アケノオールライトの両親は、根本的にレースというものへの理解が欠落していた。
秋田県の片田舎で生まれ、片田舎で育ち、片田舎で生きてきた彼らにとって、重要なのはその日の生活というものだけであり、レースというたかだか10代の少女が競い合っているだけのものに日本全土が熱狂しているという事実は到底理解できなかったらしい。
その地域に暮らすウマ娘はそもそもレースの道に進んだ前例がなく、優れた肉体能力を活かした職業に就くのが慣例的になっていた。少子高齢化の煽りに直撃している彼らにとって、ウマ娘は貴重な労働力ではあったが、"走る"ものではなかった。
アケノは8歳の時、年末にたまたまテレビに映っていた有馬記念に今まで感じたことのない衝撃を受け、レースというものにのめり込んだ。
14歳のとき、両親を説得して一人で福島レース場で開催されたラジオNIKKEI杯を見に行き、その一週間後トレセンへの進路を決めた。
同年代の子供たちは付近に高校が無いために、片道2時間のバスを乗り継いで、山を抜けた先にある高校へ通うことが一般的だった。深い山の中にある、集落と呼んで差し支えない場所。山が高いために日没は早く、日照は短い。昔話の舞台のような地域だった。
アケノは一人で福島レース場に辿り着くまでに見たさまざまな景色──コンクリートが森のように立ち並ぶ都会の景色は胸を高鳴らせ、垢抜けた同年代らしき少女たちが駄弁りながら歩いている姿に憧れを抱いた。
見たことのないほど多くの人に叫ばれ、応援されながら走った彼女たちの姿──。
"レースなんでやめろ、どうにもなれねんどもら"
野暮ったい秋田弁、母は眉を顰めていた。前時代的なノスタルジアと人情味に溢れた秋田弁のことが、アケノはこの世で最も嫌いだった。
"東京なんて行っても、おめどじゃどうにもならね"
──2年だ。
2年で帰ってくること。それがアケノに課された条件。
3年間を東京で過ごされたら、卒業後も帰ってくることはないだろうと思われていたのだろう。2年が経ったら、転校して戻ってくること──学費を出すのは父と母だ。アケノにとっての生命線を親が握っている以上、それに頷くしかなかった。
たったの2年間で戻る気など、アケノにあるはずがなかった。スーツケースと共に家を出る時、もう故郷には二度と戻らないと自らに誓った。
"アケノちゃん、がんばれ"
"おばあちゃん、応援しとるスよ"
母の尻に敷かれていまいち頼りない父の横で──祖母はしわくちゃの顔でいつものようにニコニコ笑って送り出してくれた。
"かんれどきは、いつでも帰ってきていいがらなぁ"
二度と故郷に戻るつもりはなかった。
そのために結果が必要だった。
母がそれを求めなくても、世間が求めてくれればなんとかなると──そして、おそらく重賞を勝てば実際どうにでもなるはずだということは分かった。レースには賞金がある。1着にならずとも、2着や3着でいい。特別出走手当も少なくない額が入る。それを繰り返していけば、トレセンを卒業するだけの資金は稼げる。その後には自由が待っている。
賞金が積み重なれば、最低でも専門学校、うまくいけば大学に入って卒業できるかもしれない。学費や生活費を親から出してもらう必要はない。全部自分の力でやっていける。
メイクデビューを勝った日、母にそれを電話で報告したことがある。
"なぁに、GⅠじぁねのか"
そのときアケノオールライトは、母にとって──いや。故郷の人々にとって、レースとはGⅠなのだと理解した。
野球で例えると分かりやすいだろうか? プロリーグを観戦する人々は多くいる。だが高校野球の、その無名高校の一回戦をわざわざ観戦しようと思うファンはどのくらいの数がいる? せいぜい友人や家族程度のものだ。
これは何も故郷の田舎臭い連中に限った話じゃない。大多数にとってレース=重賞だ。GⅢでさえ、レースにあまり触れてこなかった人には見下されがちだ──冗談じゃない。GⅢが格下だと? ふざけるのも大概にしろ。その格下であるところのGⅢ──重賞に上り詰めるまでに、一体どれだけの犠牲を払う必要があると思っているんだ。
父も母も、そもそもとして未勝利クラスや1勝クラスといったグレードが存在していて、それぞれにどのくらいのウマ娘が存在するかなど理解していない。ピラミッド型になっている残酷で美しいレースの構造を知ろうともしない。
私はどれだけ頑張っても、OP戦だって10着なのに──それだって、決して平凡な結果ではない。OPにすら、いや……1勝クラスにすら上がれないウマ娘が2000人以上いることなど、知らないのだろう。
"GⅠ勝てばいいだで、こでことだべなぁ?"
──その時、アケノは叫びそうになった。
ふざけるな。GⅠだと? どれほどのウマ娘とトレーナーがそれを望んで、どれほど努力して、どれほどの涙と後悔があったと思っている。
出場するだけで至難であるそれを、あまつさえ勝つだと?
"トーセンジョーダン、今ゴールインッ! 見事クラシックの第一弾、皐月賞を制して見せましたッ!"
やめてくれ。
雲の上の存在なら別によかった。ちょっとした芸能人みたいな感覚になって、テレビ越しに眺めるみたいにその存在を知っている程度なら心も守れた。だけどトーセンジョーダンは相部屋で、スマホをいじる姿はどこにでもいるような同い年の少女だ。日常生活だけで言えば自分と何も変わらなかった。
普通のことで笑ったりしたり、マクドナルドが好きだったりする、ただの──やめてくれ。
あんたが普通過ぎると、こうやってみっともなくもがいている自分が惨めじゃないか。
*
「アケノ! だいじょーぶかにゃ!?」
真っ先に飛び込んで来たネコパンチを筆頭にして、相部屋の面々が血相を変えて駆け込んだのを見て、アケノは最初に笑ってしまった。
「あっはは、すごい顔してる」
「ふざけてる場合ですか! 怪我は!? どこ折ったんですか!? 余命は!? あと何日生きられるんですか!?」
「お、折ってないよ! なに余命って! そんな重症な訳ないじゃん、ちょっと捻っただけだって!」
全治三日。それが医者から言い渡された結果だった。
練習後に足首に急な痛みが襲って来た。アケノは3班の苛烈なトレーニングに参加し、慣れないメニューと負荷の強さにやられて、気がつかないうちに軽い捻挫をしていたらしい。
怪我をしたその時に気がつければよかったのだが、練習のアドレナリンにより気がつくのが遅れた。それでもまだ軽い関節の炎症程度に抑えられていたのが幸運で、すぐに復帰できる症状だ。
「こんのバカ野郎! 何してるんですか!」
「ごめんって、心配してくれてありがとうみんな。仲間思いの相部屋がいて私は幸せ者だなぁ……」
「にゃあ! ぶっ殺すぞ!」
「ええッ!? ネコにこんな汚い言葉教えたの誰!? 純粋な癒し枠のネコを奪うつもりなら私も容赦しないよ!?」
「黙れしバカもん。今回は軽い怪我で済んだとかそーゆーこと言ってんじゃねーのこっちは。マジびびったんだから、あんま心配掛けさせんなよ。殺すぞ」
「さっきから怪我人に対する言葉とは思えないよ……」
合宿所備え付けの保健室、そのベッドで体を起こしているアケノが苦笑いした。遠慮のない仲間達は本当に遠慮しなかった。
「……でも、ごめんね。私、やっぱり焦ってたみたい。反省したよ」
「言葉が薄っぺらいですね。というか、やっぱり3班の連中が何かしたんじゃないんですか? 誰にやられました?」
「違うって! ただの私の不注意だよ、別にあの人たちは私に興味とかないもん。何にもしないよ」
「それはそれでムカつきますね! ちょっとボコして来ます!」
「ね。ボールとバットあったよね、ちょっち行ってくるわ」
「やめて!? ホントやめて!?」
静かな病室も、この愉快なメンバーにかかればどこでもちょっとしたコント会場だ。騒がしいことこの上ない。
「安静にしてるこったな。アケノ……妙な気は起こすんじゃねえぞ」
「私のことなんだと思ってる? いくらなんでもそんな無茶はしないよ、怪我のリスクぐらい分かってるって。みんな心配してくれてありがと、ついでに部屋まで運んでくれない? 足痛いんだよねー」
「自分で歩け」
「自分で歩いてください」
「自分で歩くにゃ」
「自分で行けば?」
「ひっどぉ! まあ普通に歩くくらいならもう平気なんだけどさ……」
心配しているのか暴言を吐きに来たのか、どっちなのか分からない仲間達に一周回って呆れながらアケノはベッドから降りて、気休め程度のテーピングの巻かれた右足を地面に下ろす──
「っ……」
足を貫いた鋭い痛みに思わず顔を歪めた──のを、仲間達は見逃してはくれなかった。
「アケノ。マジ寝とけ、メシは持って来てやっから」
「大丈夫、そんな心配しなくたって──」
「いいから今日は保健室で寝とけ。無理して部屋戻ったとこで、別に痛みが引く訳じゃねーし……何がきっかけで悪化するかなんて、マジでわかんねーんだからな」
ジョーダンは元々爪が弱いのを分かっていてトレーニングを積み重ねた結果、残り二冠を諦めざるを得なくなった──それを経験しているウマ娘の言葉は、そう軽いものではなかった。
じーっとアケノの目を見ながら言い聞かせるジョーダンに、アケノは勢いを削がれた。一応反撃をしてみる。
「じゃあトイレまでは運んでってよ、寝るにしても──」
「あ、瓶あるにゃ」
「瓶!? 瓶って、尊厳は!? え、何!? ちょっと怪我しただけで尊厳まで奪われなきゃいけないの!?」
あんまり冗談の気配がないネコパンチに焦りを加速させていると、保健室に新たな客人が訪れる。
「アケノ、調子はどう──って、何してるんだ?」
アケノのトレーナー、蓮井祐介(21)がエントリー。
「は、蓮井さん──あッ、ネコ瓶! 瓶片付けて!」
「瓶? なんでだにゃ?」
悲しいかなネコパンチ、アケノが叫んだ意味が分からない。
「瓶……って、あ、アケノ……まさか」
ギョッとして緑色の変な瓶とアケノを交互に見る蓮井に対してアケノは大声で叫んだ。
「違うからっ! ほんっっっっっとうに違うから! 出てってーっ!」
「いや、俺は──」
「出てけーっ!」
羞恥心からか正常な判断が出来なくなったアケノがぶん投げた置き時計(ベッドの横にあった)にクリーンヒットを喰らった蓮井は頭から吹っ飛び、哀れにもそのまま保健室から退出していった。
「……ご愁傷」
ナカヤマが情けとばかりにスライド式のドアを閉じた。がらがらがら、ピシャ。
(何してんだこいつ……)
たまたま近くを通りかかった一般通過加賀が、ボロい廊下で気絶している蓮井を見下ろして思った。
ドアの閉じた保健室からは騒がしい会話が漏れて来ている。阿鼻叫喚といったその会話の余波と、蓮井のお手本のようなやられ様に大体の事情を察し、加賀は静かに両手を合わせた。
「……ご愁傷」
担当であるナカヤマと全く同じ言葉を言った。やはりウマ娘はトレーナーに似るのか、はたまたその逆か。
そっと倒れている横を通り過ぎて、加賀はやっぱり引き返し、無惨にも倒れている蓮井を引き上げて肩を貸しながら引きずっていった。
ー ー ー
結局、アケノは軽い捻挫のあと、二日間ほど手持ち無沙汰の日々を過ごした。
「ラスト一本、気合い入れてけー!」
「っしゃあーっ!」
眩しい砂浜にも慣れたものだと思っていた。だが慣れても眩しいままだった──激しい運動と、夏の暑さが否応なく滝のような汗を流させて、たまに光が反射して眩しかった。
怪我は珍しいことじゃない。夏合宿中も、アケノ以外にも何人ものウマ娘は怪我をしていたし、中には結構キツい怪我をしたウマ娘もいた。マシな方だ、少し足踏みするだけでまた練習に復帰できる。
prrrrrrrr──と、ポケットの端末の振動。それを確認する。
「……ごめん、蓮井さん。少し外すね」
隣でノート片手に作業をしていた蓮井にそう断って、アケノはコンクリートの椅子から立ち上がった。
「アケノ?」
「お母さんから。最近になって、また電話かけてくる様になった。練習中だってこと、伝えたんだけどね」
「……分かった」
暗い顔のアケノに、蓮井は何かを伝えるべきか迷ったが、結局見送ることにした。ビーチから離れて、日中は人気のない宿舎へと歩いていくアケノの小さな後ろ姿に、蓮井はペンを強く握りしめるしかなかった。
「──蓮井! ナカヤマの奴を見なかったか!?」
横から慌てた様子の加賀が走ってきて、蓮井は顔を上げた。
「……加賀さん」
「あのヤロウサボりやがった! 今月で2回目だ、今日という今日は見つけ出してとっちめてやる──で、見てねえか!?」
「いや……見てないです」
「ちいッ! あいつ次のローテ分かってんのか……!? あー! どこ行きやがったマジ、どうせまだ昼寝してんじゃねえだろうな!」
加賀は相変わらずの苦労人らしい。いつもブレない姿になぜだか安心した。
「……あの、加賀さん」
「なんだぁ!?」
「相談に乗ってくれませんか?」
「ああ!? ……まあ、言ってみろよ」
「……ここでは、少し」
加賀はそこでようやくキレかかっていた表情を引っ込めて、真剣な顔をした。
「はぁ……どれぐらい深刻だ」
「……正直、かなり。もう、どうすればいいのか……何を伝えればいいのか、何をするべきなのか……俺にはもう何も分かりません」
「……。なるほどな。確かにお前さん、だいぶ参ってるみたいだ」
ガシガシと頭を掻いてため息を一つ。
「今日の夜空けとけ。車で10分ぐらいんとこにいい飲み屋がある」
「……ありがとうございます、色々。この前も──」
「いい、トレーナー同士助け合わなきゃやってけねえからな──さてと、俺はナカヤマとの隠れんぼに戻るが、あんま辛気臭い顔すんなよ。一人の時なら別にいいが、担当の前じゃ明るく振る舞え。男だろ」
そう言い残して加賀は走り去っていった。
「……辛気臭い顔、か。俺、そんな顔してたんだな……」
ー ー ー
ナカヤマには秘密の昼寝スポットがあって、加賀どころか他人に見つかったことはなかなかない。宿舎裏、雑木林はいい感じの日陰が散らかっていて、コンクリの上を蔦が覆っていた。宿舎のボロい壁に持たれていい感じに寝られるので、気分が乗らない時は昼休みを越しても寝ていた。
やる時はやるナカヤマだが、やらない時はやらない。それでも勝つ時は勝つのだからウマ娘というのは分からないものだ。
──またそれんだども、何度言えばええだが!?
誰かの怒鳴り声が近くから聞こえて、ナカヤマフェスタはゆっくりと目を覚ました。人の気配がするどころか、叫んでいれば誰だって起きる。耳がピクリと動いた。
(……この声、アケノか?)
直感的にそう思って、ナカヤマは気配を殺して体を起こした。声の方へと足音を消して近づき、宿舎の壁からちらりと覗き見る。
『アケノ、もうええんじぁね? がっぱりしただべ』
「うるさいッ! おれだって出来るんだ、これまでとは違う、本物の夢が出ござっしゃたんダス。絶対絶対やってやるんんだどもら、おおがは口出ししねでよ!」
(……そういや、アケノの出身は秋田だったか。さっぱり何言ってっか分かんねえが……家族か、それとも地元の友達か? 随分殺気立ってやがるが──)
電話の向こうの相手が何を話しているかまでは分からないが、アケノは今まで見たこともないくらいに興奮している。
『でもねえ、レースなんて危ねじぁなァ。おおが、あんたどご危ね目に合わせたくね』
「ほんたらの関係ね! 地元なんて絶対戻らね、おれはレースの世界で生きてくんダス。おおどにも伝えておいでよ、すぐ重賞にもではるからって……!」
(……地元? 戻るって言ってるような気もするが……マジで何言ってんだ。本当に同じ日本語か?)
文字に書き出すとそうでもないが、秋田弁はネイティブが喋ると本当に何を言っているのか分からない。特徴的なアクセントや会話のスピードは、そこで生まれ育った人でないと聞き取れもしない。ちょっとした外国語レベルだ。東北地方の方言というものはこう言ったものが多い。
ただ、何と喋っているのかはわからないが、何を喋っているのかは分かる様な気がした。
『今年中までの約束だべ? 転校して戻っておいで。おがさん、あんたの味方んんだどもら。手続きはこっちでじぇんぶ済ませてあげるから』
「やめてよッ! 嫌だ、あっちゃあるよな田舎になんて戻りたくねっ! それで地元で就職してくれねなんてしゃべるんでしょ!? おれ絶対やだ、賞金だってそれなりに貯まったんダス。なんぼなんでも大学には絶対いぐから。反対されても関係ねからッ! おれの人生はおれが決めるからッ!」
そう叫んで、アケノは端末を地面に叩きつけた──察するに、通話を切ったのだろう。叫び終わった後も、アケノは荒い息を繰り返していた。
(さて、どうするかね──)
その時、ナカヤマの足元に枯れて落ちていた枝が、ぱき、と音を立てた。
(やべ)
アケノは緩慢な仕草でゆっくりと音のした方を振り向いた。
「……誰か、いるの?」
ナカヤマはもう正直に出ることにした。
宿舎の影から出てきたナカヤマを見て、アケノは驚いた後、顔を伏せて唇を噛んだ。
「悪い。盗み聞きするつもりはなかった」
そう聞いて、アケノは少しだけ諦めたように笑った。
この回を書くにあたり、秋田弁コンバーターを使用させていただきました。ありがとうございます。
http://www.shirakami.or.jp/~kinoka/akitaben/akitaben.html