3 ヶ 月 経 過
エ ル 、 腹 を 切 り な さ い
トレセンは全国各地から生徒が集まる場所で、震災があってからの初めての月曜日は少し雰囲気がおかしかった。
被災地が出身のウマ娘もクラスメイトにいる。欠席も目立った。ジョーダンも休もうかと思ったが、休んだってやることもなかった──何か与えてくれるなら、勉強でも構わなかったのだ。
空白の時間を与えられるのが嫌だった。何かやることを求めていた。
「……千羽鶴?」
「うん……私たち、何にもできないけど……それぐらいのことは、出来るんじゃないかって。ジョーダンもどう? これから折り紙買ってきて、作ろうって話なんだけど」
放課後の教室で、あるクラスメイトがそんな優しい言葉を言う。
やろうかな、と思った。
明日原は今日からしばらく休むと連絡が入っている。トレーニングもない──最も、明日原がいたとしてもとてもトレーニング出来るような雰囲気ではなかったのだが。
何かやるべきことを求めていた。もっと言葉を選ばないのなら暇だった。
返事を返そうとした時、横から別のクラスメイトが冷たい目でジョーダンたちを見下ろして呟く。
「……迷惑だから、やめてよ」
そのクラスメイトの出身は──
「役に立たないもの送られても、迷惑なだけ」
「や、役に立たないって……その、あんたの出身はわかってるけど、そんな言い方……」
──思わず、と言ったふうに言い返したクラスメイトたちの会話をぼうっと眺める。
「東北は寒いよ。昨日だって……夜、凍えそうだったんだって。毛布が足りなくて、段ボールで寝たって……折り紙なんて紙切れじゃん。なんの役に立つの。支援とか言うなら、せめて食べられるものにしてよ」
「そ──そんな言い方ないじゃん! そりゃ、確かに千羽鶴は食べられないけど、そんなつもりでやろうとしたんじゃない!」
「だけど実際、衣食住揃った場所から送られる応援の声とか、本当にうんざりするだけ」
「けど……言わないよりはいいでしょ? 何もやらないよりはマシでしょ!?」
「ほんとにそう思ってるなら、ちゃんと役に立つものを送ってよ。被災地に必要なのは応援の声なんかじゃない」
──とても嫌な感じだった。
決して誰が悪いわけではないのに、悪者を押し付け合っている。椅子取りゲームみたいだ。
ずうっと考えている。今のレースの存在意義について──そもそも、レースはなんのために存在するのか。トレセンは何のために?
夢は食べられない。千羽鶴と同じだ。だからずっと後ろめたいのだ。
これからずっと走るたびにこの想いを思い出すのだろうか。震災がレースを奪った──楽しかったはずのレースを奪っていった。
返してよと言いたかったけど、そもそも自分のものではない。支えられてこそ成立していたものだったのに。
どうして走っていたのだろう。
どうしてレースを選んだのだろう。
何が楽しくて? 何のために? 誰のため?
(……こんなあたしでも、何か出来るんじゃないかって……でっかいことが出来るんじゃないかって……2年前はそう思って、ちょうど今頃入試があったっけ)
出来ると思った。選抜レースに勝って、メイクデビューに勝って、芙蓉ステークスに勝って、ついには皐月賞に有馬2着。これからもっとやれるって──
(……やったところでどうなるんだっけ。てか、なんであたしレースにしたんだっけ。勝ったところで……ああ、そっか。だからナカヤマは──)
ナカヤマフェスタがどうしてトレセンを辞めるのか、それが理解出来てしまった。彼女の背を押したのは、きっとどうしようもないほどの無力感──。
オルフェーヴルからの連絡があったのは何時のことだったか、記憶野は働いていない。ただ一つ確かなことは、呼び出されたから歩いたという事実程度のものだった。
「……ゴルシ?」
──まだ余震は収まっていない。ちょうどさっき、少し照明が揺れていたのを覚えている。そのためだろうか、ゴールドシップは閑散とした空き教室で、長身を縮こませて机の下に隠れていた。目を疑う。
「なにしてんの、そんなとこで」
「違う、こんなもん余震だ、被害はねえ、津波もねえって、分かってる、アタシは分かってる」
驚いた。実を言うと、ジョーダンは目の前の光景が信じられなかったのである。
「本震なんか過ぎ去ったろ、1週間もすりゃ落ち着くんだ、やべーのはもう来ない、来るわけないから、プラント事故ももう起こんねえ、だって日本の発電所だ、ありえねえって」
ぶつぶつ。小さな声でゴールドシップが呟き続けている。上擦った声で絶え間なく、よく分からないことを、体を縮めながら。
「じ、ジョーダンセンパイ……ちょうど良かったっス。ゴルシも……」
この辺りに呼び出したのはオルフェーヴル。何か相談があるとかで来たのだが、状況を見るに察した。
「追加の被害なんて知れてるって、大丈夫だ、けど今のでも……買い占め、いや違う、電力が保たねえ、けど都心を停電なんて出来ねえだろ、だけど」
いつも訳のわからないニヤニヤした笑みを浮かべてちょっかいを出してくる、そんなよく分からなくてあんまり関わりたくないヤツ、それがゴールドシップだった。だけど今の姿はなんだか、見ているだけで不安になる。
「東京にも放射能は来る、けど問題なのは2次被害だろ、だけどこんなモンどうこう出来ねえ、どうすりゃ……どうすりゃ」
「ゴルシ?」
「違う、考えろ考えろ、どうすりゃいいんだ、また直近でデカいのがこない可能性なんてどこにもねえんだ」
問いかけにも答えない。机の下でこんなことをずっと喋っているのは、はっきり言って不気味だったし怖かった。あのゴールドシップをこんな姿にした今の状況というものまで含めて、とても息苦しくて怖かった。
「……ゴルシっ!」
「ッ、誰だ!?」
はっきり言って間抜けな構図だった──思いっきり真剣に机の下に長身を隠すゴールドシップと、それを見下ろすジョーダン、そしてオルフェ。ゴールドシップはジョーダンたちを確認して、ふっと息を吐き出した。
何をしているのか正直分からないし、なんだったら不気味だった。そんな心境を見透かしたのか、視線を外してゴルシが呟く。
「……はっ、笑ってくれよ。柄にもなくビビってんだ、アタシ……」
誰が彼女を笑えるものか、しかし適切な返答が思いつかなかったので口を閉ざした。
自然災害を恐れるのは当然だ。洪水は恐ろしいし、台風は大きな被害をもたらす。生物として地震を恐れるのは正常だと思う。そして最も恐ろしいのは──。
「セ、センパイ。自分、センパイに聞きたいことあるんス……」
直接ジョーダンに会って話したい、それが元々の理由だった。ゴルシは──運がいいのか悪いのか、たまたまここに居合わせてしまっただけ。
「今の……なんか、どうしようもないカンジ、っていうか……当面のレースの日程も、まだ発表されてないし、ホントにレースが元通りになるのかってのも分かんないし、けど……自分、このまま何もしないの、なんか違う気がして」
ぐっと手のひらを握って言うその言葉は誰もが思っている。
「……だから、センパイなら、何か分かるんじゃないかって……教えてほしいっス。センパイ、自分に何か出来ること、ないっスか?」
真っ直ぐな信頼の込められた瞳が痛いほど突き刺さった。
「それ……なんであたしに聞くん?」
「え、それは……センパイなら、何か分かるんじゃないかって思ったから……」
「あたしなら……?」
「だって、センパイは優しいし、強いし……なんて言うか、他人の痛みが分かる人だから」
──。
「ごめん。あたしはそんな強いヤツじゃない」
「え?」
「そういうのは、加賀っちみたいな大人にした方がいいと思う」
語るに幼く、動くに浅く──重ねた人生の中に答えはない。初めて経験することだ。
「力になれなくてごめん。あんたのその気持ちは、すごい大事なことだと思う」
「え、あ……ジョーダンセンパイ?」
それだけ言い残して踵を返したジョーダンを、オルフェは何をしていいのか分からずそのまま見送った。
ー ー ー
少し唐突だが、カノープスと呼ばれるチームについて紹介しよう。
「うい〜っす〜。ネコ来てない〜?」
プレハブ小屋の扉を開いて響いた、間伸びした声。彼女の名前はルーラーシップ、今年からクラシック級に突入するオルフェーヴルの同期だ。
「あら……? シップが時間に間に合うなんて、明日は雨ね」
慎ましやかで上品な雰囲気を纏うウマ娘が答える。彼女は長机に転がっていた雑誌を眺めていたところだった。こっちのウマ娘はアパパネ──阪神ジュベナイル
「え〜? 時間〜? なんのこと〜?」
「アナタねぇ……話があるって言ったでしょう? キュアも寝てないで」
水を向けたのはうたた寝をしていたウマ娘──ワンダーアキュート。ダート部門で活躍するウマ娘であり、同じくクラシック級──寝顔は柔らかで、しかしどこか古臭い空気を纏っている。
エアコンの暖気は眠気を誘う。午睡も仕方のないことだ──。
ワンダーアキュートはゆったりと瞳を開けて、眠気の残る瞳を擦った。
「ん〜……、まったく、暖かい部屋はすぐ眠ってしまうねぇ……ぐぅ」
「寝ないで。起きなさいキュア、シップが来たわよ」
「おや、シップ……ネコは来ないのかい……?」
「来てないわよ。あの子、随分塞ぎ込んでるみたい」
「ふぅ〜む……。……、………………」
「寝ないで!」
呼びかけ虚しくワンダーキュアートは眠りに落ちた。それを横目にルーラーシップ──ふわふわした雰囲気の彼女は椅子に腰を下ろして、長机に備え付けられていたせんべいを頬張った。
「うーん。トレーナーも来ないんでしょ〜? ぼくも寝ようかなぁ……」
「寝・な・い・で・! シップ! アナタまで眠らないで! 収集が付かないじゃない!」
「焦ったってねぇ、仕方がないよ。時間が必要なことだってあるじゃろ──……ぐぅ」
「んぅん……ぐぅ」
「もう!」
カノープスの良心アパパネは、いつも通りの調子に肩を落とす。クセの強いチームメイトはあいも変わらず自由だ。
がらんとした部室──メンバーの多くが顔を出していない。トレーナーである三笠も今日はトレセンに戻る予定はない。
「……仕方ないわね。その姿勢のままでいいから、話を聞いて頂戴。話っていうのはネコのこと」
「……あの子がいないと、寂しいねぇ……」
「抱き枕……」
「そうね、私も……って、抱き枕は違うでしょう。全く、いいかしら? 話っていうのは、なんとかネコを元気づけられないかってことで──」
その続きを話そうとした時、部室であるプレハブ小屋の扉が開いた。扉の向こうから現れたのは、ちょうど今話していたウマ娘の影。
しょんぼりと耳を垂らして、暗い顔で俯くネコパンチが、トコトコと所在なさげに小さな姿を表したのだった。
ー ー ー
「えっ、卒業生総代って……ミーク先輩がやるの?」
「いえーす……なので、送辞はジョーダン……やってほしい」
色々とすっ飛ばした返答。どうそうなったのか分からず、ジョーダンは少し考え込んだ。
ここは生徒会室。広い額縁に飾られるある校訓。Eclipse first──現会長であるエスポワールシチーが治める生徒会。彼女は代々受け継がれてきたその椅子に座ったまま腕組みをして、静かに成り行きを見守っている。
先代会長であるマツリダゴッホから受け継がれた、伝統ある会長の座──しかし、生徒会も未だ迷いの中にあった。
「な……なんで? あたしが……?」
困惑。それもそのはず、脈絡のないハッピーミークの言葉の意図が読めない。
「やってほしい」
「やってほしいって……」
3月は様々なことを意味する。その一つ──学生にとって重要な節目。つまりは卒業式。
卒業式は3月26日──その日まであと2週間もない。時間的には割とギリギリな話で、準備が遅れているのは偏に──。
それまで沈黙を保っていた現会長エスポワールシチーがついに口を開く。
「ンン……
(自分のこと"
「急な話で済まぬ。元々はロジユニヴァースにやってもらう予定だったのだが、彼女は辞退した」
「え……なんで? ロジが……?」
トレセンでは、レースで成績を残したウマ娘がこういった役割を担うことが多い。メディア露出を意識しての配役──ロジユニヴァースは去年のダービーウマ娘で、箔は十分だった。
「先日の震災に思うところがあったらしい。彼女は代役としてトーセンジョーダン……
「えっと、いや……ゴメンけど、ムリっす。あたし、そういうのキャラじゃないし……」
「そう言うな。
世紀末漫画みたいな喋り方だったが、エスポワールシチーの声は真摯なものが篭っていた。
「同じ言葉も、話し手が異なれば意味を
「あたしにしか伝えられないこと──」
自分にしか伝えられないこと、それがあるのなら引き受けたい。僅かにそんなことを考えたその瞬間、スカーレットの言葉がフラッシュバックする。
『自分のことばっかりね、アンタは』
スカーレットの言葉が頭の裏側に張り付いて、いつでもその声がジョーダンを責め立てて、小さくて卑怯な本性を暴き出す。
「……すんません。やっぱムリっす。あたしには……」
出来るものか。大切な人のことなど忘れて、自分のことばかりだったのに、どうして他人に何かを伝えられる? はっきりと断ろうと顔を上げた瞬間──
「問答ォ無用ッ!!」
「うぇっ!?」
「ならば余計にやるべきだ。ハッピーミーク、
「うむ」
「いや、あたしはやらないって言ってんじゃないスか! やらない、てか出来ないって!」
エスポーワールシチーは一歩も引く気配がない。圧力を纏ったままじっとジョーダンを見据えている。
「だいたい送辞なんてカイチョーさんがやればいいじゃん! なんで人にやらすの!?」
「反論も最も。卒業生には
今となっては気軽に持ち出せる話になった。ネコパンチや、当人でもあるブエナビスタは口が軽い。今となっては割と誰でも知ってる話だ。
「ロジユニヴァースが辞退した時点で、ブエナビスタか、
「……ムリなもんはムリっす。てかぜったいなんか誤解してる」
「いいや。
「出来ないっす。てかやんない」
「出来る」
「やらない!」
「ンンン……やれィッ!!」
なんだか意地になってきたジョーダンは一喝されても全く引く気配なし。静かな睨み合いが続き、エスポワールシチーが一歩譲るように一息ついた。
「……学園の深く落ち込んだ雰囲気は察していよう。先達より受け継がれてきた、活気あふれる学園を……皆の笑顔を取り戻したい。力を貸してくれ」
静かに頭を下げたその姿が、ずっしりと重たいものを背負っている感じがして、返す言葉を失う。そんなジョーダンの隣で、ハッピーミークがぼりぼりと煎餅を齧る音が響いていた。
ー ー ー
トレセンには悪人がいない。だが、真っ二つにへし折れた花を見て、ここに悪がないと言い切れるか?
未だふらふらと水面を漂う木の葉。自らの居場所も分からないまま──ただ揺られて、目的地も定めずただ待っている。
春が来るのを待っている。
図書館から本の返却を催促され、呼び出しを受けた。まさか自分が本など借りるはずもない。何かの間違いであることは明白だったが、図書委員の強い主張に結局足を運ばざるを得なかった。
いつだかサボった授業の罰として、校内清掃を命じられた。気が向かなければ遠慮なく授業でも行事でもサボってきたが、3年目にして初めてそんなことを言われた。今まで聞いたことがなかった。
花壇の手入れを手伝ってほしい。見ず知らずの環境委員からそんなメッセージが飛んできた──ナカヤマの趣味を知る人物は少ない。薄々察していた。
何かと理由を付けて、呼び出されることが増えた。
寝ぐらに帰る途中だった。トレセンを出れば知り合いに会う確率も少なくなるので、多少はマシのはずだったのに、結局ナカヤマはトレセンを出る前に出会ってしまった。
「風が泣いている……。アナタも寂しいのね、凍りつく
なんか居た。
トレセンには変な人種が多くいる。にゃーにゃー鳴くウマ娘とか、スケジュール廚とか色々いる。春も近いし、ちょっと変になることもあるだろう。
丁度グラウンドを見下ろせる道を歩いていた。トレーニングを重ねるウマ娘たちを見下ろして悦に浸る気持ちは多少は分からないでもないが──。
「なんて悲しき
ヤバいヤツだ。なるべく視界に入れないようにするが、なんかヤバめの独り言は隣で続けられる。真横を追随して歩いているのだ、走って逃げようかとも考えた。
「そしてただ、春が来るのを待っている。そうね?」
──振り向いてしまったことは責められない。まるで心の奥底を見透かしたような言葉が聞こえてしまった以上、無反応では居られなかった。
彼女の視線ははっきりとナカヤマフェスタを射抜いていた。必然的にアイコンタクト、睨む視線に返すのは薄気味悪い微笑み。
「……誰だ、オマエ」
そう問うも、彼女は芝居がかった仕草を崩さない。
「そうね、
少し頭がおかしいのだろうか。警戒心を強めた。
「ナカヤマフェスタ──唯一の
トレセンの生徒は軒並みキャラが濃い──少し噂で聞いたことがある。誰もがこんな喋り方をするわけではない。
「その妙な喋り方──オマエ、アーネストリーか」
──アーネストリーはシニア2年目に在籍する高等部3年のウマ娘。ナカヤマフェスタがわざわざ名前を覚えているのは、彼女が実績を持っていたから。
ジュニア期での怪我、クラシック期での怪我──彼女が開き始めたのはシニア期の終盤からだった。惜敗を繰り返しながら、ついに重賞を制すに至った──
「違うわ」
違った。
「我が
「バカ抜かせ。アスタロトだぁ? あんまり舐めてくれちゃ困るぜ。"ア"しか合ってねえしな」
「違うと言っているでしょう」
「思い出した。去年の中日新聞杯だろ? そいつを勝ったヤツだ」
「フッ……我が栄光なる勝利の記憶」
「やっぱオマエがアーネストリーじゃねえか」
「違うと言ってるのよ、何度も言わせないで」
少し強い風が吹いた。ターフを撫でて通り過ぎる寒風、空は茜。黙って歩き出した。
「ちょっと。待ちなさい」
「アンタほど暇じゃない」
「私に
そう言いながらナカヤマの後を追う†漆黒の堕天使†。早足だ。一方でナカヤマは振り返りもしない。
「待ちなさい。いいから待ちなさい」
完全に無視して歩き続けられ、アーネストリーはちょっと不安げになった。
「我が
「話なら明日にしてくれ。今は気が向かねェ」
「許すとでも? 伝承において
スタスタスタ。マイペースにアーネストリーを置いてきぼりにして消えようとするナカヤマ──
「──待ちなさいったら、もう!」
ナカヤマの手首が勢いよく掴まれた。アーネストリーは、背景に溶けて消えようとする幽霊を捕まえるかのような、そんな表情をしていた。
「……初めに一つ言わせてもらうけれどね。アナタとは別に、これが初対面ではないのよ」
「はっ、どっちも
「アナタとは一度戦場にて
そう言われて、ナカヤマフェスタは少し記憶の海を手繰った。そして思い出して理解した──どうして、アーネストリーの言葉に少しの怒りが混ざっているのか。
「……そういや私も出てたっけな、去年の中日新聞杯。忘れてた」
「思い出したようね。そう──」
12月──あの冬は、例年に比べてとても寒かった記憶がある。各地で豪雪が相次いで、歴史的な降雪量を記録した。
12月12日、中日新聞杯。1番人気アーネストリー1着、2番人気ナカヤマフェスタは13着に終わり、それ以来ナカヤマはレースに出場していない。そして結果的に引退レースになろうとしている。
アーネストリーもこのシーズンは休養に充てていた。今年はまだレースに出場していない。
「人気順がひっくり返ることなどレースでは茶飯事、だけど……あの時のアナタは全力ではなかった」
「覚えちゃいない。レースじゃ結果が全てで、結局勝ったのはアンタじゃねェか。3ヶ月も経って、今更文句を言いに来たってのかい?」
少し嗤ってみた。アーネストリーは真剣な表情を崩さない。
「YES、でもNO。正直期待していたのよ、アナタとの戦い。アーネストリーはようやく実りを迎えようとしていたもの」
「……? なんだその変な喋り方、アンタはアーネストリーだろ」
「アーネストリーはこの
──アーネストリーであって、アーネストリーではない。それは奇妙な二律背反、10代に襲いかかる無差別な病魔、その名前を厨二病と呼ぶ。
「アーネストリーは気がかりだったのよ。もし手を抜かれていたのだとしたら、って。それはあまり爽快な勝利とは呼べない」
アーネストリーが何かを言おうとも、はっきり言ってナカヤマフェスタは興味などなかった。過去の話は終わった話、もう関係のない話。
「そんな時、風の噂を耳にしてたのよね。あの時……アナタのお母さんが危篤状態にあった。そんな話」
ピクリ。ナカヤマの耳が少し動いた。
「……アナタ、本当にこのまま引退するつもりなのかしら?」
言葉以上になんらかの意味が込められた言葉、アーネストリーはまだナカヤマの手首を掴んでいたが、やがて振り払われた。そしてコツコツと足音を響かせて歩き去ろうとする──。
「っ! 待ちなさい、ナカヤマフェスタ!」
「人んちに土足で入り込むもんじゃない。特に家の、奥の方にはな」
「話はまだ終わってない! このまま終幕など、このアーネストリーは認めないわ!」
「知るかよ」
冷たく突き放したナカヤマをアーネストリーは追いかけた。そうするべき理由があり、そして何より──
「さっきターフを見下ろしていた時、アナタ自分がどんな
「……あァ?」
「羨ましそうで寂しそうな、未練にあふれた眼をしていた! アナタはまだ
ありえない、と思った。ありえるはずがなかった。
ナカヤマにとっては、別にレースである必要はなかったのだ。
レースである必要などなかった。
『フェスタ、あなたは走ってる時が──』
フラッシュバックするぐらい大切な思い出があった。理由ならいくらでも溢れては消えて、何度も蘇っては迷って消える。
「戦う理由が分からないのでしょう。だったらこのアーネストリーが、アナタの理由になってあげる。戻ってきなさい、ナカヤマフェスタ」
返す言葉などなかった。
言葉で変わる程度の決心ではなかったし、言葉で変えられるような現実でもなかった。
社会で生きている中でそれがどれほど困難であるか理解しながら、ナカヤマフェスタはただ1人になりたかった。