「当然、冗談に決まってんじゃん?」   作:にゃんこぱん

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府中コロニー④

『おはようございます、朝イチラジオのお時間です! さあ本日はね、世の女子たちが待ちに待ったバレンタインデー、気になるアノヒトに勇気を出して、なんていかがでしょうか』

 

『ご機嫌よう! 太陽は今日も輝いている……このボクのように! バレンタインデー……それはボクにとっては罪な1日……なぜなら! 美しすぎるボクのために、多くの男性たちの分のチョコレートを奪ってしまうから!』

 

『はいおはようございまーす。オペラオーさんはトレーナーさんにチョコあげるんですか?』

 

『……ボクの愛とは、1人だけに捧げられるものではないのさ! そういえば今朝、スタジオに来る途中でファンに会ってね。ファンと言っても、6歳ほどの男の子とその親御さんだったんだが……その男の子がボクのファンらしくて、なんとチョコを貰ってしまった。"オペラオー、チョコあげるー"、とね』

 

『あーかわいいですね! いいなあ、そのチョコがそれですか?』

 

『そう! 大切に味わって食べるよ、チロルチョコ。ありがとうね』

 

『朝からほっこりしましたね。で、結局オペラオーさんはチョコあげるんですか?』

 

『……ノーコメント!』

 

『はい、ありがとうございますー。あ、そういえば……あの話しますか?』

 

『ふむ、それは……例の?』

 

『はい。まあ最近はちょっと落ち着きましたけど、今日が当日となれば……本人たちには悪いんですけど、今日公開の映画を待ってる気分です』

 

『仕方がないね、有名税だ。しかし難しいね。ボクならば迷わず全員を選ぶが、彼はそうはいかないだろう』

 

『苦労してる姿が似合うトレーナーランキングでも上位に居座り続けてますからね、もう宿命みたいな。モテる男は大変ですねー』

 

『まあ彼の心情は察するが、それも仕方のないことさ。太陽と月は一対一で、月は3つもない。地球はナメック星ではないのだからね』

 

『ナメック星は太陽が3つじゃなかったでしたっけ?』

 

『……まあ、どっちでもいいじゃないか。それでは、今日の天気模様──それとも恋模様?』

 

『今日は関東全域晴れ、予想最低気温は3℃、予想最高気温は18℃。暖かい1日になりそうです。外出は薄手でもいいかもしれませんね』

 

『また今日も、この1日が皆にとって良き1日でありますように……なんてね』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

 

──息をつく暇もないまま、2月は過ぎて行った。

 

 その日はXデー。またの名をバレンタインデーとも。それは製菓会社の広告戦略で、みんなそんなことは分かっている。そして、好き好んでその上で踊り回る──そんな1日。

 

 都合がいいのか悪いのか、今日は日曜日だった。

 

「いらっしゃい。まあ上がんなさい」

 

 午前10時、スカーレット本家。スカーレット直々の出迎え。相変わらず、玄関から豪華さが溢れていた。スリッパに履き替えて後ろをついていく。

 

 居間──この家の主人たちが普段から使っている、生活感の染みたテーブル、ソファーと大型のテレビ。これで大型犬とか居たら金持ちフルセットだな、と思った。

 

 普段から使われているであろうそのテーブルに案内され、腰を下ろす。スカーレットは対面に座って口を開いた。

 

「お婆ちゃんから始まったこの家には歴史があるわ……なんて、今更話すことでもないでしょうね。分家もたくさんあるし、家の力も強い。メジャー姉さんもミリアンも、家を継ぐつもりはあんまりないみたい。自由にやりたいんだって」

 

 それこそ伝説級の戦績を残した親族。彼女たちはずいぶん前に現役を退き、セカンドキャリアを歩いている。

 

「──アタシはこの家を継ぐ。色々あったけど、アタシはこの家に生まれたことを誇りに思ってる。昔はプレッシャーもあったわ。期待に応えなきゃ……って」

 

 かちゃん。そう音を立てて、明日原の前にコーヒーが置かれた。いつの間にかそこに立っていたスカーレット(母)が優しい顔をして、ぽんとスカーレットの頭を撫でて去って行った。

 

「ほんとはね、少しだけ恨んだことがある。頑張って成果を出しても、ママはアタシに構ってくれなかった。嫌われてるんじゃないかって思ったこともある。名門に生まれて、ずっとプレッシャーだったの。デビューする前は、アタシもメジャー姉さんみたいなすごいウマ娘になるんだって信じてた。けど……アンタは知ってるわよね。何度も迷って、苦しんで……正直、苦しくて、背負ってたもの全部捨てたいって思ったこともね」

 

 ──レースを志すウマ娘は名門に生まれて幸運だ。幼い頃からそのための環境が揃っている。平凡な家庭に生まれたウマ娘はそれを羨む。

 

 それゆえに重圧。

 

「……けどウオッカが居た。生まれも育ちも性格も、何もかも対照的なあいつが居た。まるで鏡を見てるみたいで……あいつが居なかったら、どうなってたか分かんない。アタシは幸運だった。ほんと、ライバルに恵まれた」

 

 何もかもを振り返る。全て昔のこと──。懐かしい。懐かしくて、仕方がない。

 

「苦しいって思ってたこと全部、思い出に変わってて、いつの間にか誇りになって、今のアタシを作ってる。ねえ、それの全部がアンタのおかげって言ったら、アンタは笑う?」

 

 ほんの少しだけ照れながら、スカーレットが笑った。日差しのような笑顔だと思った。

 

「明日原。アンタにとって、アタシがどういう存在なのか……そんなことはどうでもいい。アンタがアタシのこと、心の奥では面倒だなとか思ってたって構わないわ。だって、アタシはアンタを幸せに出来るから」

 

 あまりにも潔く、あまりに真っ直ぐで、あまりに強い。

 

「アタシと一緒になって、子供が出来て──その子たちの未来を見守るの。どうするかはその子の自由だけど、多分トレセンに行くと思う。そしたら」

 

 ──新しい夢を見ることが出来るわ。

 

 ダイワスカーレットは、まだ見ぬ景色を想像するように、そう宣言した。

 

「次の夢を見る。そして、またその次の夢を見る。その次も、その次も、2人で一緒に。そんな未来、幸せだと思わない?」

 

 かちゃん、と金属音が鳴った。机に銀色の鍵が一つ、明日原に向けて──

 

「これ、この家の合鍵よ。受け取りなさい、明日原」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

 

「水族館、ミークが好きだったでしょう? そしたら、いつの間にか私も好きになっていました。担当に似るんですね、やっぱり」

 

 大人っぽいカジュアルな私服。ガヤガヤとした喧騒から離れた、とある公園。昼下がり──柵の向こうには海が見える。近くに臨海水族館があって、そっちは盛況だがこっちは静かなものだった。

 

 穏やかな風が吹いている。冬とは思えないほど暖かな気温で、居心地が良かった。

 

「品川にあるような最新設備のキラキラした水族館もいいんですけど……昔ながらっぽい水族館は、のんびり楽しめて……。誰かと競ったり急いだりするの苦手なんです、昔から。トレーナーなんて、文字通りの競争の世界なのに。変ですよね」

 

 おかしなことだと微笑む。けれど自虐しているわけではない。

 

 手すりを支えにして海を見下ろしている姿が、普段のイメージとはかけ離れて大人びていた。

 

「昔──小学校の頃から、習い事が多くて。習字とか、ピアノとか、色々やってました。好きだったから平気だったんですけど、そのせいか深く付き合える友達がいなくて。家が大きいってことで、遠慮されてました。本当は鬼ごっことか混ざりたかったんですけどね」

 

 トレーナーになるために生まれてきた。その表現に誇張はない。

 

「トレーナーになってからの日々はまるで、遅れてやってきた青春でした。担当が友達、なんて笑われそうですけど……喜びや楽しみを共有したり、たまに喧嘩したり。去年なんて、ほとんどミーク1人でG1を4勝もしちゃったから、正直私は必要ないんじゃないかって思ったりもしましたけど……私が教えた知識が、ミークの力になっていることが嬉しくて、ミークが将来どんな大人になるのか……なんて、まるで親みたいな気持ちになったりして」

 

 桐生院は優しく微笑む。視線の先には蒼海、今日の波は穏やか。

 

「レースにはゴールがあって、最初にそこまで辿り着いたら勝ち。でも人生はそうじゃないから……最近は、人生のゴールについて考えています。トレーナー業にも慣れてきて、ミークの卒業も控えているので、これからの身の振り方をどうするべきか、って」

 

 生活と将来。このままトレーナーを続けるもよし、あるいは転職、もしくはもっと別の道も。

 

「誰かと一緒に過ごす人生っていうものがあって、そうしたら今とは違う自分に変わっていく。最近気が付いたんですが、私は結構寂しがり屋なのかもしれません。だから……一緒の人生を過ごす相手がいるのだとしたら、景悟さんと一緒がいい。私、結構尽くすタイプですよ? なんて」

 

 珍しく悪戯げに笑った。そんな顔も出来るんだな、と思った。

 

 考えてみれば、桐生院の素の姿などほとんど知らない。同僚という関係で、お互いに敬語を話してはいるものの、まさか親に対してもそうやって話しているわけではないだろう。明日原だってそうだ。

 

「……もちろん今すぐに、なんて言いません。私は景悟さんのことをもっと知りたいし、私のことも知ってほしいです。だから、えっと、つまり……わ、私と──結婚を前提に、お付き合いしてください」

 

 真っ直ぐに伝えるのは恥ずかしかったのだろうか。少しだけ茶化すような言葉だった。少なくともそう感じた。

 

 桐生院はポーチから、一枚の紙切れを取り出して明日原に差し出した。カラフルな海の生き物のデザイン、それは水族館のペアチケット。

 

「2人で行きましょう。受け取ってください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   *

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あのさ。あたし──てか、2人は、あんたは……や、ごめん。何でもない」

 

 日曜日、トレーナー室。馴染みの場所。時計の針は午後4時を回る──今、回った。

 

 明日原が、いつものようにスーツを着込んで座っていた。ジョーダンは自らが指定した場所だと言うのに、まるで知らない場所に来たみたいに落ち着きを失っていた。平たく言うと緊張していた。

 

「……ダスカパイセンときりゅーさん、なんて言ってた?」

 

 言葉を迷った末に、そう聞いた。明日原は答える。

 

「教えません」

 

「……そ、っか。うん、今のは……あたしが悪いわ、ごめん」

 

 再び沈黙が訪れた。明日原は何も言わないし、何もしようとしない。ただジョーダンの言葉を待っていた。

 

「あんたに……なんて言おうか考えてきたけど、全部忘れた。でも……あっすーはたぶん、あたしのことなんて分かってるから、別にいい。それと別に、いっこ気がついたことがある。あたしは……あっすーのこと、何にも知らねーって。だから……」

 

 半分ほど自分でも何を喋っているのか分からなかったが、それでもジョーダンは喋った。頭に浮かんだ本音は全て吐き出して。

 

「1つ、訂正させてください」

 

 言葉を遮って明日原が口を開く。

 

「君のことは分かりません、僕は君ではありませんからね。君はいつも、僕の想像を簡単に越えて来ましたから」

 

「それ……悪い意味でってこと?」

 

「良くも悪くも」

 

「……っはは、何それ。ウケる」

 

 少し緊張が解れた。ジョーダンは足を踏み出して、どさっとソファーに座り込んだ。

 

「あたしさー、カワイイものが好きなんよ。あとおもれーヤツとか、流行りのヤツとか……まあ最近はあんまウマトックとかはやってねーけど、たまにうまつべで配信とかしてる。雑談とか」

 

「はい。見てましたよ、確か1ヶ月くらい前の」

 

「うぇえ!? は!? 見んてんじゃねーし! 次見たらマジで許さんからな!? てかなんで黙ってた!?」

 

 急に慌て出すジョーダンを見て、やはりというか流石に明日原の口元が緩む。

 

「次からはスパチャでもします。それで、なんですか?」

 

「コメントもすんなよ……で、あんたはどうなのかなって」

 

「?」

 

「あんたの好きなもんとか、暇なときにやってることとか……教えてよ。趣味とか、そういうの」

 

 ちょっとだけ声が小さくなった。視線も泳いでいる。

 

「強いて言うなら……小説とかでしょうか。それも最近はあまり読んでないので、ほとんど無趣味です」

 

「……ぶっちゃけ楽しいん? そんなんで」

 

「少なくとも退屈はしていません。仕事が趣味とは言いませんが、トレセンは愉快な場所ですからね。苦労もありますが……」

 

 ここしばらくのメディア対応の苦労を思い出して明日原は苦笑いした。トレーナー寮の出待ちとかもあった。

 

 それを見ながら、ジョーダンは別のことを考えていた。

 

「……ね。普通に喋ってみてよ」

 

「普通に、とは?」

 

「その喋り方。敬語やめて喋ってみてくんね」

 

 知りたかった。本当はどんな喋り方をするのか。

 

「……それはアレですね。非常に難しい……というか、もうほとんど話し方を忘れました。いや本当に」

 

「いいからやってみてよ。ほら、スタート!」

 

「え、ええっと……」

 

「ほら、じゃあ……好きな食べもんとか。何?」

 

 やりづら過ぎる。JKの雑なフリとか本当にやめてほしい。

 

「す、好きな……食べ物は、えー……さ、魚とか、かな」

 

 自分で自分の口調に違和感。誰だろうこれ、本当に分からなくなった。というか何やってるんだろうか。

 

 ジョーダンは笑うのを堪えてだろう、顔を背けて腕で覆っている。

 

「……え、えっと、じゃあ、好きなこと!」

 

「最近は……ジムとかで、運動すること、だ」

 

「ぶはっ! あははははははは! 気持ちわりー、何その変な喋り方! あっははははは! おっかしー!」

 

 明日原も苦い顔で愛想笑いするしかない。心の奥底では実は傷ついている。

 

「じゃあさ、じゃあ──」

 

 まだやるのか。いじめられっ子の気持ちが分かる気がする。

 

 今度は何が来るんだろうかと身構えていると、

 

「好きな人、教えてよ」

 

「……!」

 

 彼女の頬は赤く染まっていた──その中に混ざった緊張も高揚も、揺れながら合う瞳も。

 

 ぎこちない動きでジョーダンは立ち上がり、明日原が座る机へと足音を響かせて歩いていく。この空間だけ世界から切り離されたみたいに、ゆっくりと時間が流れていた。

 

 明日原を見下ろしていた。ごくり、と喉が鳴った。

 

「……ホントのこと、教えてほしい。あんたにとって、あたしはどんな存在なの」

 

 勢い任せ。きっと冷静ではない、分かっている。本当はこうするべきじゃないのかもしれない。だけどかつて明日原は言った。僕は君の味方だ、と。なら──

 

 時間にして、3秒ほどの沈黙が生まれていた。

 

 夕焼けが窓から差し込んで眩しかった。

 

 全部赤く染まっていた。体も顔も瞳も、言葉も全て、真っ赤に染まって心臓がうるさかった。

 

 彼女はぐっと手のひらを握って、腹の底に息を吸い込んで、躊躇う気持ちを抑え込んで。

 

 叫んだ。

 

「──あたしはぁぁぁぁぁぁぁぁぁああアアアアアアアアアッ!!!」

 

「……!?」

 

 思わずギョッとしたのを誰が責められよう。しかし誰が彼女を止められるものだろうか。

 

「あんたの優しいとことか、かっこいいとことか、大っ嫌いだぁぁぁぁぁぁぁああああああああああアアアアッ!!!」

 

「…………!?」

 

「あんたはいつもすぐ逃げるからッ、ほんとのことは全部隠すからぁッ!! あたしに怒ることとか、文句を言ったりしないし、いつでも大人の仮面を被っているからぁッ!!」

 

 荒い息もそのまま、息を吸い直してまた叫ぶ。叫び続ける。

 

「あたしから逃げんなよッ! 向き合ってよッ! 否定してもいいからッ、怒ってもいいからッ! だから逃げないでよ、あたしには本音しかないからッ! ウソとかうわべは出来ねーんだよ! ホントはあんたはどう思ってるのか気になるじゃん、知りたいじゃんッ!!」

 

 夕焼けのせいだろうか。眩しくて、目を瞑りそうになった。

 

「あたしがまだ子供だからそうしてるの!? 未成年だから距離取ってんの!? あたしに何かあるといけないから!? 舐めんじゃねーよ、バカにしてんじゃねーよッ! あたしは頭悪いけど、難しいことは分かんねーかもしれねーけどッ! それでもあんたのことが知りたいのッ! もっと近くに居てーのッ!!」

 

 大人の対応。理想的な大人。それは対等な関係ではない。

 

 それは当たり前のことだ。所得税を払うぐらいの歳になれば、誰しもそういう風になる。

 

 それでも叫び続ける。

 

「昔はどんな風だったか知りたい。あんたの故郷がどんな場所か知りたい。どんな風に過ごしてるか知りたい。どういうヤツなのか知りたい、どんなことを考えて、何が好きで何が嫌いで、好みのタイプがどんな風で、今まで付き合ってきた人がどんな人だったとか、ぜんぶ」

 

 トレーナーとして染み付いた仮面はそう簡単には剥がれない。明日原は何も言わない。

 

 それを見て、ジョーダンはまた大きく息を吸い込んだ。

 

「他の人と楽しそうに喋るなぁーっ!! あたしには絶対見せないような表情とかすんじゃねぇよぉーっ! たづなさんと飲みに行くのやめろぉーっ!!! ギャンブルすなーっ!!」

 

「………」

 

「あたしが出てないレース応援すんのやめろぉーっ!! あんたのファンとかでも女と話すのは禁止ーっ!! 他の子の勝負服とか、どこ見てるか分かってんだからなぁーッ!?」

 

「………………」

 

 これは流石に黙る他はない。

 

「あたしを見ろ、あたしを見ろ、あたしを見ろよっ! 周りがどうこうとかじゃなくて、大人とか子供とかじゃなくてッ!! あたしが──」

 

 ばっちりと目が合ったせいか、ジョーダンは少しだけ勢いを無くし、ポツリと呟いた。

 

「……あっすーのこと、どんだけ好きなのか、分かってほしい」

 

 心臓の鼓動が鬱陶しいくらいで、顔が熱くて仕方なかったから、目を逸らした。

 

「これ……チョコ、手作り。受け取れし」

 

 ──それを受け取ることは、ジョーダンを選ぶということ。1月に決まったルール、明日原がそれを受け取るということは。

 

 緊張で震えていた。もしかしたら明日原は、桐生院かスカーレットのそれを受け取った後かもしれなくて、ここへはけじめを付けるためだけに来たのかもしれない。だから怖かった。それは否定できなかった。

 

 明日原は、そっと手を差し出して、その小袋を受け取った。

 

「……! あ……あっすー?」

 

「僕の負けです」

 

 一周か二周くらい回って明日原は呆れていた。これには勝てない。こんなバカみたいに叫ばれては仕方がない。

 

「君には負けました。全く……煮るなり焼くなり、好きにして構いませんよ」

 

「…………!」

 

 驚き、喜び、嬉しさ。順番に巡っていく感情が溢れていく。

 

 手を伸ばせば触れそうで、もう一度ごくりと唾を飲んだ。

 

 ──顔が近づいていく。明日原は何もしない。

 

 夕日に映る2つの影が少しずつ近づいていく。具体的には唇が──

 

 ──。

 

 ──────。

 

 ──────────

 

 

 

 

「うわわっ!? ちょ、押さないでよ!」

 

 どさどさ、という倒れる音と、その声の方向に思わず振り返った。

 

 マジでキスする1秒前のジョーダンたちを覗き見ていたのか、トレーナー室のドアがわずかに開いていて、そのあたりにバランスを崩して倒れている数人の姿。

 

「……やばっ! 見つかったにゃ、逃げろー!」

 

「ちょ、待つにゃアケノ! にゃーも──ナビ! 服を掴むのは止めるにゃ、離すにゃ!」

 

「ネコは謝る要員で残ってください! 私が無事に逃げるためにもーっ!」

 

 だいたい何をやっているのか分かった。

 

 完全に雰囲気をぶち壊されて内心ホッとしている明日原とは対照的に、ジョーダンは唖然とした表情から徐々に目つきを変えていく。

 

「……おいコラァァァァァァァぁああああああっ!!! 逃げんじゃねーよッ! 待てやぁああああああああああああ!!!」

 

 ジョーダンは見たこともないくらいキレながら走っていった。少女たちの叫びが聞こえる。

 

 いまいち締まらない終わり方ではあった。明日原は一度だけため息をついて、ジョーダンからもらった小袋を開けた。可愛らしい梱包の中に、ハート型の小さなチョコレート。

 

 食べてみると甘くて、少しだけ苦かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「……そう。ワガママね、あんたは」

 

 寂しそうに微笑むと、スカーレットは立ち上がった。

 

「なら……もうここに来ることもないわね。それを伝えにきたのなら、もう用はないでしょう? 見送るわ」

 

 黙って立ち上がって、玄関をくぐった。

 

 もう何かを言うこともない。きっとその資格もない。謝ることもできない。

 

 振り返らずに歩いていこうと思った。本当だ。

 

 ぐい、と腕を引っ張られた。

 

 ──────。

 

「ひとつだけ……これだけ、貰っていくわ。覚えておきなさい、明日原。アンタの初めてはアタシで、アンタの1番はずっと──」

 

 顔を見られなかった。スカーレットはもう背を向けていた。

 

「アンタのことが好きだった。さよなら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 スカーレットが家に入ると、優しい顔をしたウオッカが腰に手を当てて立っていた。

 

「……まあ、気にすんなよスカーレット! 失恋なんて誰にでもあるって!」

 

 明日原の前では見せないように、ずっと堰き止めていた感情──本当はもう限界だった。ほんの些細なきっかけで流れ出すような、そんな状況で。

 

 ウオッカの言葉で限界だった。ボロボロと涙が流れ出して止まらなかった。

 

「ぐすっ、うぇ、っ、ぅあ、うわぁぁ、うわぁぁぁぁぁ────!!」

 

 その肩を黙って抱きしめて、スカーレットはウオッカの胸で子供みたいに泣きじゃくった。

 

「うわぁぁぁぁぁぁ、うぁぁぁぁぁぁぁ────っ!」

 

 声が響く。ぜんぶ吐き出す。

 

「好きだった! 私が1番最初に好きになったのに! 私の方がずっと好きだったのに! ずっとずっと一緒に居たかったのに──」

 

 ありふれたほどありふれる失恋。

 

 ──初恋は実らない。苦い涙の味がして、

 

「大丈夫だよ。お前みたいないい女を振るようなバカより、お前にはもっといいやつが居るよ」

 

「やだ、やだやだやだやだあぁぁぁぁ…………あいつがいいの、あいつじゃなきゃだめなの、でも……ウオッカぁぁ……アタシ、振られちゃった……────」

 

「……大丈夫だよ。大丈夫だ」

 

「うぇぇぇぇぇん、うわぁぁぁぁぁああん……! ウオッカぁぁ、ウオッカぁぁぁぁぁ────っ!!」

 

 号哭は止まなかった。ウオッカは優しくスカーレットの頭を撫でていた。

 

 

 

 

 

 

 

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「……ふふ。そうですね。あなたならそう答えるって思いました。本当です」

 

 後悔した。

 

 こんなことになるのなら、とも思った。ただ過去に戻ることは出来ない。

 

 明日原はスカーレットにそうしたように、背を向けてただ去っていった。桐生院は──それを見送って、しばらく立ち尽くしていた。

 

 ハッピーミークがいつの間にか横に立っていたことに気がついた時、もう涙で視界がぐちゃぐちゃになっていた後だった。

 

「あおい」

 

 ただ名前を呼ばれただけで──それで初めて、桐生院は自分が泣いていることに気がついたのだ。

 

「……あ、あれ? へん……です。私……涙、止まりません……あれ、あれ? おかしい、ですね……」

 

 自分の感情がどうなっているのか分からなくなって笑おうとして、結局失敗して──泣きながら笑っている。それが余計に滑稽だった。

 

 ハッピーミークは慰めるように呟く。

 

「……恋人だの彼氏だの、些細なことで別れるし、くだらないことで喧嘩して、ばかみたいなことばっかり繰り返す。付き合う前より仲が悪くなることも、いっぱいある……だけどね」

 

 言葉を区切って、ぎゅっと桐生院を抱きしめた。

 

「ともだちは、ずっとそばにいるよ。あおいはひとりじゃないよ」

 

「ミーク……私──……私、どうして……泣いているんでしょうね? 変ですよね? こんな……」

 

「変じゃない。……分かってた。わたしは知ってた。あすはらがあおいを選ばないことぐらい……それでも、あおいはあすはらのことが好きだったから」

 

「……ああ、そっか。私──景悟さんのこと、好きだったんだ。本当に……好きだったから、私は泣いてるんですね……」

 

 後で、一度明日原を殴ろうと心に決めて、勇気を出した桐生院をぽんぽんと撫でて──。

 

「はじめて、でした。友達みたいで、仲間みたいで、私の全部初めてでした。あの人の全部好きでした。初恋でした、私の──うぁ、うぁぁぁぁぁぁぁ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

「……だいじょうぶ。だいじょうぶだよ、だいじょうぶ……わたしたちは、ずっとともだちで……わたしは、横にいるよ」

 

 優しい声と、止まない泣き声が、快晴の青空へと溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 都内。

 

 加賀が、府中のある喫茶店で人を待っていた。

 

 カラン、と入店を知らせるベルが鳴って、その人物がやって来た。

 

「こんにちは、加賀トレーナー。お待たせして申し訳ありません」

 

「ああ、悪りぃな。突然呼び出したりしてよ」

 

「いえ全然! それよりご存じですか、明日原トレーナーのこと! 私、もう感激してしまいまして!」

 

「おう知ってる知ってる。アンタを呼んだのもその件だ」

 

 加賀が咥えていたタバコを灰皿に押し付けて消した。まだニコチンの匂いが残っているが、乙名史は気にする様子もない。

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「そりゃあお前さん、リークの件に決まってるだろ? 学園側からは通達があったろうが、俺のはまた別件だ」

 

「はあ、では何を?」

 

「言っておきたいことがあってな。いや、ネタバラシっつーか、文句か。なあ乙名史さんよ、お前さんはジョーダンをどう見てる?」

 

「はい、素晴らしいウマ娘だと思っています。怪我に負けず、再起を果たした姿は、ファンに勇気を与えてくれる……今の日本を代表するウマ娘の1人だと言えるでしょう!」

 

 唐突な質問にも間髪入れずに答えられた。じっとそれを観察した加賀が今度は別の質問を投げかけた。

 

「じゃあ明日原はどうだ?」

 

「まさに理想のトレーナーです! チームを作らないのは英断でした! 個人のリソースを分配するのではなく、全て1人の担当のために注ぎ込み、そして勝利を掴む姿はまさに理想型です! 中央のトレーナーは彼のようにあるべきです!」

 

「そうかい。……何か頼んだらどうだ? 奢るよ、記者さん」

 

「では、お言葉に甘えて……」

 

 店員に適当なドリンクを注文し、エプロン姿の店員が奥へと歩いていったのを眺めながら、加賀は口を開いた。

 

「俺の考えは全く逆だ。業界全体のことを考えたとき、明日原のようなやり方は無茶だと考えてる」

 

「と、言うと?」

 

「単純だよ、長続きしない。スターがスターで居られる期間は短い。考えるべきは、どのようにしてこの業界を長続きさせるか、だろ。あれじゃ後続が育たねぇ」

 

 口には出さないが、明日原のようなやり方は何十年も続けられないだろうと加賀は考えていた。

 

「ええ、ですが……彼らは時代とともに自然に現れてきました。これまでも、これからもそうでしょう」

 

「どうかね、そこには議論の余地があるだろうぜ。いや……お前さんに話したいのはこういうことじゃない。なぁ、どうしてこの一件に首を突っ込んだんだ? どっからどう見ても余計なお世話だったろう」

 

 この一件、という単語が何を指しているかは明確だ。

 

 乙名史はこの馬鹿騒ぎに火を付けて煽って、起こさなくていい火事を起こした。

 

「誰がどう見たって、明日原がジョーダンを選ぶのは明確だった。お前さんがわざわざあんなことしなくたってな。俺でも分かってたよ、そのぐらい。そうだろ?」

 

 さっきまでの即座な返事は返ってこなかった。その事実が、半分ほど答えの代わりになっていた。

 

「どうしてか当ててやるよ。お前さんは──本当は、明日原にスカーレットを選んで欲しかったんだろ?」

 

「……どうしてそう思うんですか?」

 

「さてねぇ。お前さんがスカーレットのファンだった……いや、今もファンだから、かねぇ」

 

 ほんの少しだけ、乙名史は寂しそうな表情を作った。

 

「まあそうだよな。トゥインクルシリーズに歴史を残してきたコンビは、大抵その後くっついてるもんな。凄腕だったってのに、担当に釣られて引退しちまった連中も大勢いる。俺ぁてっきり、明日原もそうなるもんだとばかり思ってたよ。だがあいつはそうはしなかった。スカーレットだけじゃ満足せず、まだ夢を追っかけてる」

 

「……それは、あなたも同じではないんですか?」

 

「俺ぁ違ぇよ、とっくに妥協してる。仕事しなきゃメシ食えねえからやってるだけだ。新人の頃ならまだしも、今はサラリーマンと一緒だ」

 

「そうですか。じゃあ、分かってくれますよね。だって……酷い話じゃないですか。スカーレットさんはずっと明日原トレーナーを想っていたのに、担当契約が終われば他人なんて……悲しいです」

 

「そうだな。足掛け6年も片思いだ。酷えヤツだよ、あいつは」

 

 コト。コップがテーブルに着く音と共にカフェラテが運ばれてきた。

 

 口を付ける気にはなれなかった。

 

「……苦肉の策でした。他に出来ることがなかったんです。世間の声がうまく傾いてくれればもしかしたら、と考えて……でも結局、何も変えられませんでした」

 

「仕方ねえさ。みんなそんなもんだろ、本当に欲しいものってのはなかなか手に入らないように出来てる。……厳密には、明日原が選んだのはジョーダンじゃねえ」

 

「どういう意味ですか?」

 

「夢だ。あいつが選んだのは夢だよ。そのためなら、他人を傷つけてもいいと……心の奥底じゃ、そんなこと考えてたんじゃねーかな」

 

「……そうですか。それを聞けて……よかったです」

 

 変人記者と呼ばれた人物の姿はそこにはなかった。

 

「お前さんなら、その気持ちが分かるだろ」

 

 人はいつでもヒーローを望んでいる。

 

 乙名史は何も答えなかった。

 

「……いいさ。お前さんは、まあしばらくはトレセンは出禁だろうが、ただのファンとして見れるいい機会なんじゃねえか? ジョーダンを見とけよ、そうすりゃきっと……明日原が追いかけてる夢ってのがなんなのか、その目で見られるかもしれないからな」

 

 そう言い残すと、伝票を持って加賀が立ち上がり、会計を済ませて店を去っていった。

 

 カフェラテからは、変わらず湯気が登っていた。

 




春天はタイトルホルダーで行きます!!!!
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