「当然、冗談に決まってんじゃん?」   作:にゃんこぱん

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割とふざけて書いてます


scene2-3 → intro : ゆく川の流れは

scene.2

 

 

 

 

 

 

 

「……いませんね。おーい、ジョーダン? どこに居るんですー?」

 

 こちらは台風の目こと何も知らされていない明日原。ジョーダンの呼び出しにホイホイ来てしまったのが運の尽きだ。かわいそう(小学生並みの感想)。

 

「……」

 

 ボロい宿舎を見上げればいくつもの大部屋の明かりが外に漏れ出していたし、大勢の話し声も聞こえる。窓から見下ろせば明日原の姿が確認できるだろう。

 

 ジョーダンの部屋は二階の隅──場所は一応知っていたのでそこを見てみるが、どうせ地上からでは何も見えない。

 

(連絡してみましょうか……)

 

 ジョーダンに確認の連絡を入れてみるが既読は付かない。しばらく壁を背にして待っていると、声がかかった。

 

「あ……明日原さん」

 

「桐生院さん……こんばんは、ジョーダンを見かけませんでしたか?」

 

「いえ……あの、少し時間……いいですか?」

 

「はい? ……ああ、少し待ってください──」

 

 ポケットのスマホを確認すると、なんか来ていた──

 

 トーセンジョーダン:やっぱさっきのなし!20:21

           めんご!20:22

 

 まるで今の状況を見透かしたようなメッセージだ。不思議なこともあるものだと思ったが、ともかくジョーダンの呼び出しは無しになったらしい。

 

「……用事があったのですが、どうやらたった今無くなったようです。僕に何か用でも?」

 

「……はい。あります」

 

「はは、なんです? いつになく改まって」

 

 珍しく、黙って桐生院は歩き出した。その背中を見て明日原は首を傾げる。ついてこいという事だろうか? それにしても珍しい様子だが、クソダサTシャツを着ているせいでいまいち迫力に欠ける。今日のは特にひどい。

 

 桐生院が歩いていった先は、やはりというか海だ。夜になると、昼間の賑やかさが嘘のように一人もいない。最初の頃はよく夜の海にもウマ娘はいたのだが、おそらく飽きたのだろう。どうせ昼間は嫌というほど海に接しているのだ。

 

「……夏合宿は、いつもこの場所でしたよね」

 

 不意にそう桐生院が呟いた。

 

 いつもこの海岸線を見続けている。夜の海には遠くに船舶の影があるような気がした。夜の海は穏やかな波の気配が佇んでいる。

 

「そうですね、まあ予算と場所の都合からして、古いことを除けば最高の環境ですからね」

 

「……一年目の夏合宿、覚えていますか? あの頃はお互い大変でしたよね、一年目だからっていろんな仕事押し付けられたり」

 

「ありましたね。期日迫った仕事丸投げされて、朝四時までデスマーチしたことも」

 

「ああ、ありましたありました! 明日原さん、ひどい顔してましたねー……」

 

「桐生院さんも大概でしたよ。あの頃、エナジードリンクなんて飲んだことないとか言ってたのに、終わる頃にはすっかりお友達になってましたから」

 

「あはは、そうですそうです。今でも手放せませんし……正直、あの頃はトレーナーになんてなるんじゃなかったって思うことが何度もありました。激務過ぎて、本当に倒れるんじゃないかって……結局、今も続けているんですけど」

 

「同感です。全くふざけた労働環境であることに間違いはありません、特に僕たちのような人物にとっては」

 

 トレーナー業は仕事中毒者に向いている仕事だと思う。特に複数の担当を抱えるとそれが顕著になる。しかし実際、手を抜こうと思えば手は抜けるし、それなりに楽も出来る。適度に楽をしつつ、そこそこの結果を出すのが最もコスパのいい働き方だ。多くのトレーナーはそうやってやり過ごしている。

 

 だが、桐生院と明日原は似たもの同士で、そういう生き方が出来ない。ある意味でとても不器用だ。それを天才の条件と呼ぶのであれば、確かにそうだ。

 

「色々ありましたよね。あなたと出会ったのが5年も前になるだなんて、ちょっと信じられないくらいトレセンでの日々はあっという間でした」

 

「そうですね……。あなたとミークのコンビも、そんな時間が経っていたんですね。感慨深いものがあります」

 

「え、ミークですか?」

 

「はは、忘れたとは言わせませんよ。僕とスカーレットがどれほど世話を焼くはめになったか……最初のすれ違い、何でしたっけ? 確かミークが大切にしていたキーホルダーを偶然壊してしまって──」

 

「あ、だめですだめです、やめてくださいっ! 思い出させないでください!」

 

 桐生院が最初の頃に軽い気持ちでミークにあげたタコのキーホルダーのエピソード。トレーナー室の整理中にうっかりタコの口をへし折ってしまい、ミークがものすごい凹んだ時のことだ。

 

 今思い出してもバカバカしい。たかだかキーホルダー1つで大袈裟だ。だが桐生院の慌てようといったら──。

 

「恥ずかしいのでその話はしないでください! 大体明日原さんだって、スカーレットさんに追いかけ回されてたところを匿ってあげたりしたじゃないですか!」

 

「おっとそうでした。その節はお世話になりましたね……」

 

 思い出を掘り起こせばキリがない。それほど重ねた時間は短いようで長いようで──たったの5年。それは短いのか長いのか、今の段階では判別できない。

 

「ほんと、時間が経ちましたね。いつの間にかお互い26歳です……。最近になってお母さんにせっつかれるんですよ。いい人はいないの? って──お母さんだって、トレーナーの忙しさは知ってるはずなのに。酷いですよね、そう思いません?」

 

「偶然ですね、僕もよくそう聞かれますよ。よほど孫の顔が早く見たいようで、こっちの忙しさも知らないくせに」

 

「あはは、ほんとそうですよー……」

 

 ……。

 

 ふと、会話の流れが途切れた。浮き上がるような沈黙が少しずつ沈んでいく。波の音が聞こえる。

 

「……まったく、何回聞くんでしょうね、そのこと。今は仕事に集中したいって言っても聞いてくれないし」

 

「はは、僕と同じこと言ってますね」

 

「え、そうなんですか?」

 

「ええ。いつもそうやって躱してます。実際、本音ですからね」

 

 ──ぎゅ、っと。

 

 桐生院は明日原の前を歩いたまま、海岸線をなぞる砂浜を踏む足音を聞いていた。

 

 うるさいくらいの鼓動を感じていた。

 

「……ひとつ、いい方法がありますよ」

 

「?」

 

「ご両親の催促を無くす方法。知ってるんです、私」

 

「いいですね。どんな魔法の言葉ですか? 是非とも知りたいところです」

 

 海を背にして、桐生院はくるりと振り返った。

 

 ──海面の光に逆行して、夜の中でシルエットだけが見えた。明日原には桐生院の真っ赤になった顔は暗くてよく見えていなかったし、僅かに震えた声にも気づいてはいなかった。そんなことある?

 

「これには、その。条件があるんです。それを満たせば、お互いにもう両親からうるさく言われることはなくなるんです」

 

「…………?」

 

 海水が砂に擦れて、寄せては返す潮流の鼓動が耳を叩いている。

 

「それは、一人では出来ません。二人いないとダメです。それから、異性同士であることが世間的には一般です」

 

 ──なんだか。

 

 明日原は何かの前触れを感じた。

 

 この不安になるほど穏やかな海の静けさは、何かの暗示のようだった。

 

 嫌な予感に支配された明日原が何かを言おうとする前に、桐生院葵は言い放った。

 

「わ、私にしておきませんか?」

 

 ──この時の明日原の思考を、以下に示す。

 

(……え、っと。どゆことかな。分からん、分からんぞ。何を? 相手をってこと? その相手って何、って……いや、僕の勘違いだ。どうせまた妙な誤解とかしてるんだろ──)

 

「私と結婚してください、明日原さん」

 

 桐生院は、ぎゅっと手のひらを握ってそう言った。

 

 緊張がこっちにまで伝わってくるような、緊迫しているような、胸が苦しくなるような雰囲気が出来上がっている。明日原は何も言えない。言えないが、思考はぐるぐると回っている。

 

(………………ケッコン? ケッコンってなん……結婚? え? プロポーズですか? どうしていつも女性の方からプロポーズしてくるの? 普通逆じゃないの?)

 

 ──大体自業自得だった。

 

 

(ど、どどどどうしよう。どうする。どうするんだ。どうするの。どうすんのこれ、っていうかそのクソダサ焼肉Tシャツは何だ……!? その言葉はそんなもん着て言うことなのか……!? くそ、いい具合に表情が見えない……!)

 

 実は明日原は相当にテンパっていた。表情筋は驚きに固定されていたが、それはそれとして脳神経は動きまくっている。

 

 だが、もう一方の桐生院も似たようなものだった。

 

(私のばかあああああああああああああああああ結婚してくださいとかいうつもりじゃなかったのにいいいいいいいいいいいいいいいいいい)

 

 いや、こっちはもっと酷かった。

 

(なにしてるの!? 好きです、でいいじゃない! お付き合いしてくださいでいいじゃない!! 結婚て! 結婚!? マリッジって!! 何勝手なこと言っちゃってるの私の口いいいいいいいいいい!? ご両親にまだ挨拶もしてないのに!?)

 

 勢い余って口が滑ったどころの話ではなかった。ここまで来ると事故のようなものだった。地獄のような内心に反して、表情はずっと緊張した微笑みで固定されているのが滑稽だった。

 

「……ぁ」

 

 どちらかから僅かな声が上がった。上擦っていた。

 

(何か、何か言わなければ、でも何を!? 落ち着け、選択肢は二つだ。よく考えて答えろ、いいか。断るか、受け入れるかの二択だ。まず一つ、受け入れる──ど、どうする。僕はただでさえスカーレットを待たせている。今更スカーレットを拒絶するなんて罪悪感で胃が捩じ切れて死ぬか、もしくは殺される!)

 

(何か言ってくださいよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおっ!!!)

 

(だ、だけど待て。冷静に考えてみろ、桐生院さんと結婚────…………あれ、意外と悪くないかもしれない。どうせ金なんてお互い余り切ってるんだ、資金面に問題は特にない。あとは気持ち……整理しよう、僕だってこの人のことは嫌いじゃない。逆にこの人のこと嫌いな人なんているのかってレベルで、ポンコツだが優しくて一生懸命でとても一途な人だ。よく知ってる………………アリでは?)

 

(だ、黙らないで明日原さん! なんでもいいから答えてくださいっ! このままだと恥ずかしさで爆発四散して死にます、もうやだ走って逃げたいぃぃぃ……)

 

(おおお落ち着け明日原! よく考えて答えるんだ、この際僕自身の意志は置いていい! 何だ、何が正解なんだ!? どうすることがベストなんだ!?)

 

 ※この間、僅か1秒程度。

 

 その圧縮された思考にも終わりが来る。明日原は答えなければならない──。

 

「いい、ですね。あなたと一緒になったら、とても楽しそうです。桐生院さん」

 

「……!」

 

「正直なところ、それもいいんじゃないかって思います。あなたの気持ちを、とても嬉しく思います」

 

 明日原の無駄に上手に取り繕ってしまうところは本人も自覚している。おそらくこの性質が多くの泥沼を招いている。

 

「けど、その……すみません。今の僕は、イエスともノーとも答えられないんです。だから、その──」

 

「分かってます。スカーレットさんのことも知ってますから、この場で即答しなくなって大丈夫です。私は、本当は気持ちを伝えたかっただけなんです」

 

 嵐のような思考があったとは思えないほど、この海辺にはラブコメの波動が漂っていた。

 

「困らせちゃってますよね。分かってます、けど……私はもっと困っていたんですから。これでおあいこなんです」

 

「……」

 

「返事は、またいずれ聞かせてください。スカーレットさんと違って、私は急かしたりしませんから」

 

(……スカーレットと違って? 妙な言葉だ、スカーレットだって少なくとも大学を卒業してからという条件には納得してくれているはずだ。だから妙な勘違いが起きている──、……まさかとは思うが、嵌められたか……!? ブエナビスタ、あの子ならやりかねない……! 間違いない、ジョーダンまで協力している! 首謀者はブエナビスタ、あの子か!)

 

 残念、不正解。

 

(……だが、まあ……とりあえずは、乗り切ったかな……)

 

 そう結論づけて、とりあえず明日原は体の緊張を解いた。それに呼応して、桐生院もふぅ、と弛緩して息を付く。それから緩んだ顔で口を開いた。

 

「あの、答えを待つ代わりに一つだけお願いがあるんです。簡単なお願いです」

 

「……ええ、どうぞ」

 

「──私のことを、葵って呼んでくれませんか?」

 

 そんなことか、と安堵してしまった明日原を誰が責められようか。

 

「そんなことでいいのなら」

 

「! じ、じゃあ……一回、呼んで見て下さい」

 

「……(あおい)さん」

 

 ──体に電流が走ったようだった。

 

 なんだかんだ明日原も、5年も続けていた呼び方を変えるのに妙な気恥ずかしさがあった。しかし桐生院はその言葉を堪能するように少しだけ深呼吸をする。

 

「……私だけ、名前で呼んでもらうのは不公平だと思うので。これからは、明日原さんのこと……景悟(けいご)さん、って呼んでいいですか……?」

 

「……ええ」

 

 何この甘酸っぱい空間、と明日原は思った。

 

「ありがとうございます、実はずっと名前呼びに憧れていたんです。……先に戻ってますね。明日からまたよろしくお願いします……景悟さん」

 

 桐生院は嬉しそうに微笑むと、海を背にして反対方向へ歩き出した。明日原を横切って、一歩一歩、ゆっくりと──何処か、弾むようなリズムで。

 

 その足音が聞こえなくなった後、明日原は大きなため息をついて砂浜に座り込んだ。

 

(あー、めっちゃドキドキした……。はあ、明日からどうしよ。気を抜くと恋しちゃいそうだ、スカーレットどころじゃなくなった──母さん、少なくとも結婚相手がいなくて困ることはなさそうです。でもその前に僕は殺されるかもしれません。親不孝を許して下さい……)

 

 お前の内心結構愉快だな。もしかして結構余裕ある?

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

「……! こちらナビ、アオイが戻って来たのを確認しました! あの顔は……若干の後悔とすごい充実感を感じている緩み切った顔ですね! パターンブルー、オペレーションを続行します! 繰り返します、パターンはブルー! アオイ、よく頑張りました! 後でみっちりと感想を聞きに行くので、首を洗って待っていて下さいね!」

 

『あんたほんと桐生院さんには容赦ないよね。人の心とかないの?』

 

「うるさいです。それよりジョーダン、覚悟の方はいいんですよね。もう待ったはありませんよ、一回勝負なんですから、いいとこ見せて下さいね」

 

『分かってんよ。それより、ターゲットの誘導……ネコ、お願いね』

 

『まっかせるにゃー! これよりポイントαへターゲットをゆーどーするにゃ。グッドラック!』

 

 

 

 

 

 

 

scene.3

 

 

 

 

 

 にゃあにゃあ! にゃあにゃあーっ!

 

「……?」

 

 ウミネコの鳴き声かな、とも思ったのだがどうやら違ったらしい。砂浜を登っていった先の、防波堤も兼ねたアスファルトを走っている小柄なウマ娘が叫んでいるようだ。

 

「にゃあーっ、どこに落としたんだにゃー、出てくるにゃーっ! あっ、そこのひとー!」

 

 こっちを向いて何か言っている。どうやら自分に向けて言っているらしい──明日原は立ち上がって、そのにゃあにゃあ鳴くウマ娘の方へと歩いていった。

 

「……にゃ!? お、おみゃーは……あの時のこわいやつにゃ!? にゃーは悪いことしてないよ!」

 

「心配せずとも怒りませんよ。何か僕に用なのでしょう?」

 

「にゃっ、そうだった……にゃーにゃー、にゃーのお守り、どっかに落としちゃったみたいなんだにゃー……見てないにゃ?」

 

「残念ながら、それらしいものは何も見ていません。外に落としたんですか?」

 

「にゃー……多分そうだにゃ。トレーニングの時には、いつも持ち歩いてるんだにゃー……でも、部屋に戻ったらにゃいし……外に落としたんじゃないかってニャカヤマが言うから、今日通ったところを探してるんだにゃ……」

 

 がっくりとネコパンチは肩を落としている。明日原は随分年下のネコパンチを相手にすることで、さっきまでの怒涛の展開から立ち直っていつもの大人モードを発動した。

 

「なるほど。僕に何か手伝えることはありますか?」

 

「にゃ? にゃにゃにゃ……にゃあ、話し相手が居なくて寂しかったんだにゃ。にゃーとお話しよー!」

 

「はい、付き合いましょう。もちろんお守りを探しながら、ですよ」

 

「にゃあ! にゃあ、もしかしていいやつかにゃ?」

 

「僕のことを言っているのなら、部分的に誤りですね。ただ君たちウマ娘から見て、いい大人であるようには心掛けている……つもりでは、あるのですが」

 

「んー、どーゆーことにゃ?」

 

「上手くやろうとしても、上手くいかないこともある。そういう話です。さあ、探し物をしないと。月明かりが出ていて助かりましたね」

 

「にゃあ、そうだったにゃ。たぶんこっちにゃー!」

 

 ネコパンチが先導するまま、明日原はノコノコと着いて行った。宿舎から離れ、砂浜を歩き──ただでさえ多い自然が、視界の全てを埋め尽くすほどになっていく。

 

 ネコパンチはにゃーにゃー鳴きながら砂浜を歩いている。波打ち際、その曖昧なラインに軽やかな足跡を残しながら。

 

 10分ほど歩けば、宿舎はもう随分遠くに見えるようになった。段々と砂浜の景色は変わっていき、岩肌の露出した海岸が見えてきた。

 

「しかし、砂浜で落としたとなればまずいですね。波に攫われているかもしれません」

 

「にゃあ……。でも、きっと荷物と一緒に置いておいたんだし、大丈夫にゃー……」

 

 砂浜を塞ぐ、身長より大きな岩を迂回しながらネコパンチは進む。波にサンダルを濡らしながら明日原もついていった。夏でも海水は冷たかった。

 

「にゃあ、こっちにゃー」

 

 一本の長い砂浜を分断するように崖が切り立っていて、岩はその一部だ。必然的に向こう側にも砂浜が広がっている。月明かりを頼りにしながら、トコトコと軽い足取りで進んでいくネコパンチを追う。

 

「こっちー」

 

「さすが現役、体力がありますね……」

 

 波から離れて、陸の方へ向かっていくのを追っていくと、不意にネコパンチが立ち止まった。

 

「? どうしました?」

 

「にゃー。ちょっとだけ、ここで待つにゃ」

 

 変わらぬ調子でそう言って、ネコパンチは悪戯っぽく笑った。

 

「はい?」

 

「じゃーねー!」

 

 陸へと走り去っていくネコパンチに、見事に置いてけぼりにされた明日原。目を丸くして立ち尽くす。

 

「……え?」

 

 ──状況は、今も動き続けている。

 

 ざっ、ざっ、ざっ──と、背後から足音がしたので、明日原は後ろを振り向いた。夏らしい格好をした普段着のジョーダンが歩いて来ていた。よく何が起こっているのか分からなかったが、ともかく話しかけた。

 

「ジョーダン……なぜ、ここに?」

 

 ざっ、ざっ、ざっ──ジョーダンは一歩ずつ歩いてくる。真っ直ぐに、明日原の方へ。

 

「あの、どうしました?」

 

 ざっ、ざっ、ざっ。

 

 ジョーダンは明日原の隣にまで歩いてきて、そっと海岸線を指差した。

 

「ねえあっすー。海、キレーだね」

 

「はい? まあ、確かにそうですが……」

 

 ジョーダンが指差したので、明日原は釣られてそっちを見ることになる。体はジョーダンの方を向いたまま、顔だけで海を眺めた。夜なので正直暗いが、僅に月光が反射している。綺麗と呼ぶのであれば、確かにそうだった。

 

「ねえ。こっち向いてよ」

 

 ジョーダンの妙な言葉を訝しがりながらも、顔を戻した時だった。身長差があるため、明日原の肩ぐらいの位置にジョーダンの目線があったので、ジョーダンはいつも明日原を軽く見上げていた。

 

「はい、──」

 

 明日原の右手をぐい、とジョーダンは引っ張った。

 

 ウマ娘の腕力で引っ張られた明日原は当然、姿勢を大きく崩す。反射的に右足を前に出してバランスを取ろうとするが、上半身は右腕を中心に大きく崩れることになる。

 

 ──手のひらで、頬に手を添えて。

 

 トーセンジョーダンは、静かに目を閉じた。

 

「──むぐっ!?」

 

 衝突とも呼べない柔らかな接触が、時間にして3秒ほど続いた。目を開けて顔を離して、何が起きたのか全く理解できていない明日原の顔は傑作だった。

 

「……えへへ。チューしちったー。ねー! ばっちり撮れてたー!?」

 

(と、撮れ、ばっち、とれ、今、何、え…………あの、え……え?)

 

 混乱の極地に放り込まれた明日原を放って、会話は進行していった。崖の上から返事があった。

 

「はーい! 1カメオッケーでーす!」

 

(オッケー? 1カメ? 亀? 撮れてた? 取れてた、亀? 亀を取ったの? この辺亀いるの? あの、えと、あの、あああの)

 

 そう思いはするが口は震えて動かない。っていうか全身が凍った。暑いくらいなのに冷や汗が止まってくれない。恐怖感から凍えそうだった。

 

「2カメも成功だ。問題ないぜ」

 

 陸の方からも声。ネコパンチが走っていった方向だ。

 

(せ、成功? 成功って? 問題? ありますが。ありますが? 誰か、誰でもいい。誰でもいいから、説明をしてくれ。今、何が起きたんだ。ジョーダンは何を、何、何が、あの、な、なななな、な……え……え?)

 

「3カメ、ちょっとブレたかなー……。ごめん、こっちはミス!」

 

 それとは全く違う方向、崖の影から声がしてものすごいびっくりした。夜なので見えなかったが、誰か立っていたらしい。

 

 目を凝らした。

 

 アイフォン、一眼レフ、アイフォン──カメラを、構えていた。

 

(え? 写真、撮られた──うそん、もしかして僕、人生詰んだかな──いやいやいやいやいやいや待ってくれ。待って。お願い待って、頼むから待って、本当に待って、待って、待って)

 

「とりまあたしに写真送ってー!」

 

「はーい!」

 

(待って。待って。待って。待って)

 

 ──瞬間的に連想したのは。

 

 乙名史記者。週刊誌。パパラッチ。ファンの声、失望、裏切り、社会倫理、年下趣味、処罰、駿川たづな、炎上、文春砲。そのあたりだった。

 

(どうして)

 

 冷や汗が止まってくれない。さっきから胃が痛い。捩じ切れそうだ。このままだとまた穴が開く。待っているのは入院だ。

 

「お、来た……おー、よく撮れてんねー。じゃあこれをスカーレット先輩のところに送って……っと。……うわ、既読早っ、暇人かよ」

 

 恐ろしい言葉が聞こえた。今、ダイワスカーレットに送ると言ったか? 何を? 既読? 既読って? もう見たってこと?

 

「ジョー、ダン?」

 

「あ、言っとくけど今のファーストキスだから」

 

「ち……ちょっと、待ってください。ちが、そういうことではなく、あの」

 

 ポケットの中のスマホが、着信と共に振動している。

 

 prrrrrrrrr──────

 

「電話」

 

「……え?」

 

「出れば? 電話来てんじゃん、あんたでしょ?」

 

「…………」

 

 ダイワスカーレットの文字が液晶に表示されていた。

 

「…………はい、もしもし」

 

 見たことないほど引き攣った顔をした明日原が、一周回って平常になった声で応答した。

 

『もしもし、明日原? 写真見たわよ』

 

 何の、とは聞けなかった。この後に及んで、明日原は何かの間違いだと信じたかったので、むざむざ事実を確定させる真似など出来なかった。

 

「…………ああ、はい。写真……です、か」

 

『ああ、あんたの反応で分かったわ。やっぱそういうことね。ふーん。ふーーーーーん、あーーーーーーーー、そう。そーいうことすんのねー……』

 

 スマホを持つ手には力が入っていない。いまいちこれが現実だと信じられない明日原はずっと茫然自失としている。無理もない。

 

「スカーレット先輩でしょ? ちょい貸して」

 

 だから、ヒョイっとジョーダンに通話中のスマホを奪われてる時も何の抵抗もしなかった。

 

「あ、もしもしパイセン? ごめんけど、こいつ貰っちゃうんで。よろ〜!」

 

『あらジョーダン。お手つきなんてだめじゃない……人のものに手を出すなって、小学校で教わらなかったのかしら?』

 

 少なくとも、明日原はそんなこと教えられた記憶はない。

 

 スカーレットの声は底冷えするようだった。普段と全く同じ調子なのが怖くて、でも聞けば聞くほど凍えるような冷たさがあって──終わりだ、と明日原は思った。

 

「いやー、ちょっと何言ってるかわかんねーっす! ま、言えることは一つなんで──指咥えて見てろ。昔がどうだか知らねーけど、"今"明日原の横に居んのはあたしなんで。そこんとこよろ〜!」

 

 しかしジョーダン、火に油を注いだ!

 

『ふーん、随分立派に成長したじゃない。じゃあお望み通り、ぐちゃぐちゃになるまで叩き潰してあげ──』

 

 言い切る前に、ジョーダンは通話終了ボタンを押した。間抜けな沈黙だけが残った。

 

 ずっと青い顔で固まっている明日原にジョーダンはにへっと笑って言う。

 

「わりーけどさ。あっすーはもう、自分の人生なんて気にしちゃダメだから。あたしの人生を消費して、自分の欲望を叶えるんでしょ? だったら余計なことなんて考えんな。いい?」

 

「じ、ジョーダン……?」

 

「あたしだけを見てろ。他の女のことなんて考えんな。分かったか?」

 

 夜天。

 

 黄色い歓声を上げる数人のギャラリー、人生が崩壊する音。

 

「……………………了解しました」

 

 ──悪い冗談だ。

 

 そう思った。

 

 いちゃらぶどきどき大作戦──洒落にならない禍根を残し、無事に終了。

 

 不覚にも、明日原はどきっとしてしまった。それは恐怖によるものなのか、はたまた別の要因によるものか分からないが、とにかく、命綱がたった今切れたことを悟るのには十分だった。

 

 戊辰戦争(GⅡ)、勝者──トーセンジョーダン。暫定、ではあるが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は、少し遡る。

 

「失礼しまーす……」

 

 明日原の人生が壊れる少し前、桐生院が勇気を振り絞っている時間の裏で、鍵の掛け忘れた桐生院葵の個室にアケノオールライトが侵入していた。

 

「ええっと……どこだろう、早くしないとバレちゃう……」

 

 そろりと侵入してずらっと部屋を観察し、目的のものを探す。棚を開ける。バッグを漁る。罪悪感はあった。実際罪だった。

 

「……! あ、あった。これだ、宝塚記念前の、ミーク先輩のトレーニングメニュー。本当にあるなんて……」

 

 重たい緊張の中、その紙束を手に取って、アケノオールライトはすぐに立ち上がった。

 

「……うぅ、けど……ナビに追いつくためなんだから。ごめん、桐生院さん! 私が勝ったらちゃんと謝って、返しにくるから……っ!」

 

 "約束ですよ、いつか一緒に戦いましょう"

 

「約束、絶対守るんだ。いつかナビに追いつくんだ……! 頑張れ私、できるぞ私! おー!」

 

 小さく小声で言う。すぐに部屋から出ていく、幸いにも誰にも鉢合わせなかった。すぐに書類を部屋に隠して、いちゃらぶどきどき大作戦の方へ合流しなければならない。アケノは走って海岸まで向かっていった。

 

「……」

 

 その背中をハッピーミークが見つめていたことになど、気がつきもしなかった。

 




別名・スカーレットの婚約をうやむやにしちゃおう大作戦。マジメに考えてはいけない。
プロット上、夏合宿の本番は次回から始まるスポ根回です
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