「当然、冗談に決まってんじゃん?」   作:にゃんこぱん

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ゆく川の流れは 中

 

 

 

 

 

 

 結局、今日もアケノは部屋に戻っていない。

 

 この事態を受けて、ブナネコアートの面々は顔を突き合わせて真面目な顔をしていた。

 

「どう思う?」

 

「まずいことになってそうです。昼間のトレーニングでも、誰かアケノを見かけてはいませんか?」

 

「あ、お昼休みで見かけたよ! にゃー、にゃんか誰かと話してたみたい。ほら、3班のあいつら」

 

「げ、あいつら嫌いなんだよね……。なんつーか、トレーニングのことしか頭にありませんーって感じでさ」

 

「確かに、あの連中いつもシケたツラしてやがる。毎日遊びもしないで何が楽しいのやら……で、何話してたんだ」

 

「トレーニングのやり方がどーとか、やる気がどーとか言ってたにゃ。なんか変な感じだったにゃ」

 

「……なんかやな感じ」

 

 そう呟くとジョーダンは立ち上がって扉へ向かっていった。ナカヤマが呼び止める。

 

「どこに行くんだ?」

 

「3班のとこ。直で聞いてくる」

 

「私も行こう。ネコとナビはここで待ってろ」

 

 残された二人は顔を見合わせて首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あん?」

 

「何度も言わせないで。大した頼みじゃなかったから聞いた。それだけ」

 

「昼間のトレーニングを一緒にするっつったって……なんで?」

 

「知らない、てかどうでもいい。別に断る理由もなかったし、どうせ居ても居なくても大して変わらないって判断しただけ」

 

 3班のリーダーのウマ娘はあっさりと喋った。

 

 この班は珍しく、日中もいつも合同のトレーニングを組んでいる。そしてその苛烈さは群を抜いているが、メンバーが全く弱音を吐かないことが特徴だった。そういったウマ娘は大抵強いことが多く、彼女たちも例外ではなかった。つまりはGⅡ、GⅠクラスが揃った精鋭──。

 

 夏合宿の部屋の割り振りはトレーナーたちの会議によって決まる。これはつまり、そういった性質のウマ娘を一部屋にまとめた方が、より彼女たちは強くなれると判断された結果だ。

 

 合理的な3班のウマ娘たちは、個人個人が独立してトレーニングするよりも、競い合って高め合うほうが効果的だと判断し、自主的に合同トレーニングを考案。トレーナーたちの監修のもと夏合宿という貴重で効果的な時間を有効に活用している。

 

「人数が増えンのはいいことだよ。アケノなんちゃらなんて名前も聞いたことないような雑魚だろうが、食らいつこうとしてくるんなら勝手についてくりゃいい。あたしらは自分のやるべきことをやるだけだから」

 

 3班の部屋はジョーダンたちの散らかった部屋と違って、きちんと整理整頓がされている。揃いも揃って机に向き直って、おそらくはレースの研究をしているのだろう。

 

 こちらの話には耳も貸さないつもりらしい。

 

 ジョーダンの瞳がスッと細くなった。

 

「ねえ。今誰のこと雑魚っつった?」

 

「だから、そのアケなんちゃらのこと。もういい? トレーナーから出された課題やってさっさと寝たいんだよこっちは」

 

 ジョーダンが取り敢えずそいつの胸ぐらを掴み上げようとした時、背後から殺気が突き刺さって、ジョーダンは動きを止めた──というよりも、動けなかった。

 

「──オイ」

 

剥き出しの敵意が形を持って首筋に触れているようだった。例えるなら抜き身の刀──ナカヤマフェスタはニコリとも笑わずに言う。

 

 3班リーダーのウマ娘の顔つきが一瞬で引き締まって、思わず構えていた。机に向かっていた面々も、全員がナカヤマの動きを警戒していた。

 

「アケノが望んでることなら、私たちに止める筋はねェ。だがオマエら、あいつに妙なことしてみろ──叩き潰してやる」

 

 喉元にナイフを突きつけているような光景だった。無論ナカヤマの手に刃物などない、だがそう錯覚させるほどの迫力が、幻影になって現れているようだった。

 

「……するかよ、そんなこと。わざわざそんなことをする理由なんて、私たちにはないんだから」

 

 ナカヤマの眼光ほどではなかったが、3班のリーダーも睨み返してそう言い返す。二人はしばらく相対した後、ナカヤマの舌打ちを合図にして離れていった。部屋を退出していったナカヤマを慌ててジョーダンは追いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

「……なんかね、意外だった」

 

 合宿所備え付けの自販機エリアでジュースを買って外に出ていったナカヤマを真似て、ジョーダンは壁に持たれかかって星の見える夜空を見上げてそう呟くように言った。

 

「ナカヤマはもっと冷めてるカンジだと思ってた。失礼かもだけど、あんまりアケノのこと、どうこう思ってるカンジしねーなーって」

 

「……あぁ、そうだな。全く以って同感だ」

 

 缶ジュースのプルタブを開く音がした。

 

「ナカヤマさ、結構イメージと違っててビビるんだよね。炭酸飲めなかったり……てか、イメージ的に缶コーヒーとか飲んでそうだけどそれグレープジュースだし」

 

「余計なお世話さ。大体、こんな時間にカフェイン摂っても眠れなくなる。長い夜を過ごす気分じゃない。それだけだよ」

 

「そーゆーとこ、ほんとイメージとちげーわ」

 

 ジョーダンがそう言って僅かに笑うと、ナカヤマは珍しく自嘲するような笑みを浮かべた。

 

「ふ……自分でも意外だよ、私はこうも入れ込む性格じゃなかった。私が好きなのはヒリつく勝負だけで、後のことは全部退屈しのぎに過ぎないってな。前までのバカ騒ぎもそうだ、楽しけりゃなんだっていいと──」

 

 いつものジョーダンなら、珍しく自分のことを語るナカヤマに目を丸くして驚いていたところだが、今はそんな気分ではなかった。

 

 ナカヤマと並んで、お互いのことを見ることなく空だけを眺めていた。別に星を見ていたわけではない、ただ空を眺めていた。それだけだった。

 

「……トレーナーのバカが移ったか?」

 

 ナカヤマフェスタのトレーナー、加賀は人情深く面倒見のいい性格だ。特に他人のこととなると、ため息をつきながら何だかんだ世話を焼く。そうでなければナカヤマやウオッカの面倒など見ることは出来なかっただろう。

 

 そのため、加賀は明日原と違ってトレセンでも顔が広い。同年代のトレーナーの大半とは一緒に飲みにいったことがあるし、後輩の面倒もよく見ている。ジョーダンが明日原からの影響を大きく受けているように、ナカヤマも入学当初から全く変化がないとはならなかった。

 

「それ、別に悪いことじゃなくね?」

 

「どうだかな」

 

 アルミ缶を傾けた。暑苦しい夏の夜に喉を潤すには、ちょうどいい冷たさが心地よいはずだったが、別にぬるくなっていたっていいような気もした。少なくとも大して重要なことではなかった。

 

「誤解しているかもしれないが、別に私はアケノのことが特段好きなわけじゃない」

 

「……でも、アケノのために怒ったじゃん」

 

「少し違う。私は……多分、気に入っているんだろうな。お前を含めた、あの部屋の4人が」

 

「ブナネコアートのこと?」

 

「そのヘンテコな名前だけはどうにかして欲しいが、な」

 

「ひっどー。ページ・ワンよりはマシじゃん」

 

「ククッ、そんなに酷いか?」

 

 くつくつと静かな笑い声が聞こえた。ナカヤマの特徴的な静かな笑い方だった。

 

「……で、どうする?」

 

 ひとしきり笑い終わったのかは分からないが、ナカヤマは相変わらず空を見上げたままそう聞いた。

 

「何が?」

 

「アケノのことさ。リーダーの方針を聞かせてくれよ」

 

「えー、わかんねーよそんなの。ホントは止めるべきなんだろうけどさ──」

 

 つらつらとジョーダンは言った。

 

「あたしらはそこまであいつの人生に責任持てねーじゃん。強くなりたくて、それでも勝てなかったからアケノはもがいてるんだよ。あたしもおんなじだったから分かる。目の前に崖があったって、その先に向かって走り続けるしかないの。落ちるって分かっていても、アケノは進むしかないんだ」

 

 ナカヤマはふっとジョーダンの方へ振り向いて、まじまじと見つめた。

 

 ジョーダンはなんでもないかのように、さっきまでと同じように空を見ていた。泣きも笑いもせずぼんやりと──昔を思い出しているのかもしれないし、自分がどうするべきなのか考えているようにも見える。

 

「……なァ、ジョーダン。一つ答えてくれ」

 

「なに?」

 

「弱者に夢を見る権利は、あると思うか?」

 

 脈絡のない言葉に、目を白黒とさせてジョーダンは聞き返した。

 

「……へ? どゆこと?」

 

「直感的でいい。どうなんだ?」

 

「え、えっと……弱者に夢を見るケンリ……えー、うーん……。えー、言葉の意味とか、あたしちゃんと分かってないかもだから、ちょっとズレてるかもしんねーけど」

 

「別にいい」

 

「……強さとか、弱さとか……そういうものが本当の意味でどういうことなのか、あたしには分かんない。少なくとも、あたしは自分が強いなんて思ったことない。あたしはね、弱いから夢を見るんだと思う」

 

 夢──とは。

 

 一体、何のことなのだろうか?

 

 ナカヤマフェスタはトーセンジョーダンの答えを聞いて、少しだけ思考の海に潜った後に言った。

 

「……もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である、か。確かに……何も持たないから、何かを望んでいる。そうだな、アンタの言った通りだよ」

 

「? どゆこと?」

 

「気にするな。アンタはもう理解してるんだ、私がわざわざ説明する必要もない。いや……どころか釈迦に説法だな」

 

 頭の上に疑問符を浮かべるジョーダンの姿にナカヤマはもう一度ふっと口元を緩めた。ナカヤマなりの賛辞は残念ながら理解されることはなかったようだが、別にそれでもよかった。

 

「アケノのことは私に任せろ。悪いようにするつもりはない」

 

「え? でも……だいじょぶなん? あたしだって見ねーフリするつもりないんですけど」

 

「その必要があれば伝えるさ。不安か?」

 

「……ううん。ねえ、ナカヤマはアケノのこと、本当はどう思ってんの?」

 

「さっきのは嘘じゃない。そもそも私はアケノに限らず誰かのことを別段友達だなんだと思っちゃいないが──」

 

 言外にジョーダンのことも友達ではないと言われていることに気がついて少しむっとしたが、続く言葉でその気持ちはすぐに消えた。

 

「仲間だと思ってるよ。少なくとも、この夏合宿中は」

 

「へー……素直じゃねーの」

 

「そんなんじゃないさ」

 

 空になった缶ジュースを回収箱に放り投げてナカヤマは背を向けた。綺麗な放物線を描いたアルミ缶が、積み重なっていたそれらに衝突して乾いた金属音を生み出して、それから無数に捨てられたアルミ缶に混ざって見分けがつかなくなった。

 

「一度自分の中に生まれた気持ちに嘘を吐くつもりじゃない。それだけの、小さな動機だよ」

 

 それっきり踵を返して、宿舎へと消えていくナカヤマをジョーダンは追わなかった。

 

 嬉しそうな口元に苦笑いを混ぜて、ジョーダンは呟いた。

 

「……素直じゃねーの」

 

 しかし、緩んだ口元を引き締めてまた独り言をこぼした。

 

「でも、突然強くなれる魔法なんてないよ。そうじゃなきゃ、誰も夢なんて見ねーじゃん」

 

 希望、現実、夢──。それらに振り回されながら、彼女たちはターフの上で立ち止まったり、走ったりしながらどこかを探している。

 

 時に、転ぶこともあるが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 夏合宿の朝は早いし、そう暇もない。毎日のシーツを変えて、当番の掃除を済ませて、軽めの朝食を摂った後からトレーニングは始まる。

 

 トレーニングは、一概に長時間やればいいというものではない。だが最もトレーニング効率の良い時間帯があって、トレーニングの長さは存在する。これはストレッチは風呂上がりが最も効果的であるのと似ている。

 

 午前中に3時間。午後に4時間。基本的にはこのスケジュールで夏合宿は回っているが、これはあくまで体を使うトレーニングというだけで、多くの場合これにレース分析やトレーニングの自己分析の課題が課せられたりする。

 

 例えばブエナビスタの場合、桐生院から"ウマ娘の全身の筋肉図を調べて、イラストで描けるようになり、それぞれの部分の役割を完全に覚えて言えるようになれ"という課題が夏合宿を通して課されている。

 

 大臀筋、腹直筋に止まらず、大胸筋、口輪筋、広背筋──絶対走るのに関係ないだろそれと言いたくなる場所まで全てだ。桐生院曰く、自分がどの部分の筋肉を使って走っているのか理解できるようになれば、より適切にその力を引き出すことができる──である。

 

 何が言いたいのかというと、ウマ娘は基本的にずっと忙しく、1日のスケジュールの中で最も早く訪れる自由時間が昼休みであるということだ。

 

 ナカヤマフェスタはいつもは昼食の後、そこらへんの木に張ってあるハンモックで昼寝をするのが習慣になっていたが、今日は違った。アケノオールライトを探していたのである。

 

「なァ、アケノを見なかったか?」

 

「え、さっき見たけど。なんかコンビニの方行ってたような気がする」

 

「そうかい。ありがとな」

 

 適当に聞き込みをして尻尾を捉えると、情報のあった方へ向かった。適当にラインで連絡を取らないあたりにナカヤマのこだわりが伺える。

 

「あ、ナビちゃんも一緒にいたはずだけど──」

 

 出遅れたかな、とナカヤマは思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おっごりー、おっごりー! アケノ、ごちそうさまです!」

 

 合宿所から最も近いコンビニまでは歩いて10分程度。そう栄えているとは呼べない場所なので、コンビニと言っても周囲には自然が溢れていた。アスファルトを挟む森林からは蝉の声がしている。

 

「……買いすぎじゃない?」

 

「おごりと言ったのはアケノなので!」

 

 昼食をたらふく頬張ったはずのブエナビスタだったが、ビニール袋から飛び出したパンの山やお菓子は大体成人男性の1日分のカロリーに相当する。食べすぎても午後からのトレーニングが辛くなるだけだし、ちょっと食べすぎたウマ娘はよく激しいトレーニングに耐えきれずにゲロったりするのだが、ブエナビスタには無縁な話だった。おそらく胃液が硫酸か硝酸なのだろう。一瞬で消化する。

 

 早速焼きそばパンの袋を開けて頬張り始めたナビの嬉しそうな笑みに、アケノは毒気を抜かれた。苦笑いして棒アイスの袋を開ける。

 

 空の日差しは、1日ごとに強くなっているような気がした。日中の砂浜はその熱のために火傷しそうなほど熱くなることもあるが、それにも慣れた。

 

 だが今歩いているアスファルトは別だ。多分目玉焼きが出来る。

 

「あっつー……」

 

「さっきも言ってましたね。暑さ程度でめげるとは、この軟弱者め」

 

「むー。奢ってあげたのにその口振りはないんじゃないのー?」

 

「口が滑りました。アケノは優しいから好きですよ! 最強!」

 

「すぐそう言う事言うんだから……」

 

 既に焼きそばパンを食べ終えて、メロンパンに取り掛かっているナビの姿にも慣れたものだ。消しゴムで消してるみたいな食べっぷりだった。

 

「それで、なんですか?」

 

 割と直球で、何もかもわかっているような鋭さで以って、平然とナビはアケノに聞いた。

 

「……あのさ、どうやって切り出そうかとか考えてた私の時間返してくれる?」

 

「ここのところのアケノがおかしいことなど誰でも分かります。突然予定にないレースに申し込んで負けてからこっち、アケノは消える前の蝋燭みたいな顔ばかりしていますからね」

 

「どんな顔……?」

 

 いつもは溢れ出んばかりの好奇心で藪蛇ばかりつつくナビだが、大事なことに関しては嗅ぎ回ったり、余計なことを言うことはなかった。それは彼女なりの気遣いだった。

 

 はぁ、とアケノはため息を吐いて、困ったような表情でナビに問いかけた。

 

「ねえナビ。前さ、アケノなら登って来れますって言ってくれたこと覚えてる?」

 

 ──アケノなら登って来れますよ!

 

 2勝クラスで留まっているアケノが、いずれGⅠの舞台に上がって、自身と対等に戦うことが出来るとブエナビスタが言ってくれたこと。

 

「はい。私は嘘も冗談も言いますし、面白そうなことならなんでも言います。けどそれは本心ですよ」

 

「単なる励ましじゃ、ないんだよね?」

 

「励ましならもっと適当なことを言います。流石の私でも、人を傷つけかねない嘘は遠慮しますよそりゃ」

 

 既にメロンパンを胃袋に放り込んだナビは、珍しく真剣な様子でそう言った。

 

「……なんで、私なの? やっぱり相部屋で、仲良くなったから?」

 

 アケノはなるべく、自分の中で渦巻いている黒い感情を表に出さないように、表面上だけはただ困ったようにして聞いた。

 

 それを聞いて、ブエナビスタはじーっとアケノオールライトのことを見つめた。

 

「な、なに?」

 

 ただ目を細めてアケノを観察して何も言わないナビの代わりにセミが鳴いていた。うるさかった。

 

「アケノ。上に行けるウマ娘の特徴を知っていますか」

 

「え……?」

 

「現状に妥協しないことですよ」

 

 ──クラシック級、8月前半。

 

 デビューして随分経った。環境にも慣れた。勝ったり負けたりを繰り返して、憧れだったレースにも出れた──。

 

 トレセンに入学できるだけで、ウマ娘全体でも上位10%を切る。その上でデビューし、一勝でもすれば十分にすごいことだ。

 

 ()()()()()()()()()()()

 

「アオイの受け売りですがね。生物には恒常性(ホメオスタシス)というヤツが備わっているそうです。それは、外部からの影響に関わらず体の状態を一定に保とうとする働きのことで、こんな風にクソ暑かったりしても、体が汗を掻いたりして体温を一定に保とうとする働きだそうです」

 

(やっぱりナビだって暑いんじゃん……)

 

「アオイによると、これは心にも同じ仕組みが備わっているそうです」

 

 恒常性とは、現状を維持しようとする働きのことである。

 

「本能的に、現状を保とうとするらしいです。まだ今のような文明ができる以前の、生存のための機能という説をアオイは推しているらしいですが、まあそれは置いておいて──」

 

 何か新しいことに挑戦したり、初めて外国に旅行に行くときなどは誰だってドキドキする。不安と緊張に襲われる。それは現状から脱する行為だからである──というのは、この心理的ホメオスタシスによるものだとする説がある。

 

「当然ですが、勝つためには才能が必要ですよ。超頑張って体作ったって、生まれつき強いヤツは強いんです。私みたいに」

 

 一言余計だった。

 

「けど、問題なのは──如何にして自分が負けることを許せずに居られるのか、この一点に尽きます。最初は誰だって負けることなんて許せませんよ。けど、ずーっとそのまま自分を許せずにいたら心の方が耐えきれません。自己否定はメンタルを崩す1番の原因ですからねー。本能的に、妥協という形で防御します。それが精神の正常な形です」

 

 ──驚いたのは。

 

 ナビがこんな風に理論的な説明を展開し始めたことだった。どうやらウマ娘はトレーナーに似るという説は本当らしかった。所々の丁寧さを投げ捨てている部分を除けば、ナビは桐生院に似ていた。

 

「1勝や2勝クラスで燻ってる連中の多くは、自分の心に負けたんですよ」

 

 ──アケノは知っているが、実際のところレースになれば誰もが勝とうと全力で喰らい付いてくる。誰だって1着を逃すつもりなどない。それは1勝クラスや未勝利戦でも変わりはしない。

 

 だが、ナビの目から見れば──こういう視点の違いでアケノは、つくづくナビはGⅠウマ娘だと感じるのだ。

 

「最初、アケノはそんな負け犬と同じだって思っていました。けど……あのとき、あの言葉を言ったアケノの瞳の中には夢がありました」

 

 ふと、顔を上げた。

 

「私たちにとって、夢なんてどうせ叶わないんだから見るだけ無駄です。トレセンのウマ娘の多くはこのことを知っているから、そう大層な夢なんて語りません。けど──現実を叩きつけられた後でまだ夢を見ていられる、そんな甘っちょろい考えのアケノだからこそそれが出来るって……私はそう思ったんですよ」

 

 そう言ってナビはにこ、とアケノに笑い掛けた。

 

 太陽の光に反射して、その笑顔が何よりも眩しく思えた。

 

「あーあ、ナビってば無責任だねぇー」

 

 アケノは、安心したように口元を緩めておちゃらけた。

 

「……じゃあ、頑張っちゃおうかな」

 

「はい。絶対登って来て下さいね。そしたら、ボコボコのぐちゃぐちゃに叩き潰しちゃいますから」

 

「はい、犯罪係数300オーバー! サイコパスー!」

 

 ──約束は。

 

 光の形をしたまま、そこで輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 ──こっそり木の裏に隠れて会話を盗み聞きしていたナカヤマフェスタは、自分の出番がないことを悟ると馬鹿馬鹿しくなって笑った。

 

「チッ、出番もなくなっちまった……か。案外頑丈じゃないか、仲間ってモンは」

 

 そう、珍しく満足げに呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

 ナカヤマがアケノオールライトが保健室に運び込まれたと聞いたのは、その日の夕食の時間だった。

 

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