「夏だ」
照り付ける太陽の光が砂浜に反射して、水平線が煌めいている。遠くに立ち上る入道雲はどこまでも高く、見ていると無性に胸がざわめく。おそらくはワクワクしているのだろう。気温は実に30℃、つまりはどこまでも夏だった。
「海だ」
定規みたいに真っ平らな青と白のキャンパスを描く。そしてその絵を海と呼ぶのだ。波の音、潮の匂い、湿気った風、浜に打ち上がった昆布、砂に染み込んで消えていく波打ち際の海水。足跡のない真っ白な砂浜。つまりはどこまで行っても海だった。
トーセンジョーダンは両肩に大型のスポーツバッグを抱えて叫んだ。叫ばざるを得なかった。
「合宿だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああっ!!!」
「叫んでないで行きますよ。さっさと荷物を解いてトレーニングです」
流石の明日原も夏ばかりはスーツスタイルを解禁してTシャツだった。暑すぎて襟付きシャツなど着ておらず、どことなく夏の気配に胸を躍らせてはいるが、年長者としてのプライドがそれを許していないという若干めんどくさい状態になってなくもなかった。
「っしゃあああああああああっ! うえええええええええいっ!」
ジョーダンは夏合宿という季節イベントにバイブスがブチ上がり、今にでも海に突っ込んで行きそうだった。
夏合宿が始まる。
夏である。
夏合宿は一般に、かなりの能力の伸びが期待できる行事だ。学園からの補助金により合宿所を貸し切って、トレーナー同士の調整により合同トレーニングが組まれることも多い。より多くのウマ娘とのトレーニングを積ませたかった明日原も、同期であるジュニア級のウマ娘や、クラシックなどのトレーナーに渡りをつけてトレーニングを組んでいた。
無事にメイクデビューを勝ち抜き、モチベーション的にも最高の状態で迎えた夏合宿。ここばかりは全力でトレーニングを積むことを目標にしていた。
「っしゃぁ、かかってこいや!」
砂浜トレーニングはパワーが鍛えられる。筋トレとも違う、よりダイレクトに走る筋肉が鍛えられるトレーニングだ。
合宿では生活の基礎となる洗濯や食事はウマ娘とトレーナーたちが自分で行うことになる。これを通してウマ娘たち同士やトレーナー同士の交流も発生し、様々なメリットが生じる。
ここでは二ヶ月に渡る夏合宿の日常を切り取っていく。
夏合宿開始から一週間目、朝。
クソうるさい目覚まし時計により、六人部屋でトーセンジョーダンは目を覚ます。時刻は実に朝の6時、しかし夏の夜明けは早いために外は明るい。早起きのウマ娘などはもうすでに早朝トレーニングを始めていたりもするが、自分には絶対ムリだとジョーダンは思っていた。
布団を畳んで、シーツを剥がしてルームメイトのと纏めて洗濯カゴに突っ込む。当番のウマ娘がまとめて洗濯して外に干す。そのため、返ってくるシーツは少し潮の匂いがする。もう慣れた。
朝飯はトレーナーたちが作っている。トレーナーにとっての修羅場の一つである。トレセン学園御用達の合宿所に備え付けてある料理用の鍋だとか、コンロだとか炊飯器だとかはデカい。尋常ではないくらいにはデカい。明日原のコメントによると、丸くなれば炊飯器の中で寝れそうですとのこと。
ハッキリ言って業者に頼みたいところだが、経費削減の時代に追われて自分たちでやる羽目になっていた。トレーナーたちはこのために毎朝4時に起きるため、夏合宿中は慢性的な寝不足になることが恒例だった。
「おはよーございー……」
眠い目を擦ってウマ娘たちが食堂に集まってくる。年頃の女の子たちがパジャマのまま入ってくるわけで、男性陣のトレーナーには目の毒だがそこは中央の資格を持つだけはあり妙な真似も邪な目も向けない。向けないが──
「ん、あっすーじゃん。おはよー……」
「おはようございます、ジョーダン。今日の8時から昨日の続きをやりましょう」
「りょー……」
朝から生活を共にしていれば、どうしたって距離感は縮まっていくわけで、こんなことばかりしているから定期的に新人トレーナーが担当ウマ娘と共に故郷に旅立っていくことになる。トレセンの闇だ。そのため、明日原はかなり意識的にジョーダンとの距離を置いているつもりでいる。前回の二の舞は御免だった。
大盛り(人間感覚で特盛)の白ごはんをお茶碗によそうジョーダンは、そのままルームメイトたちと朝食を摂って朝の掃除へ向かう。割り振られた役割、洗濯や掃除などを終わらせたのち、午前のトレーニングとなる。
「あー……。ねみー……」
夕食の後は自由時間となり、めいめいに集まっておしゃべりしたりゲームしたり夏の宿題をやったりと、普通の合宿らしい青春のシーンがそこら中で見られる。
で、トレーナーたちはというと──。
「ええ、つまりメンタルトレーニングはそう伝えるのではなく、日常生活の中に混ぜていく手法が有効かもしれない──もっとも理想は、彼女たち自身がそのノウハウを獲得することでしょうが」
「移動のストレスはどうでしょうか?」
「僕はあまり気にしたことはありませんね……。メイクデビューは京都だったんですが、すごいテンション上がってて」
「でもあの論文は読まれましたか? ウマ娘ごとの得意レース場に関する分析」
「理論立ったオカルトという印象でしたね。そんなものよりもピーク算出の定量化手法の方が役に立つと思いますが」
「あ、ちょっと質問いいですか?」
──とかなんとか、馴染みのあるトレーナー同士で勉強会なども行われていたりする。当然男同士で行われる。男性トレーナーの宿舎はまた別のところだ。
明日原にラインが入った。軽く画面を覗くと、同じく夏合宿に参加していた桐生院葵からの連絡である。"突然すみません、本館の談話室でお話出来ませんか?"。軽く悩んだのち席を立った。
「少し失礼」
──絶対に女からだ、と参加していたトレーナーは思った。だがそこに突っ込むのは基本的には藪蛇である。大抵はロクなことにならない。
明日原は別棟から本館──というか古めかしい木造三階建ての建物へ入っていった。女子とウマ娘たちの宿舎となっている。一階に入る前に玄関から桐生院が出てきた。
「あっ、明日原トレーナー。すみません、突然呼び出したりして」
「構いません。それで話というのは」
「それなんですけど、ちょっと外に出ませんか? あの、悩みというか……相談事なので、ウマ娘たちには聞かせられなくって」
多少の思考が回った。ウマ娘たちはアスリートだがマジで年頃の女の子である。つまり男女が一緒に歩いていれば噂話が広がる。トレーナー同士の恋愛など、かなり興味のある分野なのだ──まあ別にいいか。ジョーダンが聞いても特に何も思わないだろう。
「そういうことならば、やはり海と相場が決まっているでしょう」
「……! ありがとうございます」
サンダルに短パンというラフな格好は、どうしたって普段とは違う雰囲気となる。月光の差し込む海辺は雰囲気があり過ぎる。
「相談というのは、私の担当ウマ娘──ブエナビスタについてなんです」
「ええ。確か、脚部不安……でしたか。デビューが遅れていると」
「はい。彼女は本当に強いんです、それは分かっているんです、けど──」
顔を伏せながら砂浜を歩く桐生院だが、焦りの表情で顔を俯かせている。
「……その、周りが次々にデビューを果たしていく中、このままじゃ嫌だって言われて。レースに出してくれって」
典型的なケースではある。ウマ娘には怪我が付き物で、爆弾を体内に埋め込んでいるようなものだ。トレーナーの仕事の半分はこの爆弾が爆発しないように調整することである。もう半分はレースで勝たせることだ。
ウマ娘にも意思がある。心がある。つまりは、環境によってメンタルが揺さぶられる。理性の方では今はただ待つことが正解だと分かっていても、それを心で納得出来るだけの知識や経験が少ない。怪我によって破滅していったケースを大量に見てきたトレーナーたちは分かっている、その道を行ってはならないと。だがジュニア級ウマ娘たちはまだ体験した知識としてそれらを知らない。
「ミークは怪我なんて全然なかったし、賢い子だったから……。どう言えばいいのか、ちょっと分からなくなってしまって」
さまざまな手法や知識はある。だが結局のところそれは人間関係であり、理論に従えば正解となるような甘いものではない。ヒトとヒトの関係がロジックだけではないように、感情の扱いはいつの時代になっても難しいことなのだ。
「……それに、担当が2人に増えて私自身も結構負担が掛かってて……ごめんなさい、正直なことを言うと、愚痴を聞いて欲しいだけなんです」
「なら、丁度いいですね。コンビニまで歩きませんか」
「へ? はい、いいですけど……」
海沿いのコンビニまで歩きながら、さまざまな近況を話す2人。同期のトレーナーとしてかなり抜きん出た成績の2人であり、トレーナーとして学園と契約した時から交流があるために仲は良かった。
ただ、トレーナーとしての最後の三年間を終え、次の三年間が始まってから多忙を極めたために顔を合わせてゆっくり話すということが出来なかった。桐生院にとって合同夏合宿は──何のとは言わないが──絶好の機会だったのである。
「それで、何か買うものでもあったんですか?」
「いえ──」
明日原は珍しく悪戯げに笑って、アルコールコーナーの棚を開けて缶ビールを手に取った。
「一本だけです。付き合って頂けませんか、お嬢さん」
「……もう。同い年だってこと、知ってるくせに」
──その後の話は、特に語る価値はないので割愛する。少なくとも卑しか女杯などなかった。本当にそうかな?
トーセンジョーダンが不機嫌だった。
「ジョーダン、フォームを変えたんですか?」
「なに。悪い?」
「いえ、なかなか面白い走法です。自分で考えたのですか?」
「別に。同じ部屋の友達に教えてもらっただけ」
──反抗期の親と子供みたいになってる。なんだこれ、と明日原は思った。
「直せっつーなら直すし」
「いえ。せっかくなので、今日はその走法を試してみましょう。海岸模擬レースに参加して、タイムを計測してみます」
「あっそ。分かった。てかさっきからそのニヤニヤしてるの何なの? キショいんですけど」
さっきから一度も目を合わせてくれない。明日原の精一杯の愛想笑いも空振りだった。慣れない愛想笑いなどするものではない。若者からの心ない言葉に傷つきながら、原因を探る方向へシフト。
「……機嫌を直してください。何かありましたか、ジョーダン」
「別に。なんもねーし」
──昨日の夜くらいに流れてきた噂で、自身の担当トレーナーである明日原と、トーセンジョーダンと同じジュニア級ウマ娘であるブエナビスタの担当トレーナーである桐生院が付き合っているというのだ。
なんでも夜に一緒に歩いている姿が確認されたとか、そのまま夜の街へ一緒に行ったとか、朝帰りだったとか、もう婚約してるとか、実は学生時代から付き合っていたとか、いやあの2人は同期でライバルで恋人だとかもうどうなってんのそれと叫びたくなるものばかりだった。
正直言って気になる。だがそんなことは聞けない。そんなことを聞いたら、自分が明日原のことをなんか気にしてるみたいではないか。
なんかムカつくというか、もやっと来るというか。いや、これは決して恋してるとか好きだとかという感情ではない。仲のいい友達が自分に全然関係ない隠し事をしてたぐらいの微妙な感情だ。別に付き合ってるのなら口など出さないが、ブエナビスタとかいうヤツには絶対に負けるつもりはない。てか誰。
「……分かりました、観念します。ジョーダン、お願いだから機嫌を直してくれませんか。出血大サービスでお願いくらいなら聞きます」
「は? 知らねーし」
最近のギャルは怖い。明日原はそう思った。
「……僕への不満ならば遠慮なく言ってください。トレーニングの内容でも、この際誹謗中傷でも構いません。それでないならば、機嫌の悪い原因程度は教えてくれませんか」
「別に。不満なんてねーし、てかあたしだってわかんねーし。トレーニングはすっからこの話は終わり」
仕方がないので明日原は伝家の宝刀を抜くことにした。こんなことでは周りに悪影響まで与えかねない。トレーニングにも支障が出る。
「君のことだから、おそらく夏課題には手をつけてないでしょう」
文武両道を掲げるトレセン学園では、一般の高校と同様に学力課題が出される。レースやトレーニングにかまけて学力が下がると補習地獄行きである。無論ジョーダンが夏課題に手をつけているはずがなかった。
「は? なに?」
突然それを話題に出した明日原を睨んだ。
「手伝いますよ。半分ほどは放り投げてくれても構いませんし、分からないところは全て教えます。なので機嫌を直してください、ジョーダン」
「………………。分かった。約束な。ぜってーやれよ」
「ええ」
終始不機嫌そうな様子ではあったが、とりあえずなんとかなるだろう。自由時間は夜しかないために、色々と時間は削られるが仕方がない。それに夏課題は終わらせておいた方がいいし。そう結論付けて、明日原は考えるのをやめた。年頃の女の子の思考などどう考えたってわかるはずがない。無論明日原のガバであった。
夏合宿が始まって一ヶ月が経った日のこと。夜であった。
「ええ、それでその数値をさっきの公式に代入するんです。そうすれば──」
共用スペースではジョーダンたちと同じく夏課題に頭を抱える生徒たちがいた。友達同士でやっているものや、明日原と同じくトレーナーが勉強を教えているケースもちらほらあった。
「……へー」
ジョーダンは得心しながら数学を進めていく。目から鱗が溢れていくようだった。数学なんてできるはずが無いと思っていた。けど──。
「次の問題ですね。えーっと、この場合は……」
「あ、分かった。さっきの公式を変形させて、んでこの式は多分図形に書き出すとこんな感じで、だからこれをこうして──どう? 合っとる?」
「……素晴らしい。僕より早く正解を出しましたね」
「え、マジ?」
教師役の明日原を一問だけとはいえ上回った。トーセンジョーダンは何も地頭が悪いわけではない。違うのはこれまでやってこなかっただけであり、やれば出来る子なのである。事実今も、夏課題は教えてもらいながらとはいえ自分の力でコツコツやっている。
「意外と数学は合っているかもしれません」
「ね、それ。でもさ、あんたも教えんのうまいよね」
「教科書などが分かりにくすぎるだけです。AならBになって、BならCになる。CはDとなるので、答えはDです……という、数学は特にそういう積み木のようなロジックが基本だと思います。案外楽しいものでしょう、こういうものも」
「ん。解けると結構楽しーね」
苦手意識でしかなかったが、それは自分には出来ないと思っていて、事実出来なかったためである。しかし丁寧に教えてくれる人がいると全然違った。理解出来て解けると、"あれ。案外大したことないんじゃね"という意識が働き、段々とジョーダンはやる気が上がっていた。
「さて、そろそろ9時になりますし、今日は次のページをやって終わりましょうか」
「え、ウソ。もうそんな時間?」
7時半からの勉強会だったために、一時間半もぶっ続けでやっていたことになる。ほとんど初めての体験だった。だがそれに気が付かないくらいに集中していたらしい。
その事実につい嬉しくなって、シャーペンを握る手にも力が入った。
「さて、最後は練習問題らしいですね。今日のまとめとして、自分の力でやってみましょう。出来ますか?」
「ん、ちょいまちー……うん、なんか行けそうだわ。やってみまーす」
明日原がそれを聞いて安心し、タブレットとノートを取り出し、今日の分のトレーニング結果をまとめ始めた。しばらく無言のまま作業に集中し、時間は過ぎていくのだった。
──ふと。トーセンジョーダンは問題を解き終わって、顔を上げてみた。すると明日原がテーブルの向かい側で作業を続けている。真剣な表情で、時々右手を額に当てて考えてはまたノートに書き込んでいる。びっしりとした文字だらけのノートにちょっと驚いた。
「……。…………、……」
今日の分が終わってからも、ジョーダンは少しだけ明日原を眺めていた。
夏合宿中のある昼休みのことである。
明日原は仮眠を取っていた。4時起きの生活になってからこっち、必ず昼休憩は40分弱の仮眠を取るようにしていた。砂から立ち上る熱気が風に吹かれて部屋に舞い込んでくる。窓を閉めたら閉めたで熱気が充満する。八方塞がりの中、扇風機だけが心のオアシスだった。
「……おっじゃましまーす……」
仮眠とは言うが、実際かなり寝ていた。明日原はノンレム睡眠に入るまでの時間が短く、つまりは深い眠りについていた。トレーナー業などをやっていると安定した睡眠を確保することが難しく、こういう仮眠技術を習得しなければどうにもならなかったというのもある。
穏やかな寝息と、扇風機の回る音がする。
トレーナーたちに与えられた小さな個室へ侵入した人物は、少し意外そうな顔で明日原を見下ろしていた。
「寝てるし」
当然トーセンジョーダンである。
「……起こすのも、わりーかな」
そう思って部屋を後にしようとした時、机の上に転がっていたスマホのアラームが鳴った。ジョーダンたちが使っているクソうるさい目覚まし時計とは違って、小さな音だった。
「……。ん、んん……あれ。ジョーダン……?」
「あ、ごめん。おはよ」
「いえ、おはようという、時間では……」
寝起きらしい珍しい様子でアラームを止めて、すぐに体を起こした。
「何か、用でしたか」
「や。別に……用っていうか、聞きたいことってゆーか……」
「遠慮は必要ありません。珍しいですね、そんなに聞きにくいことですか」
小さなあくびをしながら明日原が問う。蝉の声が聞こえる。体が強ばるというか、いつものようにスーッと言葉が出ない。
「あの、さ。別に、トレーニングとか全然関係ないことなんだけど、さ。……あっすーって、彼女とか居んの……?」
「いえ……」
即答だった。
──この時、正直明日原は寝惚けていた。もしも正気であれば、なんとなく嫌な予感を感じ取って嘘の一つでも吐いただろう。だが──夏の魔物のせいだろうか、全部正直に喋ってしまった。
「四年ほど前に別れたっきりで、それ以降は」
「へー……。なんで別れたの?」
「仕事……トレーナーの仕事ばかりしていたら……ふふ、言われたんですよ。私と仕事、どっちが大切なの……って。まさか本当に、こんなセリフを言われるとは思ってなかったんですが」
自嘲とも、或いは思い出し笑いともつかない表情を浮かべる明日原。しかし未練などない。申し訳なさはあったが、後悔などするはずがなかった。
「ふーん。そーなんだー……。ねー、あんたって年いくつなの?」
「? ええと、確か来月に25歳になるはずですが、何か」
今あたしは16だから、えっと……8、9歳差って感じか。
何がそんな感じなのかは分からないが、ともかくジョーダンは納得して頷いた。まあいっか。
「ん、そんだけ。じゃねー」
──ルームメイトとの賭け勝負に負け、罰ゲームは恙無く執行された。というか噂の直後にあんだけ不機嫌になったら誰でも気づくに決まっている。どうして明日原は気がついてないのか不思議なレベルだが、基本的に明日原は運が悪い。
「よっし。よっし〜〜〜っ! 今日こそ……!」
「今日こそ、何です?」
「うわっ!? いきなり声かけんなし! マジでやめろよ! 次やったら怒るかんな!?」
「突然ですね……」
午後のトレーニング、今日は──夏合宿の最終日だった。約二ヶ月に渡った長く短い夏合宿も今日で終わりということで、何だか全体的に浮き足立っているようだった。それもそのはず。
「砂浜ダッシュお疲れ様でした。これから最後の追い込みを行っていきます。最終日はへろへろになって終わりましょう……ああ、そう言えば近所で夏祭りがあるそうですね。君は行くのですか?」
「……。やー、まあ、ん。行く」
歯切れの悪い返事で、彼女らしくなかった。どうしたのだろうと首を傾げると、ジョーダンは誤魔化すように張り切って見せた。
それにしても、明日原はずいぶん日焼けしていた。短パンTシャツスタイルも似合うように黒く焼けたのと対照的に、ジョーダンの肌はそれほど黒くなっていない。当然日焼け止めやクールダウンによる丁寧なケアが行われていた。
「よっし、なんでもかかってこいや〜っ!」
「? ええ、では遠泳──合同トレーニングです、周囲に負けぬ根性を出して行きましょう」
砂浜から5km離れた地点に小さな島がある。そこまで行って帰ってくるのがこの遠泳トレーニングである。トレーニングは事故に対する細心の注意と大胆さで行われる。ジョーダンは最初海で泳ぐだけじゃんとか思っていたが、すぐに地獄を見た。
「最終日、最後の追い込みです。あの島まで二往復──それで、夏合宿のトレーニングはラストです」
「に"ッ……!? 嘘でしょ? マジで言ってんの? 本気? 死人出るっしょ」
「出ませんし、出させません。まあ参加は任意です、君がどうしても嫌だと言うのなら──」
「はあ? やらんとか言ってねーし。やったろうじゃねーの」
ジョーダンは高反発枕だった。特に最近はノリに乗っているので、ちょっと挑発すると何でもやる気を出してくれてありがたい。
「早い話海レースってことっしょ。ならやる事は決まってるし──絶対、一位獲ったるわ。見とけ」
「期待しています。ただクラシック級も混ざっている中で1位を取るのは少々現実的ではありませんし、君のスタミナから加味して……8着以内。そこまでに入ることが出来れば十分にすごい結果です」
「ふーん? ってことは、……まさかごほうびとか無いわけねーよな?」
「ええ。用意は……まあ、何もしていませんが。要望なり欲しいものなり言ってくれれば用意します。期待してくれて構いません」
「……言うこと、聞いてくれんの?」
「何でもとは言いませんが、それなりには」
「ふーん。……ぜってー勝ってやる!」
トーセンジョーダンは意気込んでスタート地点へと向かっていった。それを見送って、明日原はボートへと向かった。
一往復して、そして離島にたどり着いてチェックを受けて、そして──最後の5kmで、ジョーダンは三途を見た。
「はっ、はっ、はっ、ごほッ、はぁっ──!」
波が苦しい。プールなどとは訳が違う。何が苦しいって、海流のせいだ。プールと違って、水を掻いても前へ進めない。どころか押し戻される。それでも体力は消耗する。
前に何人いるかなんて分からない。後ろにどれだけいるかなんて気にする余裕ない。着順なんて論外だ。辿り着くことだけで頭がいっぱいだ。
コース上にはボートが常駐している。足が攣ったり、体力の限界が来たウマ娘は救出されてリタイアしていく。そんな光景を少なくとも10回は見た。
ああなりたくない。絶対に諦めない、足なんて攣らせない。全神経を張り巡らせて、前へ進む。海流さえ利用して前へ進む。辿り着けるのなら何でもいい。
「息を吸え、ジョーダン!」
「……!」
「残り3キロ、君なら出来ます! 少しでも肺に空気を入れて浮くんです! 根性ですよ!」
──言葉を返す余裕なんてない。けど伝わったはずだ。
明日原は不敵に笑ってガッツポーズを向けた。よかった、伝わってる。あたしはまだやれるって、最後までやれるって。
前へ進む。前へ、進む──。
「高波が来ています! 逆らおうとしないで、浮き輪のようになってやり過ごしてください!」
体が浮き上がる。ちょっと楽しいが、さっきから朦朧としている。
だけど前へ、ただ前へ。正直辛い。もうリタイアしたい。やめたい。
だが、ここで負けたら絶対まともな気持ちで夏祭りに行けない。後で自分を許せなくなる。だから苦しくても構わない、前へ進みたい。
「もう少しです、さあ踏ん張りどころですよ! ジョーダン!」
声が聞こえている。自分を信じているバカの声が聞こえている。だから前へ進んだ。あたしは1人じゃない、いつでも横にいてくれるバカがいる。
そしてついに、トーセンジョーダンは砂浜に辿り着いた。明日原がストップウォッチを押して、ジョーダンに駆け寄った。
「まだ波打ち際です。砂浜まで歩けますか」
「……むぅ〜りぃぃぃぃぃぃー……」
もう一歩も歩けない。波打ち際でも波が高ければ危険だ。
「全く、大したウマ娘ですよ。君は」
無理矢理に、しかし優しく明日原はジョーダンの手を取って、立ち上がらせた。
ジョーダンはフラフラと歩きながら、しかし──明日原が握ったままの手の感触に意識を奪われていた。
それからクールダウンが終わり、タオルを頭から被ったままジョーダンが口を開く。
「……何着だった?」
「7着です。クラシック級も混ざる中でこの結果は、紛れもなく君の実力であり、誇るべき君の力です」
「……そ。で、あんたは……どう、思ってんの?」
「そうですね。まあ……今すぐにでも、他のトレーナーたちに自慢して回りたい程度には、嬉しく思っています」
「……あんたさ。マジメで不器用そうなのに、口は上手いよね」
「本心です。嘘は吐きませんよ」
「……そういうトコだぞ」
ぐしゃぐしゃとタオルで髪を拭きながら、ジョーダンは長い息を吐いて日の傾きかけた海の空を見上げた。あいもかわらず夏の空だったが、来たときとは違って見えた。きっと夏の終わりの空だからだ。
「あのさ。あたし……もうサイフん中、空っぽなんだよね」
「祭りのお小遣いが足りませんか? でしたら幾らか渡しておきましょう──」
「ちげーし。もうちょい気ぃ遣えんのか、このバカちん。全部奢れっつってんの。祭りの屋台、全部回っから。あと荷物も持てよ……いーでしょ!?」
遠泳前に言われた言葉だ。8着以内に入ればごほうび──その結果、ジョーダンはその権利を獲得し、行使した。その内容は夏祭りに付き合うこと。
「了解しました。気が済むまで付き合いましょう」
明日原は苦笑いした。トレーナーとして、一生懸命頑張った担当の頼みを断ることなど論外だった。
ー ー ー
──花火が上がる。
肌を震わすような音と一緒に火花が散る。ジョーダンは明日原とともにそれを眺めていた。
「いいものです。夏の象徴ですね」
明日原の言葉通り、それはまるで今年の夏の全てを一つ一つに纏めて打ち上げたが如く鮮烈で、夜空に咲き誇る花という表現ですら足りないほど輝いていた。
大体、毎年合宿所は同じだ。明日原は合計して4回あの合宿所に来ていた。つまり夏祭りに来るのはこれで4回目ということになる。元担当のワガママを思い出しながら、両手に屋台の食べ物がぎっしり詰まったビニール袋を下げて明日原が歩いて行った先は穴場のスポットだった。
階段を随分と上がって行った先にあったのは山の中腹にある広場で、街灯も灯っていない暗い場所。小さなベンチがポツンと一つあるだけの場所で、幸運にも誰もいなかった。
「……よくこんな場所知ってんねー」
「かつての担当のワガママにより探し回った場所です。いいものでしょう、ここならばこの空を二人占め出来るという訳です」
少しだけ懐かしむように言って、明日原は古びたベンチに腰を下ろした。ビニールから焼きそばのパックを二つ取り出すと、ジョーダンに一つ渡して、一つを開いた。
「食べないのですか?」
「……食う」
花火を見ながら、ジョーダンは静かな様子で焼きそばを頬張った。一方で明日原はと言うと、こっそり買っておいた缶ビールのプルタブを開いた。
「げ。あんた、何飲んでんの」
「適度に自分にご褒美を与えるのが、人生をやり過ごすコツです。少しだけ目を瞑ってください」
「は? ……こう?」
突然目を瞑れと言われたジョーダンは戸惑いながらも目を閉じた。それを見て明日原は流石に笑った。
「ははは、ジョーダン。目を瞑るというのは比喩表現ですよ。つまり、見なかったことにしてくれということです」
「はぁー!? 何それ、ふざけんなし!」
「ふふ、君は面白い子ですね」
喉を鳴らしてアルコールを飲み込んだ明日原が楽しそうに言う。ジョーダンは不貞腐れて呟いた。
「はいはい、どーせあたしはバカでーす。でもバカなんだから仕方ないでしょ」
「ええ。でも僕は、時々君のことを本物の天才だと思う時があります」
「いいし、んな慰めはいらんいらん」
「嘘ではありません。君は本当に頑張り屋で、負けず嫌いで、根性のあるウマ娘なんです。そういう気質は欲しいと思っても手に入らないもので、立派な君の才能です」
「……ほんとにそう思ってんの?」
「ええ。君は天才です。君とともにクラシックに挑むことが、今から楽しみでなりません」
機嫌よくそう言って笑う明日原の笑顔を見て、それから夜空の花火に目を移した。
「……あのさ。今だから言うけど、あたし最初あんたみたいなタイプと絶対一緒にやってけないと思ってた」
明日原は黙って聞いていた。
「頭いい人って昔から苦手だった。あたしバカだから、そういう人と話してると自分の頭の悪さ思い知らされて、ヤな気分だった。だから自分と同じようなヤツらとつるんでて……でも、そんなことしてたって、心のどっかではずっと焦ってた。このままで本当にいいのかなって。でもどうしていいか分かんなくて、そんな時に怪我して、もうどん底だった」
懐かしむような独白は、花火の音の中でもずっと聞こえている。それはトーセンジョーダンが抱えてきた想いで、根底にあったものだ。
「あっすーはさ、ほんとすげーよね。あっすーはいっつもあたしを褒めてくれるけど、あたし1人だったらきっと何にも出来なかったし、絶対退学してたと思う。んで、つまんねー人生送ることになってた。でも……選抜レースで勝って、デビュー戦で勝って……合宿は、すげーキツかったけど、強くなったって自覚ある。トレセン来たときのあたしから、ずっとずっと成長出来た」
ふと、ジョーダンは花火から視線を移した。その先では、明日原がちょうど焼きそばをビールで流し込んでいるところだった。普段の姿からは想像出来ないほど変な感じで、でもきっとこっちが明日原の素なのかも知れなかった。
「あんたはさ、なんでトレーナーやってんの?」
だからそう聞いた。話題作りのためとかではなくて、純粋にそれを知りたかった。
「……昔話は苦手なんです。特に自分のことであれば尚更」
「いいじゃん、話してよ。誰にも言わないから」
「……分かりました。そうですね……僕が君ぐらいの年齢の頃、友人に誘われてレースを見に行きました。当時僕は福島に住んでいたので、1番近かった福島レース場で……今でも、覚えています。七夕賞というG3のレースで、勝ったのはオフサイドトラップというウマ娘でした」
──十年前の、あのレースは圧巻で、心の底から声を出して叫んだ。明日原のトレーナー人生の原点がそこにあった。
「すぐに彼女のファンになりました。彼女のことを調べ上げて、そして迎えた新潟記念は、現地まで夜行バスで行って、そこでさらに彼女に夢中になり、レースへの興味もどんどん強まっていって……あの、沈黙の日曜日を迎えました」
「沈黙の日曜日?」
「……僕からは、あまり語りたくありません。興味があったら調べてみてください。ともかく、そして迎えた有馬記念で、彼女は……オフサイドトラップは無念の10着となり、その後引退しました。……話を戻しますが、当時の学力的に言えば、僕は君よりも偏差値は低かったと思いますよ」
「偏差値……って、うそ! マジで?」
「ええ。底辺高校でしたから……喧嘩もしたし、タバコも吸うし、酒も飲むし……絵に描いたような不良少年だったと思います。でも、あの日……第118回天皇賞・秋が、僕の全てを変えました。今までの人生で味わったことのない衝撃を受けたあと、猛勉強をしてトレーナー養成校へ転入しました」
回想するのは高校一年生の秋。何もかもが壊れてしまうような、何かを受けた。いてもたってもいらなかった。何もかもがどうでもよくなって。
「……人は、影響を受けたものになろうとすると言われます。プロ野球を見に行った子供が、目の前でプロの試合を見て、プロ野球選手になりたいと思うように……僕は、何かの形でレースに関わりたかった。あれを見て、何事もなかったかのように人生を生きていくことなど出来なかった。世界の全てが退屈に思えていたんです──ただ一つ、レースを除いては」
火花は相変わらず咲き誇っている。明日原は変わらず見上げたまま呟いた。
「……トレーナーになって、4年目の夏を迎えました。僕は……君のようなウマ娘と巡り会えて、幸運だと思っています」
多少酔っ払っていたかも知れない。いくら明日原といえども、こんな小っ恥ずかしいことは正面から言えない。ただ、ジョーダンが明かしてくれた本心に応えたかったのかも知れない。
「──、あたしも」
最後の花火が上がった。一際大きい火薬玉の音が、何もかもを吹き飛ばす轟音とともに咲き誇って、それから先の言葉を掻き消した。少なくとも明日原には聞こえなかった。ただジョーダンはこう言った。
あんたが、あたしのトレーナーで良かった。
もう上がらない花火を見送って、蒸し暑い気温と煙の残る空を最後に一瞥だけした。
どうしようもないほど、夏の残響がいつまでもそこにいるような気がした。