「……おおが──お母さんはね」
隠したってどうしようもないと思ったのだろう。アケノは語り始めた。
「きっと、娘の私が都会に出て行くことが気に入らないんだと思う。お母さん、秋田から出たことないんだ。このご時世にもなって、あの村に閉じこもってる」
何もかも諦めたような表情だ。それと同時に積み重なった苛立ちを吐き出している様にも思えた。
「未成年に生きづらい社会だよね。どこでも親の判子が必要なんだもん。自分のことも自分で決めらんない──私ね、故郷が嫌いなんだ。私の
その言葉はともすれば懺悔のようだった。
ナカヤマは少しだけ迷った。この言葉は、果たして自分が聞くべきものなのか? アケノは誰でもいいみたいだった。止めるべきか少し迷った。
「雪かきしなきゃいけないの、嫌だったなあ。東京には雪なんて降らないでしょ? 積もったって、腰まで埋まるくらいにはならないよね。こっちに来た時びっくりしちゃった。冬に雪が積もらない場所があるなんて知らなかったんだ」
少なくともナカヤマには無縁な話だ。アケノの境遇はアケノにしか分からない。本質的にアケノを理解出来るのはアケノしかいない。
「さっき、なんて喋ってるか分からなかったでしょ? 標準語話せるようになるの苦労したんだ。ジョーダンはよく知ってると思う。相部屋になった最初の頃、話通じなかったんだもん」
アケノは1年前を懐かしんだ。ジョーダンのパリピ語とアケノの秋田弁が交わされる空間はカオスで、外国人同士が話しているようだった。まさか東京に来て最初の勉強が日本語だとは思っていなかった。
「……ナカヤマはさ。弱いってどういうことだと思う?」
ふと、脈絡のない言葉を言った。
「……少なくとも、お前は弱かねェさ」
「意外と優しいんだね、ナカヤマは」
「無関心を冷たいと呼ぶんなら、確かにそうなんだろうな。折れてくれるなよ、アケノ。飯が不味くなる」
「……やっぱり。見かけの割に甘いよね、ナカヤマって」
アケノはどうしてか、寂しそうに笑った。
どうにも空虚な笑顔だった。
ー ー ー
坂奈落という居酒屋は、合宿所からそう遠く離れていないところにある店で、俗にいう穴場というヤツである。
居酒屋といえど、つまみ用のメニューも結構いけるといういい場所で多少値段は張るが、中央トレーナーはそんなことを気にする必要はない。
「……ねえ、ホントに大丈夫なの? 居酒屋だよ、未成年が入ったらダメなんじゃないの……?」
ナカヤマに連れてこられた店は、雑木林を抜けた先──古びた街並みの中にある、古びた居酒屋だ。
「飲まなきゃいいだけの話だよ。安心しろ、奢ってやるさ。連れてきたのは私だからな」
「でも突然どうしたの? わざわざ明日原さんに頼んで、送迎までしてもらって──」
練習上がりの夜、ナカヤマとアケノは合宿所の夕食を食べずにこの居酒屋に来ていた。こういうことには察しのいい明日原は二つ返事で了承し、ナカヤマの連絡の後にまた迎えに来ることになっていた。
「大体、頼むんなら加賀さんか蓮井さんでしょ?」
「その二人に頼めない理由があるのさ」
「……なにそれ?」
「すぐに分かるさ。……店員さん、モツ煮二つとウーロン茶一つ、それと……アケノ、飲みモンは?」
横を通っていった従業員を捕まえて、ナカヤマは勝手に注文した。むっとしたが、アケノも店員の前なので我慢して注文をした。
「……オレンジジュース」
かしこまりました、と一礼して去っていく店員を尻目にアケノは説明を求めてじっとナカヤマを睨んだ。
「くく……そんな顔をするなよ。いい店だろ? 古びてるってことは、歴史があるってことさ。メシを食うならあんまり綺麗じゃ風情がない。長い時間を生き延びてきたことは、何かしらの続いてきた理由があんのさ。ボロい店ほど味のあるモンを出してくれる。例外はあるが、それはそれで面白いもんだよ」
あんまり説明になっていない説明をするナカヤマ。孤独のグルメみたいなことを言い出しても、アケノが納得するはずがなかった。
「おっと、あんまり騒ぐなよ。それと声も出来るだけ抑えろ。後ろの席に加賀と蓮井がいる」
坂奈落は半分ほど料亭のような構造で、それぞれの席ごとに仕切りが立ててあった。カウンター席を除くテーブル席は個室に近く、客ごとのパーソナルスペースを確保してくれている。つまり、客同士は互いに見えない──。
蓮井と加賀がここに来ていることは加賀から直接聞いた。説教を聞き流した後、加賀が何気なく溢した情報だ。
最も、正常な神経であればそれを聴きに行こうとはならないが。
「なん──」
驚きから大きな声を出そうしたアケノは、唇に人差し指を立てるナカヤマを見て、慌てて口元を押さえて堪えた。
「……バレない?」
「トイレは向こう側だ。会計の時以外、連中がこっち側に来るこたァねぇ。最悪バレちまっても適当に誤魔化せばいい」
大胆にも程があった。アケノは思わず緊張したが、ナカヤマはまるで平然としている。こういうことに慣れているようで、少しだけ羨ましかった。
「さァて、盗み聞きと行こう。気になるだろ?」
──アケノとナカヤマの耳は、人のそれと異なる。
それなりに賑わい、騒音が止まない居酒屋の中でも意識を集中すれば──。
「──って、何なんですか……」
かすかに呂律の回っていない蓮井の話し声が聞こえた。
既に蓮井の顔は真っ赤になっていた。それでも、少なくとも楽しそうではなかった。片手で顔を覆ってテーブルに俯く姿は弱々しい。
「若手連中が意識せずにはいられねぇか。成功したトレーナーの象徴みたいなヤツだからなぁ、あいつは」
あまり飲んでいない加賀が、どこか呆れたように言った。
「明日原ってヤロウは忌々しいことに天才ってヤツだよ。蓮井よう、お前さんは悲しいかな凡人だ。比較したって、良いことなんて何一つありゃしねえよ。大体俺だってそうだ。トレーナーとして成長していくにはどうしたって時間と経験が必要なんだよ、頭のイカれてない方は尚更な。
トレーナー1年目でGⅠを勝利することは容易ではない。ダイワスカーレットと明日原はレース史に残る活躍をした。ベテランと呼ばれるトレーナーたちを容赦なく踏み潰し、その後ろに王道と呼ばれる道を作った。
自分は運が良かった、と明日原は言う。それがどこまで本心なのかは分からないし、その偉業がダイワスカーレットの弛まぬ努力と才能によるものなのか、はたまた明日原の敏腕によるものなのかはいまいち区別がつかない。おそらく両方だ。
天才と天才が出会った結果、奇跡が生まれる。ドラマチックだが、それが事実だとするなら、凡人の心を砕くには十分だろう。
「加賀さんだって……新人の頃から、重賞には出ていましたよね」
加賀も、ベテランと呼ばれるほどではないが中堅を通り越している。しかし、結果を残すトレーナーというのは1年目からその能力を遺憾なく発揮する傾向があった。もちろん年月を経て開花する才能もあるが、10年トレーナーをやって結果が出なければ才能がないと言われることもある。
「……おいおい、飲み過ぎだぜ。少なくとも明日原に比べりゃ、俺だって凡人に過ぎねえさ。担当に恵まれただけだよ、本来ならあいつはGⅡくらい楽に勝てる器だった。それを育て切れなかったのは単に俺の技量不足に過ぎん。いくら謝っても足りねえ担当の数がどんどん増えてくごとにトレーナーってのは強くなってくもんさ。ウマ娘を2、3人潰してようやく1人前って言葉がまかり通るくらいには、この業界は厳しい」
あいつ──ウオッカの前。加賀が初めて担当したウマ娘──その過去を、僅かに懐かしんだ。誰にだって歴史がある。後悔も同様に。
「担当に恵まれるって、今……そう言いましたか」
「……悪ぃ、失言だ。忘れろ、別にお前さんの担当をバカにしたい訳じゃない。ただ俺は──」
その言葉を遮って、蓮井からまるで蛇口を捻るみたいに言葉が流れ出した。それはまるで、罪を告白する罪人のような──
「お、俺だって……俺だって、勝たせたいんですよ! あの子の願いに応えたいです、でも……俺、俺──なんで、こんな、こんなはずじゃなかった! 俺、負けて帰ってくるあの子に掛ける言葉、最初は分かりませんでした。なんて伝えて良いのか分からなかった。でも今じゃ慣れっこだ、俺もアケノも慣れましたよ。負けることに慣れていきました。怖いんです、負け癖が付いたらもう終わりなんじゃないかって、二度と這い上がれないんじゃないかって」
苦しんでいたのはアケノオールライトだけではない。蓮井は──追い詰められていた。
初めての担当、積み重ねた信頼──。アケノが打ち明けてくれた故郷への想いと、両親との軋轢、振るわない結果、
勝てなければ後がないアケノ──もはや蓮井にとって、敗北とは罪であり。弱さとは悪だった。
「加賀さん、教えてくださいよ。負けることに慣れた人間はどうすれば良いんですか……」
もはや蓮井にとってターフの上に夢などない。あるのは夢と希望がひっくり返って生まれた呪いの山だけ。なぜならアケノのトレーナーは蓮井なのだ。信頼されているからこそ、慕ってくれているからこそ。
加賀は、そんな蓮井を眺めて静かに言う。
「誰だって慣れてるよ。勝つことに慣れてるヤツなんていない。三冠を獲った連中ですら勝ち慣れてるなんてのは言えねえ、俺はそう思う。例外があるとするならシンボリルドルフくらいのもんだろ。あるいはシンザンとか、トキノミノルとかな」
「アケノには……資質がないんでしょうか。あの子には夢を見る資格がないんでしょうか。答えてください、いくら頑張っても勝つことのできないウマ娘とそのトレーナーは何を目指せば良いんですか……」
ウイスキーがカランと鳴った。加賀は静かにグラスを傾けて遠くを見た。
「統計上──」
少しだけ、アルコールが喉を焼いた。
「100人のウマ娘がデビューしたとして、1勝クラスに上がれんのが35人。そのうち2勝クラスまで上がれるのが14人。そん中で3勝出来んのが5人。オープンまで上がれんのは2人。確率上、この100人の中にGⅠを勝つヤツはいない。常識だ」
G1レースは年間30もない。それはかつて明日原がジョーダンに語ったように──。
それでも、その僅かな大舞台を何勝もするウマ娘がいる。7冠シンボリルドルフや同じく7冠テイエムオペラオーは化け物だ。それらと同じくダイワスカーレットやウオッカも伝説となった。
アケノは決して弱くなどない。2勝クラスまで上がって来たのは間違いなく才能があるからだ。ただ上を見上げ過ぎて疲れてしまった──。
「負けることに慣れたってなにもねえよ。中央のトレーナーは常に激務に晒されている。誰だって最初は情熱がある、レースそのものを変えてやろうって信念を持ってトレーナーになるヤツもいる。倍率3000倍近くの狭き門を潜り抜けてきてんだからな、俺だってそうだった」
──どこか、諦めたような言葉だった。
「だが慣れてくんだよ、人間はそういう生き物だからな。てかどこでも同じだろ? サラリーマンと一緒だよ、慣れてくんだ。平均に落ち着くように出来てる」
信念も情熱もあった。
だが、加賀はもう30歳を越した。
「トレーナー業だって例外じゃねえさ。分かれ道は大体4年目か7年目かねぇ……大抵は担当を増やすなり、サブトレーナーを卒業してチームを設立するもんさ。お前さんみたいに、一年目から担当を持つヤツの方が少数派なんだよ。明日原のヤロウは一向に増やさねえしな、担当。あれでそれなりに批判浴びてんだぜ、能力あるんだからもっとそれを活かせって。知ってるだろ?」
人は歳を取る。何人ものウマ娘を見送り、少しずつ老人に近づいていく。トレーナーのピークがどこにあるかと言われれば、それはきっと1年目なのかもしれない。
「大抵、現状に満足するもんさ。思い詰めんのは上を目指してるからだろ? その理想を捨てちまえば、トレーナーはただの高級取りだ。勝ち組つってもいい。合コン行けばモテるぜ、マジで。金も女も向こうからやってくるさ。大抵のトレーナーってのは、三笠みたいにうまいことやってくんだよ。そういう風に落ち着く」
チームを作り、サブトレーナーを雇い、より多くのウマ娘をレースへと羽ばたかせていく。それはどこか流れ作業なのかもしれない。だが歳を経るとはそういうことで、そういった大多数のトレーナーが今のレースの根幹を支えている。仮に誰もがスターになれるなら、誰がスターを照らすための照明を持つのだろうか? 中央はいつも人手不足だ。
「勝ちたいなら犠牲にしなきゃいけないもんがたくさんある。例の明日原くんにゃあプライベートの時間なんてほとんどねえよ、起きてる時間全部仕事、仕事、仕事だ。まああんな生活続けてりゃあたぶんあいつもそのうちぶっ倒れるだろうが……なあ蓮井、担当に熱心なのはいいことだ。だがオメェ、そのために他の全部を捨てられっか?」
歳を経た加賀の視点は、蓮井のそれとは少し異なっていた。
一生をトレーナーで過ごすケースは少なくないが、それほど多いわけではない。特に、偉大な業績を残したトレーナーほど早く引退してどこかへ消えていくケースが多い。単純に担当に引きずられて消えていく場合も多いが、担当の無念の引退に心を砕かれてトレーナーを辞職するということも、聞かない話ではない。
自分達はトレーナーである以前に、人生ある一人の人間なのだ、と加賀は言った。
「もしもそれ以外の全部を捨てられんのなら、お前さんはきっと大成する。憧れの明日原さんにも近づけるだろうさ、でもそれは人間としてどっかイカれてんだろ。なんつーか、自分の趣味とかプライベートの楽しみとか、そういうのは全部犠牲にして良いもんなのか? そういうのはなんつーか、ワークライフバランスとして間違ってねえのか? そんなやり方を続けていったら、10年後には仕事以外に何にも残らなくなるんじゃないか? そいつは人として健全な生き方なのか?」
蓮井だって、決して遊んでいるわけではない。やることなど山ほどある。レースの研究には、終わりなどない。それでも、休みなしに働き続けられるわけではなかった。
明日原は基本的に日曜日も自宅でレースの研究をしている。ジョーダンに遊びに誘われたり、加賀と飲みに行く以外は大体仕事をしている。普通に頭おかしいし、いつまでもそんなやり方を続けられるはずがない──普通の神経をしていれば、そう考える。
「……話が逸れたな。担当の人生にどこまで干渉するべきか、ってところだったか」
「一度……アケノの両親を……訪ねたことが、あります。ですが……笑えるくらい邪険でしたよ。アケノの意志を尊重してあげて欲しいと伝えたら、文字通り冷や水をぶっかけられて──さながら、娘にくっついた悪い虫──って感じの目で睨まれましたよ」
──仕切りの向こうから、テーブルを強く叩く音がした。
「……?」
随分酔っ払って感覚も曖昧な蓮井がぼんやりと首を傾げた。
「……気にすんな。で──どう思ったんだ?」
「俺……その時、分かりました。この人たちは……よっぽど、アケノのことを大切に思ってるんだなって。色々怒鳴られましたよ……何を喋ってるのか、全く聞き取れなかったですけど」
父親の方はどうしていいのか迷っている様子だったが、母の方がひどかった。
"んが、なしてすたらひでごとがでぎるんだ──"全く聞き取れなかったが、それはただ単純な怒りではなかったように思う。随分前の話だ、少し忘れてしまった。
「……分かっているんですよ。アケノは、きちんと両親と話し合わなきゃいけない……でも、アケノにはその準備が出来てない……。今のアケノが両親と話し合ったって、余計に状況を悪くするだけで──」
焦りが状況を悪くし、そのためにより焦るという負のスパイラルに陥っている。トレーナー2年目の蓮井はまだ経験不足で、この状況を打破する方法が見えない。
「お、俺は──あの子を助けるために、何が……何をすれば、どうすれば、アケノは笑ってくれるんですか。あの子が無理矢理にでも笑おうとするところなんて、もう……見たくなんて……ッ!」
「……泣くんじゃねえ、バカ野郎。タマ付いてんだろうが」
無力を情けないと呼ぶのなら、蓮井はそう言われても仕方がなかった。加賀は静かにウイスキーを傾けた。
「俺や他の連中に協力出来ることがあるなら遠慮は必要ねぇ、頼りゃあいい。だが……いや。今日は吐くまで飲めばいい。そんで切り替えろ。この程度の絶望で足踏みするようなら、お前さんはトレーナーにゃ向いてねえ」
優しさは時に毒となる。それはお互いにとっての情が深いほど、現実という針は心の奥底へ突き刺さる。
「重たいだろ?
後ろの席の椅子が動く音がした。どうでもいいことだ。
「……それでも、俺は支えるって決めたんです……」
ー ー ー
「本当はな」
足早に店を出て、ナカヤマは言った。
「連中が多少は明るい話をすると思っていた。担当自慢の話とかな」
──その賭けに、ナカヤマは負けた。
蓮井の本音を聞かせることで、アケノを元気付けられると考えていた。
アケノは何も言わなかった。ただ顔を俯かせて、ナカヤマの後ろを歩いた。
「今朝まで、私は誰しもに夢を見る権利はあると思っていた。だが……考えが変わった」
そう言ってナカヤマは足を止めて、アケノに振り返った。どこか不吉な決心をしたような──暗い田舎道の街灯に照らされたナカヤマの表情は読めない。
暑苦しい夜だった。街灯には虫が集っていて不吉だった。
「なぁ……アケノオールライト。どうなんだろうな? 強えやつが夢語って、それを叶えてくのは勝手だ。世間に夢見せたり、勇気与えたりすることも出来る。誰かの背中を後押しすることもあるだろうさ」
そう語り出したナカヤマに、アケノはどこか予感めいたものを感じながら聞き返した。
「と、突然なんの話なの?」
「仮に、だ。仮に──Aっつーウマ娘がいて、Aは今、崖っぷちに立ってる。でもAは目の前に広がる海だけに気を取られてる。海に行きたいけど、そうするためには飛び込むしかない。うまく着水できなきゃ大怪我、どころか死ぬかもしれない。Aは迷ってる。だが、誰かの声が聞こえた。キミなら大丈夫だよ、辿り着けるよ──」
「ナカヤマ、あんたなんの話をしてるの。全然わからない」
「もちろんその背中を押した誰かは悪意を持ってやってる訳じゃない。むしろ全然逆で、落ち込んでいる人や、うまくいっていない人を励まして回ってる。いわゆるスターだ、大勢に勇気を与える」
抽象的な話だった。
だが、嫌な現実味がこびりついていた。
「どうもAは、そいつみたいになりたいらしい。スターになって、チヤホヤされたいんだとよ。だがAは海には辿り着けねぇ。Aに残された道は、そこから飛び降りるか、引き返すか。回り道はない。仮に別の道があったとしても、少なくともAにその道は見えてない」
話は続いた。
アケノは段々とはっきりしていくその感覚の輪郭を捉えて、少しずつ顔色を変えていく。ただ暑苦しい夜だった。
「Aが勇気を出して海に飛び込んだら、Aは無事に海に入れるのか? それとも大怪我を負うのか? そいつは試してみないと分からない。実力がなくたって、運や偶然に助けられるかもしれない。だが10回やれば、そのうち9回はAは助からないだろう。少なくとも私はそう思う」
「……Aが海に入ったら、どうなるの?」
「さあなァ。そうしたら海の向こうにある伝説の無人島にでも向かうんじゃねえか?」
「ふざけてる?」
「大真面目だよ。未踏の絶景を探してんだろうさ、あるいはそのフリをしているか。Aが本物なら、きっとAはそこにたどり着いて喝采を手にする。だがAが偽物なら、翼をもがれたイカロスの如く、海面に打たれて死ぬだろうな」
「その話と私に、一体何の関係があるの? ナカヤマは……一体何が言いたいの?」
「A──アケノオールライト。忠告するぞ」
ついに、ナカヤマは本題を話し出した。
「蓮井を絶望させたくなかったら妙な真似はするな。身の丈に合わない夢は見るな。人にもウマ娘にも器がある、アンタはおそらくその器じゃない。お互いに不幸なことになる前に諦めてくれ。勝負事の果ての結末ならまだしも、こんなものは賭けですらない……ただの自殺行為だ。私が見たいのはそんなものじゃない」
少しだけ──苛立ちをぶつける様な言葉だった。あるいはそれは、無情な現実に対して珍しく怒っていたのかもしれない。
「わ……私に、勝てないって言いたいわけ? お前には無理だって? 諦めろって言いたいの? さっきの見せといて……雑魚はさっさと引退しろって言うの……!?」
ナカヤマの行き場のない苛立ちを、自身に向けた侮辱と捉えたのか。アケノは気色立った。2人の間に僅かな緊張が走った。
「あんたが壊れたら、たぶんあの男はトレーナーを引退するぜ。情に厚い男はトレーナーには向いてない。新人トレーナーは危ういだろ? ちょっとくらい冷めてた方が長続きするもんさ、何事もな」
──そう言われると、アケノは悔しそうに顔を伏せるしかなかった。
「……嫌だ、そんなの認めたくない。私が弱いことは私が1番よく分かってる、ヒロインになれないことだってよく分かってる。才能も根性も技術もない、よく知ってる。けど諦めたくない、諦めたら空っぽなんだよ。自分一人だったらとっくに諦めてたよ、でも蓮井さんは私のことを信じてくれてる。私が……私が諦めたら、蓮井さんに申し訳ないよ……」
トレセンを去る理由──2年間だけという約束、振るわない結果、削られていく心。
トレセンを去れない理由──蓮井の信頼、幼い頃からの夢、ブエナビスタとの約束。
アケノはそれらに雁字搦めにされて苦しんでいる。その中でもがくたびに、より複雑にそれらは絡まり合っていく。
「……別に、引退しろなんて言いたいわけじゃない。レースっつーもんは負けるのが普通だ。なぜなら10人近く出走したって9人は負けるんだからな。当たり前のことだ。お前は普通だし、十分優秀な部類だ」
それじゃ足りない。十分に優秀──そんな程度では、夢には到底届かない。報われない。
「私が言いたいのは、夢のために無理をするなってことだけさ。身の丈にあったトレーニングってもんがあるだろ。お前を見てると不安になる。無理な練習で、ぶっ壊れるんじゃないかってな。そうなりゃ終わりだろ。親に何言われているか知らないが、そもそも体を壊したら可能性は完全にゼロになる」
ここへ来て、ようやくアケノは遠回りな話の結論に辿り着いた。
「あの部屋の連中に、あまり心配をかけさせないでくれ。私が言いたいのはそれだけだ」
ナカヤマはただ、アケノのことを心配していただけで、それ以上のことは何もなかった。ただの純粋な善意で──だからこそ、アケノは何も言い返せなかった。
「…………。分かった、分かったよ。無理なんてしない、焦らず地道にやってく。それでいい?」
ナカヤマの言動が善意から来ていた以上、アケノはそう答えるしかなかった。
「……ああ。分かりゃいいんだ。ごちゃごちゃ言って悪かったな。帰ろうぜ、アケノ」
ー ー ー
深夜。
アケノは最近いつも、1人で真っ黒な海を眺めている。
あの水の中へ入って行ったら、何もかもから逃げられるかな、とぼんやりと考えながら──だが、今日は違った。
茹だるような暑さだというのに、真冬の吹雪にさらされている様な表情で、震える体を必死に宥めていた。小さく縮こまって、膝に顔を埋めてぶつぶつと呟いていた。
「……無理だ、諦めきれない。私、勝たなきゃ、勝たなきゃ……嫌だ、地元なんて戻りたくない。私だって、輝きたい……。ナビみたいに強くなりたいよ、勝ちたいよ……」
まるで懇願するような言葉。
「ごめん、ナカヤマ。私……やらなきゃ、たくさん練習すれば……たくさん頑張れば、私だって。私だって……出来るよね、勝てるよね、勝てるって。勝てるって、勝てるって、勝てるって、勝てるって」
ぶつぶつと、孤独の中に震えながら。
「勝てるって、勝てるって、勝てるって、勝てるって、勝てるって、勝てるって、勝てるって、勝てるって、勝てるって、勝てるって、勝てるって、勝てるって」
アケノは呟き続けた。願った分だけ強くなれると信じて、何度も何度も。
ぐしゃ、と握りしめたハッピーミークのトレーニングメニュー。捨てられなかった。捨てられるはずがなかった。
アケノは祈った。
「勝てるって、勝てるって……勝てるって────」
勝てるって言ってよ、神様。
アケノの消えそうな声が、波に攫われて消えていった。