──『方丈記』
いつもそうだ。ずっとそうだった。波の音なんて聞き慣れ過ぎてしまって、もう聞こえていたって殊更意識することなんてない。
寝ても覚めても海の音がする。砂浜に反射する太陽光は眩しいだけで、無駄に日焼けして痛くなるだけだった。潮の匂いにも慣れてしまった。
それでも、毎日砂の上で走っていた。
「……あーいたいた」
「ようアケノ。こんなとこで何をしてる? 夕日なんざ、とっくに見慣れてるだろうに」
最初の頃はよく感動して眺めていた海に沈む太陽も、毎日見ていると慣れるものだ。だがそれでもアケノは毎日それを見ていた。今も見ている。
砂浜に座り込んで、誰も来ないようなところでずっと──。
アケノの横には松葉杖が置かれていた。右足にはサポーター、はみ出ているテーピング。
「見つけましたよ!」
少し遅れてブエナビスタも到着。
アケノオールライトは、夕日から視線をそっちに移動させて、へらっと笑った。
アケノはいつでも笑っていた。辛い時も嬉しい時も、アケノが誰かと話すときは大抵笑っていた。今でもそうだった。
「……ほんと、1人にもしてくれないんだから」
今でも、穏やかに微笑みながら──
砂を踏む音がする。ナビが最初の一歩を踏み出してアケノへ歩いて行く。
真っ赤に染まる太平洋を眺めたままのアケノをいつになく真剣な顔でナビは見下ろした。
「こんなとこで黄昏てないでさっさと帰りますよ。ご飯が無くなっちゃいます」
ナビがそう言っても、アケノはずっと海を見ている。それから、ぽつりと言う。
「私ね」
少しだけ躊躇するように黙った後、話し出す。
「夢があったんだ。キラキラしてるステージの上で、数え切れないほどたくさんのファンの前で、ウイニングライブの真ん中に立って、私は手を振って」
想像──何度も、何度も──思い描いて、段々と鮮明になっていく景色は、所詮想像の中で、現実ではない。
「輝いてる未来があるって──」
可能性は無限大だ。そう信じていた。
「……信じてたんだ」
不吉な言葉に嫌なものを感じながら、ナビは答えた。
「大丈夫です。まずは怪我を治しましょう。ご飯をいっぱい食べて寝てれば治りますよ。アケノなら怪我なんてへっちゃらです。そうしたら」
アケノは、ふとナビを見上げた。
「すぐに走れるようになります。そうしたら、また一緒に頑張りましょう。勝てると信じて、その未来に向けて走り続けるんです。アケノ、座ってないでさっさと立ってください。帰るんですよ、あの部屋に」
真っ直ぐに自分を見つめてくる瞳が眩しくて──
アケノオールライトは笑った。
「あはは、ナビはいつも真っ直ぐだね。でもごめんね」
ぐるぐると巻かれた包帯に視線を落としてアケノは──笑ったまま、明るく言った。
「屈腱炎だってさ」
それを聞いて、息を呑んだ。
「一応、精密検査してもらってさ。そしたら足の一部に異常が見つかって。痛みはまだ出てないけど、仮にもう数ヶ月も走ってたらすぐだっただろうって──」
屈腱炎は、強いウマ娘にほど襲い掛かる。
BNWの全員、ナリタブライアンやエアジハード、アグネスタキオン──速く強いウマ娘が自らのスピードに耐え切れず、屈腱という筋繊維が断裂することで発生する炎症。
レースに出場するウマ娘にとっての死神であり、治癒したとしても再発の可能性が非常に高いことから、不治の病と言われる。これまでに無数の名バを引退に追い込んできた。上に挙げたウマ娘たちは、皆この病にやられて引退している。
──逆説的には。
屈腱炎は弱いウマ娘には発症しない。屈腱が耐え切れないほどの出力を持ったウマ娘でないと、理論上この病気は発症しない。つまりは、アケノにはこの死神に選ばれるだけの力があった。
この事実がアケノにとっての慰めになるかどうかは、また別の話ではあるが。
「……大丈夫、ですよ。きっと……カネヒキリだって、屈腱炎から復活を果たしたんです。怪我に負けず復活を果たしたウマ娘はたくさんいますよ! グラスワンダーとか、トウカイテイオーとか──」
ナビは努めて明るく励ますが、こっちを見ようともしないアケノの表情に気がついて黙った。これ以上何か言っても──余計に傷付けるだけだ。
アケノオールライトの心は、もう折れていた。
「……努力って、なんなのかなあ。才能ってなんなのかな。夢って、ただの空想と何が違うのかなあ。どうすれば叶うのかな、何をしなきゃいけなかったのかな、どうすればよかったのかな、ねえ──」
そこで初めて、アケノは松葉杖を掴んで、ふらふらと立ち上がった。その視線の先は──ブエナビスタではなかった。
「教えてよ、ジョーダン。私とジョーダンで、一体何が違ったの?」
「……アケノ?」
「答えてよ、答えてってば」
口元は笑っているようで不安定に震えている。その瞳はどこかおかしかった。
夢はうたかたに消え、残ったのは壊れた足だけ。酷い冗談だ。叫び出しそうだ。何もかも終わった。アケノにはもう何も残ってなどいない。可能性を望む心はへし折れて、二度と元には戻らない。
だからこれは、精一杯の負け惜しみだ。
「いっつも自慢してたよね。あたしのトレーナーはすごいんだって、楽しそうに話してたよね。いいよね、三冠トレーナーに選んでもらえて。楽しそうに恋してさ、それでGⅠなんて勝てれば最高だよね」
初めて見るその暗い瞳が夕日の色に染まっていた。
「アケノ……?」
不安定な足取りで、慣れない松葉杖を使って──ゆっくりと、しかしじわりとジョーダンを目指して近づいていく。
「あんたなんて……運が良かっただけじゃん。変われたの、あの人がいたからじゃん。自分からなんかしたことなんてないじゃん。あんたと……あんたと私で、何が違うの? なんか違った? あんただって特別な才能なんてないでしょ──ないって言ってよッ!!」
心の奥底で燻っていたその感情は嫉妬だ。怒りだ。不条理な現実に対する恨みで辛みで──アケノは、心の奥底からジョーダンが羨ましくて、憎くて。
「ちがっ、あたしは……」
「違わない! 違わないでしょ!? だって選抜レースじゃ私の方が速かったっ、あの時──あの時勝ったのは私の方だ! でもなんで……なんで、今じゃそれがひっくり返ってるの。なんであんたの方だけ輝いてるの!?」
明日原に出会ったのは、今思い返しても偶然だ。ただの運だ──知っている。ジョーダン自身がそれを痛いほど分かっている。そういう妬みがあることは分かっていた。だが結果を出し続けることで、自分を納得させてきた。
ただ、ジョーダンは何も言い返すことが出来なかった。
「言っとくけど、私だって。私だって、明日原トレーナーの担当になってたらあんたぐらいの成績は残せてたんだから……! 運が良かっただけでしょ、たまたま選ばれたんだ、あんたはそれを手に入れるために何かした!? あんたが遊んでる時だって私は練習してたのに、必死に頑張ってたのに! なんであんただったの!?」
その言葉を聞いて。
顔を伏せていたジョーダンが、ついにアケノを睨み返した。
「……そうだよ。運だよ、あたしは運が良かった。でも──それで何!? 何が言いたいの!? 変わってくれとでも言いたいわけ!? あんたそれで自分のトレーナーに恥ずかしくないってか!? 勝てないのはトレーナーのせいだってか!? 蓮井さんじゃなけりゃ結果は変わってたってかッ!?」
「ふ……ふざけんな、黙れ。黙れ、黙れ黙れ黙れッ! 蓮井さんのことをバカにしないでよッ、何も知らないあんたが軽々しく語らないでよ!」
アケノの顔色が明確に変わった。アケノにとって何よりも大切な人を──侮辱された。その怒りのままに叫んだ。だがジョーダンの勢いの方が強かった。
「自分のトレーナーのこと1番バカにしてんのはあんたでしょ!? 何棚上げしてんの!? どうして信頼できないの!? あたしだってちゃんとトレーニング出来なくて焦ってんだよ! 余裕そうに見えてんのかなんて知らねーけど、ずーっと焦ってんだよ! あんたにも家庭の事情があったんだろうけどさ、でもそんなの仕方ねーだろ!? あたしらみんな一人一人に事情があって、出来ることもできねーこともあって! そん中で頑張るしかないじゃん、それで勝てなきゃ仕方ねーじゃん!」
ジョーダンの爪は生まれつきだ。生まれつきハンデを背負いながら、それでも頑張ってきて──
「ぁぁぁぁぁぁぁああああああ──ッ! もう黙ってよ!」
だから、アケノはただ叫ぶ以外に道はない。自分が至れなかったその可能性を否定しなければならない。ジョーダンを否定したいのだ、そうでなければ今までの道のりは何だったのだ。
「勝ってるからそんなこと言えるんだよ! 負けてみてよ、ボロボロになって負けてみてよッ!! あんたも自分が勝てないせいで担当トレーナーが泣いてるとこ見てみろよ! それでも同じこと言えんのかよッ! 仕方ないって割り切ってみてよぉッ!」
涙の滲んだ叫びと苦しみ。誰にも吐き出すことの出来なかった後悔。
「……そんなこと言ってもさ、仕方なくね。だって負けるヤツは絶対居るんだよ。走るってことは勝つか負けるかなんだよ」
いつかの明日原の授業を思い出した。最初に会った時の問題だ、あれの意味がようやくわかった気がする。レースの世界は厳しい──だが、それがこんな意味を持っていることなどジョーダンは知らなかった。
アケノのようなウマ娘がいると知っていても、どこか他人事のような気持ちでいたのだ。
「分かってるよ、あたしも分かってる……あんたが言いたいこと、ちゃんと分かってる。でも泣くしかないでしょ、頑張るしかないでしょ。それでも勝てなきゃそれまでじゃん、だって運だってあるわけだし、やり方が間違ってんのかもしれない。それでも負けんのが嫌なら」
そう言いながら、ジョーダンはどうしてか嫌な気持ちでいっぱいだった。その気持ちを吐き出すように叫ぶしかなかった。
「──嫌なんだったら走んの辞めろよッ! トレセン辞めて、こんなトレーニング漬けの生活からバイバイして、楽しいフツーの高校生活やればいいでしょ!?」
それは、アケノにとって絶対に許せない言葉だ。踏み越えてはいけない感情のラインを容易に踏み越した。視界が真っ白になるくらいの怒りが、アケノに最後の一線を越えさせた。
「ッ、ふざけないでよ──」
アケノは松葉杖から手を離して、無事な方の左足で一歩踏み込んだ。ジョーダンの肩を掴んで腕を振りかぶって、殴り掛かろうと──腕が止まった。ナカヤマがその手を掴んだ。
「アケノ、やめろ……暴力はダメだ」
嫌な気配を察知したナカヤマがアケノを抑えようとすると、その怪我の中でどこにそんな力があるのか分からないくらいの力で暴れて、ジョーダンに溢れ出る怒りと悔しさをぶつけようとしている。
「離してよっ、離せぇッ! ふざけないでよ、辞めればいいっつった!? フツーの生活に戻れって!? そんなの──それが出来たらもうとっくにやってんだよ! 辞めれるなら辞めたいよ! 私だってさぁ、私だって──」
それが出来ればとっくにやっていた。だがアケノが地元に戻らず、東京で暮らすためにはトレセンに入るしかなかった。
心の奥底ではもう走りたくないと願っていても、アケノは走るしかなかったのだ。
「辞めたいよッ! こんな辛い生活やってられないよ! 朝早いし、全然遊べねーし、汗臭いし泥臭いしトレーニングは辛いし食事制限は辛いし! 同世代のみんなが楽しい生活してんのに、私たちは全然そんなことないじゃん! 勝てるならいいよ、華やかなスポットに当たれば報われるでしょ、でもさあ──ムカつくんだよ。ジョーダンもナビもナカヤマも、勝って当たり前みたいな顔してさぁ──見下さないでよ! あんたなんで
ぶちまけた本音──本当はずっと見下していた。同じだと思っていた。所詮この程度だと思っていた。けど違った。想像のほうが嘘をついた。
勝手に期待して、勝手に裏切られた。それを酷と呼ぶこともできる。
「──そうだよ悪いかっ! でもあたしは必死に頑張った! 頑張って勝った! でもその結果ダービーも菊花賞も出れなくなったんですけど!?」
ジョーダンはついに、アケノを掴み上げた──手を出した。踏み越えてはならない一線を踏んだ。まだ、踏み越えてはいない。だが殴る代わりに、ガッと顔を近づけて本心をぶつける。
「あたしのこと偉そうに語ってんじゃねえよ……何にも知らないだろ、勝てる勝てない以前に戦えもしない苦しさも知らないでしょ。苦しんでれば正義なの? 弱い方が正しいの!? あんた苦しいのは自分だけだと思ってんでしょ!? 勝てないのは私一人ですーってか!? 同情して欲しいんならしてやるよ、憐れんでやるよ慰めてやるよ、それで満足!?」
「同情なんて……この、てか退いてよ、いつまで掴んでんの……ッ!?」
どん、とアケノはジョーダンを突き飛ばした。急な衝撃にジョーダンは背中から砂浜に落ちた。
「っ、うわ──っつ、いった……アケノ、何すんの!?」
「もう全部ぐちゃぐちゃになればいい──あんたも私みたいになっちゃえばいいよぉッ!」
──もう止まれない。
右手に掴んだ松葉杖を振り上げて、ジョーダンの頭に向かって──
「──アケノっ! やめてください、落ち着いてください! 暴力はダメですっ!」
横から当たってきたブエナビスタがそれを止めた。自分ごと砂浜に倒れ込んでアケノを抑え込んだ──アケノの脚は十分に動かせもしない。抵抗はあったが、それでもあっさりと抑え込むことが可能だった。
トレセン、ひいてはURAは暴力事件に厳しい。そんなことをすれば、二度とレースの世界に戻ることは出来ない。それにそのレッテルは今後一生ついて回る──アケノをそんな道に放り込むわけにはいかなかった。
「離してよナビ、もう好きにさせてよ! もう要らない、こんなの私の望んでいたことじゃない、もういい、もういい、もう要らない──」
アケノは涙の混ざった叫びと共に力の入っていない抵抗を繰り返した。もうなんでもよかった。何がどうなろうがどうでもよかった。涙に歪む視界に、まだナビの顔があったことが苦しかった。
「っ、このバカ娘! 投げ出すのなんて私が許しませんよ! 約束したじゃないですか、いつか私と戦ってくれるって! 嘘ついたんですか!?」
「っ! ──…………それ、本気で言ってる?」
「真面目な話をしてるんですよ! 私は本気でした、本当に信じていました! 今だって信じていますよ、アケノになら出来るって思っているんですよッ! 今この時だって、もう一度立ち上がってくれるってッ!!」
──その時。
アケノオールライトという少女の心が、完全に壊れる音がした。
「……あは」
空虚な笑い声が漏れた。
「あはは、あはははははは」
虚しくて、狂った笑顔──アケノの心は、もう限界を越していた。からくり人形みたいに狂った哄笑を上げて笑う顔が痛々しい。
「あはははははははははははッ! ナビは傑作だね。本気だったんだ。あんなの冗談だよ、冗談に決まってんじゃん!?」
ブエナビスタの表情が凍り付いた──目を見開いて、どこか恐れているような瞳で、アケノオールライトを見つめている。
「フツーに考えてよ、私なんかがナビに敵うわけないよ。天下の二冠に私なんかが同じ土俵に立てるって? そんなのできる訳ないじゃん、普通に考えてよ。あんなのノリだよ、本気で言うわけなくない?」
軽々しい口調で、背負っていた荷物を一つ一つ投げ捨てたが故の身軽さで、これまでの全ての思いをアケノは踏みつけた。
「や、やめてください。アケノ、冗談だって言ってください、嘘だって言って、今なら許してあげますから、信じてますから」
「……信じてる?」
懇願するようなブエナビスタの言葉に、もう一度アケノは表情を大きく歪めた。
「何が信じてる、だ。知らないでしょ、知らないよね、知ってるはずがないもんね。信じてるなんて……簡単に言わないでよ」
勇気や希望だとか、もううんざりだ。
お願いだから、これ以上私を踏み荒らさないで。
「知らないでしょ、知らないもんね? 私が今まで何回自分を裏切ってきたかなんて知らないでしょ、何回夢を裏切ってきたかなんて知らないでしょ!? 知らないくせに、知らないくせにッ!!」
何も知らない。
一緒に笑い合っていたのに、お互いのことなど何も知らない。
「信じてるなんて簡単に言わないでよッ! 全部持ってるナビが軽々しく言わないでよぉ!! 友達のフリなんてしないでよ、立ってる場所から全然違うクセにっ!」
欺瞞だ。
「やだ、やめてください、何を言っているんですか、アケノ……、やめて、やめてください……」
絆や友情は何も救ってくれなかった。
「仲良くならなきゃよかった。約束なんてしなきゃよかった。こんな目に遭うなんて知ってれば、私はナビたちと仲良くなんてしなかった」
後悔。
ジョーダンはその時、ふと気が付いた。砂浜に押し倒されて、額に片手を置いて、まるで遥か彼方の空を見上げるようにブエナビスタを見つめるアケノを見て気が付いた。
(こいつは、あたしだ)
そう理解した。
「ホントのこと言ってみてよ。同情してるフリして、みんなも腹の底じゃ見下してるんでしょ。バカにしてたんでしょ? 言ってよ。身の程知らずの私を陰で笑ってたって言ってよ。じゃなきゃ余計に惨めじゃんっ!」
(明日原に出会えなかった、あたしなんだ)
アケノ自身が言ったことだ。
(あたしも、こんな風になってたかもしれない。あたしとアケノは何にも違わない、同じなんだ。運が良かったか、悪かったかって……それだけしか、違わないんだ)
運命の巡り合わせ一つで幸せになれるし、一つボタンを掛け違えただけで心は砕ける。
「もう嫌だよ。見てるだけで辛いよ。私の努力は何だったの。夢見せるだけ見せておいて、近づいたら奪うなんて酷いよ。出来るって言ったのはナビのくせに、結局口先だけじゃない」
ナカヤマが、力無くアケノを抑えていたナビを抱えて、どさりと隣に退かして言う。
「アケノ。お前もう黙れ。それ以上何か言ったら私はお前を許さねェ」
「最初に嘘吐いたのはどっちなの。私? それともナビ? 私じゃないよ、私は嘘つく気なんてなかった。嘘ついたのはナビの方だ」
ナカヤマフェスタはその瞳を真っ向から受け止めて、まるで悔やむようにアケノの動かない右足に視線をやった。
「答えてよ、ナカヤマ。誰が1番悪いの? 教えてよ。私は……私はどうすれば良かったの?」
もう意味のなくなった答え合わせを求めた。
ナカヤマは、本当に珍しく心からの後悔をした後、覚悟と共に口を開いた。
「言ったよな。私はよ、身の丈に合わない夢は見るなって……言ったはずだ」
アケノはナカヤマの忠告を無視した。その結果として──
友人の忠告と自らの夢を天秤にかけて、夢を取った結果がこれだった。
だから言ったんだ、とナカヤマは口の中だけで呟いた。
「お前はな、夢に期待しすぎたんだ。お前を裏切ったのは誰でもねぇ。アケノ……お前自身の夢が、お前自身を裏切ったんだ」
それは酷く寂しく、そして報われない結末だった。
「……酷いなぁ。そんなのさ、ちょっとあんまりじゃない?」
アケノは泣き笑いのように言った──痛々しいほど明るくて、消えそうな声だった。
「そうだ。だが、誰にとってもそうだ。お前は自分どころか誰もかもを傷つけた。半端な夢を見たせいで、半端な行動を起こしたせいだ。私はこれでも、お前のことが嫌いじゃなかった。……クソ、なんだって……こんな──」
行き場のない後悔をぶつけるように、ナカヤマは一度だけ砂浜を殴った。それがナカヤマの感じたすべてで、もうどうしようもない話だ。
「……にゃー! いたいた、やーっと見つけたにゃ!」
──トコトコ、と。
無邪気で元気な声が近づいてきた。
「……ネコ」
誰かが言った。誰だったのだろうか。
「にゃー、どうしたにゃ。辛気臭い顔しやがってにゃー。こんなとこで油売ってにゃいでさっさと帰るにゃ、もうご飯の時間だよ! 晩御飯、お刺身いっぱいなんだって! 早く帰らないと全部食べられちゃうにゃ! 急ぐにゃー!」
痛いほど無邪気で、普段通りのネコパンチが何よりも──。
ナカヤマはネコから視線を戻すと、もう一度アケノを見下ろした。
「……なぁ、アケノ」
アケノはナカヤマを見上げて、その言葉の続きを待った。
「この連中で過ごした時間、全部無駄だったか?」
「……ううん。楽しかったよ。それだけは……嘘じゃない」
「そうかい」
それっきり、ナカヤマは背を向けて歩き出した。ネコだけがそんなナカヤマに首を傾げている。
ジョーダンがアケノの横にしゃがみ込んだ。
「さっきさ。私はどうすれば良かったのって言ったじゃん」
その声はそれほど優しい訳ではなかったが、それほど冷たい訳でもなかった。
「あんたね。"助けて"って言えば良かった」
──たった一言だけ。
そう言い残してジョーダンは立ち上がり、去っていくナカヤマに続いて歩いていった。
「……なぁんだ。そんな簡単なことで良かったんなら……もっと早く言ってよ……。こんな……遅すぎるよぉ……」
アケノの涙が頬を伝って、砂浜に染み込んで──それは、時間が経てば寄せては返す波に飲み込まれて、やがて見分けがつかなくなった。
夕陽はとっくに沈んでいた。
ー ー ー
「もう行くね。色々面倒かけてごめんね。相部屋の荷物は、少ししたら取りに行く」
松葉杖を脇に抱えたアケノが少しだけ吹っ切れたような様子で話していた。
「……これからどうすんの?」
「秋田に帰るよ。どっちにしろ、お母さんと話をしなきゃいけないから」
時刻は午前10時。3台ほどのバスに荷物を積んでいくウマ娘たちを背景にして、アケノとジョーダンが向かい合っていた。
「……元気でね、ジョーダン」
怪我があるアケノはバスには乗らず、蓮井の運転する自動車に乗っていくことになっていた。そしてその行き先はトレセンではない。アケノの意向だ。
ブロロロロロ──発進していく車を、ジョーダンは一人で見送った。
「良かったの?」
陰で隠れていたブエナビスタに向かって、ジョーダンは呼びかけた。あっさりと出てきた。
「もう行っちゃったけど、アケノ」
「……」
ブエナビスタは黙っていた。車が走っていった方を見ながら、無表情で口を閉じていた。
何も言わないナビの代わりにジョーダンは半分ほど独り言のように喋った。
「前にさ、夏課題やってたじゃん。ゆく川の流れは絶えずして──ってやつ、なんだっけ。ほーじょーき? 知らねーけど……あれの意味、分かんなかったわけよ。しかももとの水にあらずとかってさ。でも──」
いつぞやのナカヤマとの賭けは、ジョーダンの負けで終わった。
「──変わってくんだね。全部……あたしたちは、ちょっとずつ変わっていって、泡みたいに弾けたりもして」
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
「こういうことなんだね。しかももとの水にあらず──時間の流れには逆らえないし、一度変わってしまったものは元に戻ることもない。大昔の坊さんにしては、なかなかいーこと言うよなってカンジ?」
ジョーダンは少しだけ大人になったような顔で話し続けた。まだ残っている入道雲を見上げながら──
「考えてたんよね。あいつに掛けるべき言葉があったんじゃないかって、正解があったんじゃないかなって。じゃあそれがなんだったんって言われたら、わっかんねーけどさ」
そこで初めてナビが口を開いた。
「そんなものなどありません。アケノはただ軟弱者でした。それだけです」
「……そんな言い方無くね?」
「いいえ、ただの弱虫でしたよ。私と戦う約束、守ってくれなかった。あんな弱虫、レースの世界にはふさわしくありません」
その厳しい言葉は、ブエナビスタなりの強がりだったのかもしれないし、あるいはもう本心へと変わったのかもしれない。
「元々弱いくせに、レースを走る勇気も無くなったなら、アケノはそこらへんにいるただのウマ娘です。だったらせいぜい、テレビの向こうから指でも咥えて見てやがれ──さよならです、アケノオールライト」
ブエナビスタは言うだけ言うと、踵を返して荷物の積み込みへと戻っていった。
ジョーダンはそんな姿を見て呆れたように独りごちた。
「ボロ泣きしながら言うセリフかよ、どいつもこいつも素直じゃねーの。あーあ、どうしてさよならもちゃんと言えねーのかな、あたしらは」
ジョーダンも荷物の積み込みに戻ることにした。あまりサボっていると明日原に怒られる。
──最後に、一度だけ振り返った。
陽炎が立ち上るアスファルト、1ヶ月前よりも勢いのないセミの鳴き声、茹だるような暑さ。
踏みにじってきた夏の残骸が恨めしそうにジョーダンを見ているような気がした。それをじーっと睨み返していると、ジョーダンは急にバカバカしくなってやめた。
「……ねえあっすー! クソあちーんだけど! アイス買ってー!」
まずは仕事を片付けてください、と呆れた顔で言う明日原の元へと、ジョーダンは走っていった。
────epilogue
9月20日、GⅡセントライト記念。
ナカヤマフェスタは珍しく、レース中に一度も笑わなかった。最後の最後まで本気の表情で、今年最初の重賞を制した。
10月18日、秋華賞。
ブエナビスタの三冠を賭けて臨んだ真っ向勝負。1着はレッドディザイア。審議の末、ブエナビスタは2着から3着への降着が認められた。
「……負けた? 私、負けたんですか?」
先日の札幌記念から続く2連敗。凱旋門賞への出走計画を棒に振ってまで挑んだ三冠は、ブエナビスタの手には渡らなかった。
「なあんだ──」
「結局、私も弱虫でしたよ。これでお揃いですね」
「……アケノも、こんな気持ちだったんですか?」
10月25日、菊花賞。8番人気スリーロールス1着。このクラシックの結末を、誰が予想出来ただろうか。大荒れの菊花賞だった。
11月1日、天皇賞・秋。完全に覚醒したハッピーミークを止められる者などいなかった。2馬身差で1着、二つ目のGⅠを手にする。
11月29日、ジャパンカップ──こちらも、ハッピーミークの独壇場。去年のカンパニーよろしく破竹の勢いで秋シニア2冠を達成。この時ハッピーミークがインタビューでやったVサインは一時期世間で流行った。ぶい!
そして、時系列は少し前後する。
11月8日、GⅡアルゼンチン共和国杯。トーセンジョーダンの復帰戦──
これを3バ身でぶっちぎって、トーセンジョーダンは皐月賞ウマ娘としての威厳を見せつけた。
「勝ったよ、アケノ。これでいいんだよね?」
少しだけ寂しそうな表情をして、トーセンジョーダンは勝利者インタビューの最後にそう発言をした。この前後関係の見えない発言はさまざまな考察を生んだが、トーセンジョーダンは"なんでもない"の一点張りだった。
秋が過ぎゆく。
トーセンジョーダンにとって激動の一年、その結末──舞台は、有馬記念へ。
それはブエナビスタとトーセンジョーダンの最初の対決。
アケノオールライトという少女がかつて望んだ、夢の舞台へ。
テスト期間なのでしばらく投稿はお休みします……
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