アケノの走りに何かを感じ取ったのはナビだけではなかった。ジョーダンである。
「……。ん、そうだよな。負けるって分かってても、全力で戦わなきゃいけない時もある。そうだよね、アケノ」
独り言を呟いた後、ジョーダンはいつも通りの海中トレーニングを久しぶりに全身全霊で頑張ってこなした。
クールダウンののち、明日原と解散したあと、ジョーダンは一人コンクリートの防波堤へと歩いていった。スマホを取り出して、ある連絡先へと電話を掛ける。
3コールののち、電話が繋がった。
『……突然、何の用かしら? 下らないことだったらぶっ飛ばすわよ』
ダイワスカーレットの不機嫌そうな声がノイズに混じってスマホから響いた。
「もしもし、おひさっす──。ちょっと話っつーか、頼みっつーか……」
『何? さっさと言いなさい、こっちはレポート書いてて暇じゃないの。……ちょっとウオッカ、サボってないでさっさとやりなさい! それ落とすとヤバいんでしょ!? 今度という今度はもう助けてなんてあげないんだから!』
小さな音だが、向こう側にウオッカの気配も感じる。どうやら課題前で修羅場しているらしかった。
『ジョーダン、ちょっと待ってなさい。場所変えるから』
「っすー……」
それから少しして、スカーレットは言った。
『場所変えたわ。で、何かしら。さっきも言ったけど、どうでもいいことだったら激おこよ』
どうやらスカーレットは相変わらずらしい。去年以来随分会っていないが、あんまり変わっていないようで何よりだった。
ジョーダンは、その言葉を言うのに緊張していた。心臓の鼓動が速くなる。躊躇だってしたい。けど残された手はこれしかないと思う。
唾を飲み込んで、勇気を出した。
「スカーレット先輩。あっすーのことで一つお願いがあるっす」
『明日原の? 何よお願いって。セクハラでもされたんならたづなさんに言いなさいよ。ボコボコにしてくれるから』
「婚約、してんすよね」
『そうよ。言っとくけど、あんたに明日原を譲る気なんて欠片もないわよ』
そう言われると思った。けど──それはジョーダンにだって。
「先輩。あっすーを……明日原を奪わないでください。あたしには、明日原が必要なんです」
──そう伝えると、電話の向こうの気配が明らかに変化した。
軽口を言い合う調子から、ガッチリとした重い雰囲気に切り替わったのが電話越しに分かった。
ジョーダンが選んだのは懇願だった。白旗を上げて、スカーレットの情けに期待する──それが選んだ覚悟の種類で、明日原に自身の想いを伝えることではなかった。それをするには勇気が足りなかった。
もしも断られたり、困った顔をされたりして、今の関係が壊れてしまったら。嫌な想像は容易に現実になるような気がした。実際、そうなると思う。ジョーダンの想いを明日原が受け入れることは、まずあり得ない。
ジョーダンにとって、これからのクラシック、そしてシニア級を戦い続けるためには明日原の力が必要だ。レースで勝ちたい、その思いは変わらずジョーダンの中に在り続けている。
だが、ジョーダンが勇気を出すことで明日原との関係には決定的なヒビが入るだろう。というかジョーダンの方が耐えきれない。はっきり言えば今の関係に満足していた。だが、その関係は永遠などではない。スカーレットのことだ、掛かっているので大学在学中でも籍ぐらい入れてしまうかもしれない。もしもそうなったら──。
だから、スカーレットに妥協してもらうしかなかった。遠くない未来、この想いが必ず破れると分かりながら生活していくことなど耐えられるはずがなかったのである。
『いくつか言いたいことがあるから、順番に言っていくわね。まず1つ……奪わないでくださいつったわね──それ無理だから。あたしも随分待ってるんだし、たくさん勇気を振り絞ってここまで漕ぎ着けたんだから、あんたに今更それなしにしてくれませんかなんて言われても出来ないわよ。当たり前でしょ』
顔を伏せて、歯を食いしばった。そう答えると思っていた。
『大学でいろんな人に会ったわ。世の中いろんな人がいるけど……明日原ぐらいのバカはなかなかいないし、どうしても比べちゃうのよ。告白されることも結構あったけど、全部断った。付き合ったらそれなりに楽しそうだったけど、一緒に生きてくって感じがしなかった』
「……」
『あんたがあいつを必要としてることは分かるわ。でもそれはトレーナーとしてでしょ? あたしは人生のパートナーとしてあいつが欲しいの。トレーナーとしての明日原は奪わないわ、約束する』
違う。そういうことじゃない。この思いの行先がどうなるかなんて分からないけど、奪われるのだけは嫌だった。駄々をこねる子供のような想いだ。知ってる、知ってるけど。
言葉を選ばないのなら、ジョーダンはあの男の全てを手に入れたいのだ。だが、そうするためには時間も力も覚悟も、何もかもが足りなかった。スカーレットがそのために費やした努力、積み重ねた時間──それらには、決して打ち勝つことは出来ない。
だから、情けなく頼み込むしかないのだ。お願いだから諦めてくれないか、と。代価も差し出さずに。
『2つ目。あんた、あたしに劣等感感じてるでしょ』
それは、そんな浅ましい意図を見越したような言葉だった。
『まあぶっちゃけそうよ。あたしの方が戦歴も良いし、有名だし、可愛いし1番だしスタイルいいし頭もいいし。あんたとあたしを比べたら、どうしたってあたしの方が上よ。事実はそう──』
もしかしたら、スカーレットは自分に配慮して諦めてくれるかもしれない。そんな1%にも満たない可能性に託した希望は、当然打ち砕かれる。
『だけど
──ダイワスカーレットは、力強い言葉でそう言い放った。
『いい? 例え相手の方が上だとしても、認めちゃいけないのよ。自分からそう決めちゃったら一生そのままで、あんたは一生あたしを超えられないの。ウマ娘としても、女としても。自分の格を決めるのは自分でしかないわ。それを自分から下げる真似なんて絶対にしちゃいけないのよ。見栄でもハッタリでもいいから、自分が1番だって言い張りなさい。そしてそれを現実にするの。努力っていうのは、そのためにすることなのよ』
ジョーダンは何かを言おうとして言えなかった。ダイワスカーレットの厳しい叱責に顔を俯かせて海を眺めている。
『自信がないとかそんなの知らないわよ。あんたが自分に自信があるとかないとかどうでもいいの、あるように見せなさい。そう振る舞いなさい。弱気な姿勢なんて他人には見せないものよ、絶対にね』
そんな強い在り方には憧れる。そうなれたなら、とも思う。
そう考えるジョーダンの弱さを見透かしたように、スカーレットは話し続けている。
『あいつの担当なら胸を張りなさい。自信を持ちなさい。数あるウマ娘の中から、あいつはあんたを選んだの。そのことに誇りを持つべきなのよ』
海面に写った月光が揺らめいていた。
『自分を貫き通すの。それは正しいとか間違ってるとかじゃなくて、自分がどうしたいかっていうのに従うのよ、絶対にね──言っとくけど、簡単なことじゃないわ。下手な正義感に従って生きるよりもずっと難しいことよ、でもアタシはそれをやり遂げて今がある』
ジョーダンは黙ってそれを聞いていた。
『あんた、ごめんなさいなんて言わなきゃいけないようなことをしてきたわけ?』
何も言い返さなかった。
『悪いことしたんなら謝りなさい。でもそうじゃないなら胸を張れ。欲しいなら奪い取れ。勝ちたいなら努力しろ、方法が分からないなら考えなさい』
ジョーダンは、ただぎゅっと手を握って胸に当てていた。
『プライドを捨てれば傷つかないとでも思ってんのならそれは間違いよ。プライドがないってことは、単に卑屈になって予防線を張ってるだけの臆病者の特徴よ。自らにプライドを持ちなさい。そしてそれを傷つける輩は叩き潰しなさい。邪道なんかに逃げるんじゃないわよ、自分の王道を貫き通しなさい』
スカーレットらしい物言いだ。プライドと自信に溢れた言葉は王道で、きっと自分には真似できないと思う。
『いい? もう一度言うわよ──欲しいものがあるんなら、自分の手で奪い取りなさい。出来るもんなら、だけど』
そう思うけど。
『手加減なんてしないわよ。覚悟しときなさい……分かったわね』
「……っす」
『はい。そんじゃ、言いたいことは言ったから切るわね。ま、せいぜい頑張んなさい。後悔だけはしない様に、全力でね』
通話はあっさりと切れた。スカーレットらしい、さっぱりとした終わらせ方で切れた。
ジョーダンは、昼間に太陽の熱を吸収して熱を帯びたコンクリートの上に寝っ転がって空を見上げて、気の抜けた声でぼやく。
「あー……敵わねーなー……って、こういうのがダメなんだった……。あーでも、勝てる気しねーなぁー……。もうマジなんなん、ダスカ先輩ってばちょっと優しすぎんだろー……」
スカーレットの優しさも大概だ。胸も器も大きいとかちょっとどうかしている。流石に三冠という偉業を成し遂げただけのことはあり、そこいらのウマ娘とは考えのスケールが違った。
なんとなく寝っ転がったまま夜空に手を伸ばしてみた。少なくとも片手で掴めそうにはなかった。
ー ー ー
「しゅーごー!」
「はい?」
「にゃ?」
「ん?」
「え?」
割とプライベートな時間を過ごしていたブナネコアートのメンツが一斉にジョーダンの方を見た。
「しゅーごー! 集まれ!」
「どうした?」
「一個、協力して欲しいことがあんだよね」
「藪から棒ですねー……まあ、面白そうなことなら構いませんが」
「え、もしかして進展あった? もうメンタルは大丈夫なの?」
「よゆー……じゃないけど、けど……作戦を思いついた。今から説明するから、協力してほしい」
突然変なことを言い出したジョーダンは怪しい目を向けられていたが、いつになく覚悟を決めた表情を見て、最初にナカヤマがふっと笑った。
「いいカオじゃないか。とりあえず話してくれよ」
「ん──じゃあ、まず最初にね……」
最初は何話してんだこいつって表情だった面々だが、話が進むごとに疑いが解けていく。
話が終わるころには──。
「ふーん……ぶっ飛んだ手ですね。いえ、面白いと言ったところでしょうか。それならば確かに、私には協力するメリットがあります」
「すごいこと考えたね。絶対にどうかしてるけど……うん、私も……協力しよっかな。面白そうだし」
「だがあくまで賭けか。……いいじゃないか、少なくとも退屈はしのげそうだ」
「にゃ? にゃぁ、よく分かんにゃいけど……楽しそうだから、にゃーもやるー!」
全員が賛成の意思を示していた。
ジョーダンは緊張した面持ちで、ぐるりと全員を見回した。
「けどいいのか?」
「……勇気と覚悟じゃ、負けるつもりねーから。あたしだって、今のままじゃダメなんだって分かってる。だから勇気出すわ。あたしが日和ってたらケツぶっ叩いてね」
「その時は全力で蹴り飛ばしますね。じゃあ作戦名はアレしかありませんね!」
(頭のおかしい)少女たちの悪巧み、その開戦のゴングが鳴った。
コンコン。
丁寧なノックが古臭い扉を鳴らした。小気味よいリズムで1回。
『……はい! どなたですか?』
扉越しのくぐもった女性の声がそれに応えた。
「アオイ。私です」
『あ、ナビ? 今開けますね!』
個室の扉が内側に開いて、ひょこっと顔を出したのは当然、桐生院葵(26)だ。ラフなTシャツ姿で、チラッと見えた室内には紙束と電源のついたノートパソコンがある。壁にもいくつもの貼り紙がしてあって、数値がずらっと印刷されていた。
「どうしました、こんな時間に?」
いつもの桐生院である。焼肉とプリントされたダサTを着ているあたりが完全に平常運転だ。
──ブエナビスタはいつになく真剣な表情で、はっきりと桐生院の目を見て言った。
「アオイ。単刀直入に言います。状況が変わりました、もはや一刻の猶予も残されてはいません」
「……へ?」
「アオイ。今が最後のチャンスです。これ以上もたつくことは、もう許されなくなりました」
「あの、ナビ? その、なんの話をしているのか……」
「今を逃せば、アオイの想いを伝える機会は永遠に失われます」
「……えっ?」
ブエナビスタはこれでも、いつもは真面目なようで遊んでいる。しかし今のナビにはいつも纏っているおふざけの気配がまるで存在せず、本当に真剣な表情をしていた。どこか焦っているようにも見える。
「アオイ、このまま終わっていいんですか。今後一生、後悔を抱えて過ごしたくなければ今すぐに入り口まで向かってください。明日原のヤロウを待たせておいてます」
なんだか嫌な予感がした。
そりゃ、分かってはいた。もたもたしてれば、彼女──ダイワスカーレットがすぐさま行動して掻っ攫っていくだろうと思っていた。楽観していた、そう言われたらそうだ。現状に甘えていたことなど重々承知だった。
「その……何があったんですか?」
「プロポーズされたそうです。明日原は今夜10時までに返事をしなきゃいけないと聞いています。相手が誰か伝える必要、あります?」
「……そっか、スカーレットさん……すごいなぁ」
「アオイ。腹を括ってください」
「ううん……私は──大丈夫です。なんとなく分かっていたんです。いつかこうなる日が来るだろうなぁって。明日原さんなら、きっと本気の想いには応えると思うんです。だから、二人は……」
祝福と悲しみの入り混じった諦観──そっと胸に手を置いて、桐生院は目を閉じた。
「ごめんね、ナビ。私、あんまりあの人を困らせたくないんです。一度に二人から色々伝えられても、明日原さんは困るだけです。あの人は優しいから」
夏を過ぎれば枯れる花の如く、静かで綺麗な涙が頬を伝っていった。泣いているとは思えないほど優しい声だった。
こうなった桐生院は頑固で、なかなか意見を変えない。というか決めていたのだろう。もしも、明日原が心に誰かを決めたのなら、自分は黙って諦めよう、と。
それはそれで、一種の美しさだ。ブエナビスタは珍しく、真剣な表情──
「あ、そういうのいいんで。早く行ってくださーい」
──では、なかった。全く空気を読まないいつものナビが戻ってきていた。
「とりまさっさと告ってきてください。ワンチャンに賭けましょう、玉砕したらそれはそれでオッケーです」
「え、ええっ? ええええっ、ちょ、押さないでください、ナビ!?」
「アオイが怖がりなのは知ってます。今までの関係が失われるかもしれないって思いも、まあ分からんくはないです。けど別に明日原が居なくたって、アオイには私とミーク先輩が居ます! 違いますか?」
普段ふざけてばかりで、本心がどこにあるのかいまいち分からないブエナビスタの、珍しい本気の言葉を聞いて──やっと、決心が固まった。
「………………。うん、分かりました。ナビ、私……頑張ります……!」
「! はい、アオイならあんなヤツ、イチコロです! チャチャっと付き合っちゃってください!」
「あ、あはは……色々ありがとうね、ナビ。行ってきます」
「……行ってらっしゃいです!」
桐生院はダサTのまま、一歩一歩に緊張しながら歩いていった。不安そうな、しかし決意を込めた表情で──。
それを見送って、ブエナビスタは一息付いた。嬉しそうな、ほっとした表情で──ニヤリと笑った。
当然、明日原が今夜10時までにプロポーズの返答をしなければならない事実など存在しない!
「もしもし、アケノ? はい、フェーズ1コンプリートです! ナカヤマたちによろしく言っといてくださいね!」
電話を切って、ブエナビスタはだらしなくニヤついた。
「うへへへへ、面白いことになってきましたねぇ……! あーあ、ミーク先輩が居ないのが勿体無いなぁー!」
担当トレーナーで遊ぶ、倫理観という言葉をゲートに忘れてきたウマ娘がいた。
「まったくもー、どーこ行っちゃったんだろ。ミーク先輩……」