ドバイの朝──。
メイダンレース場の一角にはいくつもの銅像が飾られている。ドバイワールドカップミーティングの中でも最高賞金を誇るドバイワールド
「……最高級ラクジュアリーの寝心地、どうでした?」
「何? いきなり」
「心配してあげているんじゃないですか。慣れない土地での生活に、ディザイアちゃんはすっかり参ってるんじゃないかって」
「余計なお世話よ! まったくドバイは最高ね! どこもかしこも豪華だし! 最高級ホテルを主催者持ちで取ってくれるし! 豪華なプールまでついて、キングサイズのふかふかベッドでぐっすり──」
軽いからかいにもプンスカと怒って腰に手を当てるレッドディザイア──いちいち軽口に付き合うからからかわれるのだと気づいていない。しかし──
「──なんて、出来るわけないでしょ。バカじゃないの」
ドバイに旅立ってすぐに震災のニュースが飛んできた。現地テレビでも放送される規模の災害を聞いて、レッドディザイアが何を感じたのかは想像に
「でしょうね」
「っ、でしょうねってアンタ──」
「私だってそうですよ。正直、今日の本番よりも日本に帰ることの方が怖いです」
帰るべき場所が、元のままではないかもしれない。その恐怖は誰だって同じだ。
展示されている歴代優勝者の銅像の中に日本勢の名前はない。ほとんどがアメリカと現地であるドバイのウマ娘だ。それを眺めている──
「ねえ、飾りたくなったんですか?
そのレースに勝てば、名前と姿が歴史に残る。誰しも──自分がここにいたという証が欲しい。特にこの名誉は最上級だ。レッドディザイアは──
「……アンタには関係ないわよ」
「ありますよ」
「あるわけないでしょ。アタシの話よ」
「
この海外遠征は多くの人間に支えられて実現している。多くの応援が集まっている──日本の強さを世界に示してくれ、と。誇りある日本を示してくれ、と。
「……結果は示した。芝とダートだけがレースじゃない」
元々はブエナビスタと同じドバイシーマ
AW──オールウェザーとは、レースでの走路の一種だ。人工的に作られたコースであり、芝とダートの問題点──手入れにかかる費用や、雨天時に発生する悪路の問題、それらを解決できる新しいトラックである。日本のトレセンにも練習用のコースは存在しているが、日本ではどのレース場にも導入はされていない。
しかしここドバイではそれがGⅠの舞台となっている。ドバイワールド
「アタシはね──もうアンタの背中を追いかけることはやめるって決めたのよ! アンタと違う道で、アタシなりの結果を示してやるッ!」
「ほえー」
「はっ、反応が薄い!! もっと、こう……なんか言ったりしなさいよ!」
「決めたんでしょう? ならもう私も、ディザイアちゃんにちょっかい出したりするのはやめます。これからは別々の道を行く者同士、これ以上馴れ合うもなしにしましょう」
「はぁ? え、っと、……ふん、せいせいするわ。もうアンタと話さなくていいって事だし、最高ね。アンタのちょっかいにイライラしたりすることも──」
そうやって悪態を付いていたのだが、いつもならすかさず軽口を挟み込んでくるはずのブエナビスタが口を閉じて、真剣に銅像を見上げている姿に勢いを削がれる。
「……ねえ、ちょっと聞いてんの?」
「……」
「ちょっと、返事しなさいよ!」
飄々としたニヤケ顔でないことがとても違和感だった。それはレッドディザイアの知らない姿で、とても大人びているように見えて──置いて行かれたみたいで、だんだんと不安になった。
いつになく真剣なブエナビスタの瞳がレッドディザイアを貫く。心の奥底まで見透かすような、そんな感覚に襲われて、抗うように呟く。
「何よ、その眼──」
これまでとは違う。それは初めて見るような、対等なライバルに向けるようなまっすぐな視線。そんな感覚が怖くて、
「アタシはね、アンタのことなんて大っ嫌いよ! いつもいつも、アタシよりずっと練習量少ないくせにアタシより速くて! なのにいつも勝つのはアンタで、アタシのことなんてまるで眼中にない! 世間の人気はいつもアンタで、アタシはいつも当てウマで脇役で……っ!」
心中に溜まった思いはねばついていて、どこでもレッドディザイアを自由にしない。
「それでやっとアンタに勝ったって思ったら今度はドバイに行くとか言い出すから、アタシはまたアンタに振り回されて……!」
──自由になりたかった。
自分の道を行きたかった。なのにどうして、いざそれを目の前にして──ブエナビスタがいない道を走っていくということが、どういうことを意味するのか。
「……なんか、言いなさいよ。アンタがそんなだと、やりにくいのよ……」
親に怒られた子供みたいな表情で弱々しく呟くレッドディザイア──それでもまだ何も言わないブエナビスタに視線を上げたとき、やっと気が付いた。
思いっきりiphoneのカメラを構えてニンマリとした笑顔を浮かべている──
「……あ、ああ。ああ、は、はぁ……はぁぁぁぁぁあああああああああああ!? あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、アン、タ……」
「うへ、うへへへへへへ。はー! いやーたまらんですね、たまには真面目な顔でも作ってみるモンですよ! いやーいいもの撮れました、SSRですよ、このまま額縁に入れて飾るしかないですねこれは!」
「なッ、カメ、撮って、あんッ……い、いつから……!?」
「最初ッからに決まってますよ! なんか面白そうな気配を感じましたので!」
「こ、この……この、こっ、この……──この、こいつ、こいつを……こ、ころ、ころ──」
「何枚刷りましょう! まず個人用とー、保存用とー、観賞用とー、学内布教用とー、ポスター用とー……あ、後で動画編集してディスクに書き込んでおきますか!」
「……こ、ころさないと。ここで、ころ、ころ、コロコロコロコロ……」
羞恥と激怒で、その名前が示す通り真っ赤になりながらわなわなと震えていた。少しでもブエナビスタのことを信じた自分がバカだった。
「いやっほーう早速誰かに見せにいこーっと! 誰か──トランセンドとかに見せちゃおー! ヒャッホー!」
「ッァァァァぁああああ──ッ!!! コロしてやるぅゥゥゥゥゥぅううううううううッ!!!」
すごい顔で走っていった。
ー ー ー
証が渡った。
それは──かつて、彼女が日本トレーニングセンター学園に在籍し、そして卒業したことを、かつてここにいたことを示すもの。
卒業証書。誰に保証されずとも、たった一枚の証書が、後生の思い出の価値を保証する──などと、それは冗談が過ぎるだろう。少なくとも彼女はこんな紙切れ1枚のためにトレセンに来たわけではなかった。
だけど泣いてしまった。
せめて笑って終わろうと思った、名もなきウマ娘は悔しさか嬉しさか分からない感情に勝てずに涙を流した。
レースは年間約3400回開催される。彼女にも走ったレースがあった。いくつもいくつも──
"卒業おめでとう"
何が"おめでとう"だ。めでたくなどあるものか。負け犬の門出に祝いの言葉など掛けるな。バカにするな、バカにするなと願っても、恨んでも──
もうこれで走ることはない。苦しむこともない、勝ちもなければ負けることもない。一切合切の終わり、これで終わり。ここで終わりだ。
だからこれは解放──レースという呪縛からの解放で、
──トレセンで初めて出来た友達、クラスメイトと笑ったファン感謝祭、初めてのファンレター、初めてのレース、負けて泣いて、友達とヤケ食いしてトレーナーに説教されて授業で眠って怒られて呆れられて、また気合を入れ直して練習、夏休みなんてなくても合宿の夜は楽しくて、花火を見て屋台を回って、レースでは友達の応援、チームメイトの応援、勝てばお祝い負ければ反省会という名のパーティーで、
「──ありがとうございましたッ!」
恨んで憎んだ、最高に楽しくて充実した日々に、それを与えてくれた人々に、真っ直ぐに頭を下げて。
彼女は無名のウマ娘。彼女のような生徒がトレセンには何百人と入学し、そこで過ごし、そして卒業していく。
"私たちは脇役だった"
過ぎ去る日々を最高に苦しんで、必死に楽しく走り抜けた。
"私たちは主役じゃなかった。ヒーローにはなれなかった"
いつか必ずこの日々を誇る日が来る。
"けど、走ってたよ"
こんな紙切れ1枚を受け取るだけで終わってしまうような、そんなあっけない日々を確かに生きていたんだ。
"私たちも、ここに居たよ"
卒業生総勢398名が卒業する──折れて去ったクラスメイト、別の道に進んだ友人。一体何人が、卒業を待たずにトレセンを去っただろうか。
彼女たちは最後まで戦い抜いた。その事実をここに讃え、それを証します。
/
「送辞」
ステージから見る景色は圧巻だった。それはウイニングライブのステージから見える景色にも似ていた。
「身に染みる寒風はいつしか和らぎ、春の訪れを感じる季節になりました」
その声はマイクを通じて、会場へ来ているすべての人に届く。取材も来ている。流石に緊張する。
「本日、晴れてこの日本トレーニングセンター学園卒業式を迎えられた皆さん、この度はご卒業おめでとうございます。在校生を代表し、心よりお祝い申し上げます」
とても丁寧で、どこか不器用さの拭えない声が、この大きなホールに反響する。その声以外には何も聞こえない。
息を潜めるような、とても静かな言葉だった。
普段の彼女を知っているなら驚くだろう。緊張を滲ませた顔で、それでも一生懸命に読み上げた、送る言葉を──この時代に、それを伝えることの意味を、彼女は知っている。
──彼女はふと、読んでいた原稿から顔を上げた。
何を伝えられるだろう。
何を伝える資格があるだろう。
「本日卒業される先輩方と共に過ごした年月を振り返りますと、さまざまな思い出が蘇ってきます。レースを走る先輩たちの姿は輝いていて、私たちの憧れでした」
"私"──取り繕っている。たかが一人称にまで気を遣う。
これは本心ではない。特に彼女がそれを言うのは当てつけのようではないか。
「……」
こんな言葉がふさわしいとは思えない。今だって、本当は別のウマ娘がこれを引き受けるべきだったと思っている。型式ばったテンプレートに乗せた文章を音に変えて放った。何が自分にしか伝えられない言葉だ、こんなことなら誰にでも言える。
本当のところを言えば、トーセンジョーダンはこんな原稿など今すぐに破り捨てて叫びたかった。
*
「え? 日経賞……って、ネコ、アンタが……? 出るの?」
*
エコーの中で重なり合う彼女の声、知っている──あいつはそういうことが出来る側だ。
『ここ、トレセンには本当にさまざまなウマ娘が在籍しています。さまざまな想いで、さまざまな理由があってレースを走る──その姿を、私たちは見ていました。たった1年で、どうしてこうも違うのか、ずっと不思議に思っていました』
トーセンジョーダンは誰かと真っ直ぐに向き合おうとするウマ娘だ。器用ではない──とても不器用で、いつも遠回りをする。
今日で終わりにしよう。
トーセンジョーダンが、最後まで自分を友人と思ってくれた事実に免じて、ナカヤマフェスタは見届けに来たのだ。
最後まで、自分が走っていい理由は見つからなかった。
走りたいとも思わなかった──。
(なぁジョーダン。いつかの賭け、覚えているか?)
人生とは花火だ。長くなくていいから輝きたい。
(1つだけ言うことを聞く、だったか。こんな伝え方で悪いと思ってる、私はなかなか、オマエのように素直にはなれねェ)
少しだけ、小さな声で呟いた。
「なァ、一つだけ教えてくれ。私たちはここに居てもいいのか?」
*
「絶対勝つから……? いや、けど……じゃあ、勝ってどうすんの。てかあたしにそんなこと言っても意味なくね。勝つとか負けるとか、そういうことよりも先にやるべきこととか……そういうの、たぶんあるじゃん。あんたには……ないの?」
*
正解ではないことは分かっている──だけど、なんか分かった。
「先輩として、そして時には友人のように、暖かく接してくださったおかげで、私たちの学園生活はより豊かに広がりました。今の私たちがあるのは、導いてくださった先輩方のおかげです」
これが大人になるということ──言葉を飾り立てなければならなくなるということ。
言いたいことを言えなくなる。立場や役割というものが意識の中に割り込んでくるようになる。ジョーダンの話し方は明日原にそっくりだった──。
言いたいことを言うだけでは意味がない。行動が伴わなければ誠実ではない。だからこうするのは正しい。由緒ある式典に本音を垂らして白けさせるわけにはいかない。
いくつもの学校が卒業式を中止した。それ以前の話である場合すら──トレセンはまだ幸運な部類だ。この式典は単なる行事以上の意味を持っている。特にトレセンのような、メディアと馴染み深い学校にとっては尚更だ。
「私たちは────」
*
「それは……違うじゃん。自分がやりたいことだけやってたって仕方ないんだよ。そういうとこまで来てんだよ。本当にこのまま、何となくレースが再開して……それでいいの? ほんとにそれでいいの?」
*
『……あたし、たちは────』
原稿を読むトーセンジョーダンの唇が止まった。
1秒。2秒、3秒──10秒ほども経てば、様子が変であることに気がつくだろう。
押し潰されそうなほどの人の気配の中で、静寂が吹き荒れていた──しかし段々と、止まってしまった進行にざわつき始める。
「……ジョーダン?」
「どう……したのかな」
スポットライトに照らされたトーセンジョーダンの表情がよく見える。何かを噛み潰すような、迷うような、不安に押しつぶされそうな。
送辞が読み上げられないと式の進行が出来ない。必然的に、まるで時間が止まったかのような空間の中で、皆がトーセンジョーダンの言葉の続きを待っていた。
にわかに小声の会話が広がり始めた頃、異変が起きた。
ホールのステージの上部に備え付けられているプロジェクター用のスクリーン──収納されているはずのそれがゆっくりと降りていった。
「え……?」
「な、なに? 何かの演出……なわけないよね、トラブル?」
不安がる生徒たちに混じって、トーセンジョーダンの戸惑いの声が、マイクに乗って響いた。
『え……?』
/
若さに任せて。
なにもかもこの衝動に任せて後のことは知らない。当然、どうなるかも分からない。
「ケーブル、ケーブル……! どこ!? 早くしないと……あった、これを……! 繋いだわよトレーナー!」
特に罪のないPaの人を素早く制圧した覆面のウマ娘の1人が焦りを滲ませながら言う。準備に手こずった──時間がない。
「よし……映像と音声を繋いだ! 映すぞ!」
同じく覆面の成人男性が迷いのない動きで機材のツマミを弾き上げた。瞬間、プロジェクターから投影される映像がスクリーンに映し出された。
それはテレビ中継の様だった。
馴染み深い映像だった。
『向こう正面から第3コーナーにかかってネコパンチまだ10バ身近いリードを取っている! さあ後方を引き連れて大逃げ! 早くも3コーナーカーブ! ケイアイドウソジンが2番手、内にサンテミリオンです!』
逃げと言う戦法は人気を博す。何せ分かりやすい。
『アクシオンが前から4番手、その後ろネバブション追走、6番手からルースタンスが上げてきたか、その直後にはヤングアットハート、フェイトフルウォー、ステークトリガー、そしてウィナーズパレードも中団から追い上げている、さあ──』
卒業式中に起こったこのハプニングに対する戸惑いの想いも、そして抱える迷いも──今は、ただ見上げることしか出来ない。トーセンジョーダンは確かに、見たこともない表情で走るネコパンチを見ていたのだ。
『外からルースタンス5番手の位置で前を追っています、後はケイアイドウソジン盛り返してくる、そして──ウィナーズパレードも来た! 前はネコパンチ、リードはまだ4バ身近くあります!』
距離が縮まる。逃げは孤独──背後から迫る足音がどれだけ怖いのか、トーセンジョーダンは知っていた。その辛さを知っていた。
大逃げを貫くその痛みを、確かに知っていたのだ。
『ルースタンス、ルースタンス追い込んでくる! そして、ウィナーズパレード! ウィナーズパレードが割り込んでくるが──!』
いつもよりも客足の遠いスタンド前をネコパンチは逃げていた。既に体力など残っていない。足を動かすのは慣性と根性だけ。少しでもスピードを緩めようものなら一瞬で切られる。
『ルースタンス外からウィナーズパレード突っ込んでくるが! ネコパンチ、ネコパンチ──』
「にゃぁ、ぁぁぁァァァァァァあああああああ────ッ!!!」
ネコパンチ、12番人気。単勝オッズ167.1倍──
彼女は叫んだ。
「ッ、勝手に──っ、諦めんにゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああアアアア────!!」
叫んだ声が、トーセンジョーダンには確かに聞こえていた。
『リードは4バ身、ルースタンス、外からウインバリアシオン、ネコパンチ──逃げ切ってゴールインッ!!』
へろへろになりながら勝った。
それでも勝ったのだ。
『──ネコパンチです! 見事逃げ切りました!』
決着はいつも明確で、あっさりしている。その事実を受け入れるのは簡単だ、だけど──
「あ……やめ、てよ。なんだよ、それ……」
抑え込んだはずの感情が涙の形を取った。どのツラ下げて泣いているんだと思っても、思っても──。
「今更……走りたいなんて、思わせんなよ……っ」
要らないものだ。要らないものだから、別の答えがあるはずだから──レースなんてあったところで、何も役には立たないって分かるだろ、分かっているだろ、そう思っても。
だって仕方ないだろう、そんなの。
「……っ! あたし、たちは──あたしらはっ!」
マイクは繋がっている。ジョーダンの声は拡散され、ここにいる全ての人に届く。
『っ、うぐっ、……っ、卒業生の先輩方へ……ッ! あたしら後輩は、センパイ方の背中を見ていましたッ! 強く、速く……いつでもセンパイは迷いなくて、強くて……』
今まで自分を導いてくれたひとたちへ。
『憧れていましたっ! あたしは最後までセンパイに勝てないままで、一生追いつけないままで──勝ち逃げなんかしやがって! ずるいぞーっ!!』
前を走っていたひとたちへ。
『センパイと走れたことを、一緒の学校にいたことを、話したこと、教えてもらったこと……忘れません……っ!』
ともに笑ったひとたちへ。
『この思い出を忘れず、糧にし、新たな道に歩き出そうと思いますっ!! センパイ方、この度は────』
かつてここにいて、そして居なくなるひとたちへ──
『ご卒業っ! 本当におめでとうございます──っ!!』
想いを込めて、
『新たに社会へとはばたく先輩方に、お祝いと感謝の想いを込めて、送辞の言葉と代えさせていただきますっ!!』
祝福と、感謝の言葉を送ります。
『平成23年3月26日ッ! 在校生総代トーセンジョーダンッ!』
その声がきっかけとなって──
「おめでとうございます、ありがとうございました……っ!」
在校生1人ひとりに思い出がある。ともに走った記憶がある。伝えたい言葉があり、伝えたい想いがある。
「うええええええええん! 先輩、寂しいですよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……」
「いつでも遊びに来てください、レース見ててください! きっと……先輩みたいに、輝いて見せますから!」
溢れ出す在校生達の言葉、その涙が照明に照らされ、頬を伝う。
泣き声の止まないホール、そのステージに登る、まるで緊張した気配のない白毛の髪。
答辞が始まった。
『答辞────』
『たくさん喋るのは、苦手なので……言いたいことだけを、言います』
『わたしには、手のかかる後輩が2人、います。1人は、今そこで泣きじゃくっていて、1人はドバイに』
『わたしたちは、かつては何も知らない、弱く小さな存在でした。不安と期待に振り回されながら、わたしたちは走り始めた』
『いつしか月日が過ぎ、いくつものレースを走り、かつて追いかけていた先輩や、勝ちたかった同期が消えて……そしていつの間にか、わたしを先輩と呼ぶ連中が現れていました』
『後ろを走る後輩たちに、情けない姿は見せられない、と……先輩とは、常に強いものだから。追いつかれるわけにはいかなかった』
『だから、あなたたちの存在が、わたしたちを強くしてくれた』
「勝ちたくて、輝きたくて……負けて泣いて……でも、本当はどっちでもよかったです。なぜなら、トレセンでの日々は──」
「勝とうが、負けようが、とても豊かな日々だった。その日々に実った思い出が、いつだってわたしたちに力を与えてくれた」
「後輩たちへ」
「今日まで、どうもありがとう。わたしたちは、ここらで一足先に行こうと思います」
「あらゆる苦難も、いずれは乗り越えられると信じて」
「わたしたちがそうしたように、あなたたちも誰かを助け、支え……そしていつか見られる、夢の景色を待ちながら、わたしたちは歩き続けていこうと思います」
「最後に。わたしたちを支えてくれた先生方、職員の方々、そして我が親愛なるトレーナーへ。ありがとうございました──この感謝に代えて、卒業生の答辞、とします」
「平成23年3月26日。卒業生総代、ハッピーミーク」
「さらばトレセン。我らが青春よ」
その言葉と同時に、一斉に卒業生が立ち上がった。トレセンの伝統行事、追い出しが始まった。
追い出し──卒業生は卒業式会場から全力で逃げ出す。そして──
「先輩たちを捕まえろーっ!」
後輩たちがそれを追う。
「卒業なんてさせるなぁーっ!」
後輩たちに捕まった卒業生は卒業することが出来ず、トレセンに留まらなければならない。これは後輩たちに与えられた、卒業生をトレセンに留まらせる最後のチャンスだ。
「逃すな、逃すなぁーッ!」
狭い通路のホールを抜けて廊下に飛び出た。無数のウマ娘たちが出口を目指してひた走っていく後ろで、後輩たちが自分の先輩を探して走る。
「行かないでー! せんぱい、行かないでよぉーっ!」
「……ッ!」
「寂しいですっ、先輩! 絶対追いつくから……っ!」
「走れ、捕まるな! ちゃんと卒業するんだ、私たちは決めたんだから!」
狭い通路だ、シューズでもないし速度は出せない。それに──視界がくちゃぐちゃで走る余裕もない。
「逃しちゃダメだ、そしたらチームの中で私が1番先輩になっちゃう」
「絶対先輩みたいに上手くやっていけない! みんなを引っ張っていく、かっこいい姿になんて私じゃ絶対なれない! 私はまだまだ先輩から学びたいことがあるんですっ!」
「……!」
「もう1年、もう1年だけ! もうちょっと、ここにいて下さい!」
「──甘えるな、バカっ!! あんたがそんな弱気でどうする!」
「!」
「アタシだって不安だったよ! 本当は全然自信なんて無かった! みんな最初は弱いんだよ!」
走る速度が落ちていく。その先輩のウマ娘の背中まで手が届く──伸ばさなかった。その手を掴んで、引き寄せることができたにも関わらず──
振り返った。潤んだ瞳同士が見つめ合った。
「……大丈夫。あんたなら出来るよ」
「……ッ! 先輩、私──」
「元気でやんなさい! ありがとね、──」
「先輩っ、先輩──ご卒業、おめでとうございます……っ!! うわぁぁぁぁぁぁぁん、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
誰もが──見送る。捕まったら卒業できないと言われる追い出し競争で、後輩に捕まった卒業生は過去誰1人として存在しないのだ。
ハッピーミーク、ドリームジャーニー、マルリダゴッホ、カネヒキリ、リトルアマポーラ。
想いは受け継がれ、古きは去り、新風を待ち──
第94期卒業生、彼女たちは青春を終え、そして──少しずつ、大人になる。想いを渡して──
──ホールの扉が開いた。外へと雪崩れて飛び出した卒業生の視界に蒼天が飛び込んで来た。
(そっか──これから、私たちが行く道にコースはないんだ)
(スタートは同じじゃない。審判もいない、観客もいない──)
(どこへ行こうと、何をしようと──私の自由)
「ねえ、どこに行こっか?」
「そうだなぁ。私は──とりあえず今は、ひたすら走りたい気分!」
走る、走る、走る──どこまでも、どこまでも。
走る。どこまでも──生きるが如く、この道を往く。
卒業式が終わって少し時間が経った、その裏で。
「約束は、果たした……っス。後は……センパイの番、です」
「……あァ、分かった分かった」
そんな会話があったという──。
その夜、ドバイから届いたニュース。
ドバイワールドカップ。その先頭を飾ったのは日本勢で──。
──彼女の言葉。
"日本に元気を"。翌日の新聞に載ったその一言がどれほどの人々に勇気を与えたことだろう。
ー ー ー
結局、レッドディザイアはトランセンドの後ろで11着に敗れた。
ブエナビスタはまた勝ち切れなかった──ドバイシーマ、2着。世界の壁は高く、女傑ブエナビスタの末脚を持ってしても届かなかった。
「しょうがないですねぇ。勝ちたい理由があるだけで勝てるなら苦労しませんし、何より人生はドラマみたいには行きません、けど……」
「神様は居ますね。たぶん」
「……ぐずっ、えぐっ、ひぐっ──」
「あ、アンタはっ、知らないだろうけど、アタシは負ける度に泣いてっ、悔しくて、悔しくて──」
「情けなくて、弱い自分が情けなくてっ! 強くなりたいのになれなくてっ! アタシにも応援してくれる人がいるのにっ、見てくれる人が、アタシの走りを待ってる人がいるのに……っ! どのツラ下げて帰れってのよ、アタシは負けた、ボロ負けだったッ!! 今更、どのツラ下げて……」
「そのツラ下げて歩くんですよ」
「ッ──アタシは──アタシはアンタみたいになりたいのよっ! アンタみたいに強くなりたかったっ!! だから泣いてるとこなんて、アンタだけには見られたくなかったっ!!」
「……バカですねぇ。ディザイアが負けるたびに泣いてたことなんざ、知らんわけがないでしょうに」
「っ──うぐっ、ぁあ、あああああああああああああああああああ────っ!!」
("アタシなんて眼中にない"、そんなことありませんよ)
「うわぁぁぁぁぁっ、うわぁぁぁぁぁアアアアアアアア────っ!!!」
「負け犬同士尻尾巻いて帰りましょう。私たちには幸いにも帰る場所があります。私たちを待っている人がいるんです」
LINEが届いた。──"悪かった"
ナカヤマフェスタが珍しくもみくちゃにされている写真がアケノから届いた。
笑わせる。悪かった──謝罪の言葉はいらない。欲しいのは"ごめん"じゃなくて──
「……認めないっ、アタシが弱いなんて……アンタの方が強いなんて、認めないから──絶対、アンタより上だって、認めさせてやるから──っ!!」
「勝手にしやがれ、です。はぁあ──」
「ボロ泣きしながら言うセリフですか、どいつもこいつも素直じゃねーや。まったく、どうしてありがとうもちゃんと言えませんかね、私たちは」
──太陽が沈む。
今頃、日本は──そろそろトレセンの山盛り定食が恋しい。
帰ろう──負けたままの姿で帰って、そして彼女の勝利を祝おう。なんて言おうか、何を話そうか。
集まって見ていたドバイワールドカップが終わって、騒ぎたい連中はそのまま集まって話していたようだが、ナカヤマフェスタは気分ではなかったので、寮の外にある自販機へ歩いていた。時差の影響で、放送時間は深夜を回っていた。少し眠かった。
玄関から出てすぐの、2段ほどある階段に座り込んでいた芦毛の──特徴的な体格ですぐに分かった。ゴールドシップが階段に座り込んで夜を眺めていた。
「はっ……何黄昏てやがる? そんな可愛げのあるキャラだったか」
らしくないことをしているものだと、適当な軽口を吐いて見ても、ゴールドシップは反応を示さない。ナカヤマは黙って隣に腰を下ろした。
「あのさ」
ふとそんな言葉から始まった。
「アタシは……今日のことには、意味があったんじゃねえかって、そう思う」
「頭打ったか?」
「変なモン見せられたせいだ……決まってんだろ」
ゴールドシップは、珍しく感情的に吐き捨てた。それは──感じたことのない感情に、どう向き合っていいか分からないように見えた。
「……あの日から、なんかハラの奥に穴でも開いちまったみたいに、ずっと痛かったんだ。ズキズキって。それでさ、今日のあの光景を見て……やっとこの穴が埋まるんじゃねえかって、この傷が塞がってくれるんじゃないかって思ったんだ、けどよ」
期待していた。きっとこの雲は晴れると──希望はあると。
「やっぱダメだった。アタシは、いや……この国は、まだ痛いままだ。笑ってても、忘れたフリしても、苦しんでても、なんか頑張ってる時も、ずっと……鈍い痛みがずっと残ってんだ。だってそうだろ?」
苦笑い。
結局、ゴールドシップのその困ったような苦笑いが彼女の答えだ。
「福島は汚染されちまったんだ。除染するっつってもよ、じゃあどうするんだって話だろ。プルトニウムの半減期待つより、きっとゴルゴル星からの使者が来る方が早えだろ」
プルトニウムの半減期は24000年──言葉ではその長さを表し切れない。
「なあ、知ってっか? 汚染された土やら草やら、一箇所に纏めて置いとくんだそうだ。だけどそいつはどこに置いとく? どの地域がそいつを受け入れてくれるってんだ? きっとこの問題は解決しねえよ。10年経っても20年経ってもこの問題は付き纏う。ひ孫の、そのひ孫の代でも揉める問題になる」
例えば火力発電所が事故で爆発しても、例えばダムが壊れて水力発電が出来なくなっても──それは、この問題に比べればまだ易しい部類だ。なぜならばそこはまだ現代科学の力が及ぶ範囲。
しかし放射能を無害化することは現代の技術では不可能だ。放射能を浴びた地面をそのままに出来ない。その汚染された表面の土は、どこかに集めて──そして、保管しておくことになる。
ではどこにそれを置くのか? 安全性は、市民の不安は──問題は解決しない。
「だから震災の傷は治んねえ。どんだけ頑張っても……こいつは誰かを助けるとか、救うとか……そんな問題じゃあねえんだ。傷跡は残り続ける。アタシたちはずっと、この鈍い痛みと向き合い続けなきゃなんねえ」
何も解決しなかった。心が救われたって現実は変わらない。
この問題は何も解決などしていない。進行形で苦しんでいる人々は存在している。津波の向こうへ消えた場所がいくつもある。"復興"、その2文字に込められた意味がどれほど重いのか、ゴールドシップには分かっていた。
「だから、どうすりゃいいのか……ってさ」
「難しく考えることじゃねえよ。シンプルな話だ──」
ナカヤマフェスタは知っていた。それを思い出した。
「私たちはな、その鈍い痛みを抱えてこれからも生きていくのさ」
痛みは知っていた。だけど自分たちは1人ではないことを、ナカヤマフェスタは教わった。
「忘れようと消えない今を背負って、ずっとな」
少しずつ復興する。それ以外にできることは無いのだと──。
「……ナカヤマ、オマエ」
「先生の残してくれた傷跡は今も私の中にある──確かに在ったんだよ。傷は消えねェ、だから忘れることもねェ。それでいいじゃねェか」
忘れないまま、前に進む。それがナカヤマフェスタの得た答えで、友人からの贈り物だ。だから、その表情は少し優しげで、懐かしそうで──ゴールドシップは、ナカヤマフェスタのことが羨ましくなったのだ。
だから──
「アタシさ、デビューするよ」
「……あァ? どうしたいきなり」
デビュー。それはつまり、正式にトゥインクルシリーズに登録し、トレーナーと契約してレースに出場すること。ゴールドシップは未だレースにも出ず、その理由は誰にも分からなかった。
「やりたいことが見つかった。アタシも走ってみることにする……なんか文句あるか?」
今は理由が出来た。ゴールドシップにも、ついには走る理由が見つかった。
「ハッ……そんなもん、オマエの好きにしやがれ」
「ったり前だ!」
「じゃあ早速、どっかに暇そうなやつが落ちてねえか探しにいくぜーッ!」
──冬が終わる。寒さが和らぎ、太陽が登り──春が来る。
3月が終わる。長い冬が終わる。彼女たちは卒業し、この未知なる社会へと──決して羽ばたくことなど出来ない。人は未来に羽ばたくことなど出来ない。人にもウマ娘にも、決して翼など生えていない──これまでそうしてきたように、その足で一歩一歩歩いていく他にない。
春が来る、春が来る、春が来る──
ー ー ー
明日原は珍しく煙草を咥えていた。
「……昔。もうぼんやりとしか思い出せませんが、母と一緒にカップ焼きそばを食べました。同じUFO焼きそばで──いつも疲れた顔で夜勤に出かけるあの人の背中を見て、僕は育った」
夕暮れの河川敷。学園から出てすぐの定番のランニングコース。階段を少し降って、スーツの汚れも気にせずに、手慣れた様子でライターを弾いた。
10年近く離れていた代物でも、体はよく覚えている。ジョーダンは内心結構驚いていたが、全く知らなかった一面を見せてくれたことに少し複雑だった──その姿を自分に見せてくれるのか。
副流煙が流れないよう、明日原は風下に座っていた。
吸って吐く。その中に籠る感情は誰に分かるものではない。なのに言葉にするのは、理解して欲しいと願っているのか、それとも──。
「シングルマザーが子育てをするのは容易ではありません。だから……そんなに大変なら手放せばいいのに……と」
人は生まれを選べない。
「あの時、幸せそうにUFOを啜っていたあの人の姿を、僕は──」
灰を落とした。チリになって消える。
少しでも気を抜くと感傷が襲い掛かる。だが今は──
「……いや。過ぎたことか」
恨んだことがある。憎んだことがある──その過去の記憶は、今は煙草の煙になって消えるのみだ。何もかも終わった話。恨むこともない、憎むこともない、笑うことも、もう会うこともない。関係の終わりは常に唐突で、そして感情の流れは一定ではない。慕いながら恨むことも、嫌いながら憧れることもある。
どうしただろうか。もしも未来が分かっていたのなら──
「……あのさ。あたし、1回家に帰ってみる。それで、家族と会ってくる」
ジョーダンは続けた。
「それで、いっこお願いがあるんだけど……」
──長い冬が終わる。
春が来る、春が来る、春が来る──
誰も知らない春が来る。