるからこそ変なのだ。
「や……フツーにべんきょーしただけ、だし。まあ……そりゃ、嬉しいけど」
「けど?」
「……なんもない」
心ここに在らず。以前のジョーダンならば狂喜乱舞して自慢して回っていたはずなのに、圧倒的な自分の成長に驚きも嬉しさもない。どうすればいいのだろう。
「ほか、ほかの教科は!? 古典……そうだ、古典はどうだったわけ!?」
「何、そんな気になる?」
「いいから見せろって、早く!」
「いや、まあいいけど……これ。まあフツーに苦手だわ、古文。訳分からんし」
──45点。
シチーの手元からジョーダンの回答用紙が滑り落ちていった。古文の単語翻訳など、暗記さえしておけば点数を稼げるエリアは全問正解。それ以外の古文読解はちらほら三角の混ざったバツ──どうすれば効率的に点数を取れるのかを完全に理解した答案だった。
信じられない。あの4点ジョーダンは消えたのか。死んだか、死んだのか。点数10倍界王拳なのか。
「……誰に、教えてもらったの?」
あっすーだ。絶対にあっすーに決まってる、それ以外にありえない。だがここでもシチーの予想を上回る。
「や……自分でやったけど」
「嘘とか吐くなし。だって隠すようなことじゃないじゃん。教えてもらってちゃんと点数取れるの、ちゃんと偉いよ」
「ちげーって。まあ勉強のやり方は教えてもらったけど、なんつーの? それ以外は教わってないの。ほらこれ、ベンキョーガイド」
「何これ、え? やっぱあっすーが作ったの?」
「ん……だいぶ前、夏合宿の時にもらった」
明日原謹製、ギャルでも分かる点数の取り方──と銘打たれたそれは、明日原が超難関と言われる中央トレーナー試験をパスした時に得たノウハウをまとめて、それをジョーダン用に解きほぐしたものである。
授業内容を理解するのではなく、テストを通過することの一本に内容を絞って、ジョーダンのこれまでの学力の積み重ねのなさをカバーし、一人で勉強を進めていくことが可能となる。いわゆる"何が分からないか分からないから何を勉強していいか分からない状態"を解消するための小冊子である。
「……すごいじゃん」
「え?」
「見直したわ。これじゃもうあんたのことバカとか言えないよ」
「やめろし。あたし一人じゃ何にも出来なかったんだし、これからもバカでいいっつーか……ほんと、あたしってバカなんよ」
少なくとも追試は回避できるという偉業を成し遂げたジョーダンは浮かない顔をしている。
明日原の小冊子、その通りに勉強していったら本当に成果が出た。ジョーダンは何度も勉強中に躓きかけて、やめようとした。だがその解決法は全て書いてあった。ジョーダンがそこで躓くことを見越しているかのようで、明日原が隣で教えてくれていたようでもあり──いや、余計なことを思うな。ただの紙切れに何を思ってるんだ。
「……ほんと、あいつって頭いいんだな……って。ちょっとヘコむっていうか、わかんないけど」
「そんな気にすること? トレーナーが頭いいのは当たり前じゃん。一回トレーナー試験の問題見てみたけどあたしらがやってるテストを百倍くらい難しくしたみたいだったよ。学園のトレーナーって、全員あんな試験を通過して来てんだって思ったら、ちょっと信じられんくらい」
ゴールドシチーにもトレーナーはいる。自分の気性難を受け入れてくれる大切なトレーナー、そいつも頭は良かった。
「や、違うんよ。なんつーかな、あたしすっげーアタマわりーじゃん。だから丁寧に教えられても分かんないこととかめっちゃあるの。例えば二次関数の説明されても、そもそも変数がなんなのか分かってなかったからもう全然話噛み合わんし、あたしもどこが分からんのか分からんからもうお手上げって感じで。前提が分かってないんよ、あたし」
ただ夏合宿で、明日原に教えてもらった時はそんなことが一切なかったという。
「なんつーかな。あいつは……どこが分からんかをすぐ理解して教えてくれんのよ。そもそもこれはこういう意味があって……って。あたしでも分かるくらいに噛み砕いて説明して、んであたしも理解できんのよ。あたし、それってめっちゃ頭良くねって思った」
今日の最後の授業を終えて、プリントを丁寧にファイルに纏めながらジョーダンは呟いた。
「勉強してたら脱線してってさ、相対性理論の説明までされちゃって──で、何がすごいってあたしでも理解出来たワケよ、ぜってー分かる訳ないと思ってたのに。なんか一般と特殊があるらしくて、特殊の方は簡単だから説明しやすいとか言われたけど、あたしに理解できるように説明するってヤバくねって。まあもうその時の内容までは忘れたんだけど……あはっ、我ながらウケるわ。忘れんなよんなこと」
しみじみと喋り続けるジョーダン。思い出しながら自分に呆れる。
──その時ふとジョーダンはさっきから黙ったままのシチーを見上げた。シチーはずっと口をポカンと開けて呆然としていた。
「……あんたさ」
「な、何?」
「……あっすーが担当になって、良かったね。マジで」
シチーは本気でそう思った。人は変わるものだが、いい方向に変わっていくためにはいくつか必要なものがある。
正しい方向へ導いてくれる人、それに出会える人は本当に少数だと思う。
ジョーダンはその言葉を聞いてからたっぷり5秒ほど呆けて、それから力なく笑った。
「それな。あたしもそう思うわ、マジで」
ジョーダンは明日原に拾ってもらえて幸運だった。一生分の幸運を使い果たしたとさえ思っている。だが向こうはどうだろうか。
「……でも、あいつも同じことを思ってっかどうかは、分かんねーよ」
こんなバカを担当して、本当に良かったんだろうか。あたしを担当して良かったんだろうか。
最近のジョーダンはそんなことをずっと考えている。
ー ー ー
ある昼休みのこと。ジョーダンが友人たちと共に学食で昼食を食べていた。いつものことで、ジョーダンは当然大盛り──ウマ娘基準で、だ──で、ペラペラ喋りながら過ごしていた。とすると、後ろを通った学友がジョーダンに声をかけた。
「ねージョーダン? なんかあんたに用だって」
「ん、ちょいま。今食い終わっから──」
最後の一口を頬張って飲み込んだジョーダンは椅子越しに振り返る。
「で、なん?」
「ほらこっちの子だって。……じゃ、私は行くわ」
学友が去って、残された場所にはウマ娘が一人。黒鹿毛の穏やかな瞳が特徴のウマ娘が立っていた。胸にぎゅっと手を当てて、静かにジョーダンを見下ろしている。
「……場所変えっか。わり、先行くわ」
「え、ジョーダン?」
「めんご〜」
飄々と返事をしながら、ジョーダンは心の奥底では緊張していた。そのウマ娘に視線を送って、無言で"ついて来い"と示す。
コツコツと無言で背後をついてきた。食器を返却して食堂を後にして、人気のない場所へ歩いていく。黒鹿毛のウマ娘は黙ってついてくる。
ここならいいだろう。建物の角に入り込んで、ジョーダンは振り返った。
「あたしになんか用?」
「……あなたが、トーセンジョーダンさん……なの?」
「そうだけど?」
「ご、ごめんなさい、突然こんなことを言うのは……気が引けるんですけど──あなたの担当トレーナーの明日原さんを、私に貸してくれませんか」
「………………え、何? なんて?」
「ご、ごめんなさいっ! でも私はどうしてもトリプルティアラを獲りたいんです! 私、このままじゃ──」
「え、ちょ、タンマ……てか、その……あんた誰よ?」
「えっ……あ、すみません。私──ブエナビスタって言います。あなたと同じ、今年からジュニア級でデビューしました」
ブエナビスタ、聞いたことがある。あの──桐生院とかいうヒトミミ女の担当ウマ娘だ。ミスオールマイティーハッピーミークの担当ということで結構有名だ。当然優秀ということもあるし、明日原とそれなりに仲が良かったはず。
「あんたがブエナビスタ──ふーん。知ってるだろうけど、あたしはトーセンジョーダン。よろぴく」
「あ、はいっ! よろしくお願いします──」
ちょっと手を差し伸べてやると、ブエナビスタはひまわりのような笑顔で頭を下げた。かわいいね。
「──って、違いますよ! わ、私……あ、あああなたのことなんて、絶対に認めませんからっ!」
あたふたとしながらブエナビスタはそう叫んだ。ものすごい慌てながら叫ぶという器用なことをしつつ、結構とんでもないことを宣言する。
「あ、明日原トレーナーの担当が、あなたみたいな人だなんて……絶対絶対認めませんからぁーっ!」
勢いのままそう言い切って、ブエナビスタは走り去っていってしまった。残されたジョーダンは訳もわからず立ち尽くすしかなかった。嵐が過ぎ去っていった後の寂寞が残った。
「え……何……?」
その後ブエナビスタのことをgoogle先生に聞いてみた。すると、ジョーダンはすぐに納得した。
「……ティアラ路線に行くつもりなんだ、あの子」
10月にメイクデビューで3着に敗れるが、その後の11月中旬の未勝利戦でぶっちぎって1着。10日後くらいのGⅠ阪神ジュベナイルフィリーズへの出走を明らかにしている。この時点でかなり評価されているらしく、事前予想でも大きく特集されていた。
納得した。ダイワスカーレットが成し遂げたトリプルティアラを狙うなら、そのトレーナーの元へ着くのが最も近道であることはジョーダンにも分かる。大方自分の評判を聞いたのだろう。そして何故自分ではないのか、と思った。
少なくとも、ブエナビスタはトーセンジョーダンのことを明日原が担当するのに相応しくないと考えているようだった。
自分だって、世代の中では少しくらい飛び出ているはずだ。だって重賞取ったし。他のジュニア級が何人くらいいるかは正直分からないが、少なく見積ったって1000人くらいはいるのではないだろうか? その中ですでに重賞を取っているのは10人もいない。1勝した程度のウマ娘風情に自分も随分舐められたものだ、と──
──そう思えるのだったら、ジョーダンは何も気にしないで済んだ。
「あなたのことなんて認めません、か」
努力した。本当に努力して、頑張った。けどそれは本当に自分の力だったのだろうか。例えばそう、別にあの子が明日原の担当になっていても同じことは出来たんじゃないだろうか。そう仮定して考えて、ジョーダンはその可能性を否定出来なかった。
明日原ほどの手腕ならば、誰が担当になっても最低限ジョーダンと同じ程度の戦績は残せるだろう。ジョーダンは素直に思った。それどころか、もっと優秀なやつが明日原の担当になっていれば、自分程度は軽く上回って、それこそ三冠くらいは取ってしまうのではないだろうか。
「……そだね。あたしも、そう思うわ」
だからジョーダンは本心でそう呟いた。それは明日原の担当ウマ娘として決して口にしてはならない言葉だと分かっていたのに、口に出してしまった。
ー ー ー
その日、ジョーダンは初めてトレーニングをサボった。
GⅠホープフルステークスまで残り25日。