宝塚記念を3週間前に控えた頃だろうか。
【速報】チーム桐生院に亀裂【ウソでしょ】
実際、明日原は耳を疑った。夢でも見ているのかと思った。
来客用のソファーにむすっとした表情で座るハッピーミーク(激レア表情)がぼそぼそと呟いていく内容を総合するに、喧嘩したらしい。
先日から睡眠時間の死んでいる明日原にはクマが浮かんでいてゾンビみたいだった。そのゾンビがぽかんと口を開けて放心している。こっちもこっちでレアな顔だ。それと同時に、そのぐらいの異常事態が発生していることになる。
「…………もう一度、聞かせてもらえます?」
「けんか、した」
「誰と」
「わたしと」
「誰が」
「あおいが」
「…………冗談でしょう?」
「嘘じゃない」
そして一方、ハッピーミークの対面でぽちぽちスマホを弄っていたジョーダンも顔を上げて口を開いた。
「え。あたしも聞き間違いかと思ったんだけど……マジなん?」
「……もう、あおいのことなんて知らない。あんな分からず屋に掛ける時間なんて……もうない、です。ぷんぷん」
信じられない。正直どこまで本気で怒っているのか明日原にもジョーダンにも判別はできないが、ともかく怒っているらしい。
「あんな意気地無し、行き遅れて独身ババアになればいい、です。エリート気取りのぽんこつうまぴょい女なんて、ばらばらにして燃えるゴミに出してやる……です。ヒトミミ風情が勝てると思うなよ……」
世紀末みたいな悪口が途切れないハッピーミーク。ものすごい畜生発言だ。ヘイトスピーチと形容しても過言ではなかった。普段ぽわーっとした表情の裏でこんなことを考えていたのかと思うと背筋が凍った。
「で、なんで喧嘩したんすか?」
ジョーダンは怖いもの知らずなのか、あっさりと震源地に踏み込んでいく。
「……方針が、違った」
「方針? 何の?」
「トレーニング……の、方針」
──どうやら。
桐生院とハッピーミークで、トレーニングに関する意見が食い違ったらしい。
まあよくある話だ。トレセンだけではない、コーチと選手で意見が食い違ってしまうという例は、競技経験者なら誰もが一度くらいは経験するのではないだろうか。
まあそういう場合、指導者が経験と知識を備えていれば大抵は指導者が正しい。怪我に対する姿勢などがそれの典型例で、若い選手は往々にして怪我を甘く見る。まあいけるっしょー、と無茶もしがちだ。だが指導者の方はそれが危険であることを知っている。それは指導者自身が怪我によって泣かされたり、事故が起こったケースを見てきたりしてきた経験によるものだ。
「……わたしは、ハードトレーニングをしたいって言った」
宝塚記念まで3週間と少し。ハッピーミークはそれに出走する。
念願の初G1制覇を成し遂げるための方針として、これまで避けてきたかなりハードなトレーニングをするべきだとハッピーミークは思ったらしい。
ただ案の定というべきか、桐生院がそれを許可することはなかった。
「あおいは分からず屋、です。あすはら」
「……はい、なんです?」
「あおいをぶっ叩いてきて。今すぐ」
「……その、暴力とかはちょっと良くないのではないかなーと思ったりするんですが……」
逆によくある話過ぎた。あまりにもありふれている話だ、特にトレセンでは。ウマ娘はトレーナーに常に従順なわけではない。何なら逆の場合もあるぐらいだ。トレーニングの方針が食い違うことなど本当に良くある例だ。教科書に載せたいレベル。
ただ、桐生院にはそんなイメージは持っていなかった。彼女はせいぜいがやんわりと諌める程度だと思うし、ミークの方も桐生院の説明を聞けば大抵はきちんと納得して従う。これまではそうだったはずだ。
それがどうして喧嘩するような事態にまで発展したのだろうか。本当に仲のいいコンビだと思っていたのだが──
「それで……なぜ、僕のところに?」
薄々嫌な予感を察知しながら、明日原はそう問いかけた。
「あおいは頼りにならない。設備使用の許可だけ、ください」
学園のトレーニング設備は基本的にウマ娘たちに解放されている。自由に使っていいですよーって感じなのだが、一部のトレーニング設備には予約が必要なものだったり、監督者を必要とするものもある。
つまり、トレーナーの監督の元でしか使えないというトレーニング設備というものが存在する。基本的には筋トレ系の設備だ。最もこの規則はほとんど形骸化していて、トレーナーは書類に判子を押すだけでいい。
しかしそれは、ハッピーミークのトレーニングは明日原の責任で行われることを意味する。それは同時に、何らかの事故が発生した場合、その責任は桐生院ではなく明日原にあるということでもある。
「えーっと……つまり、君は自由にトレーニングをやらせてくれ、と言いたいわけですね」
「ん……」
桐生院の元では思うようなトレーニングが出来ない。担当契約を解除する、とまでは言わないが、一時的に明日原の責任の元、自主練のような形でトレーニングを行いたい。そういうことを頼みにきたらしい。
明日原が慣習的に下した判断の答えは──
「許可できません。当然、このことは桐生院トレーナーに報告します」
花丸回答の大人の対応だ。他人の担当ウマ娘を、その担当トレーナーの許可なく預かるなど出来るものか。責任という単語は実在するのだ。
それを聞いてハッピーミークはぎゅっと両手を握って顔を俯かせた。明日原の言葉は、予想出来て当然の答えだった。
「……ね。あっすーさ、もうちょいなんとか出来ないの? ミークパイセン、あっすーのこと頼ってきてんだし」
ジョーダンが困り顔で口を挟んだ。どうやらジョーダンはミーク側の立場らしい。同じ選手としての立場から、勝つために厳しいトレーニングをしたいという気持ちが良く理解できる。
「桐生院トレーナーがストップを掛けるほどです。そのハードトレーニングには、彼女にとって許容できないリスクがあったのでしょう。ならば、なおさら僕は学園のトレーナーとしての立場から止めるべきです」
特にハッピーミークは地獄みたいな出走ローテを回している。もしかしたら芝、ダート問わず全てのG1に出走したことがあるんじゃないかとか言われるぐらいには色々走る。そして掲示板を外したことが一度たりともない。1200mでも3200mでもダートでも芝でも、全てそうだ。平均値がそもそも高い。
だが、その時点で相当なリスクを背負っている。
「スポーツ選手にとって、体とは磨き抜かれた商売道具ですが、同時に
特にウマ娘の場合、一度のレースに対して休養を2ヶ月3ヶ月取ることは珍しくない。トレーニングを全くせず休むということもある。レースというものは、たった一度でそれだけ体には疲労が溜まる。
人間でさえスポーツ選手に疲労骨折は付き物なのだ。ましてやウマ娘など。
「むしろ宝塚記念は回避し、2ヶ月ばかり休むべきだと思います。いくら君が頑丈だと言っても限度が……いえ、限度がないと仮定するほうが危険です。リスクとは目に見えません。だから慎重さが必要になるんです」
「でも、あすはらは……ジョーダンを、皐月賞に出した」
偉そうに語っていた明日原に鋭い刺し味の言葉を投げかけるハッピーミーク。明日原の顔が引き攣った。
「…………」
「爪、怪我してたのに……出しました。だから……説得力ない」
結果論で言えばジョーダンは勝ったし、無事に戻ってきた。だから結果的には明日原の判断は正しかったことになる。
指導者の言うことが100%正しいわけではない。他人の言うことが正しいわけではない。ミークの意見が間違っているわけではない。そして桐生院は間違っているかもしれない。
実際のところ、それは試してみなければ分からない。無理を押して走っても、(基本的には上手くいかないが)それで上手くいってしまうケースはある。ジョーダンの皐月賞はまさにそれだった。何のことはない、明日原は博打に勝っただけである。
つまり桐生院とハッピーミークの喧嘩の構図は、一か八かで勝利を狙いにいくハッピーミークと、それが失敗した時の事態を恐れる桐生院という形になる。
どちらの言い分にも理がある。そしてどちらが正しいのかどうかは、それを試して見なければ分からない。
ただ客観的なデータから述べるならば、一か八かは大抵の場合失敗する。失敗率11%だからいけるやろとかいってポチると失敗するのだ。3パーなら安全やろと思っても失敗することはある。2パーで失敗とかマジでどうかしてる。本当にやめてほしい。
「……どうしてもダメ、と言ったら……君はどうしますか?」
「──5月13日」
すっと目を細めてハッピーミークが呟いた一言で、ただでさえ顔色の悪い明日原が凍りついた。
「"忘れてた、何もしてない、忙しかった"、……そんなところ?」
「…………」
「あすはら、どうするの?」
ダラダラと汗を流す明日原の表情はなかなか愉快だったが、ジョーダンは何の話か分からない。頭の上にハテナマークを浮かべている。
「………………何が望みですか」
テロリストの要求を聞くようなセリフだった。大体において間違っていなかった。
何のことかさっぱりなジョーダン。何を思ったかその日付をグーグル先生で検索。ロツマ島の日、カクテルの日、メイストームデー、トップガンの日──違いそう。有名人の誕生日?
あ。あった。有名人の欄で1番最初に出てくる。こんなところでも1番とは流石だ。
「あ。スカーレットパイセンの誕生日なんだ、その日」
ダイワスカーレット、20歳。
さっきのハッピーミークの言葉、"忘れてた、何もしてない、忙しかった"──とは、つまり。
まあ仕方ない。明日原はジョーダンが休養に入ったのをいいことにものすごい量の仕事を押し付けられていた。睡眠時間3時間らしいし、そのうち倒れるかもしれない。誕生日を忘れるのも無理はない。
それが大体2週間ほど前の話だ。明日原はそれを思い出して、いまだにスカーレットから音沙汰ひとつないことが逆に不気味でならなかった。
「……助けて、あげます」
女神かな? 明日原はそう思った。
何せスカーレットは成人してしまった。この日が来ることを恐れ続けてきた明日原にとって、その事実はアルマゲドンと同じくらいの絶望感だった。
「だから……おねがい、あすはら。力を、貸してください」
そう言って、ハッピーミークは深々と頭を下げた。
こうまで言われては仕方がない。要求を飲む以外に何もない。それはもう深い溜息を吐いて、明日原は観念するしか他になかった。
「………………了解しました。ただし、あまりに危険が過ぎるようであれば僕も口を出します。その条件で受けましょう」
「……!」
「それに、ちょうどいい機会ですし……。ジョーダン、シニア級のトレーニングを見学できるいい機会です。君にも手伝ってほしいことがあります」
「えー。タダ働きとか勘弁〜!」
「……まったく、君たちは揃いも揃って一筋縄ではないようです。ジョーダン。君はなにで釣って欲しいですか」
「気になってるブランドが新作出したんだけどー、ちょーっとお値段張りまして。とりまプレっとく?」
「はいはい。トレセン学園は結果主義、つまり君の働き次第です」
「やった! じゃあミーク先輩、あたし頑張っちゃうんで! 何でも言ってくださーい!」
そんな訳で、チーム明日原(仮)が宝塚記念に向けて始動することになった。
*
桐生院葵という一人の新人トレーナーと、ハッピーミークという一人の新入生が出会ったエピソードをここで紹介することにしよう。
桐生院葵は中央トレーナー養成校を主席で卒業したのち、中央トレーナー試験を一発でパス。学園のトレーナー採用試験でも合格となり、5年前の春に新人トレーナーのバッジを手に入れた。
それは名門・桐生院が期待した通りの結果であり、そしてそれは同時に桐生院葵自身の夢でもあった。
トレーナーになって、強いウマ娘を育てて、大きなレースで勝ちたい。原風景は父親の姿、幼い頃に見せてくれたクラシック。確か彼女の名前は何だっただろうか──。
当時、日本中を熱狂の渦へ叩き込んだその世代は今では黄金世代と呼ばれている。国内平地GⅠ全制覇、突出して強いウマ娘が何人も同時に現れて、鎬を削った。
日本総大将スペシャルウィーク、怪鳥エルコンドルパサー、不死鳥グラスワンダー、トリックスターセイウンスカイなど、名だたる猛者たちがターフを駆け抜けた伝説の時代。その一つ前にはサイレンススズカやマチカネフクキタル、サニーブライアン、そしてあのステイゴールドらの面白ウマ娘コンテスト世代が揃っている。
そして黄金世代の次の年といえば、かの世紀末覇王がクラシックに解き放たれた年である。彼女が真の暴虐魔王として日本のレースシーンに君臨するのは、さらにその後の話だ。
ともかく、日本のレースを振り返ってみても1番か2番を争うほどレースが面白かった時代である。だから桐生院葵は夢を見た。
レースに夢を見た。
話を戻そう。ハッピーミークと、桐生院葵の出会いの話だ。
選抜レースで5着だったハッピーミークを一目見て、ぽつんと1人で立ち去っていく後ろ姿に目を吸い込まれた。思ってしまった。自分が捕まえていないと、彼女はどこかへ人知れず消えてしまうかも知れない。
自分があの真っ白な少女を留めておかなければ。
まだ新人だった桐生院には実績もなく、1着だった子をスカウトに説得出来るだけの材料がなかった。群がるスカウトの波を搔き分けるのも億劫だった。
だから、目についたその子を追った。正直なところ丁度いいと思った。一流のトレーナーに至るには経験が欠かせない。最初のうちは失敗しても仕方がない。手を抜くつもりなどないが、最初に担当する子はなるべく未来のなさそうな子がいい──そういう考えが、どこかにあった。
だってそうだろう。もしも大成出来るだけの素質を持った子を、自分が新人であるための実力不足により潰してしまうかもしれない。そうなる可能性があるのなら、いっそ最初から──。
『……ハッピーミーク、です』
いくらトレーナーの家系でも、自分で一から育成をするのは初めてだった。シミュレーションではない現実に緊張した。
『……よろしくおねがいします。……トレーナー』
トレーナー。そう呼んで微笑んでくれたハッピーミーク。
恐ろしかったのかもしれない。
いつか自分自身の至らなさがこの子を裏切ってしまうかもしれない。期待に応えられないかもしれない。笑顔を消してしまうかもしれない。
『トレーナー』
口数の少ない子で、自分を表に出せないのかもしれない。リラックスさせる方法を探してみよう。
『ううん……。気遣ってくれて、嬉しかったです。けど……わたしは、トレーナーにも笑って欲しい、です』
笑顔は作ろうと思っても難しい。作り笑いは苦手だ。
一緒に遊んで仲を深めよう。でも、遊ぶと言っても何をすればいいのだろう?
『何でもいいかと。ゲームセンター……は、難易度高そうですね。カラオケとかボーリングとかではないでしょうか? ……え。僕と? まあ……手伝えることがあるのなら、もちろん。可愛い担当のためですからね、仕方ないね』
童謡をドヤ顔で歌っていた自分が恥ずかしい。今思い出すと顔から火が出そうだ。
いろいろなことを手伝ってもらった。一生懸命研究を重ねて、戦術を勉強して、トレーニングを組んで、対策を練って。
ジュニア級で重賞を制した。初めての担当ウマ娘が重賞──桐生院の娘としてふさわしい結果を残せた。誇らしかった。笑顔になった。思わずミークと抱き合ってしまった。どうしてか流れる涙も、笑顔に混ざって目立たなかった。
でもクラシックは散々だった。勝った鞍と言えばエルムステークスぐらいのもので、クラシックに出走したはいいものの、最高でも3着。
本当に、一度も掲示板を外してない。それはすごいことだ。ハッピーミークは本当にすごい素質を持ったウマ娘で、本来であれば──本来なら、もっと。
『トレーナー……?』
勝てるはずなのだ。
それは神が彼女に与えてくれた才能だ。万能の素質、それが与えられた才能。
大丈夫だ。だから出来ることをやればいい、彼女にしかできない事がある。それをやっていけばいい。だから止まれ。これ以上──
『トレーナー、泣いているんですか……?』
悔しい。
勝てないことが悔しい。勝たせられないことが悔しい。負けてしまったことが悔しくてたまらない。何が足りない? 戦術? フィジカル?
『正直、脳筋が1番強い。天性の肉体を持ったウマ娘を更に鍛え上げると、基本的には誰もそれには勝てないでしょう。それは技術云々以前の、もっと原始的なレースのあり方だからです。駆け引きや
そうだ、そんなことは分かっている。誰でも分かることだ。体を鍛えて勝つ。他のウマ娘よりも強く鍛えれば勝てる。歴史が証明している。ミホノブルボン──坂路の申し子が、誰よりもトレーニングすれば勝てると証明した。
分かっている。分かっているけど。
ずっと考えていたことがある。
ミホノブルボンが菊花賞の後に壊れてしまったのは、やはりそのトレーニング故だったんじゃないか?
ー ー ー
ガシャーン。ガシャーン。ガシャーン。ガシャーン……。
「それで、今回は先行策ですか。主要なライバルはディープスカイぐらいですね……。どうにも有力どころの引退が相次ぎましたから、ある種の空白世代と呼ばれていることは確かです。チャンスと言えば、確かに」
カンパニーやスクリーンヒーロー、そしてウオッカの引退。現在、古バ戦線には絶対王者がいない。俗に言う戦国時代というやつだ。
ガシャーン。ガシャーン。ガシャーン。ガシャーン……。
この隙をつく、という訳ではないが……ハッピーミークの判断、今年に全てを賭けるというものは決して間違っていないと思う。年齢的な部分も鑑みて、今年で最後ということも十分にあり得る。
「ういー。レッカーマシン重り付けたったけど……ねえ、マジで重量アレで合ってんの? 200kgってそもそも上がるもんなん?」
筋トレマシンに重りをセットし終わってきたジョーダンが軽く引き気味に聞いた。
眼前では、ハッピーミークがアホみたいな重量を背負ってスクワットをしていた。肩にちっちゃい重機乗せてんのかーい! とかいう変な歌でも似合いそうだ。実際本当にそんな感じだった。床とか軽くミシミシと音を立てている。
レースはあくまで有酸素運動だ。筋トレとの相性はそれほどいい訳ではない。ただ加速力や競り合いの時に筋肉がなければ前へ行けない。
全身を壊すつもりのような苛烈なトレーニングをハッピーミークはこなし続けている。
「ミーク先輩、マジで大丈夫なんすよね? 壊れちゃったらどうすンすか」
「……絞り切るために……必要なこと、だから」
ハッピーミークはある一つの手本を基にトレーニングを組んでいた。過去、とある方法でレースを勝ったウマ娘のトレーニング思想を取り入れて、体を追い込む。ハッピーミークが宝塚記念を勝つために選んだそのウマ娘の名前は──。
「……『淀の刺客』ライスシャワー。彼女の手法で、勝つ」
約15年前の天皇賞・春。彼女、ライスシャワーが王者メジロマックイーンを倒すために減らした体重──実に6kg! 身長145cmという小柄なライスシャワーにとって、それだけの減量は致命的ですらあった。一歩間違えれば毒だった。
だが彼女はやり遂げた。日経賞から春天までの1ヶ月でそれだけの体重を落とし、極限まで体を追い込み鬼を宿した。そしてメジロマックイーンというパクパク饅頭ステイヤーの王を王座から引き摺り落とした。
ハッピーミークが勝つために選んだ手法もそこにある。自らの頑丈さならばこのトレーニングに耐え切れると判断し、悲願であるGⅠ制覇を成し遂げる。
ライスシャワーがメジロマックイーンを破った京都レース場は芝3000mの舞台。ただ宝塚記念は芝2200mである。状況はかなり違ってくる。
やることは単純だ。余計な脂肪分、筋肉を限界まで削ぎ落とす。そうすれば体が軽くなる、速く走ることが出来る。そしてたくさんトレーニングをする。軽くて強い体を作って──勝つ。
不意に明日原に着信が入った。
ハッピーミークがアホみたいな重量で筋トレを続けている横で、明日原は携帯を耳に当て、一言か二言喋ったのち通話を切った。
「ジョーダン。これ、今日の彼女のトレーニングメニューです。万が一の事故に備えて、ミークを見ていてください。余裕があったら君もトレーニングを」
「うーい。どこ行くん」
「野暮用です。すぐに戻ります」
とかいいつつ結局明日原はその日は戻らなかった。
ミークが筋トレの後、約2時間のフィットネスバイクをぶっ続けでやり続けた後、ロードワークへと向かって行った。
興味本位でミークのトレーニングを丸々真似たジョーダンが太ももをプルプルさせながらそれを見送って、そっと自身の救援を依頼し友人に担がれて寮へと帰っていった。
そんな生活を丸々1ヶ月、ハッピーミークはこれから続けることになる。
ハッピーミークの身体的な成長期は終わりを迎えている。身長はこれ以上は伸びない。本格化も然りだ。だが全盛期がいつなのかどうかも正直判別はつかない。2000mのタイムは1年前から伸びていないが、衰えてもいない。
自らのピークはもしかしたらとうに過ぎていて、自分はそれに気がついていないだけなのかもしれない。あるいはこの行為はただ自分の体を痛めつけるだけに終わるかもしれない。実際のところがどうなのかは分からない。データから得られるものなどあくまで推測だ。
ハッピーミークがここ1番で勝ちきれない要因を、彼女はずっと考えてきた。GⅡは勝てるのにGⅠを勝てないのは決定的な要因がある。ハッピーミークの実力が劣っている、そう結論づけることは最も簡単だ。
GⅠを勝つための決定的な何かが欠落している。ハッピーミークはそれが自分の中にある甘えだと思った。壊れることを恐れてはいけない。リスクを恐れてはいけない。
壊れたって構わない、それで勝てるというならば。
「でもミーク先輩、きりゅーさんは悲しくなるんじゃないすか。知んねーけど……あの人は、優しいっしょ」
優しさ?
優しさとはどちらのことなんだ。壊れてでも勝つか、壊れずに負けるか。そのどちらを選ばせるのが優しい? 本当に優しいということは、表面的でない優しさとは何だ? あおいは恐れているだけだ。怖がっている。
「……でも、それはパイセンを心配しててっつー話じゃん。ねー、ムキになってないンすか?」
どちらもどうせ同じことだ。
いっぱい走って、走って、走って、走って、走って、頑張って、頑張って、頑張って──それで、どうなった。
勝てなかったのは、きっと努力が足りないからだ。
勝てるまでやり続ける。そう誓った。
わたしは勝つまで走り続ける。その際に地獄の淵を多少通ろうが些細なことだ。あおいが居なくたって。
ハッピーミークとかいうウマ娘界の公共財産