アケノオールライトの出身は秋田県の片田舎で、その非常に特徴的な方言から抜け出すのに随分と時間がかかった。
祖母には、よく可愛がられた。
「おめさん、しったげめんけなぁ」
優しく撫でてくれた記憶がある。
「おがなれよぉ、レースっこ」
春も夏も巡っているはずなのに、思い出すのはいつも雪の降った故郷の姿。豪雪が積もった後の、除雪された道路を走る軽トラだけ。
「がりっとがんばれ、アケノちゃん」
私は。
故郷が嫌いだ。
ー ー ー
「じゃあ、かんぱーい!」
いえーい!
一斉に掲げた紙コップ。祝杯を挙げたのはトーセンジョーダン。同じく叫んだ者、ふっと笑う者、にゃーにゃー言ってる者。三者三様、いや四者四様と言うべきか。ただ動作は共通していて、みんなコップの中身を一息で飲み干して息を吐いた。ふぅー。
「いやぁー……やっちまいましたね!」
「やっちゃったねー……」
「もしかして、にゃんかやばいことしちゃったにゃ?」
「今更過ぎるだろ。というか、私も正直半分ほど冗談だと思っていたんだが……とんとん拍子で進んで行きやがったからな……まさか本当にやるとは」
ナカヤマフェスタでさえ軽く引くレベルの成果と言っていい。トーセンジョーダンの写真フォルダには例の一枚が収められている。
「……まあ、うん、ぶっちゃけビビってんだよねあたしも。ちょっと勢いでやりすぎたっつーか、なんつーか……」
ジョーダンは顔を伏せて、横にいたネコパンチを掴んで引き寄せ、思いっきり両腕で捕まえた。
「ああああああああああああああああああああああああああああたしなにしてんのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
「にゃあ"あ"あ"あ"あ"あ"っ!?」
「やっちゃったよおおおおやばいことやっちったじゃねーかあああああああああああああああああ明日からどうすんのおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉ………………」
溢れんばかりの衝動と後悔をぶつけられたネコパンチはもがいて抜け出そうとするが、中学生の小柄な体格では不利だったらしい。しばらく思いのままにわしわしと頭を撫でられたり、ぎゅーっと抱きしめられていた。
(何してんだこいつ……)
(何してるのこの人……)
(何してんですかねこいつ)
三人とも豹変して叫び出したジョーダンを冷めた目で眺めていた。もはやいちいちリアクションを取ることも放棄していたので、相当な塩対応だった。無駄に連帯感があった。
「……にゃー、そろそろ放すにゃ、ジョーダン」
「ネコは優しいなー……かわいいし、ちっちゃいし、いい匂いするし……ねー、あたしのペットになんない?」
「に"ゃ"ぁ"!? にゃーは愛玩動物畜生にゃんかににゃりさがるにゃんてごめんにゃっ! しゃーっ!」
素早く抜け出したネコパンチが威嚇している。それをほのぼのと眺めていたジョーダンも流石に落ち着いたようだった。アニマルセラピーの効果は抜群。
「いやー、しかし大漁ですよ大漁! アオイも勇気出しましたし、明日原の命も握りましたし! 言うことなしです! 満足! 乾杯!」
机の上に広げたポテチに始まるお菓子の山や、パーティーに欠かせない2Lペットボトルジュース。それらを遠慮なく摘まみながらナビはにっこりと頷いていた。
「……あー、でも真面目な話、明日からどうしよ。どうすればいいと思う?」
「好きにしろよ、ヤツの命運を握ってんのはアンタなんだ。煮るなり焼くなり好きなようにして食べちまえばいいさ」
「た、食べ……っ!? ナカヤマ、それってつまり、
「私は色恋なんざ知らないが、ヒモ握りゃあやることは一つだろ? 賭けに勝ったなら、全ての賭け金を持っていく権利がある」
「ひゃわ〜! ちょ、ジョーダンやったじゃん! 勝ちだよ勝ち!」
「うっせーわ! そんな簡単な話じゃねーよ、つか嫌われないよね!? 大丈夫だよね、見損ないましたとか言われたら心折れるんですけどこっちは!」
「あの優柔不断ヤローがんなこと言うわけ無いでしょう。アレ、それなりに頭がおかしい部類の男ですからね。そこらへんは何にも心配ないですよ」
「……まー、確かに言われてみればそーね。あっすー頭おかしいところあるし、これからも別にふつーに話せばいっか」
(そうだったんだ……)
アケノが新事実を知って微妙な顔をした。
ジョーダンはそこでふと、姿勢を正してぐるりと全員を見回した。
「……ねえ、みんな」
「なんです?」
「──ありがとね。色々協力してくれたり、あたしの話聞いてくれて……みんなのおかげで、勇気出せたし、ドキドキしたけど、すっごい楽しかった。あたし、みんなが相部屋でよかった」
急に真面目になって、そんなことを言い出したジョーダンの、あまりに真剣な表情に──初めは、呆気に取られたが、つい口元に笑みが浮かんだ。
「言いっこなしだよ。私も退屈をしのげたし、お互い様だ」
「そうですよ! 全部お互い様なんです、私もナカヤマに同感です!」
「トモダチにゃ、トーゼンだにゃ! にゃー、こんな面白いの初めてだったにゃ、これからももっといっぱい遊ぼうね!」
「……そうだよ、これで終わりなんかじゃない。ってか夏合宿あと1ヶ月ふつーにあるし、そんなお別れみたいな言葉言わなくたっていいじゃん。まだまだこれからなんだからさ! そうでしょ、みんな!」
──あのナカヤマフェスタでさえ、ふっと笑って片手を上げてそれに応えていた。
もしも、神様が幸福というタイトルの写真を取ることになって、世界中からそれにふさわしい場所を探したとしたら、きっと今の彼女たちをフィルムに収めるだろう。
ただ、彼女たちの充実した日々は、この日を境にしてだんだんとひび割れ、原型も留めないほど粉々になって壊れて消えることになる。
ただ、無くなってしまうのだとしても、そこにそれが存在した事実はある。
「てか写真撮らね!? いいよね、いいじゃん、はいけってー! みんな集まれ〜! ブナネコアート卍ぃ! あたしらサイキョー!」
「にゃあー!」
少なくとも、今はそれがあった。
一枚の写真。5人がそれぞれの笑顔で笑い合った。彼女たちには確かにこの時間が許されていて、人生という道程の中で光り輝く青春の1ページに変わっていくだろう。
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それでは、一体どのようにしてアケノオールライトという少女が壊れてしまうのか。これからそれを語ることにしよう。
アケノオールライトはトーセンジョーダンのルームメイトで、夏合宿での相部屋の一人だ。
夏合宿を通して一気に仲は深まったものの、それ以前の栗東寮での仲というものはそれほど良かったわけではなかった。
悪くは、なかった。
それなりにコミュ強のジョーダンと、人当たりのいいアケノ。悪くなることはなかった。ただ人と人の関係がそうであるように、単にコミュニケーション能力がお互いに高いからといって、それだけで親密になるわけではない。
別に人とうまく話せなくても、仲のいい友達ができることはある。
社交能力が高さと知り合いの数は比例する。だがその密度と会話能力そのものに相関性はあまりない。人と人のそれがそうであるように、ウマ娘同士でも同様だ。
結局のところ、会話の波長や好み、つまりは相性がいいか悪いか。あらゆる人間関係は、その一点に尽きる。
何が言いたいのかというと、アケノとジョーダンの相性は別に良い訳ではなかった。だが悪くもなかった。決して険悪なわけではなかった。軽口だって交わすし、一緒に買い物に行くこともあった。
だが、別に友達というわけではなかった。
ー ー ー
夏合宿も折り返しに来ていたし、今まで目を逸らしてきた夏課題をやることになった。
扇風機が時たま教科書やノートをペラペラとめくる音だけが響いている──いや、そうでもない。ネコパンチやアケノオールライトが呻く声もたまに聞こえる。
扇風機が古いのか、首を振るたびにゴキゴキと変な音を立てていた。
「……ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よ、よどみに浮かぶうたかたは……うたかたってなに? 歌歌う人?」
「泡です泡。というかまずググったらいいんじゃないですかね」
ナビの助言に従って、とりあえず現代語訳を眺めてみた。ジョーダンは夏課題の一つ、国語に取り掛かっていたが、これがさっぱりわかるようで分からないようで分かるようで──。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて──
「……久しくとどまりたるためしなし、ねー……。いや、別にそんなことなくね? 探せばあるっしょ、そりゃ川の流れとかはそうだろうけど、別にずっと友達同士な人とかもいるわけだし」
「そうでもなくない? 友達同士っていうのは変わらなくても、関係は微妙に変わり続けるじゃん。歳だって取るしさ」
「えー、でも仲がいいのは変わらないわけっしょ? またかくのごとし──っつったって、なんかナットクいかねー。ケンカしたりして仲悪くなる人はいるよ? でもそうじゃない人たちもいるわけじゃん。こいつウソ吐いてね?」
「鴨長明のことこいつって言うやつ初めて見た……。まあなんでもいいじゃん、さっさとやっちゃいなよ。どうせ課題なんだし、真面目になるのはいいことだけど終わんないよ?」
「そりゃ分かってるけどよー……なんかムカつくんだよなー。あたしのズッ友はずっとズッ友じゃん、10年経ったって友達は友達だし。否定されてるみたいでムカつく」
「700年くらい前の人にムカついてる人も初めて見たなー……」
どうにも納得がいかなかった。
ナカヤマフェスタがそこで口を挟んで言う。
「ずっと変わらねえっつーのは、逆に退屈なものさ。変わっていくからこそ面白いモンがある。それに感情や心が永遠なんてありえない、断言しても構わねェ」
「えー。ダチと仲悪くなっておもしれのー?」
「仲睦まじきことはいいことさ。そいつは否定しない、だが毎日カレーばっか食ってたら飽きるだろ?」
「んー、そりゃそうなんだけどさー……」
「納得出来ないってか。まあいいさ、アンタがカレーだけ食いたいってんなら、そうすりゃいいだけの話だからな」
「むー……ナカヤマはさ、ずーっと同じままの友達関係が続くのはあり得ないって思ってんでしょ?」
「少し違うが、まあいい。で?」
「……夏合宿が終わったらさ、あたしらもまた散り散りになるわけじゃん」
「あァ、まあそうなるだろうな」
「でも、あたしは一回仲良くなればずっと友達だと思う。ケンカとかしてもさ、ちゃんと仲直りできると思う。ナカヤマ、あたしたちの関係もいつか変わっちゃうって思うの?」
気が付けば、部屋の全員がジョーダンの言葉を聞いていた。課題に目を落としながらも、ピクリと耳が動いている。
「人生に何が起こるかなんて分かりゃしない。違うか?」
一緒に笑い合った仲間でも、何かのきっかけで壊れてしまうかもしれない。そういうことをナカヤマは言外に告げていた。
「……でも、それって悲しくね? あたしはそうなったらやだし、そうさせる気とかないんだよね。夏合宿が終わったって、みんなで集まりたいし遊びたい」
「そいつは私も否定しないさ、ただ……なら、そうだな。ジョーダン」
シャーペンをくるくると回しながらナカヤマは珍しく笑わないまま言った。
「一つ賭けをしないか? 簡単な勝負だ。夏合宿が終わるまで、私らみたいなヘンテコメンバーが、ずっと今の関係を続けていけるかどうか」
扇風機は、相変わらず変な音を出して首を振っていた。
ー ー ー
無理を承知で──いや、本心では無理だとは思っていなかった。
100%、勝つつもりで出場した。勝たなきゃいけなかった。
今すぐに結果が欲しかったのだ。
8月前半──八雲特別。クラシック級以上1勝クラス、芝1800。
アケノオールライトは、あくまで反対する蓮井を押し切ってこれに出場。7着に敗れる。
「決して悪い結果じゃないよ。努力の成果は出ている、けど今は夏合宿で鍛えることを目標にするべきだったんだ」
慰めか──アケノは責められることはなかった。
「いつか勝てる。その時に備えて、今はトレーニングを続けるんだ。焦っちゃダメだ、君が輝ける時は必ず来る。いつか、必ず来るんだ。アケノ」
「──蓮井さん」
「何かな」
いつかって、いつ?
アケノはそう聞こうとして、やっぱりやめた。
ー ー ー
「あ、お帰りなさい、アケノ! 見てましたよ、負けましたけどね!」
「えへへ、負けちゃいましたー……。あー、今回は行けると思ったんだけどなぁ」
「まだまだですね。私のところまで来るなら、この程度でへこたれないでくださいよ?」
「厳しいなぁー。でも頑張るよ、成果はちゃんと出てるんだから。ナビのいるところまで、絶対追いついてやるんだから! 目指せ有馬記念、って感じで!」
「はっはっは、ぼこぼこに叩き潰してやります!」
「おっ、言ったな〜!? やるか、このこの〜!」
「うわわっ、やめなさい! どこ触ってるんです!」
一通りじゃれた後で、アケノは口元を緩めたまま扉へと向かっていった。
「……あれ。アケノ? もう晩ごはんの時間は終わってますよ。どこ行くんです? トイレ?」
「ううん、ちょっと外。海でも見たい気分なんだ」
「おや。じゃあ私もついて行きます、話したいことがたくさんあるんですよ。アオイが調子に乗ってる話とか──」
「ううん、ごめんね。アケノちゃんは負けちゃっておセンチだから、一人になりたい時もあるんです」
「そうですか、まあそういう時もありますよね。さっさと戻ってきてくださいよ、ポーカートーナメントが進まないですからねー」
その言葉に苦笑いして、アケノは扉を開けた。後ろ姿はなんだか元気がない。ゆっくりとした足取りで歩いていく背中にナビは叫んだ。
「アケノ!」
「なに?」
振り返った顔は今も緩んでいる。下がった眉が、困ったような表情を作っている。
「……焦っちゃダメですよ。1回や2回負けた程度で焦らなきゃいけないほど、私たちの選手生命は短くないんですから」
「分かってるよそのくらい。心配性だなぁ、隠れてトレーニングなんてしませんって」
そう言って。
結局アケノは、消灯の時間になっても戻らなかった。
ー ー ー
「アケノ、これは……?」
ぱさっと──自身の担当トレーナーである蓮井の部屋を訪れたアケノは、中に入るなり持っていたその紙束を机に置いた。
「……これ、トレーニングメニュー表? ええっと……これ、一日分の量? こんなセットでクールタイム1分は無茶だ、アケノ……これ、一体どこで手に入れたんだ?」
「その、たまたま手に入っただけだよ。友達から借りたんだ。蓮井さんの参考になればって思って……」
「アケノ、何を考えてるか分からないけど、こんなのは無茶だ。君はまだ体が出来上がってないんだ、成長期の体に100kgも200kgも負荷をかけるものじゃない。君の言う友達のトレーナーって誰なんだ? こんな無茶苦茶なトレーニングを考える人がいるなんて、俺には信じられない」
「……ねえ、蓮井さん。私じゃ足りないのかな」
「アケノ。君は単に体を壊したいのか、レースで勝ちたいのか。どっちなんだ」
「またお母さんから電話が来たの。前のレース、偶然見てたらしいんだ。最近特にしつこくって、ずーっと……。たまには帰ってこいって、そればっかりしか言わない。お母さん、どうしても私を東京に居させたくないみたいなんだ、だからどうしても結果が欲しい。3着でも2着でもなくて、1着を取るんだ、そうすれば──」
蓮井は右手を額に当てて顔を伏せた。
「……俺には、君と君のご両親の関係に関してとやかく言う資格はないよ。けど俺は……君のお母さんは、やっぱり君を心配しているだけなんだと思う。だから、あまり悪く言って欲しくない」
「でも、ずっと言って来てる。転校してこないかって。帰ってこないかって……それに、今年中に重賞に出られなかったら、秋田に帰らなきゃいけない。そんなの……絶対やだ。やだよ、嫌だ、嫌だ……っ!」
「君の気持ちは分かっているつもりだ。だからこそ余計に焦っちゃダメだ。ここで無理して怪我でもしたら、それこそ全部無駄になる」
アケノが持ってきたトレーニングメニューを、蓮井はそのままアケノに突き返した。
「君がこの資料をどこから持ってきたのかは問わないし、これが誰のものなのかも聞かない。そもそもこれはクラシック級向けですらない。成熟した体をさらに追い込むためのメニューだ。参考になんて出来ない」
「……けど」
「俺を信じてくれ。君がレースを走り続けられるように最大限努力する。まだまだ新人だけど、絶対に君を失望させたりなんてしない。約束するよ、アケノ。だから君も約束してくれ、無茶だけはしないって」
迷いながらそれに頷いて、アケノは蓮井の部屋を後にした。
その約束を破ってしまうだろうことは申し訳なかった。少なくともそれだけは本心だった。
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「ジョーダン、私ね。最初、あなたに会った時、ちょっと怖かったんだ。いかにも垢抜けてて、都会女子ーって感じのキラキラした雰囲気で、そんなの見た事なかったから」
「でもね、爪の怪我でジョーダンがどん底に落ちた時、私は安心したんだ。ああ、こんなキラキラした人でも、おんなじ様に失敗したり、絶望したりするんだなって」
「正直、同じだと思ってたんだぁー……。選抜レース、散々だったでしょ? 私もそうだった。みんなそうなんだなって、私だけがダメダメな訳じゃないって……嫌な安心の仕方してた」
「メイクデビュー、私だって勝ったよね。一緒に喜んだよね、相部屋同士、これで晴れてデビューだーって。いつかはGⅠだーって」
「秘密にしてたけど、ホープフルステークス、現地で見てたんだ。ジョーダンは8着だったけど、私はそれにさえ嫉妬してたよ。私は出ることすら出来なかったのに、どうして……って。ねえ」
「私とジョーダンで、一体何が違うの?」
問いかけたその言葉に、答える者などいるはずがなかった。
海に答えを聞いても、波が返すのは音と気配だけで、アケノは一人きりで砂浜に座っていた。
かかったなバカめ!
ここからは俺の趣味に付き合って貰うぜ!!