「当然、冗談に決まってんじゃん?」   作:にゃんこぱん

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皐月賞・みてたかー?

 

 

 

 

 ──1着賞金1億1000万円。ただしそんな金に目が眩んだ者などここにはいない。

 

 よりはっきり言えば、そんなものはどうだっていいのだ。重要なのは1着という結果、ただそれだけ。

 

 1番人気を紹介しよう──ロジユニヴァース。

 

 皐月賞トライアル(前哨戦)である弥生賞を勝ってきたロジユニヴァース、王道のローテでまずは1冠を狙いにいく。彼女の強さは非常に分かりやすい──末脚だ。展開に合わせて抜け出し、先行の位置から逃げ切る。王道、故に強い。

 

 先行策からの逃げはレースペースによっては突き刺さる。だがこの戦術は王道であるが故に対策が練られる──逃げでペースを潰すか、塞ぐか、あるいは直線勝負に賭けるか。陣営ごとに対策があるが故に、戦略如何によってはロジユニヴァースは苦しい戦いを強いられる可能性もある。だが地力は高い。

 

 2番人気、リーチザクラウン。

 

 前走のきさらぎ賞を1着、ホープフルステークスでも2着──ここまで連対を外していない安定性のあるウマ娘だ。こちらも逃げ型のウマ娘──競り合いは確実に起こる。まともにやれば、最後の直線で逃げ切れるとは言い難いだろう。だからこそ戦術がものを言う。

 

 3番人気にはトーセンジョーダン。

 

 公表されてはいないものの、右足の親指に怪我がある。調整の具合がどうなのかは不明、しかし直線の粘りはメンバーの中では一等級。末脚のあるタイプではなく、粘り勝ちするタイプであるが故にハイペースなレースを作ることが出来れば可能性が見えてくる。差すか、逃げるか。どちらを選ぶのかによって、レースの展開は大きく変わるだろう。

 

 その他有力どころとしてはセイウンワンダー、アンライバルド、ナカヤマフェスタがいる。何にしてもクラシック級最初のGⅠ、何が起こるのかは難しいところだが、バ場の発表は良。良バ場とはつまり下バ評がそのまま結果に繋がりやすい。つまり番狂わせが起こりにくいということだ。

 

 ロジユニヴァースがトップとして強いのは確かだ。だがそれは絶対的に強いと言うわけではない。その差は戦術で覆せる──逆もまた然り。ただ一番人気ロジユニヴァースの単勝オッズは1.7倍なのに対し、二番人気リーチザクラウンは5.3倍。少なくとも世間の評価としては、ロジユニヴァースが勝つ──そう思われている。つまりそう思われるだけの要素はある。

 

 要素の一つ、ウマ娘たちのトレーナー評から。

 

 ロジユニヴァースのトレーナーである千石、こちらは堅実さが売り。勝てるレースを勝つが、悪く言えばその場の対応力に欠ける。自分のフィールドに引き摺り込むことが最初の戦略となる。

 

 リーチザクラウンのトレーナーは竹富。非常に経験豊かなベテラントレーナーであり、トレーナーたちの中での勝利数は頭ひとつどころか三つほど飛び抜けている、信頼度と実績の高い名トレーナー。ファンからの愛称はウマ娘のおじさん。それでいいのかレジェンド。

 

 トーセンジョーダンのトレーナーはお馴染み明日原。若手ではあるが三冠の実績を引っさげて参戦。前任のダイワスカーレットが王道中の王道の走りだったのであまり知られていないが、奇策や小細工は結構好み。トーセンジョーダンの意外性も相まって意外と読みづらいコンビ。

 

 その他、ナカヤマフェスタのトレーナー加賀彰宏(なぜかフルネーム)は29歳中堅トレーナー。担当ウマ娘の傾向として何故か我が強いタイプが多く、ウオッカ然りナカヤマフェスタ然り、いつも振り回され気味の苦労人だ。本人は管理型のタイプではなく担当のやりたいようにやらせているため(というか担当が基本的に言うことを聞かない)勝率はあまり安定しないが、上振れた時の爆発力は凄まじい。陰ではギャンブラーとかロマン砲とか好き勝手に言われている。

 

 皐月賞の役者は大体以上だ。では次に舞台となる中山レース場に関して。

 

 中山の直線は短いぞ、とは実況の言葉。直線距離は310m、他のレース場と異なるのは終盤の2.2mの登り坂である。ここを乗り越える余力を残しておかなければ勝つことなど到底出来ない。110m、高低差2.2m。中山名物の急坂──それを乗り越えた先の70m、栄光はその先にある。

 

 ──明日原によると。

 

「統計上、中山芝2000mは重賞関係なく1番人気が勝ちやすい傾向にあります。1番人気の複勝率は約7割、つまり1番人気が3着まで入る確率は70%で、結果が堅くなりやすいということです。ただ皐月賞は7〜9番人気が時々暴れます。前走福島レース場の穴ウマ組が時々ものすごい走るんですよ。全く……これだからレースは恐ろしいですね、ええ……」

 

 ……まあ、中山芝2000mは人気順が結果に結びつきやすいレース場であるということだ。加えて良バ場の発表、より番狂わせは起きにくい。

 

 それと一つ。3月22日、皐月賞27日前──皐月賞トライアルの一つであるGⅡフジTVスプリングS(ステークス)をひっそりと制していたアンライバルド。その存在を忘れてはいけない。

 

 皐月賞のトライアル(前哨戦)は三つ。すなわちOP若葉S(ステークス)、GⅡフジTVスプリングS(ステークス)、GⅡ弥生賞。ここで1着〜3着ぐらいを取ると皐月賞への優先出走権が与えられる。何でも加賀に言わせると──

 

「まあトライアルに指定されてんのはその3つだが、実質的な予選っつーか、顔見せレースは6つだ。トライアル3つに加えて……きさらぎ賞、共同通信杯、そして毎日杯。過去10年のデータ的な観点から言やぁ、やっぱし強えのは弥生賞上がり組だな。皐月賞を取った連中の5割は弥生賞を勝ってきてる。次いでスプリングS(ステークス)組、3割。1着には届かなかったが、2着には入ってるってのも多い。あとは毎日杯組がちらほら……ってとこか。まあ所詮統計なんぞ当てにはならねえ、だが完全に無視もできねえ。トライアルには相性がある……もちろん恒久的なものじゃない、時代の移ろいと共に変わってくもんさ──怖えのはアンライバルドだ。俺とナカヤマはそこに賭けることにした」

 

 ……ナカヤマフェスタ陣営の作戦はともかく、過去のデータから言えば弥生賞を勝ってきたロジユニヴァースの評価が高い。

 

 ──下バ評としては、こんなところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──素晴らしい天候に恵まれました、中山レース場から全国の皆様にお伝えして参ります。春風は東から。力強い新風が、どうやら今年は東から吹こうとしているようです』

 

 心地良い気温と高い春の日差し、ここは中山レース場。

 

 現地には8万の群衆が詰めかけていた。テレビ中継でそれをみている人々となると数はまた膨れ上がって10万やそこいらでは利かないだろう。

 

『こちらはクラシック第一関門──第69回皐月賞です! さあ解説には──』

 

 日は実に4月19日日曜日。年度の始まりを告げるクラシック第一弾皐月賞。

 

 一年前の今日、トーセンジョーダンは爪が割れた失意のまま、ぼんやりとこのレースを眺めていた。そしてその日から一年後の今日、このレースに挑もうとしている。

 

「……なんか、すげーな」

 

 感慨深く呟いた一言。何となく意味を察した明日原は緊張した面持ちだ。

 

「全くです……。今回ほど無茶な試みをしたことは、僕の人生でも初めてです。ジョーダン……本当に、大丈夫なんですね」

 

 爪の次第如何によっては、明日原は出走を取り消す気でいた。だが経過はその判定のギリギリラインを通過し、トーセンジョーダンは今ここに立っている──医者にはとても苦い顔をされながら。

 

 URAの規定では、怪我のあるウマ娘は原則としてレースには出れない。身体の検査はそこまで厳しくされているわけではない、騙し通せはするだろう。だがレース中に悪化した場合は……責任という単語が明日原にのしかかった。何よりも、トーセンジョーダンが心配だ。

 

 そんな明日原の心境など知ったことではないジョーダン。緊張と興奮が入り混ざった表情。

 

「へーきへーき……ってワケじゃないけど、うん……大丈夫──あ、ライン来た」

 

 例によっての友人たちから。ぽちぽちと返信して、スマホを置いた。

 

「レースが終わり次第、すぐに病院へ直行します。怪我の次第によってはウイニングライブには出れません、分かっていますね」

 

 本当であればウイニングライブなど絶対に出させたくない。ダンスなどと言って甘くみてはいけない。レースほどではないが激しい運動なのだ。

 

 だがジョーダンはワガママだった。1着取るし、センターでも踊りたい──駄々っ子のようにそれを繰り返し、明日原の胃はねじ切れた。最終的には明日原が折れた。

 

「だいじょぶだいじょぶ! あんま心配しなさんなー、老けっぞ?」

 

「誰のせいだと……」

 

「んっふふ、あっすー顔やばー! ウケるー! 顔色わるー! じわるんですけどー!」

 

「……やれやれ、というやつですね。このままでは僕まで病名を診断されかねません。お願いですから無事に帰って来てください」

 

 吹っ切れたジョーダンは明日原に対しての遠慮など全て捨て去ったらしい──どちらかというと、これが彼女に取っての素だ。今まではさまざまな要因によって抑えられてきただけで。

 

 ようやくスカーレットの胃痛地獄から解放されたと思った明日原だったが、受難はまだ続くようだった。

 

「分かってる。大丈夫だよ、あっすー。このレース中は必ず持たせる。そんで勝つ。ねえ、あたしに出来んとか思ってんの?」

 

 自信満々のジョーダンだが、それが100%の本心ではない。無理を押して走る、その意味くらいは分かっている。だから明日原を見上げて、確かめるようにそう言った。

 

 色々と呆れたような、あるいは担当に抗うことを諦めたように目尻を下げて明日原は答えた。

 

「出来ますよ、君なら。……信じています。幸運を」

 

 その言葉を聞いて、ジョーダンは少しだけ安心したようにへにゃりと笑うと、すぐに表情を引き締めてパドックへと──光の中へと踵を返した。

 

「っし、行ってくるわ。……ちゃんと見てろよ、あたしのこと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロジユニヴァースは1枠1番、最内枠。ナカヤマフェスタ4枠7番、セイウンワンダー7枠15番、アンライバルド8枠16番。リーチザクラウンは8枠18番最外枠。そしてトーセンジョーダンはというと2枠4番、好位置だ。

 

 18人フルゲート、始まりまでもう時間はない。

 

『クラシックの第一ステップ、第69回皐月賞。リーチザクラウンがゲートに入って──スタートしました!』

 

 ゲートが開く。

 

 各自一斉に飛び出す。集中力はすでに全開、もはや前しか見えてはいない。トーセンジョーダンは好スタートを切ったのち、一気に前に飛び出した。バ群の中から抜け出して前へ──足を多少使っても構わない、今は前へ出る。

 

『さあ各自好スタートを決めました、内からミッキーペトラ好ダッシュ、その後ろからトーセンジョーダンも抜けてきた。そのあとサトノノマレ、間からはゴールデンチケット窺ってゴールデンチケット。ミッキーペトラを抜け出して出てきましたトーセンジョーダン』

 

 ──観客席での一般ウマギャルたちは。

 

「え……マジ? ハナで行くの?」

 

「この感じ、まさか──逃げで行く系!? マジで!?」

 

「いやでも、あの5番と10番も先頭を狙ってる。競り合いになれば削れんのは分かってるっしょ、そうなればラストの坂を乗り切れない……。ジョーダン、どーゆーつもり……?」

 

 驚きのままにレースを見つめていた──ジョーダンが先頭に抜け出そうとしていた。先行策ではない、これは──逃げだ。トーセンジョーダンは逃げを打った。

 

 ジョーダンと10番ゴールデンチケットが早くも先頭争いを繰り広げている。ここはお互いに難しい場面、先頭に立ちたいが競いすぎると消耗が厳しくなる。

 

 それは例えるならか細い糸で綱引きをやるようなもので、お互いにこっちに糸を引き寄せたいが、お互いに力を入れすぎると糸が千切れて台無しになってしまう。そうなってはお互いに待っているのは敗北。

 

 だがそれでも糸は欲しい、それは共通認識。なので自分の定めたラインの許す限り糸を引き合う。難しい駆け引きだ。

 

『外からはアーリーロブストが続いて、まだリーチザクラウンは5番手の外。その前をメイショウドンタクが行っています! その内でロジユニヴァース7番手集団の内! 最内を回ってやや外目に出して1コーナーを回っていきます』

 

 一方で1番人気ロジユニヴァースはそれまでの逃げ寄りの先行作戦を捨ててバ群の中。これはどう見るべきか──。

 

「……ロジユニヴァース、これまでのレースは大体ハナを取ったままそのまま逃げ切ってる。でも今回はそうしてねーし……なんで?」

 

「対策してきたんじゃね? 逃げを潰されることはロジユニヴァースも分かってたはず。ジョーダンが逃げたのはロジ潰しなんかも」

 

「あ、そっか。対策されるって分かってんのなら、わざわざ付き合ってやる必要はないんか。だから今回、あいつは先頭を狙ってないんだ。1枠1番の最内で足を溜めて最後で差し切る……ってカンジ?」

 

「じゃね? でも……ジョーダンはこれからどうすんの? 逃げんのは良いけど、それだとロジの思うツボなんじゃ」

 

「分かんねーしそんなの。でも……ジョーダン、なんかを狙ってね」

 

「だね。……信じよ」

 

「ね」

 

 レースが進んでいく。

 

『1コーナー先手を取ったのは──トーセンジョーダン、2番手ゴールデンチケットはその外追走、後方とのリードは2バ身といったところ。アーリーロブスト3番手、内5番ミッキーペトラ4番手。5番手にはメイショウドンタクが今4番手を窺って、更に更にリーチザクラウン上がってきて4番手集団を形成』

 

 トーセンジョーダンが先頭を進む。綱引きの勝者はトーセンジョーダン、ゴールデンチケットはその外を回る形。

 

 逃げが2人いると、レースのペースは上がる。これは必然的なものだ。そうなると逃げは苦しい。ハイペースのレースで最もスタミナを削られるのは逃げウマなのだ。

 

 そうなるとパターンは二つ。

 

 逃げも辛いが後ろも辛い。前との距離を詰めるために、残していた足を強制的に使わざるを得ず──ここからは2パターンに分かれる。

 

 1、ハイペースによりバテた前の逃げ・先行勢を後方勢が差し切る。

 2、後方勢が差し切れず、前半の位置取りの差で逃げ・先行勢が勝つ。

 

 どのみち苦しいレースだ。トーセンジョーダンはあえてこの展開を選んだのは、自分も苦しいが他人も苦しい地獄への直滑降に、自分を含めて全員まとめて叩き込むことを狙いとしているからだ。

 

『第二コーナーカーブから、これから向正面に入っていきます。その前を見ながら1番のロジユニヴァース、2馬身差! あとはナカヤマフェスタがこれをマークする形。真ん中にイグゼキュティヴ、サトノノマレはその内で足を溜めます。3馬身後方にアンライバルド、集団の更に後ろです!』

 

 実況が隊列を振り返っている中でも、レースは更に加速している。どんどんと縦長の展開になっていく、前から後ろまでおよそ15バ身ほど。バラけた展開の中でなおも先頭を譲らないトーセンジョーダンと、それを逃さないゴールデンチケット。

 

『あとはアントニオバローズ、内からリクエストソングセイウンワンダー、更にその後ろ、その後ろにモエレエキスパートが進んで、後方集団三人はフィフスペトルが内から。そしてトライアンフマーチ真ん中にシェーンバルド』

 

 ウマギャルのうち、スマホに視線を落とした一人が驚いて声を出した。スタートからのタイムを計測していたのだ。

 

「前半1000m──58.0!? ウソでしょヤバいって、何この殺人的なハイペース!?」

 

 それを聞いて他のメンツも騒ぎ出す。平均ペースよりも2秒ほど早いタイム、これは──普通ではない。明らかにやばい。

 

「やばいってやばいってー……。ジョーダン、ホントに何考えてんの……!? 潰れるって、そんなペースはやばいって……! 抑えて抑えて! 先頭なんて10番にあげりゃいーじゃん! 中山の坂が待ってんだよ!? 登り切れんって!」

 

 その横、ダイタクヘリオスとメジロパーマーは仲良く並んで、呆然とレースを見下ろしていた。そしてヘリオスがぽつりと呟く。

 

「爆、逃げ……?」

 

「……だね。爆逃げだ、鬼逃げだ。あたしらとは違う、周りの連中を地獄に引き摺り込むタイプの爆逃げだ……!」

 

 有馬のバカ逃げコンビはもはやそれが知れ渡っていた。だから他の陣営もわざわざその爆逃げに付き合ってやる必要はなかった。だが今回は違う。

 

 まだまだ経験の浅いクラシック級、しかも舞台はクラシック第一弾皐月賞。力も気合も入っているその中で逃げていれば冷静な判断は難しい。ついていくのか、様子を見るのか。

 

 引き剥がされることは怖い。どこまでも逃げるんじゃないかと思わせる逃げは怖い。手が届かない位置にまで逃げられたら、どんな末脚でも勝てない。だから上げていくしかない。

 

 足を溜めれなくとも、前との距離を詰めていかなければいけない。それがジョーダンの狙いだと分かっていても行かざるを得ない。そうでなければ勝てない。

 

「……けど、1番キツいのはジョーダンだよ」

 

「…………」

 

 パリピですら固唾を飲んで見守っている。ダイタクヘリオスは知っているのだ。逃げという戦法の強さと、その比類なき苦しさを。

 

 周囲を地獄に引きずり落とすには、何よりもまず自分が地獄に落ちなければならない。そうして初めてその戦術は完成するのだ。事実ジョーダンは身体的なキツさと、少しでも足を緩めようとする心に対してずっと戦っていた。

 

 "このまま本当に逃げ切れるのか"

 

 "今のままのペースで大丈夫なのか"

 

 "このままじゃスタミナが持たないんじゃないか"

 

 焦りだ。苦しさだ。痛みだ、恐怖だ。

 

「がん、ばれ」

 

 ヘリオスが瞳を見開きながら溢した言葉。

 

「頑張れ」

 

 それを聞いたメジロパーマーも続いた。

 

「頑張れ、頑張れっ!」

 

 ギャルズも続く。

 

 それは声援となって──

 

「頑張れ、ジョーダン! 頑張れーっ!」

 

 その声は大観衆の声援の一部となり、今も走る彼女たちへ。どうかこの声が届きますように。そしてどうかあなたの力となりますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『第三コーナー回って既に800は切っています、恐ろしいほどのハイペースです! さあ先頭はまだ逃げるおよそ4バ身のリード足は持つのか。リーチザクラウンが動いている! 残り600を切りました、リーチザクラウン先頭に変われるのか現在2番手!』

 

 この恐ろしいレースとなった戦況の中でリーチザクラウンは動く。ゴールデンチケットは段々と後退していく中でトーセンジョーダンはまだ先頭に粘ったままリードを保つ。

 

(……やばい。きつい。マジきつい。ぶっ壊れる)

 

 このペースはもはや全力疾走に近い。人間の基準なら、こんなペースを保てるのはせいぜい10秒、それが限度だ。ウマ娘の基準でもそれぐらい。それ以上は根性とかそういう話ではない。全力疾走は無酸素運動だ、エネルギー源であるATP(アデノシン三リン酸)が切れる。身体の造り上の限界が来るのだ。

 

 だがそれでもジョーダンは粘っている。先頭を維持している。

 

『残り600を切って三、四コーナー中間に入ります、さあ内に粘っているアーリーロブスト懸命に頑張っている、先頭トーセンジョーダンは未だ独走体制! ゴールデンチケット内からもう一度足を使っている! そして後方集団からは──ロジユニヴァースだ、ロジユニヴァースはその真ん中をついていますが、さあ──』

 

 ロジユニヴァースもこの地獄の中で頑張っている。懸命に走っているが──

 

(なんだ、これ──)

 

 ロジユニヴァースの勝ちパターンである先行策からの逃げが対策されるのは分かっていた。だからこそ中段に潜った。最後の直線でスパートになれば、十分な勝ち筋が見えるのだ。だがこれでは──足が、残っていない。

 

(ふざけるな。なんだこれは──)

 

 前に出るには足が残っていなければならない。それは誰しもの前提条件。だがトーセンジョーダンはそれを引き剥がしにかかったのだ。

 

(こんなペースで)

 

 誰しもが苦しい。前へ出るなど論外だ、後ろに下がらないように引き下がるので精一杯だ。

 

(ふざけやがって……ッ!)

 

 前が遠い。知らない光景だ。初めてだ、こんなふざけたレースは。前へ出れない。どうして、どうしてあいつは下がってこない。もう限界が来ているはずなのに、どうして──トーセンジョーダンはまだ先頭にいる──!?

 

『リーチザクラウン現在4番手、追い込んでくるのは早めに動いたアンライバルドだ!』

 

 ──その中で、アンライバルドは動いた。

 

 どこにそんな足が残っているのか、アンライバルドはそれでも動いた。

 

 ナカヤマフェスタ、極限状態の中で笑う。

 

(やっと来やがった。来ると思ってたぜ、なァ──)

 

『後ろからナカヤマフェスタも追い縋る! アンライバルド伸びてくる、先頭まで3バ身! これから坂を登りますトーセンジョーダン粘る粘る、脅威の根性だ! 外から追い込んでくるのはシェーンバルドだ! 足りるか、先頭まで足が持つのか!』

 

 ──それはそのレースを走る全員に襲い掛かった。これから魔境の最終関門、中山の坂が待ち構えている。

 

(……ウソでしょ? こっから坂登んの? 死ぬくね)

 

 ハイペースが奪ったスタミナと気力、その先の栄光はあまりに遠い。110m、高低差2.2m、この状況においてそれは絶対的な壁だ。

 

 限界だ、限界だ、限界だ。もう無理だ。もう無理だ。自分だけじゃない、全員に限界は訪れている。ペースが普通でも厳しい局面だ。

 

 だがそれでも、アンライバルドは差しに来ている。

 

『並んだ! 並んだ! 二人並んだ! アンライバルド並んでいる! 外からトライアンクマーチ追い込んできた! ナカヤマフェスタと並んで伸びてきている! なんだこれは!』

 

 死闘だ。ここは死地だ。死神が背後にぴったりとくっついている。だから振り返るな。真後ろでブギーマンが笑っているぞ。降りてこいと、諦めてしまえと嘯く不気味な男(ブギーマン)が笑っているぞ。

 

 トーセンジョーダン──地獄の先駆けを往く彼女は、大声援も意識の外。白く霞む世界を走る。だがここから伸ばせる気はしなかった。っていうかもう足が動かない。

 

(マジ鬼だわ、悪魔だわ。こんなクソレース考えたの誰よ)

 

『アンライバルド躱した! 残り200!』

 

 横を通り過ぎるアンライバルドも、余裕など欠片もない。自分と同じで、後ろには死神が走っている。

 

(……あ、こんなクソレース考えたの、あたしのトレーナーか)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「逃げで行きましょう」

 

 明日原がそう言ったのは、レースの一週間前のことだ。

 

「スプリングS(ステークス)で見せたアンライバルドの末脚は恐ろしいものでした。そしてリーチザクラウン、ロジユニヴァースの終盤力も同様です。直線勝負になれば、君に勝ち目はないでしょう」

 

 ジョーダンは突出した末脚がない。トップスビードも誇れるほどではない。上位勢と比べるとあくまで平凡でしかない。

 

「なのでそれを潰そうと思います。いいですか、よく聞いてください」

 

 明日原が説明をしたそのレース展開を聞いても、実際のところジョーダンはピンと来なかった。ハイペースのレースに巻き込むとか言っても、そんなに上手くいくものなのかと。

 

「足を徹底的に奪いにかかります。先頭をキープしたまま、レースが遅くなることを防ぎ続け、全員に対して消耗戦を仕掛け続けます。そうなれば混戦です、誰も自分の思った通りに走ることなど不可能となり、そこでようやく君の勝ち目が見えます」

 

 勝ち目って? ああ!

 

 明日原は答えた。

 

「君の強さはトップスピードの維持にあります。短く強い末脚ではなく、長いスパートに耐えられる体と心を持っているんです。粘り勝ちというやつですね、まあ心配することはありません。身構えている時には、死神は来ないものです。ジョーダン」

 

 まだいまいち納得していないジョーダンに明日原はにっこりと笑って言い放った。

 

「根性ですよ、ジョーダン」

 

 

 

 

 

 

 

 ──今、ようやくその意味が分かった。

 

『アンライバルド躱した! トーセンジョーダンもまだ粘る! トライアンクマーチ懸命に追い込んでいる! ナカヤマフェスタがその真横!』

 

 これは根性だ、確かに。

 

 ギリギリの状況をどれだけ耐え切れるかのチキンレース。根性勝負──アンライバルドとの差は決定的でない。どれだけ伸びるか分からないが、諦められる距離ではない。残り200、坂は──やがて終わる。

 

 白く霞む視界、ゴールが見える。

 

 ……足りない。

 

 チガウチガウ、ソウジャナイッテー

 

 なんか幻聴が聞こえる。どうでもいい。

 

 コエ、キコエナイノ?

 

 声? 声と言ったか。この変なハンカクの幻聴は。なんだ声って──

 

 ──ウワアアアアアアアアアアアアアアア!

 

 鼓膜が破れそうな大歓声が聞こえた。

 

 そうか。走りながらだと,こうやって聞こえるんだ。

 

 頑張れー! アンライバルドー! いけるぞー! トーゼンジョーダンー! 頑張れー! いけー! 粘れー!

 

 誰の声かも分からない。そもそも自分に向けたものかも分からない。だけど聞こえた。声が聞こえた。

 

「頑張れぇぇぇぇぇぇええええええッ! 頑張れぇぇぇぇぇぇぇぇッ! ジョーダンんんんッ!」

 

(……はは、なに? ウケる)

 

 幻聴かもしれない。ただの望みなのかもしれない。実際は存在しないのかもしれない。けど聞こえるんだ。声が聞こえるんだ。

 

「出来ますッ! 君なら出来ますッ! ジョーダンなら出来ますッ! 頑張れぇぇぇッ!」

 

(そんな大声出さなくても聞こえてるわ、うっせーな。大体いつもあんた、君なら出来る出来るってさ。同じことしか言えんのか)

 

 ホラ,イキナヨ。ゴールハスグソコダヨ

 

 ──声が聞こえているんだ。

 

「……──言われなくても……ッ!」

 

『トーセンジョーダン差し返したッ! なんという根性だ! トーセンジョーダン! アンライバルド!』

 

 マケチャダメダヨ?

 

 誰かがそう笑って、背中を押してくれた。

 

『まだ粘る! まだ粘る! まだ粘っている! アンライバルド! トーセンジョーダン! アンライバルド────』

 

 苦しみも痛みも越えた先、真っ白な世界、あたしだけの世界。誰よりも速く走る。この人生はただそのためだけに。

 

 アンライバルドは真横、後ろからは追ってくる死神の足音。だが実際は明日原の言う通りだった。これは死神の足音なんかじゃなくて、実際には追い込んでくるトライアンクマーチの足音でしかない。

 

 走れ。

 

 前へと走れ。

 

 この体は未だ、果てへと辿り着いていないのだから────!

 

 

 

 

 

『トーセンジョーダン、今ゴールインッ! 見事クラシックの第一弾、皐月賞を制して見せましたッ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会場はざわめきの中にあった。

 

 衝撃の最中にあった。

 

「……すごい」

 

 その現実から未だ目覚められていないように、まだ夢を見ているようにぼんやりと、呆然と──ただ、呟いた。

 

「……すごい、すごいよ。ジョーダン」

 

 ゴールドシチーもその一人だ。

 

 誰もが言葉を失っていた。誰もがそれを示す言葉を探していた。だけど結局出てきたのは陳腐な言葉だった。

 

「すごいよ、ジョーダン。あんた……すごいよ」

 

 段々と目が覚めていく観客たちが声量を上げていく。

 

「すげえ……すごいぞ、トーセンジョーダン! カッコよかったぞーっ!」

 

「逃げ切った、あんなハイペースのレースを耐え切った! 気力も限界の中であの末脚を差し返したんだ……こんな娘が、クラシックにいたのか!?」

 

「すぐに彼女のデータを調べろ! 特集を組むぞ、今すぐだ! どうしてこんな逸材を放っていたんだ!?」

 

 世間が──彼女の存在を知る。随分前に明日原が言った言葉は、果たして現実となった。

 

 ──ウワアアアアアアアアアア!

 

 大歓声が響き渡った。耳を塞ぎたいくらいの大音量が飛び散っていた。

 

 トーセンジョーダンは膝から倒れ込んでいたが、ゆっくりと顔を上げてそれを見た。

 

「あ……」

 

 それからゆっくりと立ち上がると、観客席に体を向き直して、静かに──

 

「……見てたか、この野郎っ!」

 

 汗に汚れた笑顔と共に、拳を掲げたのだった。

 

 ──ウワアアアアアアアアアアア!

 

 声援はいつまでも鳴り止まなかった。トーセンジョーダンはいつまでも笑っていた。

 

 

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