──胃が痛い。
「ふー……あー、だりー……」
「……」
胃が痛い。
「……ジョーダン」
「なに?」
「……少し離れてください。近いです」
「やだ。知らね」
明日原は今日も胃が痛かった。
トレーナー室──明日原がソファーに座ってキーボードを叩いている。その太ももを枕代わりにしてジョーダンは寝っ転がっていた。トレーニングの時間まであと20分程度──まさか、この状態を続ける気だろうか。
「…………」
明日原は今日も胃が痛かった。それはそれとして距離が近くてドキドキするし、状況に流されそうになる自分が恐ろしかった。
──11月初頭。
広葉樹が赤く染まり、夏の気配はもはや遥か後方。少し先に冬の気配を感じる季節だった。
先日の復帰戦、アルゼンチン共和国杯を終えてから、ジョーダンの様子が色々と変わった。いや、厳密には夏合宿を終えた頃にはジョーダンは変わっていた。
落ち着いたというか、大人びたというか──見た目が変わったという訳ではない。ただ雰囲気が変わった。なんか──
「いーじゃん。あんた忙しいんだし、甘えれる時は甘えさせてよ。減るもんじゃないし──ずっと今が続くわけじゃないんだしさ」
なんか。
(──僕の愛バがこんなに大人びているワケがない)
一昔前のラノベみたいな感じだった。
(アケノオールライト、か。詳しいことは知らないが──)
数々の栄光の横に寄り添ってきた明日原は、その道すがらどれほどの夢をへし折ってきたか知っている──知らないわけがない。当然自覚はある。だが別段これということはない、誰かの夢が折れたところでやるべきことは変わらない。
(……どうしよ。どうすればいいと思う?)
知るか。
・秋の注目、トップホース トップトレーナー 明日原景悟:1番人気の"奇襲"(月間トゥインクル11月号より一部抜粋)
明日原景悟(26)──新人にして、過去2人しか達成していないティアラ三冠を達成したトレーナー。最小年での三冠達成及びGⅠ勝利数をレコード。ジョーダンでも皐月賞を獲り、今最も勢いのあるトレーナーの一人である。
'05期卒トレーナーは二強体制──桐生院葵と明日原景悟によるツートップが現在のレースシーンに君臨している。ハッピーミークが今年だけでGⅠ三勝の快挙を成し遂げ、秋シニア三冠に王手をかけた。秋シニア三冠は'04年のゼンノロブロイ以来達成されておらず、歴史的な偉業まで後一歩だ。
チームを作らないことで有名な明日原トレーナー。アルゼンチン共和国杯では見事その期待に応えた。力強い走りで圧倒した秋の復帰戦は、果たして才能か努力か。
「才能か努力か、というのは永遠のテーマです。普通のアスリートと違って、ガムシャラにやっても足を壊すだけですから。まあ正直、ジョーダンが菊花賞を走り切れるかと言われればたぶん無理でしょう。そこは才能の部分だと思います」
明日原トレーナーには妙な"無関心さ"というものがあるように写る。トレーナー勝利数を求めてチームを設立することもせず、個人に対して全てを注ぐ。トップトレーナーの一人ではあるものの、紛れもなく異色のトレーナーだ。
次の目標レースには有馬記念を掲げている。ライバルは数多い。注目のウマ娘に関しては──
「毎日頭を悩ませていますよ。ハッピーミークにどうやって勝とうか、どうすればあの怪物に勝てるのか」
破竹の勢いで秋の中距離GⅠを連勝してきているハッピーミーク。桐生院とのライバル対決、新人の頃から繰り広げられてきたその長年の戦いにケリがつく。
「課題は山積みです。桐生院トレーナーのところはレースが上手ですからね。位置取りと仕掛けが惚れ惚れするほど上手いです。ウマ娘の100%を引き出すという力は、当たり前のように聞こえて、実は相当恐ろしい」
(後略)
ー ー ー
──蒸気が顔を蒸し上げていた。
灼熱の中で、滴っても滴っても汗が途切れない。肺から喉へ行く吐息にすら熱がこもって、内側から焼かれるようだ。外側と合わせて、ちょうどミディアムレアと言った塩梅だろうか。
「……どうなんだよ」
加賀が熱気に耐えかねたように言った。
「……何がです」
明日原は答えた。こっちも修行僧みたいな表情をして熱に耐えている。
「決まってんだろうがよ……。お前さん、沼に向かってるぜ。もっぱらの噂だ」
「……余計なお世話です──」
朦朧とするほどの熱さが室内に充満している。頭から垂れ下がったタオルが項垂れた明日原の表情を隠した。
「と、言いたいところですが」
「が?」
「……はぁ、どうしよ」
小さなサウナだった。遅い時間帯の銭湯は混み合っておらず、今は加賀と明日原の貸し切り状態で、薄いオレンジの光がサウナとおっさんたちを照らしている。床や壁の木材からも熱気が放射されているようで、とめどなく汗が浮かんでは落ちていく。
仕事上がりの2人は最近ハマったサウナをキメるべく、小さな銭湯を訪れていた。
「はっ、より取り見取りで羨ましいぜ」
「録音してウオッカに言いますよ、今の」
「やめろ、殺されるぞ。俺が」
室内の温度計は90℃を指している。そのせいなのかどうかは分からないが、加賀も明日原もぐったりと顔を伏せている。
「籍は」
「
「……出さないんですか?」
「まだいいってよ。入れたい時に入れるとかどうとか」
「さながら人質ですね」
「あぁ……」
砂時計が落ち切った。それを合図にして立ち上がり、ドアを開けて横の水風呂へ。体温が上昇させたところに10℃ほどの水に浸かるギャップで、全身に鳥肌が立った。しばらく浸かっていると、喉を通る息まで冷たくなってくるような感覚がした。
「ダスカに決めときゃ良かったんだよ。桐生院ちゃんの気持ちに見て見ぬ振りしてでもな」
「……気づいてたんですか、葵さんのこと」
「このクソボケが。3年前から気づいてたわんなもん。俺とウオッカは随分悩んでいたもんさ、どっちを応援すりゃいいのかってな。お前さんは一向に気が付かねえし」
「思い返せば……葵さんは色々と誘ってくれてました。カラオケとか、飲みとか、遊園地とか水族館とか温泉旅行とか買い物とか夜デートとか……」
「なんで気が付かねえんだ……?」
「だってミークのためって言ってたし……」
「信じられねぇ……。桐生院ちゃんよぅ、どうして分かんなかったんだ……そんな余計なこと言っちゃったら、マジでこのバカは信じちまうんだよ……」
1〜2分ほどの水風呂の後は外気浴だ。11月の夜はそう暖かいとは言えないが、水風呂の後はあまり気にならない。椅子に座って風に吹かれていると、だんだんと温まってくるようなふわふわした感覚が上ってくる──
「あ"ー……どーすんだお前、下手すりゃ死人が出んぞ……」
「僕だってやろうとしてやった訳じゃない……。真面目に仕事してただけです、他意なんて……」
一緒にカラオケに行ってちゃんと楽しんだり、サシ飲みで色々語り合ったり、誕生日にプレゼントを贈りあったり、朝までデスマーチやったり──あれ、仕事の範疇超えてね?
「…………」
遊園地ではしゃいだり、水族館でのイルカショーに興奮したり、些細なことで笑い合ったり──あれれ。
「その沈黙はなんだ? お?」
「……何も」
はいダウト。
「どうすんだよ……。ダスカちゃんと桐生院ちゃんだけならまだ良かったけどよ、ジョーダンまで──ナカヤマに見せてもらったよ、例の写真。あれどうすんのマジで、あれ学園にバレたらマジでやべーよ、ホントにやべーよ。クビだけで済めばいいレベルじゃねーかよ。ほんとどうすんのお前マジでやべーよ。トレーナー倫理とかじゃなくてシンプルに犯罪だよ」
『青少年の健全な育成に関する条例』──東京都の条例である。内容は語るに及ばない。
「じ、18歳以下とは言え、何も犯罪というケースでは──」
「オイ目ェ逸らすな」
しばらく外気に当たっていると、だんだんと視界が鮮明になっていくような錯覚を覚える。デトックス効果により、脳神経へのいい影響があるとされている。一般的に"ととのう"とされている部分だ(ガチでサウナはおすすめです。最高)。
十分に外気浴を終えたあとは湯船に浸かって体を温める。
「てかマジでどうしましょうね。どうしよう。どうすればいいんですかね。どうにか丸く収まりませんかね」
「本性表せよ。ぶっちゃけどうなんだ」
「はは、最高です」
「本性表しやがったな?」
最低だった。
「ちょっとしたハーレムみたいなもんですからね。可愛い女性が3人もいて、しかも好意を寄せてくれる。これ以上の幸せがありますか」
「おっ、そうだな」
「全く、特にジョーダンはここのところスキンシップというか、甘えてくることが多くて……本当に──」
明日原はふっと口元を緩めて──
「──血を吐きそうです」
胃の痛そうな微笑みを浮かべたのだった。
「端的に言ってハゲそうです。僕はこの1ヶ月で5kg痩せました。食事が喉を通りません」
「すまん、俺が悪かった」
閑話休題。
浴槽を上がって、脱衣所で着替えたのち休憩所。フルーツ牛乳を飲み干した明日原が青い顔で言う。
「詰んでます。解決は不可能です」
「普通に同僚にしとけよ。いいじゃねえか桐生院ちゃん、可愛いし素直だし一生懸命だし、それに良家の一人娘だ。何が不満なんだよ」
「僕だってそう思いますよ……。不満なんてありません、てか普通に付き合いたいですよそんなの」
「じゃあ何だよ」
「ジョーダンとスカーレットが何をするか、予測がつかないんですよ……」
「……ああ?」
ジョーダンは言った。あたし以外の女を見るな、と。
目移りなどさせないと──そしてそのためなら手段を選ばないとも言った。
「ジョーダンは最悪、例の写真をウマッターか何かに載せかねません。すでにクラウドでバックアップを取っているので消すのは不可能です。誇張でも何でもなく、僕はジョーダンに生命線を握られています」
「ぶっ、ハハハ! お前担当にキンタマ握られてんのかよ!」
「いや笑い事じゃなくて」
実は加賀も人のことは全く言えない立場なのだが、どうやらそれは忘れているようだった。
「じゃあダスカちゃんはどうなんだ? 甲斐甲斐しいし色々とデッカいし、何より一途だ。今のごちゃごちゃした状況も、ダスカちゃんならどうにかしてくれんだろ」
「本気で言ってます?」
「あ? 何だよ、じゃあジョーダンか? あいつもいーよなぁ、イマドキの女子高生ってやつか? 俺にはそういうのよく分からんけど、キラキラしてるよな」
「……どの場合でもその後が問題なんですよ。少なくとも3人のうちの2人とは関係が壊れます。気まずくてやっていける気がしません。うち1人は同僚ですよ? 葵さん不器用だし、絶対ぎくしゃくします」
加賀が微妙そうな顔をした。
明日原のストレスの80%はこの理由によるものだ。まさか2股も3股もかけるわけにはいかない。割と知名度のある明日原がそんなことしたらシンプルにスキャンダルになる。
「……あるじゃないですか。担当に告白されて振ったらどうたらこうたらって話」
ウマ娘の方がトレーナーに告白するが、トレーナーの方にはその気は無く──少数だがその反対もなくはないあたりにそこはかとない闇を感じなくもないが、それは置いておく。ともかく、結末は決まっている。
「担当、変わりますよね。その場合」
「……ああ。変わるな、間違いなく。じゃなきゃ悲劇が起きかねない」
加賀のいう悲劇がなんなのかは想像にお任せしよう。
ともかく、誰を選んでも単なる失恋だけで終わる想像がつかないわけだ。特にジョーダンとスカーレットは例の写真を持っている。自暴自棄にでもなられたら明日原は終わりだ。
正直あんな写真消して欲しい。死ぬほど消して欲しい。それを伝えた時のジョーダンの返答など、語るべくもないが。
「ジョーダンの担当をやめるつもりなんてありませんよ。僕はあの子に夢を見ているんですから……こんな無茶苦茶な恋愛沙汰に巻き込まれて全部お釈迦なんてまっぴら御免です」
無責任にも程がある。自業自得という言葉を辞書で調べてきてほしい。
「じゃあジョーダンを選んどけよ」
「そうするとスカーレットがどう動くか分かりません。欲しいものは奪って手に入れるタイプです、最悪僕は悲しみの向こうへ行く羽目になります。それに……なんです、僕の立場でこんなこと言えた義理ではないんですが……葵さんを傷つけることになるでしょう」
「マジで言えた義理じゃねえな……。向こうだって分かってんだろ、はっきりすんのとしねえの、どっちが不義理かって話だろ?」
「分かってますよ、分かってるから悩んでんじゃないですか……」
それはもう深い溜め息だった。明日原は片手で頭を押さえながら続ける。
「全員に笑っていて欲しいなんて甘いことは言いませんよ、ハーレム系の主人公でもあるまいし。でも担当に命握られるほどのことをした覚えはありません。前世でブッダでも殺したんですかね」
「業が深いのは今世だろ。今からでも来世の心配をしとくこったな」
「冗談じゃない……」
「お前を取り巻く状況が冗談みたいなモンだろ。トレーナーをクビになっても、しばらくはノンフィクション作家でやっていけそうじゃねえか、良かったな?」
「過去最高に笑えないジョークですよ」
そういって、明日原は乾き切った声でかすかに笑った。サハラ砂漠みたいな笑い声だった。
「あー……ほんと、笑えないな……」
芝。
ー ー ー
有馬記念、1ヶ月半前。
来客があった。
「失礼します」
とある昼下がり、トレーナー室のドアが丁寧なノックと共に開いた。どこか緊張した面持ちの桐生院だ。よく見知った顔だが、表情は硬い。
コツコツと足音を響かせて、桐生院は明日原の前まで歩いてきた。
「有馬記念には、ミークとナビも出走します。ご存知ですよね、景悟さん」
「ええ」
「ついさっき、メディアに告知してきました。ミークのラストランは有馬記念です」
「……!」
明日原の表情に緊張と興奮が混じる。ついに、彼女の物語は終着点へと向かう──それに寂しさと嬉しさと興奮が混じって、つい口元がかすかに緩んだ。
「それで、用向きは如何ですか?」
「宣戦布告を」
桐生院と明日原は、男女としては少々めんどくさい状況にある。だが、トレーナーとしての関係は非常にシンプルだ。叩き潰すべき宿敵、越えるべきライバル。これまでの歩みに関わらず、その想いは同じ──戦えば、必ず自分の担当が勝つ!
これまでの直接対決において、桐生院は一度も明日原に勝利していない。決して戦績的に見劣りするものではないが、どうしても勝ちきれない──そのジンクスは、次で終わらせる。
ブエナビスタはさておき、ハッピーミークは歴戦の猛者だ。今の勢いは誰にも止めることが出来ないだろう。クラシック級であるジョーダンが対決するには不安が残る相手──だが。
「大人気ないとは言わせません。有馬記念とはそういう舞台です。よく聞いてください──私が勝ちます、必ず。今日はそれを伝えに来ました」
真っ向から闘争心をぶつけに来る桐生院。緊張は混じれど、その迫力は本物だ。これまでに重ねてきた苦労や悔しさをバネにして、ハッピーミークは覚醒した。
明日原は少し目を瞑ると、小さく息を吐いて、真っ向から桐生院を見つめ返した。
「いいでしょう。ハッピーミークのラストランに栄光を飾る気など欠片もありません。あなたとハッピーミークへの尊敬と称賛を以って、叩き潰してやります」
「あはは、少しは優しくしてくださいよ? ラストランなんだから、花束の一つも送ってください」
「……ああ、確かに。花道ならば、贈り物でも用意しておかなくては」
軽口とは裏腹に緊迫した雰囲気が漂っている。珍しく肉食獣のような顔付きの両者は、目を逸らさずに睨み合っている。
「何か頂けるんですか?」
「そうですね──引導とか、どうです?」
視線の間に火花が散った。早くも有馬記念の前哨戦が始まっていた──両者全く譲らず、闘争心を全面に押し出して睨み合った。
「……いいレースにしましょう」
「ええ」
静かにふっと笑い合って、それが終了の合図になったように、桐生院は背を向けてゆっくりと退出していく。
明日原は、来たる有馬に向けての期待と高揚の混ざった目でそれを見送った──
「おいこらー! ふざけるのも、大概にしろ……です!」
蹴り飛ばされた扉からなんかやべーのが来た。
「……え。何?」
明日原が思わず素になるくらい脈絡のないアクシデントに、2人揃って目を丸くする。
「あすはら。一つ、約束をしろ……」
ぴくぴくと耳を動かすハッピーミークが尋常ならざる様子で、破壊された扉を横切って入室してきた。
「……はい?」
「有馬記念。あおいが勝てば、あおいと付き合え」
「ちょっ、ミーク!? その話は無しにしましょうって言ったでしょう!?」
桐生院が焦って叫ぶが、そんなことはお構いなしにミークはいつにない勢いで話を続ける。
「あおいが負ければ、あすはらからは手を引く。もう外野からごちゃごちゃやるのもやめる。この条件で、正々堂々……勝負、だ……!」
「………………」
今更なんのことかと問いただす意味もない。明日原にもなんとなく分かった──。
「……葵さんが勝てば、というのは」
「わたしかナビが1着を獲ったら、あおいの勝ち。ジョーダンが1着なら、あすはらの勝ち」
不利といえば不利だ。トレーナー同士の勝負なら、担当の勝敗で白黒つけるのは妥当だ。だが──1人のトレーナーの担当から2人以上が有馬記念に出走するというのも、かなり珍しいケースである。レースの歴史においても、おそらく前例はないのではないだろうか。
「その、手を引くというのは」
「決まってる。その時は、あおいはあすはらを諦める」
衝撃的な発言。桐生院は焦ってミークに駆け寄った。
「み、ミーク。その、やめてください。お願いです、負けたら──」
そう。担当の勝敗に自分の恋愛沙汰の行方を託すなどまともではない。負けたら──もしも、負けたら? 明日原の答えも聞かずに、ただ諦めなければならない。
ミークの鋭い瞳が桐生院に向いた。
「問題ない。わたしは必ず勝つから」
妖しく光るミークの双眸、その声には絶対的な自信。それは虚勢ではない。数々の敗北を乗り越えて、努力を積み重ねた。重ねてきた過去の重圧は軽くなどなかった。
「ミーク……」
「あおいが信じてくれるなら、わたしは負けないよ。絶対に」
強い言葉──。桐生院は、軽く手を握って胸に当てた。
「あすはら。この条件でいい?」
正直迷った。こんな極まったミークに勝てるビジョンは、今のところ思い浮かばないが──だが、宣戦布告に対する礼儀など古来から決まっている。売られた喧嘩は買うものだ、トレーナーなら尚更。
「……了解しました。叩き潰しましょう、ハッピーミーク」
本当にこの条件を受けていいものかと、少しの後悔を混ぜて明日原は答えた。
同時に桐生院、明日原の言葉は暗に、"自分とは付き合いたくない"と言われているのではないかと勘繰ってショックを受ける。それを察して果てしなく微妙な顔をする明日原。だからと言って"負けます"など色々な意味で言えるわけがない。
「よく言った……。指輪の準備をしておいてください、です」
あおいの指のサイズは6号です、と余計な情報を言い残して、ミークは去っていった。やりたい放題だった。桐生院もそれを追って、慌てて去っていく。後には破壊された扉だけが残った。胃が痛かった。
しかし気掛かりなことがあった。
(……こういうのならば、ブエナビスタも出張ってくると思ったんですが。どうにも彼女も雰囲気変わりましたし、どうなることやら……。さて、これジョーダンに伝えた方がいいんですかね。伝えない方がいいような気もしますが……)
とりあえず明日原は、慣れた手つきで胃薬を飲んだ。頑張れ。
ー ー ー
「……ねえ、やっぱりさ」
学食で昼食を摂っていた2人のモブウマ娘が話している。
「ナビさ、最近変わったよね。ほら」
「……うん。食べる量が半分くらいになってる、やっぱり何かあったのかなぁ」
「だよねぇ。元気ないし、悩みでもあるんじゃない?」
「うーん、元気がないって言うか……ちょっと違わない?」
2人の視線の先には、1人で昼食をもぐもぐ食べているブエナビスタの姿。うるさいくらいに元気に溢れたブエナビスタは、たいていジョーダンやナカヤマと一緒に昼食を食べていることが多いが、ここのところはずっと1人だ。クラスメイトである2人も、たまに昼食に誘うのだが申し訳なさそうに断る。
「トレーニングしてるナビ、前見かけたことあるんだけどさ。怖いんだ、顔」
「怖い?」
「うん。張り切ってるって言うのも少し違うような……なんていうか、勝つことしか考えてないっていうか」
「前からじゃないの?」
「ううん、違う。前はさ、もっと楽しんでたと思う。レースとかトレーニングとか、楽しむ余裕があった……ていうか、どう言葉にしていいのかわからないけど。でも……ううん、やっぱり分かんないや」
「……。大丈夫かなあ」
「ね、心配だよ……。うるさいくらいナビが笑ってないと、クラスの雰囲気もなんかちょっと暗くなってる気がして」
「有馬に向けて張り切ってるだけじゃないの? そういうメンタルトレーニングとかかもしれないし……」
「確かに、気持ちから仕上げてるだけかもしれないしなぁ……。ううん、やっぱりわかんないや。それよりさ──」
また別の話題に移った2人の向こうで、ブエナビスタは昼食を掻き込むとトレーを持って立ち上がって、口元を引き締めたまま歩いていった。