「当然、冗談に決まってんじゃん?」   作:にゃんこぱん

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Orfevre : 2/3

 

 

 

 

 4月は毎週末にGⅠが開催される素晴らしい時期だ。明日原が競バ新聞を眺めている横で、ウマ娘たちのトレーニングにも熱が入る。この時期というのはどうにも学園全体が熱に浮かされたような雰囲気が漂っていた。

 

 学園というトレセンの在り方と、レースの時期というものは絶妙な関係だ。新年度の初めに重大なレースが集中するというのは少し特殊──。

 

 誰もが一歩抜け出そうと足掻き、走る。

 

「自信の付け方、ですか──他でもないあなたにそれを聞かれるのは、流石に少し頭に来ますね」

 

「ひぃ、ご、ごめんなさい! でも──ふ、フラッシュさんは、いつも堂々としてて……どうしたらそんな風に居られるのか、気になって」

 

「……ふふ、冗談です。先日の、突撃! トゥインクルシリーズは私も見ていましたので、大方の事情は把握しているつもりです」

 

(見られてたぁ……)

 

 コンマ1秒でも速く走るために何が必要なのか、誰もが頭を悩ませている中で、こんなことをしているのはオルフェーヴルくらいのものだろう。

 

「私の話で良いなら、話すことは可能です」

 

「……聞きたいっス」

 

「了解しました。私の場合では……現在はトレーニング中なので手元にはありませんが、時々過去のスケジュール帳を見返します」

 

 エイシンフラッシュが超がつくほど几帳面なのはオルフェーヴルもよく知るところ。きっとこの会話の秒数まで数えてる。そんな彼女の秘密道具がスケジュール帳──。

 

「結果が振るわなかった時や、自信が揺らぎそうな時は、過去に積み上げてきた予定を見返して再確認します。何か間違っていなかったか、効果的な時間の使い方をしていたか。そうすると、確かに自分の中に積み重ねてきた予定(努力)の跡を確かめることが出来ます」

 

「……それが、フラッシュさんのやり方、っスか?」

 

「はい」

 

「…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 他の人にも聞いてみた。とりあえず知り合いの先輩方を当たったところ──

 

・ナカヤマフェスタの解答

 

「自信だァ? ……いや、気にしたことがない」

 

・トーセンジョーダンの解答

 

「自信〜? いや、ふつーにねーよそんなもん。歯ぁ食いしばってやってくしかないんじゃね」

 

・ブエナビスタの解答

 

「え? 気にしたことないです」

 

・加賀の解答

 

「自信? なぁに、歳食えばそのうち意識もしなくなるさ」

 

・アケノオールライトの解答

 

「自信──まあ私もあるわけじゃないけど、それのあるなしに関係なくやることをやっていくしかないからねー……」

 

・ネコパンチの解答

 

「ネコはいつでも自信満々だよ!」

 

 総評。

 

 まるで参考にならなかった──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そもそも自分の知り合いが少なすぎる。クラスメイトにもまともに話せる人がいないのはどういうことだろう。考えても分からない。

 

 おそらく人選がダメなのだろう。尖った人しかいない。

 

「自分を認める、かぁ……──」

 

 結局、ぼんやりとしたまま夕日を眺めていた。春の5時は少し肌寒い──。

 

 少し桜の面影が残る河川敷。もう時期は過ぎて、枯れて茶色になった花びらがコンクリートを染めて、その道を犬の散歩をする人や、外周を走っているトレセンの生徒、あるいは一般高校の部活動らしい生徒が走り去っていく。

 

 その気配を感じるに、この街にはどうやら、とても多くの人間が生活しているらしい。

 

 話すことが苦手になって、内側に閉じこもるようになったのはいつからか──気がついた時にはこうなっていた。性格は長い時間を使って作られる。だからそう簡単には変えられない。

 

 何も、レースで勝ったからといって引っ込み思案が治る訳ではない。少し考えれば分かることだ──なのに、この臆病な自分を変えるためにトレセンに来た。

 

「……」

 

 自分を認めるとはどういうことだろう。芝生に座り込んでそんなことを考えていた。

 

 勝ちたいと思ったことはない。勝てるなら勝ちたいが、別にその結果だけを求めていたわけではないのだと思う。

 

 皐月賞を勝ったからといって持ち上げられても、どうしても納得がいかないのは──意志を剥き出しにして勝利を目指す、そんな他のウマ娘たちが羨ましかったのだと思う。揺らがぬ自分を持つ人たちが羨ましいのだ。

 

「……」

 

 日本ダービーは来月だ。この心から消え去ってくれない奇妙な焦燥感は、きっとこんな自分がそんな大舞台で走っていいのか分からないからずっと居座っているのだろう。

 

 勝ちたいわけではない。オルフェーヴルはただ自分を変えたいだけだ。

 

 勝ちたい、という言葉を考えると、いつも同じ顔が浮かぶ。

 

「ウインバリアシオン、さん──」

 

 あのひとはきっと勝ちたいと願っているのだろう。強く、とても強く──そうでなければ、あんな表情は出てはこないだろう。

 

「……オイ。呼びやがったか?」

 

「っス。ちょうど考えてたとこで──ひょあういえっ!?」

 

 体感で1mほど飛び上がった。慌てて振り向くと、ちょうど今名前を呟いたそのウマ娘、ウインバリアシオンが不機嫌そうにオルフェーヴルを睨んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何遊んでやがる、こんなとこで……気の抜けたヤロウだ。テメェのような奴が皐月賞を勝つなんざ、悪い冗談に決まってやがる」

 

 頬に浮かぶ汗と体操服から、どうやら外回りをしていたようだ。トレーニングの途中に会ってしまうとは間が悪いと思うが、こんなウマ娘も大勢走っているような場所で黄昏ていたオルフェーヴルも大概間抜けだ。

 

「ご、ごめんなさい……?」

 

「……。で、テメェはトレーニングもせずに何をしてる」

 

「え、いや、ちょっと……な、悩み事を……」

 

「ハァ? ンだそりゃ、レースのことか?」

 

「いや、その……じ、自分の性格について、ちょっと──」

 

 それを言いかけて、オルフェーヴルは慌てて口を塞いだ。ウインバリアシオンにこんなわけの分からないことを話すと、確実になんかキレられて怖い目に遭う──そんなことを想像した。

 

「……ちょっと、なんだ?」

 

「あ、いや、その……」

 

「言えやボケ。言いかけたんなら途中で切るな」

 

 言葉こそ強かったが、なぜかあまり恐怖は感じなかった──言葉の割に何処か静かな口調がそうさせたのかもしれない。

 

「あ、あの……えっと、その。ど──」

 

 気の迷いか、結局オルフェーヴルは言ってしまった。

 

「どうすれば、その、ウインバリアシオンさんみたいに、自信が付くのかなって」

 

「…………」

 

 返事のない静けさが1秒、2秒──続けば続くほど、だんだんなんか焦ってきた。これまでの経験上こういうのはなぜかよく分からないけどキレられたりする前兆。そんな思考が頭を回る中、そろそろ怖くなってチラッとバレないようにウインバリアシオンの横顔を盗み見てみた。

 

(……怒って、ない?)

 

 無表情なのは逆に怖い。特にウインバリアシオンのような激しめな性格をしているのなら、なおさら何を考えているのか分からなくて怖かった。そしてついに口を開く──。

 

「……テメェの目は節穴だな。自信あるように見えてんのかよ、オレが」

 

「え?」

 

「テメェが何考えてんのか理解出来ねぇ。自信がどうのとか、そんなにも大事だってのか。勝つことより……オルフェーヴル、テメェはオレの何を見て自信があるとか思ったんだよ」

 

「え、っと──そ、それは……ウインバリアシオンさんは、勝ちたい──って、とにかく勝ちたいって、誰よりも強く想ってるのが……つ、伝わって、来たから」

 

「ハッ……伝わってきたらどうだってんだ」

 

「え、だって……自分は、そんな風に強くなれないから、だから──」

 

 オルフェーヴルはいつも自分以外の誰かになりたいと、心の奥底では願っていた。

 

 自分にはない想い。自分にはない言葉、強さ、格好良さ、性格──本当は誰も彼も羨ましいと想っていたのだ。

 

「ウインバリアシオンさんみたいに、格好良くなりたいなぁ、って」

 

 実のところを言えば、彼女のような性格に1番憧れていた。その証拠として、オルフェーヴルがいつしか付けるようになったマスク、それを外した時の言動はウインバリアシオンのそれにそっくりなのだ。

 

 それは真似しようと思ってそうなったのではない。トレセンに来る前からオルフェーヴルはそうだった。たまたま一致した──ウインバリアシオンは、オルフェーヴルにとっての理想像だ。自分以外をものともしないような荒々しい在り方、自分が1番強いと信じて疑わない傲慢さ。

 

 例えば広い道を歩く時、オルフェーヴルはいつも端っこに寄って目ただないように歩く。だが彼女はきっと、映画の主役みたいに道のど真ん中を堂々と歩くだろう。

 

 そういう在り方に憧れていた──。

 

 他人に対して──それも、トーセンジョーダンみたいに仲良くない相手に対し、ここまで心の内側を晒したのは初めてだ。

 

 それは例えるなら、ヒーローに憧れを打ち明ける少年のような心持ちで、少しだけ心が軽くなったような気がした。

 

「は──ハハ、ハハハハハハ……ハハハハッ! はは、ハハハハハハッ!!」

 

 めちゃくちゃ笑われた。

 

「わ……笑わないで欲しいっス……」

 

 かつてない羞恥心に襲われて真っ赤になるオルフェーヴル。なんだか今日は笑われてばかりで恥ずかしい思いばかりしている。

 

「ハハハ、ハハハハハッ!! あァ──バカかよ、テメェは。頭弱ぇのも大概にしろ」

 

 罵倒された!

 

 なんでこんな酷いこと言われなきゃいけないんだろう。オルフェーヴルはだんだん泣きそうになってきた。

 

「おつむの弱さもそうなら目ん玉も節穴か。脳みそまでカラッポで、GⅠ走りゃァ圧勝とか……頼むからさァ……」

 

 肩が揺れているのは笑っているからだとオルフェーヴルは思ったが、片手で隠した目元に涙が浮かんでいたことは知る由もないこと。

 

「なァ……才能あんなら、憧れる相手くらいは選べよ。居るだろうが、ご自慢のセンパイ方がよ……」

 

 その時の彼女の心境は筆舌に尽くし難い。

 

「天は二物を与えずとはよく言ったモンだ。あァ?」

 

 本当に欲しいものは与えられず、本当に欲しいものを持っている相手は、それの価値など知りもしない。挙句には"あなたのことが羨ましい"。

 

「ど、どういう──」

 

「オルフェーヴル。お前さ、もう誰かに憧れンのやめろや。お前はオレにはなれねえよ」

 

 ──その言葉は、どこか寂しそうにも聞こえた。同時に諦めているようにも感じた。

 

「オレももう、お前に憧れるのはやめるよ」

 

「へ? あ、あの」

 

「トレーニングに戻る。オレはお前と違って、強くならなきゃ勝てない」

 

 呼び止める暇もなく。

 

 ウインバリアシオンは瞬く間に走り去って行った──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 4月30日、GⅡ青葉賞。

 

 本競争において2着までに与えられるのは東京優駿(栄光)への片道切符。日本ダービーのトライアルは青葉賞と、オープン特別のプリンシパルS(ステークス)が存在している。しかし現在まで、その二つの勝者がダービーを制覇した事実は存在していない。

 

 敗北の約束された舞台へのチケット。これは言わば、断崖絶壁への身投げに似ている。無謀な賭けを笑う者、楽しむ者。

 

「そいつが幸か不幸かは……オレが決めることだ」

 

 勝者、ウインバリアシオン。日本ダービーへ。

 

 

 

 

 

 

 カレンダーを一枚めくって、時間を進めよう。

 

 5月1日、天皇賞・春。トーセンジョーダンが出る気満々でズッコケたその舞台を勝利の二文字で終えたのはジャガーメイル。念願の重賞初制覇は春の楯で飾られた。

 

 5月8日、NHKマイルC(カップ)。マイル路線を行くクラシック世代にとっての最初の関門。制したのはグランプリボス、期待に応えた。

 

 5月15日、ヴィクトリアマイル。世代の代名詞と言われながら大舞台で2着3着を繰り返していたブエナビスタ、ここで久しぶりのGⅠ制覇、国内では敵なしか。

 

 5月24日、オークス。最終直線の壮絶な叩き合いとなった末に、アパパネ、サンテミリオンの両者は横一線並んでゴールイン。長い写真判定の末、レースの歴史の中でも初となる、GⅠ同着という結果になった。これによりアパパネは変則的ではあるがティアラ2冠を達成。レースの後にサンテミリオンとアパパネの交わした握手は多くのファンにとって印象的なシーンとなっただろう。

 

 ──そして。

 

 5月29日、運命の日がやってきた。

 

 日本ダービー。最強を懸けて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 距離ごとのGⅠが充実した近年ではもうその風潮は薄まったが、かつてはレースに出場するすべてのウマ娘がこの競走を目指した。1年を象徴するウマ娘を決めるときは、頻繁にダービー覇者の名前が取り上げられる。

 

 "ダービーに始まりダービーで終わる"。そんな言葉がある。

 

 その証拠として、ジュニア級のメイクデビューはダービーが終わった後の6月1週目から開催されることが決まっており、あらゆるウマ娘の始まりのレースを象徴しているのである。

 

 最も運のあるウマ娘が勝つ。

 

 それは、この競走に込められてきた数々の想い──執念と言い換えてもいい──、歴史──栄光の裏に隠れた涙の数と言い換えてもいい──、それらの重さがこれに特別な意味を与えているからだ。

 

 故に、本競走を勝つには才能や努力だけでは足りない。

 

 万全を尽くしても足りない──その後でさらに天運(何者か)に愛されなければならない。

 

 そこまで含めての努力だ、と言う意見もあるだろうが、少なくとも加賀はそう考えてはいなかった。運、もしくは運命。どちらにせよ、ダービーの舞台にはもはやトレーナーの手は及ばないのではないか。

 

 ダービー覇者ウオッカのトレーナーである加賀ですらそう考えている。

 

 勝利をもたらすものは、"想い"か、"運命"かのどちらかだ。今日はどちらだろうか。

 

 ──台風2号の影響により、朝からの雨が続いた。梅雨の影響もあったのだろう。府中の芝を雨が濡らし、叩き続けた。

 

 ダービーが不良バ場となるのは珍しいことだ。2年前までは20年以上に渡ってほとんど良か梢だった。それはこの運命の日を晴れ舞台にする神様の気遣いか何かだと思うようにしていたが、この日に限っての台風。何かを感じずにはいられない。

 

 ──雨、雨、雨。

 

 スタンドに開いた無数の傘。雨がビニール傘を叩く音、芝を打つ音、人のざわつきと熱気。5月末、約8万2千人が詰めかけていた──前年度までに比べて大きく数字を落としたのは震災の影響か、あるいはこの雨のせいか。

 

 1番人気、オルフェーヴル。

 

 皐月賞の圧勝っぷりを見れば、この人気は当然──ダービーもオルフェーヴルが勝つだろう、多くの人がそう思っていた。しかしこの雨──雨が懸念材料だ。

 

 オルフェーヴルの武器は鋭い末脚。この重くぬかるんだ芝が足を奪う可能性は大いにある。出場するウマ娘の中でも一等小柄なオルフェーヴルは、その小ささ故に速く駆けられるのでは。そういう評価はあった。

 

 そして裏を返せば、不良バ場を駆け抜けるパワーは持ち合わせていないのではないか──。

 

 2番人気サダムパテック。3番人気デボネア──。

 

「よう。こいつは運命ってヤツか?」

 

 霧がかった遠景、白く霞む視界と冷えた温度。本番前の空いた時間、加賀の指示で軽くバ場を確かめに来たオルフェーヴルは、同じく外に出ていたウインバリアシオンに会った。

 

「……やっと、ここまで来たぞ──オルフェーヴル」

 

「ウインバリアシオン、さん」

 

「見ろよこの雨、どうやら手加減を知らねえらしい。冗談じゃねえぜ、なあ?」

 

 季節外れの台風2号──これは幸か不幸か、運命か偶然か。

 

 レース時の雨を好むウマ娘は少ない。ぬかるみでは思うように走れない──足が滑って転倒する危険すらある。一言で言って厳しい環境だ。その中で自分の力を100%発揮するのは、はっきり言って難しい。

 

 彼女は、薄く──そしてどこか高揚した笑みを浮かべていた。楽しみにしているようにも思えた。

 

 10番人気。彼女に与えられた世間の評価。妥当だ。そして、同時にどうでもいい。

 

 己の価値を示すためにトレセンに来た彼女はしかし、今となってはそれをどうでも良く思った。他者からどう思われるのか、それは彼女にとってはもう重要なことではなくなっていたのだ。

 

「オレは今日、テメェに勝つ」

 

 それだけを考えて、走ってきた。

 

 それ以外のことは、もうどうでもよかった。

 

「テメェはどうだ?」

 

 ずっと考えて、考え──いつになく落ち着いた様子でオルフェーヴルは応えた。

 

「自分は……勝ちたいとか、やっぱりそういうのはダメみたいっス。けど……終わりにするっス。憧れるのは──」

 

 睨み合いとも見つめ合いともつかない静かな時間。踵を返したのはウインバリアシオンだ。もう言葉は必要なかった──。

 

 もうじき時間だ。2つ目の王冠、その主を決めよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー ー ー

 

 

 

 

 

 

 上々のスタート、出遅れはなし。

 

 皆オルフェーヴルに注目していた。そして気がついたはず──マスクを外して素顔を晒しているオルフェーヴルの顔に。

 

 ライバルの研究くらいはみんなしている。その性格の2面性を知っている──それにしてはやけに静かな様子が気になってはいたが──ともかく、順調な滑り出しからのスタート。

 

「下げましたね」

 

 オルフェーヴルは後方から5番目の位置。バ群は前に固まり、その後ろを追走していく形だ。

 

「どう出るか──」

 

 当然見に来ていた明日原コンビも固唾を飲んで見守る中、レースは進んでいく。オールアズワンがレースを引っ張っていく形だ。逃げは1人、先行集団がその後に追走する形か。

 

「不良バ場は体力を使います。ただでさえ時計の遅い中、皆が後ろのオルフェーヴルの存在を意識し続けている」

 

「どしたん急に」

 

「後方からのプレッシャーは大きいでしょう。他人気上位のサダムパテックやデボネアが好位につける中、どう走るか──オルフェーヴルが差しで行く以上、最終直線で抜け出せるかどうかに全てが掛かっています」

 

「囲まれちゃうかもしんないってこと? でも大外があるじゃん」

 

「この雨の中で大外を回るのは得策とは呼べません。オルフェーヴルといえど、相当体力を消耗するはずですし、そもそもこの雨の中で大外を回って、抜かし切れるスピードが出るかどうか。よって、バ群の中を突っ切っていく他に道はありませんが、まさにそこが問題です」

 

「……つまり、オルフェに前へ抜け出せる力強さがあるかどうか──それが試されるわけね」

 

「あるいはその"運"があるかどうか」

 

 ぐっと変な紙を握る明日原を、トーセンジョーダンが冷たい目で見ていた──そんなことに能力を生かすな。

 

 観客の傘、それが無数に折り重なった向こうに広大なターフが広がっていた。直径にして1kmほどのコースに流れる影、霞みがかった空間で架ける18の影──。

 

 引っ張っているオールアズワン──前半1000mも切らないうちにリードを広げていく。2番手であるノーザンリバーとの差はおよそ5バ身ほど。

 

 東京2400mの特徴として、全体的に傾斜が緩い──毎年開催されていた中山レース場と比べて急な坂が少ない。体力を削ってくる場所が少ないのである。これは脚質や作戦に比べればそれほど大きな要素とは呼べないが、しかし確かな要素だ。

 

 レース前半、淀みなく進むレースの中でも戦いは続いている。周囲に同調して流すか、それとも少し位置を押し上げるのか。そんなわずかな小競り合いが続く──そのわずかな距離が勝敗を分けることもある。オルフェーヴルはまだ後方に待機して、それらの要素など考えていないように追走していた。

 

 これほどの大舞台においても、勝負の時間は3分もない。瞬きは厳禁だ──

 

 後方のウインバリアシオンの後ろを着けるようにオルフェーヴル、中団はもう3コーナーに差し掛かる──ここから勝負が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歩くにしても猫背で周りを伺うようにしていたオルフェーヴルが躊躇いなくマスクを外した時、加賀はものすごい驚いていた。

 

「オルフェ、お前さんは何を──」

 

 マスクを付けるか、外すか──そんな選択肢があるのはトレセンといえどもオルフェーヴルくらいのものだろう。

 

 振り返ったオルフェーヴルの素顔──マスクを外せばオルフェーヴルは暴君モードとなり、加賀に対しては躊躇なく襲い掛かってくる。そのため、加賀はまともにオルフェーヴルの素顔を直視したことはなかった。

 

 ──何のことはない、ただの16歳の顔だった。それなのに、視線が釘付けになる。

 

「……加賀さん。あの時、自分を拾ってくれた時のこと、覚えてるっスか?」

 

「あ、ああ……いや、待ってくれ。お前さん、マスク外しても……」

 

「正直怖かったっス。ヒゲ生やしてる人って全員怖い人だと思ってたから……けど──」

 

 瞳だ。

 

 その瞳が、見たこともない色を帯びている。

 

「……違ったっス。自分は──アタシは、トレーナーが加賀さんで良かったっス」

 

「あ、ああ……そりゃぁ、嬉しいが……」

 

 どうしてだ? この立ち上る奇妙な迫力に加賀は圧倒されていた。

 

「これ」

 

 手渡されたマスク。いつも付けていたそれを戸惑いながら加賀は受け取って、少しずつその意味を理解する。

 

「……いいのか? もう」

 

 コツ。

 

 蹄鉄が床を叩く音。レースへと向かうオルフェーヴルはもう一度振り返った。

 

「ちゃんと見てやがれ、このクソトレーナーが──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 ────ワアアアアアアアアアアアアアア!!!

 

 歓声が爆発した。4コーナーを抜けたオールアズワンが先駆けとなるウマ娘たちが最終直線へと差し掛かる。ここからだ。ここから、この直線が彼女たちの強さを問うだろう。そして判決を下す。勝者が誰なのかを──

 

「詰まってね!?」

 

「……来ましたね」

 

 逃げていたオールアズワンとの距離が急速に縮まるが、それでも必死に逃げる彼女を追って──正確にはその先のゴール板を目指して、誰もが声にならない声を張り上げた。

 

 追い込みにかかったオルフェーヴルだが、ナカヤマナイトに塞がれて外に出られない。外からバ群を抜け出しにかかる線が消え、そして内にはサダムパテック。

 

「行けんの!?」

 

 ──進路はもう変えられない。今更外を回っていてはとても勝てない。

 

 僅かでも自分のペースで走れない。衝突は妨害行為と見做される、失速せざるを得ない──レースを経験した者なら分かるだろう。あの間から抜けるのは容易ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(ハハ──詰まりやがったッ!)

 

 ウインバリアシオンはこの時、勝利への道筋が見えた。

 

 このぬかるんだ地面が味方した──良馬場での直線勝負になれば末脚勝負だ。オルフェーヴルはもちろん、皐月賞上がりのウマ娘にも厳しい勝負を強いられることは分かっていた。

 

 濡れた大地を走るのに必要なのは適正とセンス。適正というのはほとんど力強さだ。飛ぶように速い末脚か、ブルトーザーのような力強さか──緻密な筋肉のバランス、そしてトレーニングとメンタル。

 

 それはほとんど直感的なものだ。加速するための足がかりを感じた──加速しているウマ娘たちの中から、さらに加速するためのスイッチのような何かが入って、そしてゴールまでの道筋がはっきりと見えた。

 

 オルフェーヴルがサダムパテックとナカヤマナイトに挟まれた瞬間、ウインバリアシオンは加速への足がかりに踏み込んで行った。そして逃げていたオールアズワンの背中が視界から消え、雨粒までもがはっきりと視えた。

 

 その一瞬──ウインバリアシオンが先頭に立った。そう思った、一瞬の後に──横を駆け抜けていくオルフェーヴルの栗毛を見た。見てしまった──。

 

(────)

 

 とても同じウマ娘だと思えなかった。同じ生物とすら──

 

(オイ、待て──その道は塞がれた筈だろ? こじ開けたのか? どうやって──)

 

 加速する。さらに加速する。全身の酸素を使い尽くし、息が荒いことも意識の外へ消えて、速度が体に与える負担は計り知れない。

 

 ウインバリアシオンには前へと進む理由があるのだ。苦しみが何だ。痛みがなんだ、もう無理だとかお前が勝手に決めるな──まだ走れる、走れると言え。

 

 待ちやがれ。

 

「待ちやがれぇぇェェェェェェェえええええええええ────ッ!!!」

 

 その背中を追いかけた。その輝きを追いかけて走った。追い抜くために、証明するために。

 

 強さとは何だ?

 

 言ってみろ。テメェにとって強さとはなんだ。大声で威張り散らかすことを強さとか思っているのか? 勘違いも甚だしい、バカバカしい。

 

 ──どれだけ努力しても届かない領域がある。末脚はほとんど先天的なもので、望んでも手に入らない。

 

 それをくれ。

 

 要らないなら、それをオレにくれよ。

 

(オレが勝つんだよッ! オレが──テメェより強えって、強えってッ! オレが勝つんだよ、勝ちてェのが当たり前だろッ!? テメェは勝ち負けとかどうでもいいんじゃねえのか!?)

 

 どうしてテメェはそんなにも強いんだよ。

 

 何がテメェの力になっている? 理由は──理由などないのか?

 

 テメェは何のために走ってんだよ。答えられねえだろ。

 

 オレにはある──テメェ以外、みんな持ってる。

 

 勝ちたいのに理由なんざいらない。走りたいから走る、勝ちたいから勝つ。そうじゃねえのか? オレはなんか間違ったこと言ってんのか?

 

 答えられねェだろ、テメェに理由なんざないだろ。

 

 なのに──

 

 戦う理由が強さを与えてくれるはずだった。では、目の前のアイツは何だ?

 

 ──それはまさに暴君。凡人には理解できない域に立つ暴君。理不尽なまでの強さ。負けるところなど想像出来ない。どうやって勝つのか見当もつかない。

 

 これは運命か、それとも必然か。

 

(なんでだ? なんで──なんで、テメェはそんなバカみたいに速いんだよ。なんでそんな──クソ、クソ、クソ、クソが、あァ──)

 

 ──ワアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!

 

 ザ──ザ、ザザァ──雨音。雨の音、歓声、足音、足音、鈍い音。

 

 ザァ──────途切れない雨音、曇天、淡い午後。

 

 夢の舞台。現実の舞台。

 

 もう一回息を吸って、さあ準備完了。栄光へとあと50m、そこに至るまで3秒もかからない。

 

 東京レース場、芝2400。15:40。芝:不良。

 

(テメェは強ェな)

 

 天候──雨。

 

(なあ、オルフェーヴル)

 

 ──雨の中に輝いた黄金の輝き。一筋の光が描いたその直線に何を見るか──興奮、夢、期待。

 

 暗闇の中に瞬いた黄金の光が描くのは絶望か、はたまた希望か。

 

(優勝、おめでとう)

 

 第78回日本ダービー。それはこれから彼女が奏でる伝説、その唄の一節。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────ワアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!

 

 走り終えて、切れる息を整えて。

 

 彼女の意識を現実へと引き戻したのはその歓声だった。

 

 大勢の観客が歓声を張り上げて、その勝利を讃えている。その事実をゆっくりと受け入れて、オルフェーヴルは静かに空を指差した。

 

 ──ワアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!

 

 雨空にまで歓声が響き渡っていた。

 

 泥だらけのまま、オルフェーヴルは満面の笑みを浮かべた。

 

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