「──と、いうことがありまして」
重苦しい表情で明日原と桐生院が向かい合っていた。桐生院のトレーナー室を訪れた明日原は、応接用のソファーに座ってゲンドウみたいなポーズをしている。
「……それは、まずいですね」
一方の桐生院も重たい表情でゲンドウみたいなポーズをしていた。
「ええ。かなりヤバいことになりました。GⅠを控えている身でして。少し相談に来たという訳です」
「実はナビから聞いたんですが、トーセンジョーダンさんに会ってきたって──」
ナビ──桐生院の担当であるブエナビスタから聞き出した。桐生院は不甲斐ない思いで一杯だったし、ナビは話す時も気まずそうだった。
ブエナビスタとトーセンジョーダンの接触、その一部始終を聞いて、明日原は静かに目を閉じた。
「ブエナビスタがジョーダンに──なるほど。どうも様子が変だと思ってはいましたが、しかしどうにも繋がりませんね。クラシックを控えているとはいえ、ジョーダンは十分に誇っていい戦績を持っているというのに」
ジョーダンの内心までは察しきれない明日原がそう呟いた。まあこれを察しろというのも無理のない話である。心とは複雑なもので、それを理解するために人類は何千年も費やしてきたが、未だ解明されていないのである。
「……互いにGⅠを控えている身です、協力し合えることがあるはずだと思います」
「はい、私も……同じ気持ちです」
ゲンドウポーズをやめて明日原は天井に向かって長い息を吐き出した。
「ふぅ──、いくつか……案があります。正攻法か、荒療治か。少し相談しませんか」
明日原と桐生院、駆け出しから中堅へとランクアップした二人のトレーナーによる、逆境への挑戦が始まった。
阪神ジュベナイルフェリーズまで残り9日。ホープフルステークスまで残り──24日。
ー ー ー
「来ましたね」
トレーニングの時間である。いつもならばトレーニング場所、ターフとかプールとかを集合場所にするのだが、ジョーダンはトレーナー室に呼び出されていた。
「君がどうしてばつの悪そうな表情なのか、想像に難くはありません。たまにはお叱りの一つでもくらわせてやろうと思っていたのですが、たった今その気もなくなりました。座ってください」
前日にトレーニングをサボった。明日原からの連絡も全てブッチして、ジョーダンは一人で街をふらついていたのである。誰とも会わないように。
2日連続でサボるということはしなかったが、ジョーダンは口を閉じて目を伏せたまま明日原の対面に座った。
「率直に聞きます、ジョーダン。なぜです?」
明日原はあえて主語を省いた。当然、ジョーダンにもその意図は伝わっている。わざわざ言わなくても分かるだろう、ということだ。
ジョーダンは沈黙を守った。耳も目も伏せたまま何も言わない。
「……なるほど、なかなか傷は深そうです。ジョーダン、言いたくないのならば言わなくていいですが、ホープフルステークスに出走する意思はありますか?」
迷いがちにジョーダンはコクリと頷いた。
「はい。ではもう一つ……いつぞやの質問をもう一度させてください。……君は今も、勝ちたいと思っていますか?」
「……そりゃ、勝てるんなら」
4月の時の返答と比べて、あまりにも消極的な回答。勝利だけを願ったあの時のジョーダンは見る影もなく、弱々しい様子だった。
「……ごめん。あたしも……よくわかんないの。ねえ、しばらく……一人にさせて欲しい。お願い」
今度は明日原が考え込んだ。この原因が突き止められない以上、下手に藪を突くような真似は避けるべきだ。だが月末には大舞台が待っている。今トレーニングをしないという選択肢はとりたくはないが、本人のモチベーションが薄い以上トレーニング中の怪我もあり得る。
明日原はプランを変更することにした。すなわち正攻法から荒療治への転換である。
「君を一人には出来ません」
そう聞いて、ジョーダンはぐっと口元を引き締めて顔を伏せた。嬉しかったけど嫌だった。
「ですが、今の君に無理にトレーニングをさせることもしたくはありません。そこで妥協案を提案します。桐生院トレーナーは知っていますか?」
「……うん」
「しばらく桐生院トレーナーの元でトレーニングをしてください。今の君に必要なものは、環境の変化です。受け入れてくれますか?」
そう伝えると、ジョーダンは安堵したような、ほっとした表情を浮かべてゆっくりと頷いた。その微かに緩んだ口元に、同時に寂しさを浮かべながら。
ー ー ー
憂鬱がちに扉を開いた。
「……っしゃーす……」
放課後のトレーナー棟は大抵静かだ。みなトレーニングに出ているから、今の時間は伽藍堂というやつで、まるで自分の本質のようだった。
「来ましたね。いらっしゃい、トーセンジョーダンさん」
大人っぽい微笑と共に出迎えてくれたのは桐生院葵──。明日原とは対照的に、綺麗に整理されたトレーナー室だ。特にトレーナーの個性が出やすいトレーナー室を見ると、なんとなくその人の性格が分かる気がする。それによると、桐生院は几帳面な性格のようだった。
「……っす。おなしゃす」
ちら、と視線を上げると同じく桐生院の担当であるハッピーミークが無表情でこっちを見ていた。内心の読めない顔だ。歓迎しているようにも怒っているようにも見える。
「ハッピーミーク。よろしく」
「……トーセンジョーダンっす。しゃす」
「話は明日原トレーナーから聞いてます。これからしばらく、明日原トレーナーと私はお互いの担当ウマ娘を交換してトレーニングすることになりました」
ということは、ブエナビスタ──彼女は今、明日原の元にいるということになる。胸が苦しくなった。それ以上にほっとした。感情がぐちゃぐちゃに絡まって自分のことも分からなくなった。
「……。ひとまずは、これからよろしくお願いします。私のことは、えっと……葵と呼んでください」
人と仲良くなるには下の名前で呼び合うのが効果的という高校生的な思考で桐生院はそう言った。
「わかった。よろぴ、きりゅー……さん」
「……はい! よろしくお願いします!」
前途は多難そうだった。
その日から早速トレーニングが始まるが──明日原とは全く違う方式に戸惑うことも多かった。
「……ねぇ、きりゅーさん。なんでこんな細かくトレーニング区切ってんの?」
坂路トレーニングから始まったトレーニングだが、かなり調整の多い内容だった。ストライドでやる場合とピッチでやる場合に区切って、3セットごとのクールタイムを設定し──とか、かなり管理的なトレーニングだった。
「はい。えっと……部位ごとの筋肉に対してのアプローチですね。ジョーダンさんの身体データから値を計算したんですけど、今は特定の筋肉に集中していくのがいいと考えたんです」
「……なんて?」
「えっと、つまり私が勝手にスプリンターメゾットを応用して考案した瞬発力トレーニングなんです。セットを終えたらすぐにクレアチンとロイシンを摂取してください、サプリです」
サプリメントの使用は初めてではない。明日原も使っていたものだが、大抵の場合明日原はそのことを説明しなかった。ドリンクに混ぜて飲んでいたのだが、そんな名前だったんだ。知らんかった。
「今のジョーダンさんが鍛えるべきなのは最高速と、そこに素早く到達するまでの
言われた通りに足幅を細かく区切っていく──キッツい。
「腿を上げてください! 腰よりも上まで!」
結構ヌルい感じかと思ったが、桐生院──実際はかなり追い込んでくるタイプのトレーナーだ。明日原と意外とよく似ている。
優れたトレーナーとは、より効率的なトレーニングを課す。それは筋肉への負荷を効率的に高めていくことで、厳しいトレーニングということだ。そのトレーニングに集中させるためのモチベ維持やトレーニング設備の確保、結果の分析から次のトレーニングに繋げていくなど──トレーナーはかなり複合的で忙しい職だ。
ジョーダンに分かったのは、この女も大概やり手であるということだけ。
「っ、ああああああああ──っ!」
「いいですよ、その調子です!」
ジョーダンの隣を涼しい顔をしてミークが抜き去っていく。
──負けたくない。ハッピーミークは3年先輩だが、そんなことは関係ない。負けるか。負けるか──。
「いい調子です、腕をしっかり振ってください!」
想像していたよりも桐生院のトレーニングは悪くない。その調子でトレーニングは進んでいくのだった。
一方、明日原とブエナビスタのサイド。
「……ふぅ、終わった──」
明日原が指示したのは並走トレーニングだった。他のトレーナーとの連絡を付けての合同トレーニング、模擬レースに近い形でのトレーニングとなった。
比較的自由な形のトレーニングであり、ペース配分や意識するべきことなどの基本的な部分だけを伝えられ、短距離での追い込みトレーニングが行われていた。
「よしっ、もう一回……!」
レース直前ということもあり、ブエナビスタは特に追い切りのトレーニングを重ねていた。本番も同様にできるように、差し切るための末脚の強化をメインに行っていた。
「そこまでです、ブエナビスタ」
「え、あ……はい! じゃあ次は──」
「いえ。今日はこれで終わりです」
「え、ええ!? な、なんでですか!?」
「調整だからです。今日はクールダウンに入ってください」
「そんな、私まだ全然いけます! じゃなきゃ──」
そう続けようとするブエナビスタを明日原は手で制した。
言いたいことは分かる。合同トレーニングはまだまだ続いていて、ブエナビスタという注目株との合同練習に周りのウマ娘たちのやる気も上がっている。いい環境が出来ている、それなのに──と言いたいのだろう。
「勘違いしないでください。ここで終わりにするのは、それが勝利のために必要なことだからです」
徐々に疲労を抜きつつも、レースに向けて意識を高めていく。それが調整であり、最も大切な期間だ。調整に失敗すると、どれだけ強いウマ娘でも簡単に負けてしまうこともあるくらいだ。
「仕上げるというのは、単に強度の高いトレーニングを積んでいくことではありません。勝つために必要な身体を作る基本はトレーニング、休養、そして栄養です。今日のトレーニングは終わりですが、むしろここからが難しいところです」
その言葉に疑問符を覚えつつ、ブエナビスタは結局指示に従った。その言葉の意味が分かるのは、クールダウンを終えて夕食を摂るためにカフェテリアに向かってからだった。
「君のはこれです」
先に着いていた明日原がトレーを渡す。
「……あの、少なくないですか?」
「はい、体重を調整していく必要がありますから。一応伝えておきますが、減量の基本は管理の徹底と、計画の完遂です。正直なところ焼け石に水のような気もしなくはありませんが、まあやらないよりかはマシでしょう」
「……げん、りょう?」
「現実的な目標としては1kg程度ですね。トレーニングと同時に食事の量を減らすことで調整します。あとは適切な休養ですが、これに関しては後で伝えます」
「……そんな、殺生なぁ……」
正直に言うが、明日原のトレーニングはあまりにも地に足の着き過ぎていた。あの三冠トレーナーが言ってはなんだがこんな地味な──それでいて残酷な──ことを指示するとは思っていなかった。何せブエナビスタのウマソウルはあのボテ腹で有名な名バ、スペシャルウィークの因子を受け継いでいるのである。大食いに食うなと言う。それは残酷なことだ。
「走るだけがトレーニングではありません。適切に鍛え、適切に食べ、適切に休む。そして勝つ──日常生活の全てがトレーニングです。出来ますね?」
明日原の問いには、ぐぅぅぅぅぅぅ、という腹の虫が代わりに返答をした。十分過ぎるくらいの答えだった。
「……頑張り、ます」
トーセンジョーダンの方も大変だが、こっちもこっちで大変だった。
ー ー ー
阪神ジュベナイル
「塩ラーメン、ネギトッピングでお願いします!」
「魚介つけ麺、味玉と追い飯で」
──桐生院と共に。
「それで、どうでしょう」
「はい、大きな問題は発生してないと思います。あの子、かなり根性があるんですね。びっくりしちゃいました」
「ええ、僕の自慢です」
どちらかというと外食よりも、情報共有がメインの目的だった。レース前の調整は普段ならばそれほど忙しいわけではない。粗方の準備は終わり、あとは本番に臨むだけだからだ。だが今回は場合が違う──担当がいきなりスイッチしたために、やることは3倍くらいに膨れ上がった。
まずは担当の過去のデータを自分用に整理し、そこから特徴を割り出して理解する。そして対戦相手のデータ集め──それまで目標としてこなかったレースの対策を、本番直前になってやらなければならないのだ。当然お互いにフォローはしているが、それも限度がある。
明日原も桐生院も仕事中毒で、ウマ娘狂いのような部分がある。はっきりと表現すれば、手を抜くことはできる。それなりの結果は残せるだろう。だが二人とも仮とはいえ担当に対しては誠実な仕事をするべきだと考え、一つも手を抜いていなかった。結果的に働き詰めになる。
「ジョーダンはどんな様子ですか?」
さながらクラスの担任の先生に子供の様子を聞く保護者のような感じで明日原はそう切り出した。当然気にならないわけがない、担当なのだ。桐生院を信頼しているが、それはそれ、これはこれだ。
「一生懸命やってくれてます。トレーニングの結果は明日くらいにレポートを送りますね。でも……どうにも、ギャル語というものが、よくわからなくて」
「あー……」
明日原の前ではあまりギャルギャルしくないジョーダンではあるが、桐生院の方では結構そんな感じなのだろうか。
「アゲてこー、とかなら分かるような気がするんですけど、メンブレぐらいから分からなくなって行って……。後で意味を調べたんですけど、あんまりピンと来なくて、どうすればいいんでしょうか」
「気にしすぎないことですかね。ノリで行きましょう。ノリで」
「なるほど、あまり考え込まない方がいいと。ノリ──つまり、会話のリズム感を掴むということですね? 短くテンポのいい会話が適していると」
「考え過ぎですね。あなたの場合は多分ぎこちなくなるのでやめたほうがいいかと」
「うっ……はい、頑張ります。と、ところで……ナビの方はどうなんですか?」
塩ラーメンでーす。魚介つけ麺でーす、ごゆっくりどうぞー。あ、はい。ありがとうございます──。
割り箸を割って、明日原はつけ麺を啜った。
「おそらく、勝てます」
「おそらく、ですか」
「ええ。……彼女、相当に体が良いですね。強いウマ娘です、新バ戦で負けたことが信じられないほど」
ブエナビスタは逸材だ。間違いなく世代のトップで、言葉を選ばずに言えばジョーダンよりも優れている。紛れもない事実なのは確かだ。阪神ジュブナイル
「……問題なのは、精神面ですね。言いたくありませんが、桐生院さん。これはあなたの責任ですよ」
「……本当に、明日原さんには迷惑を掛けています」
「いえ……お互い様です。僕もジョーダンのことを理解し切れなかった」
片側だけが不調ならばこんなことになっていなかった。双方のメンタルがなんかちょっとやばそうだったからこういう手になっているわけで、紛れもないトレーナーたちの責任だった。
「……彼女、ブエナビスタはあなたのことを嫌っているわけではありません。ただ焦っているだけです。気を落とさぬよう」
「……ありがとうございます。それとその言葉、そのままそっくりお返ししますね。トーセンジョーダンさんも、明日原さんのことが嫌になったわけではないと思います」
「……そうだといいのですが」
トーセンジョーダンは明日原の元でのトレーニングを拒んだ。何せ桐生院の元に移れと言われた時、ジョーダンはホッとしていたのだ。明日原の元でトレーニングをしたくないなんらかの理由があるのだろう。
ブエナビスタは結果の出せない焦りから。こっちの解決はおそらく可能だ──次のレースはGⅠ。ここで結果を残せば焦りは解消される。
ずるるっ。桐生院が上品さを感じさせる手つきで麺を啜った。
「しかし、流石は桐生院さんですね」
「え?」
「ブエナビスタ、相当に頭がいいというか。よく考えたレースをしますね。追い込み寄りの差しですが、かなり上手です」
「はいっ、本当にそうなんですよ! ナビってばおっちょこちょいで抜けてるところもあるんですけど、ここ1番のキレがすごくって!」
桐生院が勢いづいた。それからブエナビスタのことを話し続ける。スカウトの時のことや、デビュー戦の時のことなど。
ブエナビスタのデビュー戦に関しては余計に興奮していた。
「あのデビュー戦は──メイクデビューなんかじゃありませんでした。私、自分の目が信じられなかったんです。GⅢくらいのレースを見ているような気分でした。アンライバルド、リーチザクラウン、スリーロールズ、そしてナビ」
「ええ──全て有望株ですね。アンライバルドはイグゼキュティヴに敗れはしましたが、リーチザクラウンはひとまずpreOPで1勝。ホープフルステークスでのライバルの一人となるでしょう。スリーロールズはまだ未知数ですが、光るものは持っています。重賞を取るかもしれません」
「運命と言うべきですかね? こんなことって、本当にあるんだって──」
「ロジユニヴァースとトーセンジョーダンもメイクデビューでぶつかりましたね。この世代はどうにも運命で引き合っているようです」
──ロジユニヴァースはホープフルステークスへの出走を表明している。現段階では1番人気だ。他にもイグゼキュティヴが来るらしい。ジョーダンにとっては因縁の相手だ。早い段階から世代同士での戦いが始まる。
「……まあ、正直胃が痛いですね。僕はブエナビスタから相当期待されているようなので、これで負ければかなり僕の責任が重たくなります」
「あはは、いっつも胃が痛いですね、明日原さんは。そんな感じ全然しないのに」
「顔に出ないだけですよ。……担当チェンジ、正直一週間程度で終わるだろうと思っていたんです。まさか本番まで受け持つことになるとは考えていませんでした」
「案外相性が悪くないみたいです。ナビの本番には、ちゃんと応援行きますからね!」
「……ええ。見届けてください、あなたの担当を」
ブエナビスタは寮の窓から空を見上げた。
明日原に褒められた部分はたくさんあった。でもそれは全部、桐生院に教わったものだ。位置取り、フォーム、視線、レース分析、ラップタイム、スパートのタイミングと姿勢。何もかもを桐生院に教わった。
だから桐生院には悪いことをしたと思った。レースが終わったら、きちんと謝らなければならない。信じきれなくてごめんなさい、と。
でもその前に、桐生院に見せてやらねば。
あなたの育てたウマ娘が、こんなにも強いということ。
ー ー ー
二日後、12月14日、日曜日。兵庫県、宝塚市。阪神レース場。
GⅠ、阪神ジュベナイルフェリーズ。
ブエナビスタは、2着ダノンベルベールに2バ身半の差をつけて優勝した。
「やった、やりましたね、ナビ! ナビーっ! すごかったですよーっ!」
桐生院が観客席から叫んでいた。観客たちも鳴り止まぬ歓声を彼女に浴びせていた。ブエナビスタはホッとしたように笑って、観客席に向けて大きく手を振った。
「…………っ!」
トーセンジョーダンは、静かに拳を握りしめて、ただひたすらに焦っていた。
ホープフルステークスまで、残り14日。