時間ばかりが過ぎていく。
トレーニングを全くしない日々はトレセンに来てから初めてで、結局自主的にランニングをしていた。やることが何もなくて暇だった。何かしないと狂いそうだった。
日曜日──何もない日曜日。
少し前まではナカヤマフェスタと話をすると意気込んでいたはずなのに、今は誰とも話す気にもなれなかった。見かねたギャル友に外出を誘われたが断った。何もする気になれなかった。
こんな日はいつ以来だろうか。
入学直後の、明日原と出会う前のことを思い出した。
(あっすー、何してんだろ)
明日原からは連絡が途絶えている。
(話したいな。あっすーなら、何したらいいか教えてくれるかな)
壁に身を預けて、ベッドに座って天井を見上げている。ずっとこうしている気がする。
SNSなんか見る気になれなかった。ましてやテレビなどあり得なかった。
見るべきだ、と判断を下す自分がいる。だけど自分の無力さを直視することが嫌だった。誰かと話すと自分の浅ましさが暴かれるような気がした。何かを見ると自分の惨めさが浮き彫りになる気がした。
こうして今も、倒壊したり、津波に流されたりしていない場所で息をしている。それだけで後ろめたかった。
掛け時計を眺めてみる。秒針は──時間は今も進んでいる。時折余震を感じる。きっとこの場所はどうともないだろう、と他人事みたいに思った。思っただけだった。
廊下の方から大声が聞こえる。誰かが言い争っているのだろうか? 結局視線もやらないまま──ラジオを聞き流すみたいにしてそのまま腐っている。アケノが出かけていたことが少しありがくて、それでも寂しいと感じる自分が浅ましくて、
「──っ、──!」
「──さいッ! いるんで──よッ!?」
「やめ──いっ! 待っ──、い!」
足音が近づいてくる。酷い怒号、何やら聞き覚えがあるような──。そんなことを思っていると、部屋のドアが蹴り飛ばされた。腰に抱き付いて必死に彼女を抑えようとする寮長のウマ娘と、そんな静止を振り切って見たことない憤怒を纏う彼女──ダイワスカーレットの真っ赤な瞳がジョーダンを捉えた。
「……見つけたわよ。また随分楽しそうなツラしちゃって──」
ぐいっと寮長のウマ娘を振り切って、彼女はトーセンジョーダンの服を掴み上げると、一切の躊躇なく右腕でジョーダンの頬をブン殴った。
強烈な痛みに、反射的に抵抗しようとするジョーダンの動きを躱し、容赦なく壁に押しつけた。背中から壁に衝突して肺から空気が出て息が出来ない──。
「ジョーダンさんっ! スカーレット先輩、やめてください! 一体何でこんなこと!」
「外野は黙ってなさいッ!」
一睨みで寮長のウマ娘を怯えさせて黙らせると視線をジョーダンの両目に合わせる。
「……アンタ、何してんの?」
全く訳の分かっていないジョーダンに、もう一度スカーレットは叫んだ。
「何してんのって聞いてんだろうがッ!!」
「なん……っ、すか、いきなり……つか、放して……っ」
ウマ娘の力を持ってしての奇襲。壁に縫い付けられているようなジョーダンは、胸骨が軋むような感覚の中で抵抗を試みていた。
「この2日間アンタ何してた? さっさと言いなさい。答えられるもんならね」
意味の分からない行動──理由の見えない暴力、そして高圧的なスカーレットに瞬間的に怒りが湧き上がって来た。
スカーレットの右腕がジョーダンの体を壁に押し付けて、身動きを封じている──全力ではないだろうが、全くセーブもされなかった最初の一撃を食らった頬がすごく痛かったから、右足でスカーレットの鳩尾を蹴り飛ばした。
「──っ、い……ッ、たいわねぇ……ッ!」
憤怒を通り越して、スカーレットの瞳は憎しみの炎すら燃え上がっている。その姿はなぜだか痛快で、つい見下すように口を歪める。
その様が、既にブレーキの外れていたスカーレットの心の火に油を注いだ。右の拳がジョーダンに襲い掛かり、寸前で躱されたそれは壁に穴を開けた。もしも当たっていたら──と、最低限考慮されていたはずのセーフティーも外れている。
それが引き金になって、掴み合いの喧嘩に発展する──その直前に、ウオッカが部屋に飛び込んできてスカーレットを引きずり剥がした。
「ッ、放しなさいウオッカ、そいつ殺せない……ッ!」
「放すわけないだろ!? いいから落ち着け、冷静になれよスカーレット!」
「なれるわけないでしょ!? そいつは──」
「いいからやめろってッ!」
懇願にも聞こえるウオッカの声にスカーレットは言葉を飲み込んだ。
「……落ち着いてくれ。なあ、ちゃんと話そうぜ。今必要なのは、こんなことじゃねえだろ……?」
泣きそうなウオッカに、ようやくスカーレットは辛うじて冷静さを取り戻した──。
ウオッカは実は土足のままだった。相当急いで駆け込んできたので、脱ぐ余裕もなかったというのが正しい──。それを咎めるような視線をジョーダンから浴びて、困った顔をした。
「……悪ぃって。後でちゃんと掃除すっから、今は許してくれよ」
談話室の机を挟んで向き合う3人──トーセンジョーダン、ダイワスカーレット、ウオッカ。あと巻き添えになった寮長のウマ娘が立ったまま心配そうに彼女たちを見つめていた。
最初に口火を切ったのは当然と言うべきか──ダイワスカーレット。
「もう一回だけ聞いてあげる。あんたこの2日間何してたわけ?」
「……別に、何も……出来ないっしょ。こんなご時世で──」
質問の意図が読めなかったので投げやりに答えたのだが、やはりというかスカーレットの怒りを買ったらしい。言い切る前にスカーレットが椅子から立ち上がった。また雰囲気が緊迫するが、ウオッカの諌める視線を受けて大人しく座り直し、代わりに大きなため息をついた。
「……呆れた」
感情が巡り巡って、そんな失望の声に変わった。
「分かった。あんたに何かを期待していたアタシがバカだったのね」
「……さっきから何なんスか?」
平常ではないのはジョーダンとて同じ。そもそもなぜ栗東寮にスカーレットはおろか、ウオッカまでいるのか。その疑問はひとまず置いておくにしても、突然現れて暴力を振るわれては誰でもそうなるだろう。
「何? 変なこと聞くのね、まさか……本当に心当たりないのかしら?」
「ッ、だから何なんスか!? はっきり言ってくんないスか? 回りくどいのキライなんで」
「ああそう。アンタ、明日原どうした?」
険悪な空気の中、予想外の言葉にジョーダンは間の抜けた声を出した──。
「……は?」
「なんでアタシが現れたか分かってる? 言っとくけど、アタシはもう顔出すつもりなんて無かったのよ。あいつに会うつもりもなかった。それはあいつ自身のため、そしてアタシ自身のために……でも、こんなことになって、心配になって顔ぐらい見ておこうって思って」
どれだけスカーレットが憤っているのか、見れば分かる。その理由は単純で──。
「確認だけして帰るつもりだったのよ。あいつの隣には当然アンタがいて、何とかやってるんだろうって……それを確かめたらさっさと帰ろうって、だけど……」
途絶えた連絡の意味も考えず、ただ薄い望みを抱いて腐って、
「なんでアンタ、あいつの横に居ないの? 何で──」
煮えくりかえる怒りも最もで、
ふと、明日原の困ったように笑う顔を思い出した。
「……連絡は付かないのよ、お母さんに……ねえ何で? 何でアンタここにいるの? こんなとこで何してるわけ? それより大事なことがあった? 知ってんでしょ、あいつの出身を──」
それに気がついた時、頭が真っ白になって、でもきっとこんなものではないはずなのに、
「──知らないじゃ済まないのよッ!! アンタもう冗談じゃ済まないのッ!! そういうとこまで来たんでしょ、そうなることを望んだのはアンタで、あいつが選んでアンタも選んだッ!! もうガキのお遊び恋愛ごっこじゃ済まないのッ!! そうでしょッ!?」
「あ────ち、違っ、だって、あっすー何も言ってなくて」
「言う訳ないでしょそんなことッ!! "助けてくれ"なんて言わないわよ担当に、何でそんなことも分かんないの!? 一緒にやってきたんでしょ、何で分かんないの。あいつが不器用なの何で分かんないの」
「だ……だって、ウソ、居なかったし、トレーナー室ぐちゃぐちゃだし、土日だし」
「……居るわけないでしょ。ちょっと探せば……トレーナー寮なんてすぐそこにあるのに、連絡もしなかったの……何で? 何でアンタそんな無関心で居られるの? アンタのトレーナーなんじゃないの?」
加賀に会いにくるついでにスカーレットに付いて来たウオッカは、トレーナー寮からジョーダンを探して走り去っていくスカーレットに不吉なものを覚えて追いかけて、なんとか取り返しの付かない怪我を両者が負う前に止めることが出来た。
──ウオッカは、止めるべきか迷ったが、結局何もしなかった。
「それは、でも、会えるから、明日になったら会えるから、だから」
口元が震えている。声に表れていた不安を否定するように、自らの過ちは認め難く、取り返しの付かないことをしてしまったのではないかという想像をかき消したかった。例えそれが自分の影から逃げるような意味のない行為だとしても──
「アンタは知らないのね。あいつが今、どんな生活してて、どんな顔してるのか……知ってたら、そんな言葉は言えないもの。でもアンタは知らない。知ろうとしなかった」
「違うっ! そんなことない、あたしは──」
「知らないのよね。トレーナーとしてではなく、1人の人間としての明日原を知らない」
「違う……!」
「あいつが片親なの知ってるでしょう? だから──」
──知らなかった。
そんなこと、教えてくれなかった。
「……知らなかったのね。ほら、知らない、知らない、知らない……何もしない。アンタ何も知らない」
そんなこと──そんなこと?
「なんで……教えてくれなかったの。あっすー、言ってくれなかった」
「言ってくれなかった? 知ろうとしなかったの間違いよね。本当のこと言ってみなさい? 本当は知りたくなかったんでしょう? 幻滅するかもしれないから。さぞ居心地良かったことでしょうね」
「ち──違う、違うって、違うから」
「ねえ、誰でも良かったんじゃない? アンタを認めてくれるヤツなら、別に明日原である必要なかったのよね?」
「違う、違うッ! 違う、あたしは」
違うと叫んで──違う。明日原だから──他の人じゃダメだった、そう叫びたかった。スカーレットは嘲笑うように続ける。
「でもアンタは何も知らない。甘えてばっかり。明日原はなんでも許してくれる、理想の王子様……夢を見過ぎ。夢見せるはずのアンタが1番夢見てるなんて、酷い冗談」
「違う、違う!」
「カッコよくて、自分のこと何でも分かってくれる。なんでもしてくれる。理想になってくれる。いいわね、そんな人が現実にいたら……女子の理想の素敵なダーリン。おまけに世間にも知れ渡ってくれてるおかげで隠す必要もない。夢みたい」
「違う、違うッ、そんなんじゃない、そんなんじゃ──」
恋に恋しているだけ──それは真実ではない、想いは嘘なんかじゃない。違う、でたらめだ。
「そんなのでしょう。アンタは何も知らない。1人の人間として明日原を見てない」
「そんなことない、やめてよッ!」
「いつも支えてくれる。辛い時に横に居てくれる──アンタは何もしない」
──本当だ。本当に想っている。
なのに、どうしてちゃんと言い返せないんだろう。
「違う……」
「あいつはね、完璧人間なんかじゃない。人並みに脆くて、人並みに苦しむの。ねえ、どうしてアンタは散々支えてもらっておいて、あいつが辛い時には側に居てやらないの? どうして支えてやらないの?」
「あたしは……」
"自分のことしか考えてないんだ、ナカヤマは"──自分の言葉が脳裏に反響する。あの時、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
自分のことしか考えていなかったのは──
「自分のことばっかりね、アンタは」
「違う……」
弱々しく溢れた声が情けなかった。溢れる涙が、まるで言い訳しているようで──都合が悪くなるとすぐに涙を流すような、昔に見た嫌いな女子みたいで、自分の全てが嫌いになって──ああ、これも自分のことだ。自分のことばっかりだ。
「……ジョーダンっ! 大丈夫!?」
ドアを開けて飛び込んできたのはアケノオールライト──。巻き込まれていた寮長のウマ娘がこっそり連絡しておいたため、慌てて帰ってきたアケノの額には汗が浮かんでいる。
俯いて涙を流すジョーダンと、それを冷たく見下すスカーレット、横で何とも言えない顔のウオッカ──状況はうまく掴めないが、アケノはすぐにジョーダンに寄り添った。友達だから──
「味方になって、助けてくれる存在がいるのね、羨ましいわ。優しい人たちに囲まれているのね」
皮肉ではなく、純粋な本心──。ウオッカが微妙な顔をしているのには気が付かなかったが。
「でも世の中、そんな存在がいつもいるわけじゃないの。特に明日原みたいなタイプは、アンタみたいに友達が多い訳じゃないから」
状況をうまく掴めていないアケノだが、ジョーダンが泣いているのはスカーレットの言葉が原因であることぐらいは分かった。ジョーダンの肩を抱いてスカーレットを睨む。
「……こんなことになって、どうしたらいいか迷っているのはみんな同じよ。今の世の中でどうしたらいいかなんて、アタシだって分かんない。けど……ちゃんと考えなさい。分かんないなら考えるしかないのよ。自分の頭で……何をするべきなのか、ちゃんと考えなさい」
そう言って──スカーレットはゆっくりと立ち上がった。
彼女の紅い髪が揺れる背中をウオッカは慌てて追いかけて、土足で上がった掃除の分を寮長のウマ娘に片手で謝って退室していった。いや、結局掃除しないまま帰るのかよ。
「……ジョーダン、どこ行くの? 大丈夫?」
「行かなきゃ、あたし……行かないと、いけないから──」
体を動かす感情の種類も分からず──もしかしたら本当に、自分はただ理想を押し付けていただけなのか? ほら──まだ、自分のことばかり考えている。
チャイムを押す。
『……はい』
いつも通りの声──掠れていた。
「あっすー、あたし。いきなり、ごめんね」
泣きそうなのを堪えて、極力明るい声を出す。
『……ジョーダン。何か、ありましたか?』
普段と同じ。
「や、なんもないよ。なんもないけど、顔……見せてくれない? それだけでいいから」
普段と同じ──まさか。そんなわけがあるはずない。
『……すみません。今は誰とも会うつもりはありません。わざわざ来てくれてありがとうございます、ジョーダン』
柔らかな──言葉を選んだ拒絶が、全ての想像を裏付けて、それらが後悔に変わる。
『まだ寒い時期ですから、風邪に気をつけて。では』
今日も変わらず日が沈む。
風が冷たくなって来た。ジョーダンは少し歩いて、心配そうに見つめるアケノの胸を借りて、声を押し殺して泣いた。
3月の──
夕方のニュースで、計画停電を実施することが発表された頃の話だ。