1月18日、GⅢ京成杯。中山レース場条件オープン。芝2000m。
三女神像がどうのとかで一悶着あったトレセン学園ではあったが、時間は待ってはくれなかった。一番人気ナカヤマフェスタ、二番人気アーリーロブスト、三番人気トゥリオンファーレ。
『アーリーブロスト! 僅差を差し切りましたッ!』
ナカヤマフェスタ、2着。クビ差で敗れる。未勝利戦からの三連勝を叩き出したアーリーブロストに対し、僅かに届かなかった。
「……ふ。残念、無念、また明日……か」
「ちっとは悔しがったらどうなんだよ……。全く、やられちまったな。奴さん完全に仕上がってやがった」
「そう心配するな。皐月賞を取るための要素がようやく分かったんだ、収穫はあった」
「ああ? 何だよ」
「揺さぶりだ。加賀、模擬レースを組んでくれ。私にはまだまだ鋭さが足りない」
「……了解了解。ガチでやるぞ、ロジユニヴァースをぶっ潰す」
時間を進める。
2月8日東京レース場、芝1800m──GⅢ共同通信杯。
一番人気ブレイクランアウトを破り、トーセンジョーダンはクラシック級として最初の重賞を手にした。
「っしゃあ! どうだ見とったか! オラァ!」
掲げた右手。トーセンジョーダンは栄光への第一歩を踏み出した。
2月15日、GⅢきさらぎ賞。リーチザクラウンが頭角を表す。
3月7日、明日原にとっては懐かしきGⅢチューリップ賞。かつてウオッカとスカーレットが戦った舞台であり、その時の勝者はスカーレット。そして今度の勝者は──
「……やった。やった、やった、やりました! アオイ、私やっちゃりましたよーっ!」
ブエナビスタ。ティアラ一番の有望株が桜花賞に向けての勢いをつける。1日後、弥生賞。皐月賞のステップ競走であるこのGⅡを叩き潰したのはロジユニヴァース。
「ダービーは必ず私が取る。弥生賞はその前段階の前段階に過ぎない……まずは皐月賞。リーチザクラウンでもトーセンジョーダンでも、誰でもかかって来ればいい。勝つのは私だ……!」
セイウンワンダー、リーチザクラウン、ロジユニヴァース、そしてトーセンジョーダン。皐月賞に向けての役者が出揃い始めた3月にそれは起こった。
「ミーク先輩、1ハロン走もう一本お願いします!」
「ん……顔、ちゃんと上げて。疲れてても、前を見ること」
「はい!」
チーム桐生院の張り切った姿を横目にしていると、どうしてもモチベが上がらないわけにはいかない。いくらふざけたメンツだとしても実力は本物だし、ハッピーミークは相当の強者だ。
4月中旬の皐月賞まで残り1ヶ月を切った。まずは目の前のクラシック三冠への挑戦に全力で集中していく。
「っし、クールタイム終わり。あっすー、行ってくるわ」
「はい。坂路追い込み3セットのあと、1000mの並走を行います。厳しいですが、乗り越えてください」
アスリートとしてだんだんと形作られていくトーセンジョーダンの様子は頼もしい。1月にはまあ色々あったものの、今の彼女には勢いがある。何かをやってくれるのではないかと思わせる何か。
ロジユニヴァースは手強い。本当の勝負になった時、明暗を分けるのは結局のところ根性だが、最後の直線で勝負に持っていける状態にまで仕上げる必要がある。
「よゆーっしょ。……大丈夫、絶対皐月賞取ってきてやっから」
同時に口の中で呟く。必ずあんたにクラシック三冠を取らせて、ちょっとでも貰った分を返さなきゃいけないんだから。
「っし、いっちょやっちゃるかー!」
明日原はそこから坂路へ向かっていったジョーダンを見送った。隣の乙名史記者が微笑んで話しかける。
「気合十分、ですね! 敗北を乗り越えてより強固になった担当との絆、これはもう実質的な婚約……! クラシックの楯をそのまま婚約指輪になんて素晴らしいです! 担当のためには将来すら捧げるその覚悟、感動しました……っ!」
「乙名史記者。少しは真面目にやってください」
「失礼な! 私はいつだって真面目です! ……それにしても、今年はティアラの年だとばかり思っていた自分が情けないです。クラシック路線の子たちも全く引けを取っていませんね」
──全くだ。1月に起きた女神像だ継承だなんだのせいなのかは分からないが、急激に伸び始めたウマ娘たちが現れた。ジョーダンもその一人ではあるのだが、これから先は誰が勝つのか本当に読めなくなった。
「ダービーでの激突が楽しみです! ロジユニヴァースは絶対にダービーを取ると取材でも言い放つくらいダービーへの思いが強いですから──今年の夏も熱くなりますね。ところで先日メールした件なんですが」
「申し訳ありませんが、密着取材はちょっと。これでも月間トゥインクルを贔屓にしているつもりです。特にジョーダンに関しては」
「まあ仕方ありませんね、下手に集中を削ぎたくありませんか。彼女、結構見られている意識がモチベーションに関わると思ったんですけど……」
「いえ……ジョーダンは割と本質的な部分では自分に自信がない子です。メディア露出はブエナビスタに任せて、今はただ勝ちだけを狙いに行きたい」
「なるほど? つまりジョーダンさんの姿は明日原トレーナーが独占しておきたいと」
「いえ」
「彼女を誰にも渡したくないと!」
「いえ」
「そして彼女がいずれ頂上に上り詰めるときに後方彼氏面をしておきたいと! 彼女の唯一の帰ってくる場所でありたいとッ! そのためなら全財産をはたいて豪邸を用意しておくと!」
「いえ」
乙名史記者は相変わらずで逆に安心するレベルをキープしている。真面目にやっていれば相当優秀な記者のはずなのだが言動がダメだ……。
クラシックを控えた今のトレセンには記者が多く詰めかけている。時期的にも選抜レースが近いし、有力なチームへの取材も必然的に多くなる。メディア対応にもある程度慣れてきたものだ。
ジョーダンが坂路を駆け上がる──心臓破りの坂、汗だくになりながら駆け抜けていく。その光景は、多少なりとも心を動かす力があった。ジョーダンであれば、ひょっとすると何か大きいことをやってくれるのではないかと。
ジョーダンがはしゃぎながら混ざってきたブエナビスタと競いながら駆け抜けていく。ただ勝つ、そのためだけに。
──油断していたと言うならばそうだ。
ジョーダンはそれを忘れたわけではない。ケアは欠かさなかった。だが意識は緩んでいた。繰り返されるルーティンワークが、それに対する意識を少しずつ奪っていったと言うのであればそうだった。だから忘れていたと言うのなら、その通りだ。
並走中のことだった。隣にはブエナビスタ──彼女を追い越すために、足に力を入れたその瞬間の出来事。
瞬間的に高まった負荷に耐えきれず、それは起きた。ジョーダンのフォームが一気に崩れて失速しコースを外れる。
「……っ、あ、いッ、つぅ──」
言葉も途切れるくらいの痛み──針が貫通したのと同じくらいの痛みが右足の親指を襲った。そのままターフに転んで粗い呼吸を繰り返す。
「はッ、はッ、はあッ、はあッ、なに、これ────」
最初にそれに気がついて走り出したのは明日原だった。バインダーを捨てて急いで駆け寄る──手で押さえている位置、表情、微かにシューズに滲んだ血。足だ。
「ジョーダンッ! くそッ──もしもし、救急です! はい、はい……府中市浅間町45──トレセン学園ですッ! ウマ娘がトレーニング中に怪我を──、はい、おそらく足の爪が──」
ジョーダンが痛みに支配された意識の中でぼんやりと、初めて見る焦燥の表情で119番に向かって叫ぶ明日原の姿を見た。
「明日原です、明日原景悟、電話番号はXXX──」
──すぐに、救急車のサイレンが聞こえた。
乙名史記者やブエナビスタ、ターフで練習していたウマ娘たちが緊迫した表情で見守る中で、ジョーダンは担架に乗せられて運ばれていく。
「……ごめん、あっすー。あたし……」
「君が謝る必要などどこにもありません。今は……ただ息を吸って吐くことだけに集中していてください」
救急車に付き添って、できる限り平常を装おうとした明日原──少しでも安心させようとしていた。だがジョーダンは痛みによるものなのか、だんだんと表情が歪んで、ついに少しだけ涙が浮かんだ。
「……爪」
「ええ。……ギリギリの状態でした。よくここまで持ち堪えましたね」
医者が言うには──。
すでに限界に差し掛かっていた爪をネイルで補強して走っていたことが、今回の事故につながった可能性が高いとのこと。実際かなりの暴挙だったそうだ。骨折した腕をガムテープでぐるぐる巻きにするぐらいの乱暴さらしい。
「復帰するのは今年の11月ごろになるかと思います。それまでは爪への負担は厳禁です、今回は……この程度で済んで良かったと、そう思ってください。割れた爪が体に入り込む可能性もあったんです」
「……11、月」
間に合わない、と思った。皐月賞は無理だ。ダービーも無理だ。菊花賞にも間に合わない。レースに出られない。クラシックは一生に一度しかないんだ。
患部に視線を落とした。はち切れたトマトみたいな傷口は、表現を選ばないならグロテスクで痛々しかった。
ジョーダンにとって、爪が割れるのは初めてじゃなかった。だがここまで酷い怪我は初めてだ。右足は──地面につけるだけでも痛い。
「……嫌だ」
ぽつり。呟いた言葉を咎めるような視線が医者から飛んでくるが、そんなものはどうだっていい。ジョーダンは顔を伏せてただ呟く。
「出る。皐月賞、絶対出るから。絶対……出なきゃダメじゃん。じゃなきゃ……あたし──」
怪我とは直接的には身体の故障だが、それが選手に及ぼす影響は強い。レースに出れないのなら、一体何のためにトレーニングをしてきたのか? 何のために苦しいトレーニングに耐えてきたのだろうか。ジョーダンの瞳は震えていて、焦点が合っていない。
「それはおすすめ出来ません。過去、あなたと同じように怪我をして、それでも無理してトレーニングをしたウマ娘のケースは何件もありますが、どれも到底満足する結果に終わったとは思えませんでした。強い意志で物事を行った結果、最悪のケースを招いたこともあります」
「……」
「ウマ娘の脚力は靭帯を引きちぎるのに十分な力です。力のかけ方が少しおかしな方向に向けば、自分自身の筋肉を引きちぎります──分かりますか。走ることはおろか、二度と歩くことすら出来なくなるかもしれません。たった一つの決定で、これからの一生全てを台無しにするかもしれないんですよ」
「……! ……けど……」
ジョーダンはまだ何か言いたそうだったが、明日原がそれを遮った。
「先生。治るんですね?」
「ええ。しっかりとした治療を続けていけば……しかし、爪が割れるのはこれが初めてではないのでしょう。癖になっている可能性があります、決して油断は出来ません。ましてレースなど──」
その先の言葉など、わざわざ言われなくても分かる。耳を塞いだって、自分で分かっているのだ。
トーセンジョーダンのクラシック三冠は、始まる前から終わりを告げた。
病院を出た時には日が傾いていた。春の夕日が憎いくらいに眩しくて目が眩んだ。
「……痛みますか」
明日原が無言を破ってそう聞く。
が、そんなことを聞いたところで基本的に人は無力だ。痛むからなんだ、それを今すぐ治してやれるのかと言われれば否。痛いよと答えてジョーダンの気分が晴れるのかと言われれば否。ただ明日原は、どうすることもできない悔しさを言葉として吐き出したかっただけだ。
「あっすー。あたし皐月賞に出る」
そう言うと思った。だがそれは担当として喜ぶべき言葉で、悲しむべき言葉で、怒るべき言葉だ。トレーナー以前に人として肯定できるものか──だが、明日原は何も言えなかった。
「……返したいの。あんたに返させてよ。お願いだから、あんたの担当を役立たずにさせないでよ。勝つから。出れたら勝つから、絶対絶対……じゃなきゃ、あたしは何のために──……」
共同通信杯を獲って、ジョーダンが最初に感じたのは安堵だった。嬉しさや興奮よりも、安心してしまったのだ。ダイワスカーレットという怪物の業績を無意識に追いかけて、明日原の担当であるならばそうでなければならないと自ら思い込んでいた。
三冠を獲りたいではなく、三冠を獲らなければならない──そんな強迫観念にも似た思いが、ジョーダンの中にはあった。結果的にそれは今まではトレーニングの追い風になっていた。だが今となっては逆風となって、ただジョーダンを追い詰める──。
「ジョーダン。僕は一度だって、僕のために走ってほしいなどと口にしたことはありませんし、そう考えたこともありません」
顔を上げたジョーダンの表情が震えている。それは驚きというよりは、恐怖が混ざっている。
「あたしは……必要ないの? 走れないなら、勝てないなら……あたしなんて、何の価値も──」
怖いのだ。
勝てなくなることで、自分に担当としての価値が無くなってしまうことが怖いのだ。"もしかしたら、こんな自分では契約を打ち切られるんじゃないか"──その思いは、ホープフルステークスを経て無くなったはずだった。
だがそれは根本的な解決ではない。それはジョーダンが本当の意味で自分を信じることが出来なければ解決ではない。ジョーダンは明日原が信じる自分を信じているだけだ。自分の信じている自分ではない。それは僅かな違いかもしれないが、確かな歪みだ。
「ジョーダン。走る理由を僕に求めてはいけません。無茶を承知で走るのなら、それは君自身のエゴでなければならない。
明日原はあくまで厳しかった。安易な逃げなど許さないと言外に告げる。
「……とにかく今日は帰ってしっかりと休養を取ることです。帰りましょう」
そう言って、明日原はタクシーを確保するために歩いて行った。
帰りのタクシーの中で、ジョーダンは一言も喋らなかった。
ー ー ー
時間が経つごとに、親指がじくじくと熱を持って痛み出す。クールダウンと痛み止めで誤魔化しながら、薬用ジェルを塗り込んでいく。
治療とは言うが、基本的には爪が生え変わるのを待つしかない。ただ生え変わったからと言って爪が強くなるわけではない。少しずつ補強していくことが必要だ。そしてそれには時間がかかる。一ヶ月や二ヶ月でなんとかなる種類のものではない。
何よりも恐ろしいのは、怪我の連鎖だ。爪にばかり意識を持っていかれると、他の部分の異常を見過ごしかねない。最悪の事態を避けるために──そう言われたって、どうしようもない。
ジョーダンは寮に帰ってからも、ずっとぼんやりとしていた。
何となく部屋を出た。歩く時──右の親指が地面に当たると痛かった。だから体重は左の方に偏って、少し歪な歩き方になった。これがもしもレースだったなら……そう考えて、やがてそれ以上考えることはやめた。
共用スペースに入る。キッチンや冷蔵庫が置いてある、ウマ娘たちの憩いの場所──何があったわけじゃない、ただ何となくだ。
扉を開ける前から、何だかいい匂いがした。
「……あ」
「ナビ──」
ブエナビスタが夜食……焼きうどんを作っていた。恐ろしいほどの食いしん坊であるブエナビスタはカフェテリアの晩ごはんだけでは足りなかったらしい。よく見る光景だ。
なんとなく気まずい場面を見られてしまったブエナビスタ──実は彼女はよく夜食を作って食べていることを他のウマ娘たちに知られていないと思っている──が、気まずい顔をした。
「あ、あははー。その、なんか妙にお腹が減っちゃいまして……」
とても呑気というか──何だか、毒気が抜かれてしまう。
「じ、ジョーダンも……食べます?」
沈黙に耐えきれず、ブエナビスタはそう言った。ジョーダンはこくりと頷いた。
ずるるっ。
もぐもぐ、もぐもぐ。ずるるっ。
「はふっ、はふ──あっつい! でも美味しい、さすが私……完璧です……!」
少し強めの醤油の味がする。にんじん多めの焼きうどんは美味しかった。普段ならば夜8時以降にこんな重たいものなど食べない。だが今は、このサラダ油に塗れた炭水化物の化身が美味かった。
「ふふふ、ジョーダンも知ってしまいましたね。これが罪……アオイに黙って食べる焼きうどんこそが至高ですっ! ぱくぱく食べられるので実質0カロリー! ああ、これがこの世で最も罪深いロジック……」
ブエナビスタがアホなことを言いながら顔を綻ばせていた。言いたいことは分からなくはないが、間違いなく太る。こんなことばっかりしているからレース前に減量で地獄を見るのだとわかっていないのかもしれない。
「あ、でもでも。実は深夜のカップ焼きそばシリーズも捨て難いんですよ。最近はアレンジカップ焼きそばにハマってて、お肉とかキャベツとか入れちゃうんですから! すっごいですよ、もうすっごい。きっと来世は地獄行きになるくらいの罪なんです、今度一緒にやってみますか!?」
なんかすっごいアホなことを言っている。自分から見てもアホとは相当なアホだ。実はだいぶ前からわかって居たことではあるのだが、ブエナビスタはアホだ。ついでにバカだ。何を隠そう補習組の筆頭である。
それでも世間でブエナビスタが人気なのは、きっと愛嬌があるからだと思う。自分はそんな人懐っこい笑顔なんて浮かべられないし──何よりも、ブエナビスタのような才能がない。
ブエナビスタは楽しそうにレースを走る。いや、走ることそのものが好きなのだと思う。勝ったら笑顔で、負けたら全力で悔しがって、きついトレーニングは年相応に苦しみながらも必死でこなす。
一緒にトレーニングをしていると分かる。ブエナビスタは本当に強い。
「もぐっ……んん〜! にんじん焼きうどんはやっぱり殿堂入り確定ですね! あ、でもいくら美味しいからって食べ過ぎちゃダメですよ? 周りにバレるとアオイたちに話が行って、怒られちゃいますから!」
もうバレてるよ。匂いで分かる──最低週一回は来るこの飯テロの被害者は数多い。特に深夜帯とかにやると最悪だ。
それでもブエナビスタが袋叩きに遭っていないのは、匂いに釣られてきた子にこうやって夜食を分けているからだろう。そうすれば共犯だ、怒ることもない。
そういうところが、きっと彼女の愛嬌なんだろう。他人と楽しみを共有することに躊躇いがない。ブエナビスタの周りにはいつも人がいて、彼女もみんなも笑顔だ。
「だからほどほどにしなきゃダメです! いいですか? これを食べたらちゃんと歯を磨いてすぐ寝ること! 夜食道の先輩としての命令です!」
──だから、これは劣等感だ。
本当に人に好かれるのは、自分のようなバカではなく、彼女のような爛漫さを持った──
「……だから、元気出してください」
嫌になる。
「その……怪我なんかに負けちゃダメです。いつものジョーダンみたいに、元気を出してください」
優しさ。笑顔。人気。実力。自分にないものを、ブエナビスタは全部持っている。
分かっていた。ジョーダンの怪我が発生した時に、ブエナビスタは横を走っていた。今のジョーダンの気持ちなど、察していないわけがなかった。
「……やめてよ。慰めんでよ」
ほら、言い出した。小心者の器なぞ知れている。優しくされることも受け入れられない小さな自分の心が。
「え?」
「みじめじゃん。あたしは……あんたに優しくされると、つれーのよ。あんたはいいよね、全部──全部持ってる。世代のてっぺんで、人気もあって……本当に同じウマ娘かよってくらい、あんたは強ぇじゃん」
あまつさえ慰められて、優しくされて──。
一度堰を切った口が止まらない。そんなことを言うべきじゃないと分かっていても、どうしようもない。
「……あんたには、わかんないんだろうなー。っはは、ウケる……知ってる? あたし薄っぺらいんだわ。才能もないし、ちっさいし。あたし──あんたが羨ましくて、嫉妬してんの。マジウケるわ、何それ。今でも思ってる。ナビ」
言うな。それ以上言ってはいけない。関係が壊れてしまう。
「あんたも、あたしみたいになっちゃえばいいのに」
浮かべた軽薄な笑みの裏側は痛かった。声が喉を震わすたびに辛かった。自分が嫌になった、でもそれ以上にすっきりした。
きっとそれを言ってしまった事実はどうしようもなくて、きっともう二度と正面からブエナビスタのことを見れないだろうな、と思った。
顔を伏せて、立ち上がることもできずにジョーダンは黙った。少しだけ後悔した。
「……あのね、ジョーダン」
酷いことを言った。きっとナビは怒る──それが分かっていたのなら、そもそも言うなという話だ。悪口を言うのなら、その後のことも覚悟しておくべきだ。なのに、ジョーダンはそのさきの言葉など聞きたくなかった──都合のいい。
「私ね。ジョーダンとはいつか、レースで戦う時が来ると思うんです」
「……え?」
「そしたらですね。私──絶対に、ジョーダンには負けたくない。絶対に勝ちたい。ほんっとうに正直なことを言います。嫌われることを覚悟の上で言います。あなたが本音で喋ってくれたから、私も本音を言います」
ブエナビスタは真剣で、何だかとても不思議な感じがした。思ってもみなかった言葉に戸惑う。
「私──あなたが怪我をして、ほっとしました」
耳を疑った。ほっとした、安堵した? なぜ──
「思っちゃったんです。これで──あなたと戦わずに済むって。……あ、ほんのちょびっとだけですよ! 本当です! ……ジョーダンが後ろを走ってると、怖いんですよ。追ってくるジョーダンは、絶対に引き剥がせなくて、走っても走っても……少しずつ迫ってきて、こっちはもう限界なのに、ジョーダンは迫ってくる。そんなの、怖くないわけない」
ブエナビスタは続けた。ジョーダンはぽかんとしている。
「薄っぺらいとか……そんなことないと思います。ジョーダンは実は何に対しても真剣で、頑張ってて、何より……他人の努力を決して笑わないでしょ? ジョーダンは……頑張っている人を真正面から認めてあげられる、そんなウマ娘です」
──そんな風に言われるなんて、思ってもいなかった。ブエナビスタがそんなことを思っているなんて知らなかった。意外だった。信じられなかった。
「私は走ることが好きです。そして……あの黄金世代みたいな、すごいウマ娘になりたい。なりたい自分が居るんです。見たい景色があるんです。ジョーダン──走りたいんですよね。それは何でですか。ジョーダンは、どうしてレースに出るんですか?」
「あたし、は──」
そう言われてハッとする。走りたいのは、勝ちたいのは──他人のためじゃない。走らなきゃなんて思ってなかった。っていうか走りたいなんて思ったことない。ずっと思っていたのは──
「勝ちたいから」
誰もが注目する舞台で勝ちたい。もっとより大きい自分になりたい。自分が認められる自分になりたい。自分を許せるくらいに強くなりたい。
世界中の誰もが自分を見て、サインをねだるくらい大きくなりたい。ビッグになりたい。っていうか有名になりたい──最初に思ったのは、そんな下らなくて俗っぽい、バカみたいな夢ではなかったのか。
「……勝ちたい。負けたくない。絶対に勝ちたい」
誰よりも自分のためだけに走ると決めたのではなかったか。
心のもやが晴れていくようだった。明日原の名誉のために走るなんて──よくよく考えてみたら、自分らしくない。もっと身勝手でいいのだ。
やるべきことが何か、ようやく分かったような気がする。
「うん、その顔です!」
ブエナビスタはにぱーっと笑顔を作った。ジョーダンも釣られて笑った。
「っし、じゃあもうちょい食お! ヤバ、深夜の飯テロアガる〜!」
「え? でも、もう材料が──」
「コンビニ行けばいーじゃん。深夜デートっしょ」
「……ほ、ほんとですか」
若干引き攣った顔のブエナビスタ──しかし実際のところ、よだれが止まっていない。ブエナビスタにとって、どれだけ食べても食べすぎるということがないのだ。桐生院が頭を抱える一因である。
「いくよー。そーっとね、そーっと。バレねーように」
「はいっ! そーっと行きます!」
──うきうきで寮を抜け出していく二人。
その後、カップ麺を山ほど買い込んだ二人の深夜の飯テロの匂いに、ついにキレた寮の住人たちは共用スペースに殴り込んで、最終的にはみんな仲良くカップ麺を食べましたとさ、めでたしめでたし──コンディション獲得……『太り気味』『夜ふかし気味』。
ー ー ー
「あのさ」
朝一番に明日原を訪れたジョーダンは、どことなくそわそわとした面持ちだ。
「やっぱりあたし、皐月賞に出たい」
昨日と同じ言葉だが、全く表情が違っていた。自信というか──少しだけ、わくわくしているようだった。怪我をしていることを忘れているかのようなその言葉に、明日原はふっと笑った。
「それが君の意志なんですね?」
「うん。……あたし勝ちたい。怪我なんかで出られないのなんて絶対やだ。皐月賞で絶対リベンジしてやる。ロジユニヴァースに……あいつに負けっぱなしで終わるのなんてガチで許せねーわ。ボコボコにしてやりたい。つか泣かす。てか泣いても許さん」
「ですが、爪が割れている中で挑むのは現実的ではありません」
明日原は平然と言う。トレーナーという担当の味方でありながら、その発言はジョーダンを試しているようだった。その問題に対処せずに皐月賞に挑むのは無謀だからだ。
ジョーダンは──。
「知らねーし!」
そう言い放った。明日原は流石に言葉を失った。マジかよ。だがジョーダンは続ける。
「そんなのあたしの知ったことじゃねーし。そういうめんどい問題はさ──」
思いっきり開き直っていた。
「そういうのをどうにかすんのがあんたの仕事でしょ? どうにかしてよ。あたしの力になるんじゃなかったん?」
初めてジョーダンは挑発的な態度を取った。あくまで不敵に笑った。
明日原は数秒間呆然としていたが、こちらもやはり笑った。
「どうにかしろ、ですか。全く何というか、無茶苦茶と言うか無茶振りと言うか──了解しました。いいでしょう、どうにかしますよ。なんとかして皐月賞に向けて調整しましょう、全く……本当に、君はいつも僕の予想を上回ってくれますね」
正直厳しいだろう。それは分かっているが、だがジョーダンならば何かをやるかもしれない。ひょっとすると本当に勝ってしまうかもしれない。
「ったりめーじゃん。──明日原! 皐月賞取るぞ!」
「当然です。やりましょう、ジョーダン」
戦乱のクラシック、その第一弾──皐月賞。始まりがやってくる。