「当然、冗談に決まってんじゃん?」   作:にゃんこぱん

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なんで

 爪が弱かった。

 

 昔から、なんとなくじんわり痛むか痛まないかぐらいの微妙な感覚は感じていた。特に顕著になったのは全力で走った後。特に地面が硬かった場合はちょっと変な感覚はあった。

 

 爪が割れたのは、入学してすぐのことだった。

 

 痛かった。生まれて初めて味わう痛みだった。痛くて痛くて痛くて、それしか分からなくなった。どうする事もできなくて、じっと耐えることしか出来なくて。何も出来ることがなくて、自分の体のことなのに、どうしてこんなことになっているのか分からなかった。

 

 ウマ娘の体は脆いと知った。走ることは複合動作で、非常に多くのパーツが組み合わさって実行される。心と体、二つが合わさらなければ十全は発揮できない。体調が悪ければダメだ。偏った食事ばかりではダメだ。膝が悪ければダメだ。足首が悪ければダメだ。筋繊維が傷付けばもう一生ダメだ──爪の先がたった一つ悪いだけで、ダメなんだ。

 

 そこで初めて、あたしは走ることの恐怖を理解した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、では改めて目標を確認しましょう」

 

 ホワイトボードの前に立って、明日原は椅子に腰掛けるトーセンジョーダンを見下ろした。珍しく真剣な表情のジョーダン──普段の彼女を知っているのなら、かなり珍しい様子であることが分かるだろう。

 

「選抜レースで勝つ。それでいいですね?」

 

「……ん」

 

「はい。では目標は一ヶ月後の選抜レースにしましょう」

 

 年四回開催される選抜レースだが、この時期は特に大切な意味を持つ。よって四月の選抜レースのみは例外で、一ヶ月に渡って開催されることになっている。

 

「……でもさー。一ヶ月ぽっちで変わるもんなん?」

 

「十分に可能性はあります。まずはそれを信じること──自分なら出来ると、そう思うことが第一歩です」

 

「ふーん……」

 

「リベンジを果たし、自信を取り戻しましょう。爪の調子は如何ですか?」

 

「おけまるザブローってカンジ。心配せんでも……あたしはちゃんとやるって」

 

「分かりました。では早速トレーニングに向かいましょう。今日は君の現在の速さを知るために、色々試しながら走ってもらう予定です」

 

 決意を込めた表情で、トーセンジョーダンは頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──悪くない。

 

 それが明日原の感想だった。故障で休んでいたとは聞いていたが、タイムは悪くなかったし、一人で走る分には先日の選抜レースのような事態にはならないらしい。

 

 フォームには粗さはあるし、おそらくは一度発生した故障が多少なりとも走りに影響を与えて要るのは確かだ。だが改善することは可能だろう。

 

「はっ、はっ……どうだった!?」

 

「いいタイムです。では次のコースは──」

 

 つつがなくトレーニングは進んでいる。時々フォームの指摘や、走るときの癖などを分析しつつ順調に時間が過ぎていく。

 

 だからこそ、明日原は図りかねていた。

 

 このタイムであれば、選抜レースでは好成績を残せるはずだ。事実、そのタイムは先日彼女が走ったレースの1着のタイムに肉薄していた。怪我のブランクを加味しても──いい身体を持っている。これまで彼女が磨いてきたものだ。

 

 ──だからこそ。

 

 なぜ、彼女はあの時に走れなかったのか。それを知る必要があった。

 

「……まー、確かに。昨日のレースで上手く走れんかったけど……。もう言ったじゃん、あたしにもわかんねーんだわ」

 

 こんな調子なので、結構な不確定要素を抱えたままレースに行く可能性が浮上した。

 

 推測はいくらか立てられるが、所詮は仮説に過ぎない。少なくとも、一人の時は十分な実力を発揮することが出来る。一ヶ月もあれば選抜レースには間に合うだろう、それはいい。だが──。

 

 一番いいのは、あの時と同じ状況で色々試してみることだ。だがそれは難しいことである。

 

 ぶっつけ本番──そんな単語が明日原の脳裏によぎった。嫌な汗が流れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あーっ、つっかれたー!」

 

「お疲れ様でした、ジョーダン。クールダウンの後、ミーティングをします」

 

 ──あっという間の一ヶ月だった。

 

 トーセンジョーダンは、この一ヶ月の結構スパルタ式トレーニングを思い出す。ジョーダンは徹底した効率化トレーニングはスパルタと呼ばれることを知ることになった。ふらふらのまま寮に帰って、風呂で寝落ちしたことさえあった。

 

 美容のために風呂上がりはマッサージだ柔軟だなんだとやってきたが、それをする気力もなく泥のように眠る──とか、朝方筋肉痛でベッドから動けないとかそういうことが少なくなかった。

 

 だが、怪我はしなかった。

 

 びっくりしたことが多々ある。トレーニングの多彩さだ。トーセンジョーダンはこれまでに走りの指導というものをほとんどされたことがなかった。あったとすれば、教官による一斉指導程度のもので、つまり個人に最適化されたトレーニングというものを知らなかったのである。

 

 トレーニングとは、身体に負担をかけて強度を高めて行くことで、0.001秒でも速くゴールに到着するためだけに身体を最適化し、強化していくことを指す。

 

 つまり、キツかった。

 

 ただ、昨日よりも速く走れる──ストップウォッチが示す冷たい事実が、その日々を肯定する。昨日よりも成長しているということが、どれほどの精神的な安定をもたらすのか。それは体験した人でなければ分からないことだろう。

 

 ──最初、明日原は特大のバカだと思っていたが、それは部分的に間違いだった。いくらなんでも分かる。自分がどれだけ頑張っても伸び悩んでいたタイムは、嘘のように伸びて行く。秒速15〜17メートルで走るウマ娘たちのレースにおいて、0.1秒速くゴールする──それを視覚で見ると、1バ身〜2バ身もの差につながる。後続に一秒以上の差を付けてゴールすることは、大差勝ちであることを意味する。

 

 トーセンジョーダンは、一ヶ月前の自分に大差勝ちしていた。

 

 ──これならば、あるいは。

 

「明日の16時、選抜レースがあります。コースは芝1600m──他の出走メンバーのデータを踏まえてはっきり言いましょう。今の君ならば勝てます」

 

「……うん」

 

「今日のメニューは疲労が残らないように調整してあります。寮に帰った後もストレッチを忘れぬよう」

 

「わーってるって」

 

「はい。……この一ヶ月間、よく頑張りました。正直言って驚きましたよ」

 

「へへん。てかあんたがこんな鬼コーチだとは思ってなかったわ。この一ヶ月はガチでなんも遊べんかったし……」

 

 日が沈んだ後の部屋からは蛍光灯の光が外に漏れ出している。

 

「当日を楽しみにしています。何か質問はありますか?」

 

「なんもー。もうこれで終わり?」

 

「はい。お疲れ様でした、ジョーダン。寮まで送ります」

 

 帰り際、コツコツという足音を立てながら二人は歩いていた。

 

「……なんかさ」

 

 唐突に切り出した。

 

「変な感じがするっつーか、今もちょっと信じられねーわ」

 

「何がです?」

 

「や、分かれし。あんたとの関係が、ってのに決まってんでしょ。ちょっと出来過ぎじゃねってくらいだし。やっぱあんた変なヤツだよ、普通あんな遅くまで待たないし」

 

「……ええ、まあ」

 

 思い当たる節はあるのだろう、明日原は微妙な声色で答えた。こと人間関係において、器用な方ではないことはもう分かっている。

 

 会話は途切れて、また静寂が横たわった。

 

「あたしさ」

 

 寮が見えてきたあたりで、またそう言った。

 

「はい」

 

「勝ちたい」

 

「はい」

 

「勝って、いっぱいすげーって言われたい。見返してやりたい。あたしにだって出来るんだって証明したい。そんで……」

 

 その言葉には芯が通っていた。ずっと考えていた。厳しいトレーニングをこなしてきたのはそのためだ。

 

「でっかくなりたい。あたしはバカだから、レースしかないけど。けど、でっかくなりたい。勝って、勝って、勝ちまくって、有名になりたい。フォロワー100万人とかになってやりたいし、色んな奴にあたしのこと認めさせてやりたい」

 

「はい」

 

「勝ちたい。あっすー、あたし……勝ちたい」

 

 決意した顔で地面に顔を伏せるトーセンジョーダンに、明日原はいつも通りの調子で言った。

 

「君になら出来ます」

 

「……ホントに、そう思ってる?」

 

「本心です。君は……本当に根性のある、強いウマ娘です。君は勝てます」

 

「……あっそ。なら……いい。送ってくれてありがと。じゃあね」

 

 そう言い残して、あっさりとトーセンジョーダンは寮へと帰っていった。

 

 それを見届けて、明日原はぽつりと呟く。

 

「……さて、吉と出るか凶と出るか。鬼が出るか、蛇が出るか。あるいは……」

 

 本心からジョーダンの勝利を願いながら、明日原も帰路についた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして迎えたレース当日。

 

 選抜レース、最終日程。これはウマ娘にとってはひとまずの最後のチャンスとなる。ここでスカウトをつけられなければ次のチャンスは7月ごろになってしまう。トレーナーの方も見落としていたダイヤの原石を見つけるため、真剣にレースを見ていた。

 

 声援が飛び交っていた。本番特有の、気を抜けば浮かされてしまいそうな熱が会場を包んでいた。思わず走り出したくなるようなウマ娘たちのプライドの激突が繰り広げられていた。

 

 アナウンスが入った。

 

 続いて第四レース、芝1600mに出場する選手はゲートに集まって下さい。繰り返します──。

 

 そんな中トーセンジョーダンはと言うと。

 

「ほらジョーダン、出番次じゃね!?」

 

「行けって! ここんとこガチってたんだし、絶対勝てるって!」

 

「……う、うん。い、行ってくる……あたししか、勝たんし……」

 

 ──ガッチガチに緊張していた。

 

 右手と右足を同時に出すくらいには緊張していた。

 

「おーい、ジョーダン?」

 

「……シチー。来てたの?」

 

「何言ってんの、来ないわけないじゃん。てか固まり過ぎ、もっとリラックスしろって」

 

「わ、分かってるけど……やばいかも……」

 

「もう。緊張してんのは、頑張ってきたからでしょ? 大丈夫、あんたなら出来るよ」

 

「……確かに、そうじゃん。うん、あたしは頑張ってきた……」

 

 ──友人であるゴールドシチーの助言により、かすかに緊張が解ける。ちょっとだけ体が解けた。

 

「そういや、例のあっすーは来てないの?」

 

「来てる。さっきちょっと話した……」

 

「そ。何話したの?」

 

「頑張れって……マジでフツーなことしか言われんかったし。マジで、なんでこんな時はフツーなこと言うかな、ジョーダンじゃねーわー……」

 

 なんなら何か冗談の一つでも言ってほしかったし、ギャグか何かで笑わせて緊張を解いてほしかった。だがあの敬語人間に何かを期待したのが間違いだった。

 

 そんなグロッキー状態のトーセンジョーダンの様子に、ゴールドシチーは口元を綻ばせた。

 

「結構仲、いいんだ?」

 

「別に、フツーだし……」

 

「そう? ……って、そろそろ始まるっぽい。行ってきな」

 

「ん……そーする」

 

 緊張の中に確かなやる気を灯した友人の背に、シチーは軽く笑って叫んだ。

 

「勝てよ!」

 

 返事の代わりにガッツポーズを見せて、トーセンジョーダンは歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『さあ、各バゲートイン完了して──』

 

 トレセン学園の立派なゲートは二回目だ。これまでのレースは型落ちの古いものとか、あるいは位置についてヨーイドンとかそういうものだった。潤沢な資金力が背景にあることを、このゲート一つとっても感じられた。

 

 緊張が高まっている。鼓動は早くなっていく。視界が狭くなっていく。

 

 ──やってやる。もうどうにでもなれ。

 

 緊張は結局解けなかった。リラックスしたほうがいいとは分かっていたが、頭で思うほど簡単ではない。

 

 心臓の音が聞こえる。ウマ娘の運動能力に耐えるための、強靭な血管が脈打っている。どくどく、どくどく……音が聞こえる。

 

 だというのに、酷く静かだ。スタート前の三秒にも満たない静寂の時間がいつまでも長く感じられて、気が狂いそうなほど──静かで、静かで、静かで。

 

 物音一つ立てることすら許さぬ静寂が吹き荒れていた。

 

 出来る。出来る。出来る。出来る。あたしは出来る、あたしは出来る、あたしは出来る、勝てる。勝てる。勝てる、勝てる、勝つんだ。勝つんだ、勝つん──

 

『スタートしました!』

 

 その言葉で全て吹っ飛んだ。

 

 開いたゲート、視界には自分よりも先を行く皆の姿。これはやばい。これはマジでやばい──これはもしかして、話に聞くアレだ。

 

『さあ、4番トーセンジョーダンが出遅れた!』

 

 ──出遅れだ。

 

 慌てて踏み出す。すぐにスピードに乗って取り戻そうとするが、不味い。難しいことはよくわからないけど、レースになったら前の方につけておいた方がいいと言われていたというのに。

 

 トーセンジョーダンの脚質適正は先行、つまり出遅れは致命的となる。

 

『ハナを進むのは7番ジャラジャラ、しかし9番オレンジスターも負けていない! 早くも先頭二人の競り合いです!』

 

 すぐに遅れを取り戻そうとするが──ダメだ。前が塞がれていて前に出れない。どうする、どうすれば前に出れる。このままじゃまずいことは分かっている。分かっているのに──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あれ、ヤバくね?」

 

「ね。……先行適正は出遅れるとかなり不利になる場合が多い。バ郡を突き破って前に飛び出すためのパワーが足りなくてそのまま飲まれる危険性が一気に高くなるっしょ」

 

「どうした急に」

 

「だから取り戻すのは容易じゃない、けど可能性はない訳じゃない……! 見たところ差しの数は少ない、先行と逃げの多いレース展開じゃん。だから必然的にレースはハイペースになる! だからコーナーが鍵ってことになんじゃん?」

 

「そっか、速度が上がればコーナーで膨らむ! その内を突ければワンチャンはあるってことだよね!?」

 

「そういうこと。信じるしかないっしょ、ジョーダンを!」

 

 一般ウマギャルたちによる解説の通り、コーナーが鍵になる。このまま前を塞がれ続けた場合、最後の直線の加速が間に合わずに逃げ切られる可能性が高い。だからなんとかして差し切れる距離まで持っていかなければならない。

 

 外を回るか、内を突くか。スペックが上なら大外からぶった切ってもいいし、テクニックがあるなら内を突いてもいい。ただどちらも難しいことではある。直線で抜くのがある程度の理想だが、かなりの身体スペックがないと難しい。それにそこでスタミナを使っては最後の直線で競り負ける。

 

 つまりは、駆け引きということになる。

 

 ──コーナーを回る。まだトーセンジョーダンは抑えたまま。

 

 幸運だったのは、シンガリであるために内を回ることができ、その分のスタミナの消費が抑えられたことだろう。微かかもしれないが、それが勝負を分けることもある。

 

「……! 動いた!」

 

「え、ウソ──大外から!?」

 

『動いた! 4番トーセンジョーダンが動いたぞ!』

 

 膨らんだバ群の外から、トーセンジョーダンが追い上げに掛かった。順位をじわりじわりと上げていく。

 

『最終コーナーを回りました! 1番グッドモーニンが加速する! だが7番ジャラジャラ粘っている! 粘っているぞ!』

 

「……いける?」

 

「ワンチャン、ある……」

 

 先頭との差はまだある。だがゴールまでの距離もまだある。一般ウマギャルたちは食い入るようにレースを見つめている。

 

 ジョーダンは加速している。

 

 どうだ、どうだ、どうだ、どうなる?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その──感覚は、岩を砕くその感触に似ている。

 

 足を振り下ろし、全身に反動が伝わる。前へ進め、前へ進め。前へ進め。

 

 走れと言う。だが──。

 

(遠い)

 

 先頭が遠い。

 

(……そっか。当たり前だ。あたしでも努力してんだから、他の子だって努力してたに決まってる)

 

 視界が狭い。

 

 脈を打つ視界が白く染まっていく。霧がかかったように見えなくなっていく。息が熱い、足が熱い。体を焼いているようだ。

 

(脚、動けよ)

 

 前へ進んだ。だが意味がない、こんな遅くてはどうしようもないだろう。

 

(前、進めよ)

 

 今度は視界が黒くなっていく。さっきから忙しい。ただ走れればいいんだ、他のことなんで知ったことかよ。

 

(もっと速く動けよ、勝てよ。あたしの脚なら、あたしの役に立てよ)

 

 黒くなる。黒くなる。脈打つような不安と焦燥感が胸を埋め尽くす。

 

 嫌だ。負けたくない。どうして動かない。どうしてもっと速くならない。役たたずだ、ガラクタだ。いつもいつもいつも、自分の邪魔ばかりしている。こんなものさえなければ。

 

(空っぽの自分は嫌だ。負けたら空っぽだ。レースに負ければ、あたしには何にもないのに)

 

 嫌だ。負けたくない。でも──届かない。届かないじゃん。なんで、なんで──。

 

 何も聞こえないよ。何にも感じない。どうして、どうして、どうして。

 

 自分の息も聞こえない。横を走ってる知らない誰かの表情も見えない。

 

(負けたくない。あたしは勝ちたいのに)

 

 苦しい。痛みもないのに苦しい。肺が燃えている。空気が邪魔だ。重力さえ鬱陶しい、のにそれを振り払えもしない。鎖だ、鎖が縛っている。どうして、どうして。

 

(なんで、何も聞こえないの)

 

 何もかもスローモーションの世界の中で、遥か先を行く誰かが勝って、自分は負ける未来を想像した。しっくりきた。きっとそうなる。分かったんだ。

 

(嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ──────)

 

 苦しい。辛い。こんな思いをするくらいなら、どうしてレースを選んだんだ。

 

 諦めてしまえ。苦しいのも辛いのも嫌だ。投げ捨てて身軽になろう。

 

 何もかも────

 

 

 

 

 

「頑張れ、ジョーダンっ!!!」

 

 

 

 

 

 その声が、聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

『か──加速した! トーセンジョーダン突っ込んできた! 速い速い、信じられません! 残り400! 後続も負けていないっ!』

 

「頑張れっ、頑張れーっ! 君なら勝てるぞ、ジョーダンっ!!」

 

 声が聞こえていた。

 

『グッドモーニンを躱した! 差は4バ身、ここから届くか!? おっとここで──』

 

 足音が聞こえている。

 

「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラッ!!」

 

『ゴールドシップだッ! いつの間にか10番ゴールドシップが上がってきている! 瞬間移動でしょうか、何が起きたんだーっ!?』

 

(負け、ない)

 

『競り合いだ、激しい競り合い! 3人による競り合いだ!』

 

「頑張れ、頑張れーっ!! 頑張れ、ジョーダンっ!!」

 

(声が聞こえる)

 

 絶対そんなキャラじゃないでしょ、あんた。てか、大声なんて出すんだ。

 

(そんな声、出すんだ)

 

「負けるかよぉーッ! ゴルシちゃんが最強じゃぁーいッ!」

 

『残り200! ゴールドシップか!? トーセンジョーダンか!? ゴールドシップか!? どうだ!? どうなるんだ!?』

 

「頑張れっ、頑張れジョーダンっ! 勝てーっ! 君なら出来るーっ!」

 

(そんな顔、するんだ)

 

『トーセンジョーダンだ! トーセンジョーダン! いや、ゴールドシップか!?』

 

(走れ)

 

 前へ走れ。何もかもを振り切って走れ。こんなものは全て過去にして、振り切ってしまえ。全員まとめてぶっ飛ばして、勝て。

 

 勝て。

 

「どららららららららららららららららららァ────ッ!」

 

「うぉぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああぁ────ッ!」

 

 何もかもを置き去りにする白い世界の中で、閃光の如く駆け抜けた。

 

 ゴールを通り抜けたとき、あいつはどんな顔をしてたんだろう。

 

 それだけは、気になった。

 

 

 

『────トーセンジョーダンだッ! 差し切って今ッ、ゴールインッ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 爆発的な歓声に包まれた選抜レース場、その中でトーセンジョーダンは走り切った後でもぼんやりと倒れていた。

 

「すげー! ジョーダンすげーっ! ヤバい、マジでヤバいって! ヤバいって! ヤバいって、もうヤバいってーっ!」

 

「素晴らしい走りだ! トーセンジョーダン、なぜ彼女ほどの逸材が埋もれていたんだ!?」

 

「か、彼女はもうスカウトされているのか!? あの足の持ち主を逃すわけにはいかない!」

 

 ──レースの興奮のまま叫ぶ観客たちや、慌てるスカウトたち、そして彼女を称える声で会場は埋め尽くされていた。

 

「よっ。おまえ、トーセンジョーダンっつーんだな。覚えたわ!」

 

「……ああ、うん」

 

「しっかし驚いたぜー、まさかこんなおもしれー奴が居たなんてな! なー、今度一緒にバンジーしようぜ、パスポートは持ってっか? ちょっとコロラド州行こうや!」

 

「……は? え?」

 

「いや、やっぱり海だな、海にしよう! 失われしノーチラス号をお前に見せてやるー!」

 

「え、ちょ、は?」

 

「ま、楽しみにしてろって! じゃーなー!」

 

 ──ゴールドシップは走り去っていった。

 

「……どこに、あんな体力あんの。てかあいつ誰……? 何語……?」

 

 呆然としていると、背後から声がかかった。

 

「お疲れ、ジョーダン」

 

「……シチー」

 

 座り込んだままのジョーダンに手を差し伸べる友人が立っていた。その手を借りて、フラつきながら立ち上がる。

 

「すごかった。本当に、すごかったよ。ジョーダン」

 

「え、うん……」

 

「何、その反応。寝ぼけてるみたいじゃん」

 

「だって、もうむがむちゅーっていうか、なんかほとんど覚えてないし……」

 

「っふふ、何それ。すご。……そうだ、例のあっすーは? トレーナーなんだし、話くらいしときなよ」

 

「ん……そうする」

 

 ぼんやりと返事をした。そうだ、あっすー改め──明日原の声が聞こえたことを覚えている。

 

「──トーセンジョーダンさん! 少しお話いいですか!?」

 

「っ、へ!? 何!?」

 

「今のレース素晴らしかったです! チームへの所属などはされていませんか!?」

 

「は、はい……!?」

 

「スカウトはもうお済みなのでしょうか!? もし宜しければ、私のチームに来ていたけませんか!?」

 

「いやいや、それよりも俺のところで三冠を目指してみないか!?」

 

「え、は、いや、え……!?」

 

 ──スカウトのトレーナーが殺到していた。全く頭が追いつかないトーセンジョーダンはフリーズした。自分がそんな立場になることなど想像もしていなかったのだ。

 

「ちょっとすみません、こいつ今レース終えたばっかなんで。ちょっと抑えてくれません?」

 

 ゴールドシチーが助け舟を出してくれたおかげで、今にも掴みかからんばかりだったトレーナーたちの勢いは少し収まって、ジョーダンにも考える余裕が出来た。そしてふと気がつく。

 

 ──明日原が、いない。

 

 思い出せば、そうだ。スカウトとか、担当契約とか──そういうの、何にもしてなくね? なんていうか、雰囲気でそういうものかと思っていたけど。そうだ、普通はそういうのするものじゃん。

 

 思い返せばそうだ。明日原は一度だってジョーダンをスカウトしたいとは口にしなかった。だからこっちもスカウトしてくれとは言ってない。ただ勝たせてやると、その約束だけを頼りにしていた関係に過ぎなかった。

 

 なんであいつ、来てないの?

 

 視界の端に、そんなトーセンジョーダンを見届けて、満足げな表情をして背中を向ける明日原の姿が映った。

 

「……あいつ、許さんし」

 

「え、ちょ……ジョーダン!?」

 

 トーセンジョーダンは衝動的に駆け出していた。

 

「ちょ、ジョーダンさん!? どこへ行くんですか!? せめて話だけでも!」

 

 ──とかなんとかうるさいんで黙ってて、マジで。

 

 観客席を突き抜ける。階段を二段飛ばしですっ飛ばして、周囲の注目を集めながらもそれを気にせずに。

 

 いない、どこへ行ったあの野郎。

 

 ここへいないなら、多分トレーナー室だ。そっちへ走りだした。

 

 廊下は走らないように、という張り紙の横を全力疾走で駆け抜ける。すぐに見えてきた、そこの曲がり角を超えたらすぐ右手のドアを──開け放った。

 

「……なぜ、君がここに?」

 

 荒れた息を整えるために、一度大きく息を吐いた。それからこのバカなことを言ったバカに詰め寄った。

 

「……あんたさ、なんで……あたしのとこ、来なかったん?」

 

「そうですね、確かに……賞賛の言葉は伝えておくべきでした。おめでとうございます、ジョーダン。素晴らしいレースでした……本当に、素晴らしかった」

 

「ちげーし。あたしはんなことを話してんじゃねーんだけど」

 

 いつもと同じような変化のない表情で明日原はこっちを見ている。具体的には、ちょっと不思議そうな感じでこっちを見ている。

 

「さっき、スカウトめっちゃ来た」

 

「はい、見ていました。それで、どこに所属するつもりなんですか?」

 

「あのさ。もしかしてあんた……もう自分の役目は終わったとか考えてんの?」

 

「ええ。約束通り、君を勝たせた……いえ、君が勝ち取ったというべきですね。とにかく目標であった選抜レースに勝利しました。君との約束を果たしましたから」

 

「そりゃ、そうだけどさ……! つか一言くらいないわけ!? あんたさ、あんた──あたしのトレーナーなら、一番にあたしのとこ来いよッ!」

 

 ついトーセンジョーダンは叫んだ。明日原を掴んで投げ飛ばしそうな剣幕だった。

 

「君の、トレーナー……?」

 

「……ッ、なんだよ────そう思ってたのは、こっちだけかよっ!?」

 

 正直なところを言おう。もうそういう関係だと思っていた。

 

 トレーニングは厳しいし、敬語はやめないし、ギャクセンス0だし、趣味は合わないし──何より、自分よりバカなところさえある。バカでアホで、さっきだって──あんな、全く似合わないような大声で、バカみたいな大口開けて叫んでいて。

 

「あたしは……──っ!」

 

 顔を伏せた。裏切られたような気分だった。何もできず、ただ拳を握りしめて、意味不明な悔しさに目を潤ませて。

 

「僕でいいんですか?」

 

 ハッとして顔を上げた。珍しく明日原は優しい顔をしてこっちを見ていた。

 

「自分で言うのも何ですが、僕はあまりスマートな勝たせ方は出来ません。あまり頭がよくないものでして。レース展開の予想とか、上手な作戦勝ちとかが苦手なんです。だからトレーニングでそこを補うしかなくなる。ジョーダン、僕をトレーナーにすると、この一ヶ月のような生活がずっと続くことになるんですよ」

 

 ──思いもよらないその発言に、言葉が詰まった。この一ヶ月は地獄の浅瀬に浸かっていたと言っていい。遊ばず、サボらず、ただキツいトレーニングをこなし続ける。

 

「うぐっ……」

 

「だから君は君の生活に合ったトレーナーを見つけるべきだと……僕はそう思います」

 

「……………ん、うぐぐぐっ、じゃあ、じゃあ──」

 

 別のトレーナーなど考えられない。想像がつかない、そいつは本当に役に立つのか? 中央のトレーナーだからといって必ずしも優秀ではない。当たり外れは必ずあるのだ。少なくとも目の前の男は約束を果たした。

 

「なんとかしてよ、そんなの! 言っとくけどあたし、べんきょーとかつれーのとか大っ嫌いだかんね!」

 

 よって、そんなことを言い放った。

 

 明日原はその言葉を反復するように二、三秒固まって、それから笑い出した。

 

「ふ、ふふ、くくく……はは、ははははははっ! なるほど、なるほど! 辛いのは嫌い、ですか! ジョーダン、君はそれでも勝ちたいんですか!?」

 

「……勝ちたい」

 

「なるほど、勝ちたいし辛いのは嫌だ、だからなんとかしろ……確かに、理にかなった言い分ですね。ふ、ふふふ……なるほど、僕は君のことを見誤っていました。根性のある、負けず嫌いなウマ娘だと──でも違いましたね。君は案外、我が儘なんですね」

 

「ワガママ……って、まあ、そりゃぁ、そうかもしれないけど……」

 

「なんとかしろ、ですか。ふ、ふふふ……」

 

 笑いを噛み殺しながら、明日原は思案する。適度に楽で、それでいて勝つトレーニングの大枠を考える。そして答えた。

 

「いいでしょう、ええ! なんとかしますよ。辛いのが嫌で、でも勝ちたい。そして君は僕を選んでくれた。僕の役目がそうだと言うのなら──約束しましょう、トーセンジョーダン。君の力になります」

 

「……ん。最初から、そう言えし……」

 

 ──夕日差し込むトレーナー室。

 

 この日、トーセンジョーダンは明日原と正式契約を交わしたのだった。

 

 

 

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