「当然、冗談に決まってんじゃん?」   作:にゃんこぱん

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宝塚記念・ぶい!

 明日原にとって。

 

 桐生院という同僚がどのような存在なのか──。

 

 一つには、同期としての気安さ。ウマ娘が勝つということは、残りの十数人のウマ娘は負けているということで、そのトレーナーも然りだ。極論だが、OPや500万以下などのグレードを主戦場にするトレーナーと、とっくにGⅠの常連になった明日原や桐生院では意識の温度が違う。

 

 自分が負かしたトレーナーに会うのは、はっきり言って気まずい。妬みや僻みもあるに決まってる。そりゃそうだ、自分だって逆の立場だったら一発ぐらい殴ってたかもしれない。この若さも逆風になっていると思う。

 

 その中で桐生院は貴重な同期で、担当もライバル同士で──と、似通った点が多い。トレーナーになってから数少なくなった貴重な友人だと思っている。

 

 切磋琢磨しあうライバル。しかし桐生院の初のGⅠ制覇はハッピーミークではなかった。桐生院にとって、初のGⅠはブエナビスタによる阪神JFだった。ブエナビスタは、あまりにもあっさりとGⅠタイトルを獲ってしまった。ミークと桐生院があれほど望んでいたそれは、簡単すぎるほど簡単に桐生院の手へと渡された。

 

 どうしてミークが勝ちきれないのか? 明日原には自分なりの考えがある。桐生院の甘さが足を引っ張っている。他人の育成方針に口出しはしない。きっと桐生院はトレーナーになるには優しすぎる。

 

 彼女はハッピーミークが故障することを極端に恐れている。

 

 桐生院は優しい。優秀なトレーナーだが、それ以上に優しい。

 

 ──ハッピーミークは脅威ではない。明日原の冷静な部分はそう言っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 桐生院にとって。

 

 明日原という同僚がどのような存在なのか──。

 

 トレーナー界隈にも名門は存在する。優秀な血統には優秀な側付き──トレーナーの家系というものはある。

 

 明日原景吾という男がたまたま同期としてトレセンに入った。聞けば歳もほとんど変わらない。全く聞いたこともない名前だったが、優しそうな人だったし、自分も不安だったので交流が生まれた。見た目通りの穏やかな人で安心した。ついでに顔も良かった。

 

 ──心のどこかで。

 

 自分の方が優れていると思っていたことを否定できない。こちとら言葉も話せない頃からレースを見ている。先祖代々のノウハウも全て持っている。いくら試験をパスしてきたからと言って、そこいらのトレーナーに自分は負けない。桐生院にふさわしい結果を示してみせる。

 

 剥き出しの対抗心は悪ではない。それが結果に繋がる。勝ち負けを競うのなら、叩き潰すという気概は必要だ。

 

 ダイワスカーレットはティアラ路線、ミークはクラシック三冠──有記念で会おう、と交わした言葉があった。

 

 皐月賞4着。日本ダービー3着。菊花賞5着。有記念5着。

 

 まだ有記念には届かなかった。それはいい、クラシック級が有に勝つのは本当に強いウマ娘でないと難しい。来年だ、来年こそは。

 

 高松宮記念、天皇賞(春)、安田記念、スプリンターズS、アルゼンチン共和国杯、ジャパンカップ、有記念。

 

 甘くない。甘くないのは分かっている、長年その距離で戦ってきた猛者相手に勝ちを取れるほど甘くない。

 

 ファイングレイン(スプリンター)アドマイヤジュピタ(ステイヤー)ウオッカ(マイル)スクリーンヒーロー(中長距離)……ダイワスカーレット(ミス・パーフェクト)

 

 ダイワスカーレットの引退──勝ち逃げされた。

 

 鬱陶しい声が背後から聞こえてくる。あの明日原という男ばかりにいい顔をさせるな。桐生院の威厳を保ってみせろ──手段は選ぶな。甘さは捨てろ。手加減などするな。勝つための手段を選ぶな。我々にそんな余裕などないのだ──。

 

 ……こんなもの、私が望んでいたレースの形じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

 自らに与えられたその一室で明日原は連絡通りに待っていた。彼女はさほど時間も経たずにやってきた。

 

 走ってきたのだろう。息が荒かった。

 

「……明日原トレーナー、ミークを……返してください」

 

 開口一番の言葉に驚きはない。彼女ならばそう言うだろうと思っていたところだった。

 

 いつになく珍しく──いや、初めてかもしれない──桐生院が明確な敵意を込めた瞳で明日原を睨んでいた。温厚な桐生院がここまで鋭い表情を見せるのは、明日原が知る限りではこれが初めてだ。

 

「なんのことです?」

 

 お約束らしくとりあえずとぼけてみた。それを聞くや否や、桐生院はずかずかと詰め寄ってきてばん、と机を叩いた。その衝撃で数枚の紙がひらりと舞う。

 

「ふざけないでくださいっ!」

 

 睨み下ろす桐生院の瞳と数秒間目が合う。ふっと目を伏せて小さな声で言う。

 

「駿川さんから連絡がありました。明日原トレーナーの名前でミークに特級トレーニング器具の使用許可が降りていますけど、何かあったんですかって」

 

 余計なことしやがってあのミドリ──反射的にそう思ってしまった。もちろんそれを表に出すような真似はしないが。

 

「……今すぐに、ミークを連れてきてください。私は、ミークにそんな指示を出した覚えなんてありません。あの子のトレーナーは私です。明日原トレーナー、これは明確な越権行為です。今すぐにミークを止めなければこのことを諮問委員会に報告し、あなたに対する速やかな処罰を求めます」

 

 捲し立てるような剣幕だ。はっきり言って迫力があった。珍しく事務的な方面から攻めてくるあたりに本気度が窺える。そんなことをすればもはや明日原と桐生院の仲は崩壊することになるのだが、そんなことは些細なことだと言わんばかり。

 

「では……問いますが、桐生院トレーナー。それがハッピーミークの意志によるものだとしても、あなたはそれを認めるつもりはないんですか?」

 

「あの子が何を考えているのか私には分かります。そしてそれはあなたも同じでしょう!? 私の考え、話しましたよね。分かっていますよね、賛同してくれましたよね!? 怪我だけは絶対に防がなければならない──ジョーダンさんの怪我を忘れたんですか!? よりによって、なんであなたが……っ!」

 

 葛藤の混ざる表情で絞り出した声。明日原は味方だとどこかで考えていた──それを裏切った。自分よりもミークの意志を選んだ。

 

「僕たちの仕事はウマ娘を勝たせることです。ハッピーミーク、彼女の勝ちたいという意志を尊重したまでです」

 

「尊重……!? 違います、それはただの傍観です。私たちは大人です、学生である彼女たちを導く義務が──」

 

「ありませんよ、残念ながら。ハッピーミークはもう子供ではありません。十分な自己判断が可能な年齢であり、相応の経験を積んできました。そしてその彼女が願ったんです。どうなってもいいから勝ちたいと──それを否定する権利が、あなたにまだ残っているのでしょうか?」

 

「そんな言葉遊びで煙に巻かないでください! いいからやめてください、それがミークの意志であろうがなんだろうが、それでミークが怪我をして、取り返しのつかないことになったら──」

 

 復帰できる怪我ならばいい。でもそうではない場合というものが無視できない。そういうケースが山ほどある。例えば靭帯切断、例えば下半身不随、例えば──死亡事故。

 

「あなたが耐えきれませんか」

 

「誰だってそうでしょう!? お願いです、ミークを返してください。私は……あの子に何かあったらどうすればいいんですか。明日原さん、教えてくださいよ……」

 

 ほとんど涙の混ざった瞳と声。桐生院の気持ちは痛いほど分かる。勝ちたいと願う気持ちと、無事に過ごしてほしいという願い。

 

「……あなたは入れ込み過ぎています。僕だってあなたの気持ちくらい分かりますよ。でもハッピーミークの気持ちも分かるんです。桐生院さん、あなたはなぜ彼女があれほどまでに自らを追い込もうとしているのか理解していますか?」

 

「わ、分かっています。勝ちたいって思うのも当然──」

 

「いいえ、それだけではありません。彼女は……いえ。言葉で伝えるのは野暮でしょうか、やめておきましょう。ともかく……申し訳ありませんが、ハッピーミークは僕が預かります。事後承諾ではありますが……。働き詰めのあなたにはちょうどいい休暇とでも思って下さい」

 

「……明日原さん。どうして……」

 

「今日のところはお引き取りを。そして宝塚記念──必ず来て下さい。勝つにしろ負けるにしろ、ミークがそれを見せたい相手はあなた以外には居ないわけですから」

 

 話が通じないと判断したのだろうか、桐生院は黙って背を向けた。去り際に捨て台詞を残していく。

 

「……あなたになら、理解してもらえると思っていました」

 

 静かにドアが閉まった。

 

 冷たい失望と悲しみの混ざった声の残響がまだ部屋に残っているような気がして、明日原は気が滅入った。本当にこれでよかったのだろうか? その答えは試してみなければわからない。だから厄介なのだ。

 

「はぁ、全く。憎まれ役などやるものじゃない。あー、くそ。今日一日この気分で仕事するのか……」

 

 ジョーダンが休養に入ったことで明日原は割と暇になったはずだったのだが……おかしい。なぜかやってもやっても終わらない仕事に押し潰され、現在進行形で大切な同僚との絆が切れかかっている。宝塚記念の結果次第では本当に縁が切れるだろう。

 

「……お願いします、三女神様──ハッピーミークに幸運を。それと僕には休みを……」

 

 先日腰痛を発症し、本格的に入院まで後一歩状態の明日原。そろそろ倒れるかもしれない。26歳にもなって無茶ばかりしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 興味本位だった。それ以上の理由はない。

 

 ジョーダンがあのハッピーミークの練習に付き合っているだとかなんだとか、そういう話が聞こえて来たから、それを見に行ってやろう──本当に、それ以上の理由などなかった。

 

 ジョーダンに聞いた通りの場所へ歩いていく。今はロードワークへ出ているらしい、学園を出て山道の方へ。

 

 ジョーダンを見つけた。近くの神社──あの場所は急階段があって、よくトレーニングに使われている。

 

「よォ──首尾はどうだ?」

 

「あ、ナカヤマ。ちぃーっす……」

 

 バインダーとタイマーを構えている姿はすっかり様になっていて、あくまでその視線は階段の下側へ向けられている。100段近くあるそれを駆け抜ける白い人影に注がれている。

 

 ジョーダンも集中しているようだ。邪魔をするつもりもないので、ナカヤマフェスタは黙って待った。カカカカカカ──と、跳ねるような足音が一瞬にして近づいてきて、鳥居を駆け抜けた。

 

 ──芦毛の髪が揺れている。初夏の涼しい風に吹かれている。

 

 ナカヤマフェスタは思わず目を見開いた。加えていたロリポップが唇からこぼれ落ちて、カランと音を立てて地面に衝突した。

 

「ラスト5本っす──。目標タイム-0.2秒なんで、まだ遅いっすよ」

 

「ん────」

 

 それをどう表現してみればいいのか分からない。だが言いようのない圧力というか……ただ立っているだけでも気圧されそうだ。体操着の上からでも分かる絞り込まれた肉体。トモからくるぶしに至るまでの曲線美というのだろうか。全くの無駄を削ぎ落としていった肉体。

 

 そしてその瞳だ。

 

 目は口ほどに物を言うというが、だとするならば何を主張しているのだろう? 

 

 ミークはナカヤマフェスタを一瞥もせずに階段を降りていった。

 

「やべェな……ぶつからなくて幸運だ」

 

「それな。このまま行けば、多分ミーク先輩が勝つ。けど……」

 

「けど?」

 

「その前に体がやばいことになるかも。これ今日のメニュー、見てみ?」

 

「……!?」

 

 差し出されたバインダーを見てナカヤマフェスタが絶句した。それは大体3日間かけて行うようなトレーニングだ。それを──わずか、1日で?

 

 オーバーワークを通り越している。

 

「おいおい……。チキンレースにしても振り切り過ぎだ、こんなの1週間も続けてりゃすぐにガタが──」

 

「今、3週間目。あの人、今まで1日も欠かさずにこんなメニュー続けてる」

 

 そしてそのメニューは全てミークが自作したものだ。量と負荷が限度を過ぎていることを除けば、よく練られたトレーニングメニュー。

 

「本当に……体が保つのか?」

 

「さあ……わかんね」

 

 困ったようにジョーダンは笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 破滅必死の追い込み。王者無き戦場。偶然か幸運か必然か、舞台は整った。それはある晴れた日だった。伝説が作られるにはあまりにも平凡だった。

 

 障害はあった。苦難もあった。苦しみと痛みに満ちた3週間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、彼女はやって来た。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初夏の宝塚市に優駿が集う。今年前半戦の集大成、宝塚記念。

 

 1番人気はディープスカイ。2番人気イラミティ、3番人気サクラメガワンダー。

 

 このレース、断然の1番人気はディープスカイ。単勝オッズは1.6倍と圧倒的。現在の空白の古バ戦線において、ディープスカイに敵はいない。

 

 ちなみにだが、去年の覇者ドリームジャーニーが出走を決めている。宝塚記念の二連覇、有記念も合わせればグランプリ三連覇という期待は掛かっているが、ここのところのドリームジャーニーは成績が振るっていない。去年の有の後からは3着続きなのもあって、今回は4番人気。

 

 まあたぶん、ディープスカイが勝つだろう。

 

 ──誰もがそう思っていた。

 

 パドック。順番にお披露目がされていく。1枠1番マイネルキッツから順番に──そして6枠9番、ハッピーミーク。純白のドレスに身を包んだ芦毛のウマ娘。思わず観客席からどよめきが上がった。

 

 パドックまで見に来るような熱心なファンや記者ならば多少は目が肥えている。7番人気ハッピーミークは──普通じゃない。

 

 このレースは、間違いなくハッピーミークが台風の目になるだろう。そんなことを思いながら、しかしそれを目撃していた人々は自分が冷や汗をかいていることに気がついた。

 

 彼らは恐怖していたのである。それは飢えた肉食動物を前にした時のような生物的な本能による恐怖。鬼を宿した瞳──うっかり近づこうものならば、食いちぎられかねない。彼女はより原始の姿へ近づきかけている。理性と本能が混じり合うウマ娘の魂を純化させ、自らをより速く走るためだけの生物に近づけている。

 

 それを無事に確認した明日原は、安心したようにため息を吐き出した。

 

 無事に保ってくれた。際どい場面はいくつもあったが、彼女は乗り越えた。ジョーダンの献身的な働きも大きかった。

 

 肝心の桐生院は──もしかしたら会場に来ていないかもしれない。何せ連絡が取れない訳で、そうなればもうお手上げだ。そこからは賭けになる。もう何回博打を打てばいいのだろうか。あらゆることが綱渡り過ぎないか。

 

 そんなことを考えていた。

 

 控え室から引き上げてスタンドへ。グランプリの開催地、阪神レース場には9万人の観衆。第8レースを終え、次のメインレースの準備時間である今も雑踏からはわいのわいのと賑わう声が途切れない。

 

「あ、こっちこっちー!」

 

 高い声を振り向けばトーセンジョーダンが手を振っている。人混みをかき分けてそっちへ向かった。

 

「おつー。ミークパイセン、なんか言ってた?」

 

「いえ、何も」

 

「……まあ、しゃあないよな。すっげー集中してたし」

 

 ジョーダンの言葉通り、ハッピーミークは現在、触れれば弾け飛びそうな危うい集中状態にある。研ぎ澄まされた刃は横からの衝撃に弱いように──だがそれだけ鋭いということだ。

 

 レースが始まる前から、極限の集中状態にあった。あんなものは滅多にお目にかかれない。一人のウマ娘があそこまで身体と精神を研ぎ澄ませてくることなど滅多にない。誰だってレースには仕上げてくるが、あれは格が違う。

 

「今日……このレースを生で見ることの出来る人々は幸運ですね」

 

「それ。あー、なんかこっちまでキンチョーしてきた。やば。どうしよ……」

 

 まもなく出走時刻だ。本当ならば桐生院も一緒に見ることができれば良かったのだが、電話にも出ないしラインも繋がらないので仕方がない。ブロックされているかもしれない。

 

 時間が近づくにつれて、スタンドのボルテージというか、興奮や熱気が高まっていくのを感じる。ざわざわとした雰囲気が収束したり、あるいはバラバラに散りながら、少しずつその時間に近づいていく。

 

 誰しもその雰囲気に当てられて、心拍数が否応なく高まっていく。レース前の緊張は醍醐味の一つだ。

 

 レースが始まる。その瞬間を待っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 出走前、トレーナーたちは慌ただしかった。

 

 ──ハッピーミーク。あれは一目見れば分かる。両目が節穴でないならば、急遽担当に作戦変更を伝えるだろう。

 

「9番に注意しろ。今回は先行に切り替えた方がいいな──」

 

「今回は9番をマークしなさい。他の陣営がどう動くかまでは読めないけど、手を打つ必要がある」

 

「9番だ」

 

「9番──」

 

「9番から意識を外すな」

 

 パドックで初めてその存在を知ったのだ。ディープスカイらの有力どころへの対策は当然済んでいるが、ノーマークだったハッピーミークが突然浮き上がってきた。

 

 レースはいつも思い通りに行かないものだ。今回は特にそうなりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『出走の用意が整いました』

 

 ゲートイン完了、ファンファーレの後から会場のボルテージは最高潮。ここから僅か2分程度のために9万人が集まっている。そのためだけに。

 

『──その栄光は誰の手に。第50回グランプリ宝塚記念、スタートしました!』

 

「! 始まった……っ」

 

『各自いいスタートを切りました。さあまず飛び出してきたのはイラミティ、飛び出して先頭に立って行きます。これを追ってコスモバルク並んで行ってその外からマイネルキッツ、サクラメガワンダー追走4番手、その内並んでハッピーミーク』

 

「出遅れは無し、いいスタートです」

 

『中段外にディープスカイ、大歓声の前を通過! アルナスラインその内、3バ身空いてモンテクリスエス、エリモエクスパイア、スマートギア、最後方ヒラボクロイヤルで1コーナーカーブを曲がって行きます』

 

 ミークは現在5番手。逃げを打つイラミティに続いているのはコスモバルク──いや。

 

『コスモバルクが先手を取って、リードを5バ身、6バ身と広げて2コーナーカーブ! アールステイスぽつんと2番手行きました。1バ身差、今日は先行策イラミティ3番手アドマイヤフジ4番手、向正面に入ります』

 

「……まずいですね」

 

 実況が語っていなくても、レースのあらゆる部分は動き続けている。ハッピーミークの外からディープスカイが並びかけてきている。前には2ー4番手のバ群が形成され、見事に囲まれている。差しならまだしも、先行策で行くならばかなり位置が悪い。

 

「なんで前行かないんだろ……。今はまだいいけど、囲まれたままだとマズいよね?」

 

「まだ序盤です、無理に動く時ではありませんが……いえ、やっぱり不味いですね。あれ……やっぱりマークされてます? されてますね」

 

「え、ホントに? ……考え過ぎじゃね?」

 

『2バ身後ろカーネリウス、その外サクラメガワンダー……今、先頭までは12、3バ身です。その後ろにアルナスライン、インコースマイネルキッツ、うちハッピーミーク』

 

 後方からの迫りが激しい。逃げは一人、あとは中段の混戦状態。ミークの位置は言葉を選ばないなら最悪。

 

 一頭の逃げは大抵は逃げきれない。コスモバルクはすぐに下がってくるだろう。それはいい、それはまだいい。内に塞がれているとはいえ、見方を変えればいいコースを取れるということでもある。脚は溜まっている──。

 

「直線勝負はあの位置では不利、それは分かっているはず……前が詰まっているのは、非常に良くありません」

 

 今回、明日原はミークの作戦に関して一切の指示出しをしていない。そもそもミークのトレーナーではないのだし、ほとんど名義だけを貸している状態だ。

 

 ミークは何もかもを自分で考え、自分で鍛え、そして自分の考えた作戦で走っている。それは無茶かもしれないが、下手に明日原が口を出せばどうなるか分からなかった。

 

『3コーナーカーブに入りますが、逃げるコスモバルクのリードはまだ4バ身から5バ身ほど、2番手にカーネリウス上がって行きます3コーナー800を切って3バ身空いたところにイラミティ』

 

 4番カーネリウスが上がっていった。それほど不自然には見えない、残り4ハロンだ、仕掛けどころとしては少々早いか?

 

「……頑張ってください、ハッピーミーク」

 

 スカーレットへの対処のためにも、と汚い本音を心の奥底に隠して明日原は呟いた。刺されろアホが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は……私は、怖いんです。初めての担当、トレーニングの指導──怪我や事故、それらによってあなたの将来を奪ってしまうかもしれない……そんな恐れがずっと離れてくれません」

 

 どうして高強度トレーニングを許してくれないのか、問い詰めたらあおいはそう答えた。

 

「トレーナーとは……レースとは、無責任です。ウマ娘に全てを背負わせます。実際に走るのはウマ娘で、私たちではありません。外野から歓声と野次を飛ばして、喜んで悲しんで……あなたの物語をしたり顔で眺めているだけ。その苦しみも悲しみも理解した気になって浸っているだけで、映画を見るような気持ちで楽しんでいるだけ」

 

 それは初めて聞いた、レースへの失望の言葉だった。

 

 正直驚いた。あおいの中にこんな暗い感情があったなんて知らなかった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()。娯楽なんですよ。自分達はそれを眺めて楽しんでいるだけ。退屈な日常を紛らわすための、ただの消費物(コンテンツ)です。あなたの人生を左右するほど大きいそれは、大衆にとっては消費され、消えていくだけのただのストーリー。レースは産業です。経済の一部分でしかないんです」

 

 そりゃそうだ。反射的にそう思った。それが前提だ、そうでなければここまでレースというものは盛り上がらないだろう。本質的にはプロレスとかと同じなのだ。

 

 けど、あおいにとってはそうではなかった。

 

「私は……私には、それが許せない。許せないんです……」

 

 どうして?

 

 わたしはそう聞いた。

 

「だって……だってそうでしょう? トウカイテイオーの奇跡の復活──三度目の骨折だけが伝説になって、有記念のその後の、四度目のそれはそうそう語られません。ライスシャワーの予後不良、彼女はヒールのままで終わりました。沈黙の日曜日、現実に起こった悲劇ですら物語として消費される……彼女たちは、もう走ることはおろか、まともに歩くことすら出来なくなった。ウマ娘の本能だかを利用して……人生を消費して、大衆を楽しませているだけです。滑稽です。悲劇も喜劇になってしまう。輝いている期間には賞賛と応援の声を浴びせて、壊れてしまったら次のコンテンツに移る。……でも、彼女たちにはそれが全てだったのに」

 

 思わず瞬いた。あおいの叫び声なんて、初めて聞いた。

 

「それが全てだったのにッ! どうして過去にしてしまうんですか!? 誰も責任など持てない、囃し立てて駆り立てて彼女たちを壊したのはこの社会全部です、このレースという仕組み自体がどうかしていますッ! 私が好きだったレースはこんなものだったんですか!? 勝つためなら壊していいんですか、壊れたっていいんですか!? レースという仕組みが何人のウマ娘を殺してきましたか!? 今のレースは狂っていますッ!」

 

 ──桐生院葵は。

 

 きっと、トレーナーに向いていないと思った。

 

「……中央レース(トゥインクルシリーズ)でデビューする生徒は毎年7000人程度。そして怪我により引退する生徒が毎年5000人前後。私たちにとって、怪我や事故はあまりにも身近過ぎます。無事にレースを引退していく生徒は()()()()()()()()()()()──」

 

 そんなの当たり前だ。みんな、それを承知でデビューする。

 

 リスクを背負って、それでも勝てなくたって、怪我をしたって──。そんなこと、当たり前だ。けどあおいにとって、どうやらそれがおかしいことらしい。

 

「厳しいトレーニングは単純なプラスにはなりません。筋肉がついたからといって、体が頑丈になるわけじゃない、むしろ反対に強度は落ちます。何度も言ったでしょう、それはリスクなんです。取り返しのつかない事故は一瞬で起きます、そうなってからでは遅いんです」

 

 その時わたしは本当の意味で、桐生院葵という人物を理解出来たのだと思う。

 

「だから怖いんです。人生の長さに対して現役時代など小指の長さほどもありません、なのにそれに全てを掛けて壊れてしまう。その一生は物語なんかじゃなくて、どこまで行っても現実でしかないはずです。URAは……レースという仕組みは、どこか狂っています。誰も彼も正気じゃありません」

 

 この──ちっぽけな孤独を、誰が理解していたものだろうか。

 

 哀れなほどに優しくて脆いこのひとを、誰が守ってくれたのだろうか。

 

「……ミーク。レースで走れなくなった後も、あなたの人生は続いていくんですよ。現役時代なんて、どれだけ長くてもせいぜいが7年か8年です。けど……日本の平均寿命は80歳程度です。怪我により引退していくウマ娘の実に1割がレースによる後遺症を抱えて去っていきます。そんなものが許されていいはずがありません。私たちは競技者である以前に、それぞれの生活があります。人生があるんです。だから……よく聞いてください」

 

 甘えだ。

 

「そのトレーニングは許可できません。この強度のトレーニングにはリスクが伴います。あなたの一生を台無しにしてしまうリスクが介在しています。たかが……たかが一つのレースのために、あなたをそんな危険に晒すわけにいきません。これはトレーナーとしての言葉ではないんです、私……桐生院葵という一人の人間としての願いです。勝てなくていいんです。無事に走って、無事に引退して、残り長い人生を幸せに生きてください。それが私の願いです」

 

 侮辱だ。

 

「壊れてまで得る一着より、敗れて得る人生の方が価値があります。違いますか、ミーク」

 

 戯言だ。

 

「……うん、違うよ。あおいの言ってること……間違ってる」

 

 だからわたしは、あおいのことをどうしようもなく許せなくなって、眩暈がするくらいの怒りに視界が震えて。

 

「……ミーク?」

 

「あおい。勝てって言って」

 

 知っているさ。誰でも知っている──過去、GⅠを勝利したウマ娘でも、車椅子生活を余儀なくされているケースは存在する。大抵は同時にトレーナーもそれと同時に引退し……とか。

 

 心情は想像に難くない。トレーナーの立場からすれば、罪悪感に押し潰されるだろうことも分かっている。

 

「……嫌です。2着でいいんです。確かに追い込めばGⅠ勝利も可能性はあります、けど危険なんです。もしもそれで事故が起きたら? リスクヘッジの利かないトレーニングで万が一が起こったら? 私は……あなたの両親に、どんな顔をして会えばいいんですか? どの面を下げてあなたと話せばいいんですか?」

 

 レースの後に怪我が発覚することもよくある話だ。処置が遅れれば、最悪の事態もありうる。

 

 それは知っている。あおいはいつも正しい。

 

 でも、それでもわたしは許せなかった。

 

「……言って。限界まで走れって、絶対に勝てって──そう言って。あおい、わたしから……逃げないで。わたしは走りたい」

 

 わたしはどうしても許せなかった。

 

「だから……勝てって言って。どんな手段を使ってでも、必ず勝てって言って。そうしたら、わたしは……勝ってみせます。必ず」

 

 どうして言ってくれないの?

 

「わたし、耐えられる。あおいが考えてくれたトレーニングなら、どんなに厳しくても大丈夫」

 

 どうして、あなたを信じていますって言ってくれないの?

 

 あおいが居てくれるなら、信じてくれるなら、わたしはどれだけだって強くなれるのに。

 

 どうして。

 

 あおいは顔を伏せた──嫌いだ。口をつぐんで逃げるそのやり方は、どうしても嫌いだ。あすはらみたいなヤツに劣等感なんて感じる必要なんてない。あおいの方が何倍もすごい。どうして分かってくれないの?

 

「……わかった。なら」

 

 分かってくれないなら、わたし一人でやってみせる。

 

「証明する。黙って見てろ……この、いくじなし」

 

 

 

 

 

 

 

    *

 

 

 

 

 

 

 

 

「……思ったよりもディープスカイが強い。残り600、ここからが勝負ですが……」

 

「いけ、いけっ! 抜け出せー! ミークせんぱーい! いけーっ! 頑張れーっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──()()()()()

 

 固有領域(スキル)白い記憶(ホワイト・アルバム)──

 

 意識が消滅して、その一段階上へ登っていく。

 

 白い空が見える。カラフルに染まっていく。落ちていく。落ちて、空を駆けて──翼が生えているみたいな感覚が、する。

 

 理解した。

 

 ()()()()()()()()()()()()──

 

「いっぱい走って」

 

 全身が沸騰しそうなくらいに熱くて苦しいのに、感覚はひどく透き通っている。

 

「走って」

 

 叫び出したいのに、心は何故だかひどく落ち着いている。

 

「走って」

 

 落ちているのに走っている。不思議だ。

 

「走って」

 

 雲の上はこんな感じなのだろうか。

 

「走って」

 

 空を走ることができるのなら、どんな感触がするのだろうか?

 

「走って」

 

 それを知ったら伝えに行こう。

 

「勝ちます。……」

 

 あの人に教えてあげよう。

 

「……ぶい!」

 

 ──勝て!

 

 自分の中の誰かがそう叫んだ。

 

 頑張って走って、勝つことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 階段を登っていった。勇気を振り絞って、一歩一歩。

 

 今までの歩みはずっとそうだった。これが間違っていないか、不安に苛まれながら登ってきた。

 

 怖かった。勇気がなかった。それはきっと自分のどうしようもない部分。

 

 知っている。どうして明日原に勝てないのか──彼にあって、自分にないもの。それは一歩踏み込む勇気だ。

 

 だが──それを弱さと呼ぶのなら、私は弱いままでいい。弱虫のままでいい。勝てなくたっていい。

 

 嘘だ。本当は勝ちたい。

 

 勇気が欲しい。

 

 一歩一歩、上がっていく。

 

 ──ワアアアアアアアアアアアアアアアア!

 

 歓声が聞こえる。

 

 一歩を踏み出すことは怖い。私は弱虫だ。だから勇気が欲しい。

 

 確かめるのが怖い。シュレティンガーの猫だ──私ならば、絶対に確かめることはしないと思う。曖昧なまま終わらせたい、それが私の弱さ。

 

 勇気が欲しい。

 

 一歩を踏み出す勇気が欲しい。

 

「──」

 

 それを、見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ハッピーミークだ! ハッピーミーク躱した! ディープスカイ2番手! 残り200! 突き放す、突き放す、リードを開いていく!』

 

 ──ワアアアアアアアアアアアアアア!

 

「せんぱーい! せんぱーいっ! ミークせんぱぁ──いっ!」

 

 1バ身。

 

「これ……夢、ではないようですね。ちゃんと痛いので、夢オチの線はなし──と」

 

 2バ身。

 

「ハッピーミークだ、桐生院トレーナーの逆襲だ! 嘘だろやめてくれ、ディープスカイーっ!」

 

 3バ身。

 

「ハッピーミークー! やっと来たか、待たせやがってーっ! 信じてたぞ、頑張れーっ!」

 

 4バ身。

 

「うそ──」

 

 5バ身。

 

 ぼろぼろと涙が落ちていく。水で歪む視界、その意味も分からない。どうして泣いているんだろう。どうして止まらないんだろう。どうして、どうして、どうして──。

 

「今更……信じてました、なんて。都合……良すぎですよね……?」

 

 どうして自分が泣いているのかも理解できないまま、そう呟いた。

 

『圧勝だ、圧勝だ! ハッピーミークの逆襲だ、6バ身差ゴールインッ! 二着にはディープスカイ! ハッピーミーク、桐生院の意地を見せつけました! どうだ見たかとVサインを掲げていますッ!』

 

「V、サイン──」

 

 ──ぶい!

 

 大歓声に混じって、ミークの声が聞こえたような気がした。

 

 

 

 

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