「次、砂浜ダッシュ! 上がり34秒切れなかったら腕立て100回、気合い入れろッ!」
「っしゃあ、ビリはジュース奢りね!」
苛烈なトレーニングだった。
3班のメンバーはそれぞれが上を目指し続けている。確かな実力を備えて、貪欲に鍛え続ける者たちが競い合ってトレーニングを続けている。
レッドディザイア、セイウンワンダー、リーチザクラウン──彼女たちに共通する特徴は、栄光にあと一歩及ばなかったこと。
レッドディザイアはティアラ路線にて桜花賞2着、オークス2着──ブエナビスタに辛酸を舐めさせられて来ている。そのため気合の入りようは3班でも屈指で、残る秋華賞を絶対に勝ち取るという気概があった。
3冠など、絶対に達成させない。
次の秋華賞の注目選手である。ティアラ三冠に王手をかけているブエナビスタと、2着に敗れ続けてきた準二冠とも呼ぶべきレッドディザイアの対決。世間はブエナビスタの三冠を望んではいるものの、レッドディザイアの悲願を見届けたいという声も少なくない。
リーチザクラウン、ダービー2着。ぶっちぎってゴールしたロジユニヴァースの後ろを走っていたのだ。次こそは、と燃える気持ちが溢れ出ている。重馬場の中で結果を出したパワーと根性が備わっている。
セイウンワンダー、皐月賞3着、ダービー13着。ロジユニヴァースと並んでクラシック最有力候補だったが、前走の不甲斐ない結果に誰よりも怒っていたのは彼女自身。続いての神戸新聞杯に向けて猛特訓を重ねている。
他にもGⅠの常連たちがいる。ダートや短距離専門のウマ娘も混ざって、互いに刺激を与え合って上を目指す──その中で、アケノオールライトは場違いだった。
動きも表情も明らかに精彩を欠いている──しかし、走るのをやめようとはしない。
「はあっ、はあっ、はあっ──」
ふらふらと、大きく遅れながら走るアケノの姿は、言葉を選ばないならば見苦しかった。それを振り返ってメンバーの1人が舌打ちする。
「ちッ──アケノ! ダラダラやってんじゃねえよ、気合入れろ!」
「っ」
飛んできた叱責──顔を上げて、また息を入れ直して、走り出す。
結局、アケノはペナルティの腕立てを500回以上やることになった。
トレーニング上がりのアケノがふらふらと歩いて行くのをふと眺めていた人影──
「? ミーク、どうしました?」
「……ううん。なんでもない、よ」
ミークは視線を切ると、またクールダウンのストレッチを始めた。
そんな日々が2週間も3週間も続いた。
夏合宿が終わるまで残り1週間を切って、夜の5班は地獄絵図だった。
「あ"ー課題終わんねーマジ終わんねーあああああああ」
「……宿題って、食べられるんですかね」
「にががががががにあああああ」
「……よし、終わった連中のノートを買ってくる。少し待ってろ」
「待って。待って、待って。待って、ツッコミが追いつかないよ」
結局、なんだかんだであまり課題をせず遊んでいたジョーダンを筆頭に、アケノを除く全員が頭を抱えていた。ネコパンチなんて壊れたドラえもんみたいになってる。
「だから私は言ったのに。毎日コツコツやってくことが大事なんだよーってさー……」
「き、綺麗事なんて要らないんですよ! 今必要なのは解決策です──ああ、捨てればいいのか」
「ダメだよ!?」
残念ながら、彼女たちは助かりそうになかった。最も、これから毎日全力でやれば間に合うくらいのラインには到達していて、デスマーチをやるかやらないかの判断は各々に委ねられている。
なんだかんだ終わらせはするであろうジョーダンは放っておいて、ナカヤマはすぐ裏道を探そうとするし、ネコパンチは燃え尽きているしナビは現実逃避気味でプリントを齧っている。
いつものアケノなら、ここで助け舟を出すのだが、トレーニングの疲労がここのところ大きいので放っておいてさっさと寝ることにした。
「まあ私は先に寝ます。おやすみー」
「アケノーっ! 見捨てないでにゃ、アケノがいなきゃにゃーはどうなるにゃ!?」
「……保健所?」
「嫌だにゃ、アケノー! アケノが寝るんだったらにゃーも寝るにゃ、それでいいのかにゃ!?」
「ネコが悪いんだもんね。まあでも、今日のところは寝てもいいんじゃないかなー。ほら、おいでネコ。一緒に寝よー」
2ヶ月も一緒に生活をしていると大概慣れてきたアケノは慣れた様子であしらった。
「……あ、明日もあるし……間に合うかにゃ?」
現実から目を逸らしているネコに、最後のダメ押し──
「ま、間に合うに決まっているでしょう。だってまだあと5日間もあるんですから(震え声)」
「だにゃ、もう寝るにゃ! アケノー!」
「え、本当に来た……よしよし、ネコはちっちゃくて可愛いねー……」
布団に寝っ転がっていたアケノにくっついてネコパンチが横になると、それを眺めていたナビはあっさりと釣られた。そっと筆箱のファスナーを閉じる。
「……今日のところは、これで勘弁してやります」
捨て台詞を残して、自分の布団へ──は向かわず、なぜかアケノの方へやってきてそのまま寝た。
「ナビ。布団狭い。戻って」
「嫌です。もうここで寝ます。すやあ……」
不貞腐れたナビがアケノの横で目を閉じた。ネコとナビに挟まれてアケノは狭そうだった。
「暑い……。ねー、やっぱエアコンつけて寝ようよー」
「だーめ。体調崩すし喉イカれるじゃん。大人しく扇風機でガマンしろ」
お母さんみたいなジョーダンは平常運転──いや。ジョーダンもノートをパタリと閉じた。それからなぜかこっちに来る。
「に"ゃ、狭いぃぃ……」
「寝るわ。もういい、諦めよ。なるようになるし」
本当にヤバい時はあっすーがなんとかしてくれるでしょと甘い考えのジョーダンもここでドロップアウト。そしてなぜかアケノの布団に来た。一枚に対して現状4人、とても入り切るわけはなく、非常に暑苦しくて狭い。
「出てけぇぇぇぇぇぇ……。暑いぃぃぃぃぃぃぃ……」
ナカヤマが無言で部屋の電気を落とした。
「うぐ……重たいですぅ……誰ですかぁ……?」
「っと、ナビだったか。悪いな、気にするなよ」
「重いですぅ…………」
「暑いにゃぁ……」
「うぅん……」
「あ"あ"あ"あ"あ"……狭いぃぃぃぃ……」
呻き声の合唱が扇風機の音と合わさった。
寝苦しいことこの上なかった。
だが、誰も離れようとはしなかった。
ー ー ー
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ──」
──アケノは、まだ走り続けていた。
「……あいつ、いつまでやってんだ?」
既にタオルで汗を拭いてクールダウンしているリーチザクラウンがそれを眺めて呟いた。
「さあね。でもあいつも、弱い自分が許せないんでしょ。好きにやらせとけば?」
「そうだな。にしてもあいつ、結構粘ったよな。すぐ折れると思ってたよ」
「根性だけは一丁前よね。あいつみたい」
「根性って、トーセンジョーダンのことか?」
「あいつとアケノの差なんて比べるまでもないけどね。そのうちあいつも怪我するんじゃないの? ほっとくとオーバーワークになりそうだし」
「じゃあ止めるか?」
「別にいいんじゃない? 無性に走り続けたい時は誰にでもあるよ」
そのままクールダウンを続けて、レッドディザイア達は軽いミーティングを終えて宿舎へ戻って行く──前に、最後にアケノの姿を探した。
「……おい、あいつ──」
言うが早いか、リーチザクラウンは荷物を放って駆け出していた。セイウンワンダーは目を白黒させた。
「え? 何? どしたの?」
「……! いた、あそこ──あ、あいつ。倒れてる……!」
レッドディザイアが反射的にスマホを取り出しつつ、同じくその元へ走っていった。
「はぁっ、はあっ、はあっ、はあっ、……ッ、う、い……いた」
アケノが荒い息を繰り返して砂浜に倒れた時、何が起きたのか自分では分からなかった。姿勢を崩して倒れたのだが、どうして姿勢が崩れたのか分からなかった。倒れる時、反射的に手を前に出してしまった。その時に手首もやったかもしれない。
「おいアケノ! お前何やってんだ、大丈夫か!?」
「……、あれ、なんで……?」
「なんでもクソもあるかッ! どこだ、どこをやった!? 痛みは!」
「痛み……」
アケノは朦朧とする視界の中で体を起こして、砂の上に倒れたまま振り返って、自分の下半身を見た──足首? 転んだ? どうして?
アケノの顔には練習による汗がびっしりと浮かんでいたし、呼吸を整えるための息を繰り返していたが、それにしては異常に息が荒い。受け答えもどこか妙だ。
「……ちょっと触るぞ!」
リーチザクラウンがある可能性に思い至り、右足首の軸に触れた瞬間──
「痛ッ!」
アケノは反射的にそう叫んでいた。
「ディザイア! このバカやりやがった! こいつのトレーナーに連絡、さっさと病院に運べってな! とりあえずアイシングスプレーと氷、あとなんかドリンク! 熱中症と多分捻挫だ!」
「はあああ!? もう、何してんの──てか」
テキパキとしたリーチザクラウンの言葉にぼやきながらレッドディザイアが電話を掛けた。
「まず場所を変えなきゃな。担架持ってくるから動くんじゃないぞ」
──それらの動き回る風景を、アケノはぼやっとしたまま見ていた。
ー ー ー
「また?」
「またにゃ」
「またですか」
「またか……」
完全に同じ顔をする4人に苦笑いして、明日原は話を続けた。
「そんなわけで、現在病院で処置と検査をしてもらっています。現在の情報では、おそらく3日間の入院になるかと」
「3日──って、もう夏合宿終わるじゃん!」
ジョーダンが言う通り、アケノが帰ってくる日は夏合宿最終日と言うことになる。ということはアケノはここで離脱だ。
「何やってんのマジで、夏祭り一緒に行くっつってたのにさー……間に合わねーじゃん」
夏合宿2回目だ。ブナネコアートから一文字欠けてブナネコトーになった4人は、心配というよりは呆れが勝っているようだった。
「はー、ほんとバカですねー。後で電話しましょう。お見舞いとかナシでいいですよね」
「にゃー、懲りないやつだにゃ。アホくさ。一周回ってターフ生えるにゃ」
散々な言われようの中で、ナカヤマだけが浮かない顔をしていた。
──もしかしたら、自分は何かを間違えたかもしれないと考えながら。
ー ー ー
「……え?」
蓮井はその言葉を聞いて、手に持っていたスマホを取り落とした。
ぱき、と──真っ白なリノリウムに衝突した液晶が割れて、床をカラカラと転がっていった。
ー ー ー
「……お。連絡来たわ。これから最後の全体ミーティングやるってさー」
「にゃー……。夏合宿も終わりかにゃー、長かったような、短かったような……」
およそ2ヶ月間。
長く短い夏、それが終わりを告げる──。
「何してたっけな──」
ジョーダンはそんな短かったが濃密な夏に思いを馳せて、思い出そうとして瞼を閉じた。
「まずトレーニングでしょ?」
「にゃー、それで特訓してー」
「トレーニングです!」
「……トレーニングだな」
「トレーニングしかしてねーじゃん! 大半がクソキツいトレーニングしかしてねーじゃん!」
それはそう。なぜならトレーニングするためにわざわざ海にまでやってきている訳である。
「まーでも、みんなのおかげで楽しかったですよ。特にジョーダン」
「ねー、マジでこの夏は勇気出したわー……」
明日原関連のことでしばらくは退屈しなかったどころか、それらの色恋沙汰を全力で楽しんでいたブエナビスタを初め、大体恋バナとトランプぐらいしかしていなかった。
「終わっちゃうんだにゃー……。アケノも、昨日の夏祭りに来れたらにゃあー……」
「おっと、そいつは言わない約束ですよ。だいたい、無理したアケノが悪いんですから。今日退院したって聞いたのに、なぜか全然帰っても来ないし。まだ車の中なんですかね」
「え、でも病院そんな遠くないんでしょ? 退院が長引いてるだけじゃね?」
「……帰って来てからでいいだろう。ミーティングに行こうぜ、私はさっさとメシが食いたい」
午前中に最後のメニューを軽く流してから、午後はほとんど部屋の片付けの時間に充てられていた。明日の朝に合宿所を発つことになっているので、大掃除などやることがたくさんあった。
5班はアケノがいなかったので、その分も代わりに行っていた。その不満というわけではないが、若干アケノを雑に扱っていた。それも仕方のないことだ。
ガヤガヤと食堂に集まってくる合宿の参加者たちとそのトレーナーたち。流石に数が多い──。
「……アケノのやつ、やっぱり帰って来てないみたいだな」
「え? でもほらあそこ。蓮井さんはいるじゃん。多分病院に迎えにいったの蓮井さんでしょ? それが帰って来てんだから、アケノも合宿所に帰って来てなきゃおかしくね?」
「保健室かにゃ?」
「かもな」
「連絡入れときますか?」
「……や、別にいいっしょ。そのうち帰ってはくるんだしさ」
ミーティング進行役の明日原が事務的な連絡を全員に伝えていく。それから合宿全体の振り返りだったりと、ごく普通のミーティングが進んでいく。
「はい。では──礼」
お互いに切磋琢磨しあった仲間、お世話になった宿舎のボロい設備、トレーナーに向けて──
『ありがとうございましたッ!』
総勢53名に、そのトレーナーを加えた大勢による大合唱が食堂に響き渡った。
「それではこれでミーティング、及び夏合宿を終了します。お疲れ様でした」
それを合図にがやがやと解散していく夏合宿の面々を見て、ジョーダン達も夕食の時間まで部屋で寛ごうと、大部屋に戻ろうとすると声がかかった。
「なあ君たち、アケノはいないのかな」
「……蓮井? どうしたんだにゃ?」
当たり前のように呼び捨てにされる蓮井は微妙な顔をしたが、今はそんなことに構っている必要はない。
「アケノの姿が見当たらないんだ。ミーティングにも来てない……部屋に戻ったんじゃなかったのか?」
──ナカヤマは、自分の中の嫌な予感が大きくなっていくのが分かった。
「? 蓮井は知らないのかにゃ?」
「ああ。病院から帰ってきた後、部屋までは自分で戻るから──って」
「にゃー。でもアケノ、戻って来てないよ」
さっきから、ネコパンチだけが蓮井の言葉に答えているのには訳があった。
ジョーダン、ナビ、ナカヤマ──それぞれが、妙な焦り顔を浮かべ始めていた。ネコはまだ中学生で、そこまでの想像力が働いていないし、それほど深く考えない。
「にゃー。アケノは部屋に戻るって言ったけど、アケノは戻って来てないにゃ。じゃあアケノはどこ行っちゃったんだにゃ?」
ネコは無邪気な疑問を浮かべた。コテンと首を傾げるその姿を、蓮井は痛々しそうに顔を歪めて──。
「ナビ」
ジョーダンがすっと目を細めて呟いた。
「分かってます。ハスイ。アケノに何か変わった点とか、気がついたことはありませんか」
蓮井は、何も答えなかった。それを見てナカヤマがぎり、と歯に力を込めて睨む。
「おい……アケノは、怪我のことをただの捻挫だと言っていた。今度は全治2週間だーって呑気に笑っていやがったが……それは、本当か?」
そう。
せいぜいその程度の怪我だと、本人との電話で聞いていたからこそ、ジョーダンたちは呑気に構えていた。だがそれがもしも本当ではなかったとするなら。
蓮井は悔しそうに顔を伏せた。
それを見て、最初にナカヤマが歩き出した。
「にゃ? ニャカヤマ?」
「ネコ達は部屋で待ってろ。すぐにあのバカを連れてくる」
いつになく迫力のある言葉に、ネコはますます首を傾げた。
「あたしも行くに決まってんでしょ。人数多い方が早いに決まってる。ナビ」
「がってん。ネコ、行きましょう」
「にゃ? よく分からんけど……にゃーも行く!」
蓮井のことなど気にもかけず歩き出していく4人に、蓮井は黙って頭を下げた。
「……アケノを、あの子を……どうか……よろしく頼む……」
ー ー ー
『西の方はいない、今雑木林から見てっけどいなさそう! てか足怪我してんのならどうせ遠くにはいけねーよ、宿舎ん周りじゃねえの!?』
『海岸にはいない、岩ん中隠れてりゃどうか知らないが、いつもの練習エリアはハズレだ!』
「倉庫を当たります!」
『鍵を壊すなよ! 騒ぎがデカくなっても面倒だ』
「知りませんねぇそんなもん! おりゃぁーっ!」
扉の鍵部分をへし折ったブエナビスタが扉を蹴り開けて叫んだ。
「アケノー! どこに居るんですか、出てこないと殺しますよー! ……ここも違う、あーもー! 後どこですか探してない場所は! こういうのって大抵思い出の場所とかそういうのでしょう、輝け私たちの絆ぁー!」
『……あ、それじゃね? ナカヤマ? あの場所見た? あの例の写真の撮影スポット』
『……確かめてない。崖を回っていかなきゃいけないから、怪我人のアケノには無理だって決めつけてた。今から向かう』
『あたしも行く』
「私も行きますよー! ネコは──あれ、ネコー!? 通話切れちゃってますよー!」
さてはスマホ片手に走り回っていた時に通話終了ボタンを間違って押してしまったのだろう、ネコパンチの応答はない。
ナカヤマが静かに言った。
『……ほっとけ。どうせ、ネコには見せない方がいい』
何か言い返そうとして、結局ナビは何も言わなかった。何も言わない代わりに、ネコとの個人チャットに一言だけメッセージを入れた。
次で夏合宿編終わりです