──8月上旬。
チーム加賀はナカヤマフェスタの遠征のため、残されたゴールドシップとオルフェーヴルは他のトレーナーに預けられることになる。
破天荒ことゴルシはまあ、多分勝手にやるので、問題はオルフェーヴルだ。
「この時期のお前さんの横にいられないことを、トレーナーとして心から残念に思ってる。すまねえな、オルフェ」
「い……いいんスよ。だって……夢、だったんスよね?」
「……ああ。ガキの頃からの夢だ。宝くじの一等を当てるより難しいそれが、手の届きそうなところにある……多分、二度はねえ。だから、すまん。優先させてもらう」
サブトレーナーくらい取っとくんだった、と加賀は呟いた。
「お前のことは、明日原に任せる。あれで三冠トレーナーだからな、調整ぐらい朝飯前だ。だが一つ気掛かりがあってな」
「き……気掛かり、っスか?」
「
大きな宿題を残して、ナカヤマフェスタと加賀はフランスへと旅立っていった。菊花賞は10月23日、凱旋門賞は10月2日なので、まあ菊花賞前には帰ってくるが、最も重要な時期にはいない。
オルフェーヴルの抱える最後の課題。
勝ちたいという意思に欠けたまま、ウインバリアシオンと戦えば、きっとフィジカルの差がどれだけ大きなものでも、最後には想いの強さでウインバリアシオンは勝つ──可能性は、ある。それも小さくない割合で。
大きな大きな宿題だった。
-
「……ウマ娘のセカンドキャリア講演? 何それ?」
日中の全てをトレーニングに充てている夏合宿期間での自由時間は夜ぐらいのものだ。ミーティングの時間を使って、そんなイベントがあるとかないとか。
その辺りのことに関わっているアケノが説明する。
「今後のこと。特に3年生は聞いておくといいんじゃないかな」
興味を示したのは、まさに今それが必要なジョーダンくらいのものだった。ネコパンチは中等部だし、ナカヤマはごろごろしているし、ブエナビスタも大した興味は示していない。
「ゲストを呼んでるんだよ。トレセンのOGを数人呼んで、これまでの選手経験を生かしたキャリアを話してくれるの」
キャリア。耳慣れない、どうにも意識が高そうな感じに違和感。
「URA関係には顔が利くからね。レース周辺の製品開発とか販売とか、卒業生の進路でそういうのは結構多いんだ。かくいう私もトレーナー志望だし。けどまあ、講演の目的は、私たちの進路はそういうのだけじゃないよ、ってのがメインかな」
「へー。で、誰が来るの? そのゲストだかなんだか知らねーけどさ」
「秘密でーす。まあ講演は2週間後とかなんだけどさ。ちなみに私が言い出して、トレーナーさんたちの協力を経て形にしたのです! すごいでしょー!」
「……え? マジ?」
「そう! 将来のことでうじうじ悩んでるジョーダンを見かねたアケノちゃんが、深い優しさをもって企画したんだからねー!」
──アケノは前に進んでいる。
隣にはトレーナーがいるという環境に慣れきってしまったため、時々忘れそうになるが、トレーナーというものは元来とても希少な職業だ。トレーナーという、元選手としての経歴など一蹴にするほどの狭き門へ挑んでいくために。
それはジョーダンにとって、とても眩しいように映った。
「にゃー。アケノ、見直したにゃ。えらい」
「でしょ? ネコも聞いといて損はないと思うな」
「え、嫌にゃ。にゃーあつ森するもん」
「はいダメー」
ガバッとネコにのしかかるアケノを眺めていた。相変わらず暑苦しい──エアコンが壊れてこっち、夏の暑さは増すばかりだ。
「……あっつーい。エアコンあるとこどこだっけー……」
「会議室しかないよ。来年からはマジで、エアコンあるところにしてもらわないと死んじゃう。まあ来年とかないけど」
ふらふらとナカヤマが立ち上がった。流石のナカヤマと言えど、額には汗が浮かんでいる。
「ちょいちょいちょい。会議室鍵かかってっからね。涼もうってったって無駄だかんね」
「……おそらくだが、食堂の冷蔵庫にアイスが隠してあるはずだ」
一言で空気が変わった──
「そしてそれはトレーナー連中のものだろうと、私は考えている」
「……見回りのトレーナーがいるはずです。古い宿舎ですからね、大きい音を立てれば響きますよ」
「にゃーが意識を引くにゃ。その隙に」
はぁ、とアケノがため息をついた。意識的にはトレーナー寄りなので、モラルとためらいに欠けた問題児たちを見過ごすわけには行かない。
「いや普通にトレーナーさんたちのだから。アイス食べたいなら買って来なよ……」
「面倒にゃ」
「人が大事に取ってあるアイスの味ほど、美味しいものはありませんよ」
「バレる可能性があるからやるのさ。リスクを取らないなら人生じゃない」
手がつけられない。
「はぁぁ……ジョーダンも何か言ってやってよ。リーダーらしくさ」
ことの推移を見守っていたジョーダンが立ち上がった──
「やるからにはガチ、だかんね」
「っておーい。お前もかーい」
──バカどもの企みを阻止するのは簡単だ。アケノがチクればいい。そしてその前提は共有されている。にも関わらず、アケノの目の前で作戦会議を続けるのは、つまりアケノを信頼しているのだ。
最後だから、これぐらいのことは許してくれよ。
そう言っているようにアケノには感じられたし、それはおそらく間違いではない。
楽しみたいのだ。最後の思い出として──みんなで一緒に、バカをやって笑いたいのだ。そのぐらいのことは察したし、アケノにもその気持ちがよく分かった。
「……ほどほどにね。あと、アイスは普通に私物だからね」
呆れたように、アケノは笑った。
このあと普通にチクった。
「アケノォ〜〜〜〜!!! 覚えてろよォォォ〜〜〜!! 末代まで祟ってやりますからねェ〜〜〜!!!!」
「あはははははっ!! そう──悔しさで歪む、ナビのその顔が見たかったのッ!! 好き勝手出来るのが自分らだけだと思わないでよね、いつまでも苦労人枠に収まるアケノちゃんじゃないんだからねぇ〜〜〜!!」
桐生院に抱えられて何処へと連れていかれるブエナビスタへ、アケノの嘲笑が降り注いだ。裏切り裏切られ、彼女たちは楽しそうに笑っていた。
-
日中、照り刺す太陽、陽炎昇る砂浜。直線上をブエナビスタが駆け抜けていた。
「あっ、ナビ先輩だ……」
「……すご、……は、はや……っ」
たまたまそれを眺めていた明日原は静かに息を呑んだ。
(……これは……)
スプリンターと言われても違和感のない、そのスピードに明日原は驚いてしまった。聞いた話では、昨日自己ベストを更新し……そして今日また速くなった。
「っぷー。どーですジョーダン? これが才能ってヤツですよ」
「や、やるじゃん……。ま、まぁ? あたしの方が早いし?」
「ほーん。じゃ、走ってみてくださいよ。タイム並べりゃはっきりしますからね──ま、私のが速いでしょうけど」
──誰の目から見ても、ブエナビスタは明確な成熟期にあった。毎朝5時に起きて、サボらず腐らずトレーニングを続けてきた。その努力の結晶が、ようやく実を付けようとしている。
「上ぉ等だよこの野郎!! あっすータイマーやってて!」
「ジョーダン、基本を忘れずに。フォームと重心、それと体幹を意識して」
「あい!!!」
挑発に弱いジョーダンが位置について、よーいスタート。
「がんばれージョーダン先輩ーっ!!」
「こっちもすごい……!」
怪我によるブランクを感じない走り。しかし手元のタイマーが示しているのは、まだジョーダンはブエナビスタには敵わないという事実。
(……怪我はやはり痛かった。それさえなければ、もっと……いや、怪我をしないのも、一つの才能か)
あるいは最も強力な才能だ。走り続けられるウマ娘はそう多くない。強くなればなるほど、そのリスクは高まっている。
明日原は思う。リミッターのようなものがあり、そして土壇場でそれが外れるウマ娘がいる。本番で練習よりもずっと速く走るウマ娘はそう珍しくはない。しかしそのようなウマ娘は得てして故障しがちだ。
ジョーダンは典型的だと思う。特に勝利に対するモチベーション……動機、いや……。
(想い。それが彼女を最も強くするものだ。そして今のジョーダンは、勝ちたいと心の底から感じていないだろう)
強烈な意志。有馬記念はそれが顕著だった──友達のために、誰かのために。自分以外の誰かのために走る時、彼女は理屈を飛び越える。だから勝ちたい理由が必要なのだ。
(……勝ちたい理由は、彼女自身が見つけなくてはならない。僕が与えてはならない。彼女自身がそうしたいから、そうする……そうでなくては、意味がない)
課題は明確だった。そして明日原がそれを解決することはできない。
ただ、精神的に不安定だったジュニア期とは全く訳が違う。彼女は成長し、多くのものを経て、そしてもっと多くのものが見えている。だから信じる──それ以外の部分は、トレーナーである自分の仕事だ。
(……ただし、想いにより強くなるのは何もジョーダンだけではない)
ジョーダンと戯れているブエナビスタの方をチラリと見た。
(もしお互いに万全でやり合ったら……いや、余計なことを考える必要はない。こういった時にこそ、怪我や熱中症には細心の注意を払うべきだ)
明日原はそうして気を引き締めた。ただひたすらに、トレーナーとしての仕事を全うする。
今年の秋にはあまりにも多くのことが訪れるだろう。
まず最も注目すべきなことはオルフェーヴル、アパパネの三冠への挑戦だろう。もしも同時に達成されたなら、それは史上初の快挙となる。
次にナカヤマフェスタの凱旋門賞への挑戦。宝塚という実績は十分だが、その程度で勝てるほど甘い壁ではない。
シニア三冠路線も忘れるべきではない。トーセンジョーダンの復帰、ブエナビスタの挑戦……ここのところ勝ちきれないヒーローの凱旋。
レースは少しずつ変わり続けている。
-
──八月上旬。
「……あんたがあたしに頼み事なんて、珍しーね。ロジ」
「柄じゃないのは分かっている。それでも……頼む」
「いや頭下げなくていーから! やるに決まってんでしょ、友達の頼みぐらいいつでも聞くわ!」
ロジユニヴァースから並走の頼みがあった。
「いーでしょ、あっすー?」
「もちろん。……札幌記念ですね? 千石さんと内容を調整します。30分後に模擬レース上へ移動しましょう」
夏レースに出場するウマ娘は多くいる。むしろ秋に備えてトレーニングに専念するのは上澄のウマ娘だけだ。
直前の追込を砂浜でやるのは、本番を想定した練習とは言えない。車で少し行ったところに模擬レース場が整備されており、そこで並走を行うことになった。
「言っとくけどさ、あたしはあんたの練習のために、いい感じに手ぇ抜くとか出来ねーから。やるならガチでしか出来ねー。それで文句言われても知らんから」
「……だから、お前に頼んでいるんだよ」
──先日の宝塚記念でロジユニヴァースは13着に敗れた。序盤から好位につけ、さしたるミスもなく、ただごく普通に最終直線で落ちていった。
かつてのダービーウマ娘は零落した。
並走が始まって、二人のウマ娘が競り合った──のも、僅かな時間だけだ。ジョーダンは外側から一気に突き放していく。
「……もう一本だ!」
僅かな競り合い。歯を食いしばってロジユニヴァースが直線を駆ける、その横をジョーダンが加速していった。
「まだだ、まだ……頼むッ!」
三度目。今度は勝負にもならない。
それでもロジユニヴァースの表情に絶望はない。ただ息を切らして、ひたすらに全力を尽くして走った。
「っ、はぁッ、はぁ……っ、げほっ、ごほっ……はぁッ、はぁ……っ」
もう日が沈みそうだ。
息を整えるロジユニヴァースに、ジョーダンがドリンクを放り投げた。
切れる息を飲み込んで、ドリンクを流し込んでいくロジユニヴァースと、それを眺めるジョーダン──トレーナー二人が歩いてきた。
「上がりだ、ロジ」
「ジョーダンもお疲れ様でした。合宿所に戻りましょう」
コメントはしない。走っている二人はわざわざ言わなくても、十分に分かっているだろう。
「……いや、いーや。戻っててよ」
「まだ練習を?」
「ううん。ロジ、ラーメン付き合いな」
「……ああ、分かった」
頷いたロジユニヴァースの様子を見て、トレーナー二人は少し顔を見合わせた。そして背を向けて歩いていく。
「あまり遅くならないよう」
「食い過ぎるなよ」
空気を読んで帰っていったトレーナーたち。ジョーダンも練習バッグを掴んで歩き出し、ロジユニヴァースもそれに続いた。
近場のラーメンの超特盛ラーメンチャーハン付きを食い尽くす。練習で失ったカロリーを補充する必要がある──本来なら、栄養バランスを考えてこのような食事は控えなければならない。しかしそれを明日原たちが見逃してくれたのは、きっと気遣いだろう。
無言で完食した。
そして何も言わず、ロジユニヴァースは伝票を掴む。
「ロジ?」
「私の奢りだ」
「いや、あたし奢る気で連れてきたんだけど」
構わずに会計を済ませると、ロジユニヴァースは外へ出て行ってしまった。ジョーダンもコップの水を飲み干すと後に続いた。
外へ出ると、ほんのりと涼しい風が汗ばんだ頬を撫でた。アスファルトから熱気が登っているが、東京ほどの暑さではない。おそらく山に囲まれているおかげで、熱が篭らないのだろう。心地よかった。
鈴虫の鳴き声が聞こえる。街灯は古ぼけていて、こんな田舎では夜に出歩く人もいない。車が通るだけだ。
帰り道から見える海は、うっすらとした月明かりに照らされて綺麗だった。
「札幌記念に出る。明日の夕方には現地に着く」
「……ふーん」
ロジユニヴァースは道沿いの自販機でジュースを買うと、砂浜へと続く階段を下っていった。
「ちょっと、まだ走る気ぃ?」
「今走ったら全部出るだろ」
そして階段に座り込んで、オレンジジュースのキャップを開けた。
「……少し、聞いてほしい事がある。そう長くはならない」
「あたしも同じこと言おうとしてたわ。ま、なんでも聞いてやるけどさ」
同じくミネラルウォーターを買って、ジョーダンも隣に座った。
「これでもあたし、聞き上手で通ってるから」
「はは。バカ言うな、お前がそんなキャラか?」
「これでもけっこー相談乗ることは多いの。友達多いし、あたし」
「そうだな。私と違って、お前の周りにはいつも鬱陶しいのが多い」
ロジユニヴァースはあまり他人と絡まない。もちろん誰かと一緒にトレーニングもするし、レースに関することなら意見交換もする。
「マジそれな。うるせーやつばっかだからさ、ロジみたいに静かだと楽だわー」
「静かなわけじゃない。ただ、人との話し方が分からないだけだ」
「え、ガチなトーンやめろし。困るだろ」
「悪い。だけど、本当のことだから」
懐かしむようにロジユニヴァースは語り出した。
「……親が転勤族だったし、私は……ほら、こんなんだろ? 自分で言うのも何だが、無愛想だ。小学校の頃から転校を繰り返すたびに、うまく馴染めないことが辛くて……いつしか、私はずっと一人なんだと思うようになった。そしたら、少しだけ心が楽になったけど、人と話すのは余計に下手になった」
身も蓋もないことを言えば、ロジユニヴァースはコミュ障だった。それは、ダービーを獲ったあたりで孤高という呼び方に変わった。
「自分のことを話すのは苦手だ。変だと思われるのが怖かった。一人は楽だったから、そっちに逃げた。……本当は、友達と一緒に遊んだりしたかったけど、私は臆病だったから」
黙って聞いていた──ロジユニヴァースというウマ娘の、根幹に関わる大事な話だと分かったから。
「勉強は好きじゃない。だから消去法で走るようになった。親もレース経験者で、トレセンに行くことを応援してくれた」
波の音がする。それに、ロジユニヴァースの静かな話し声が混じる。
「ただ、私は足の骨格が少し歪んでいたんだ。気がついた頃にはもう矯正は間に合わなかった。骨格の歪みはフォームを歪めるし、何かの弾みで事故るかもしれない。トレセンに来て、そんなことを散々言われた」
──それは実際、今もロジユニヴァースの抱える大きな問題となっていた。骨格の矯正は幼少期からやらないと間に合わない。少なくともトゥインクルシリーズのような最高峰の舞台では致命的だ。
「……見返したかった訳じゃない。ダービーを夢見ていたのは、私に走ること以外がなかったからじゃない。だけどダービーを獲れば、私も変われるかもしれない……心のどっかでそんなことを思っていたのかもな。もう自分でも分からないけど、ダービーに懸けていた思いだけは誰にも負けなかっただろうな」
そんなハンデをものともせず、ロジユニヴァースは重馬場を4バ身差で勝ち抜いた。そこがきっと彼女のピークだっただろう。
「ダービーを撮った後、何だかうまく走れなくなった。気持ちと体が釣り合わなくて、力が入らなくなった。それと身長が伸びるにつれて骨格の歪みも大きくなっていって、どうにも弱くなった。そして、外野から色々言われてもなぜか悔しくなかったんだ。ロジユニヴァースは終わった──今じゃ世間の認識はそれで、私もそれでいいと思った。もう気持ちが残ってない」
燃え尽き症候群──と、一般的に分類してもいいが、それはもっと単純な要因によるものだっただろう。
「……だから、本当はな──」
少し恥ずかしそうにしてロジユニヴァースははにかんだ。
「お前に、友達になってやるって言われて……嬉しかったよ。こんなことを言うのは、自分でもすごく変だと思うし、恥ずかしいけど……ダービーを獲って良かったって思った。私自身は何も変わらなかったけど──」
ジョーダンにはそんなつもりはなかった。ただノリで絡んでいって、時々マックでの無駄話に付き合ってもらって……──だが、ロジユニヴァースにとってそれは違った。
「こんなことを言うのは恥ずかしいし、癪だ。だけど……ありがとうな、ジョーダン。私の友達になってくれて」
それは、彼女にとっての救いだったのだ。
「私が走るのは、ずっと私自身のためだったんだ。あの日の私を──1人ぼっちで寂しそうにしていたあの日の私を、認めてやりたかったんだ──」
彼女は頑張って頑張って、ダービーを勝った。ダービーを勝つのは最も運のあるウマ娘だという言葉の通り、ロジユニヴァースは幸運だった。少なくとも彼女はそう思った。
勝ててよかった。頑張ってきて、良かったって。
「寂しくて泣いたことにも、ちゃんと意味があったんだって。未来はそう暗いもんじゃないんだって。変わり者で、ちょっとバカなとこがあるけど、ちゃんと友達が出来るんだって、な」
翻ってジョーダンの瞳には少し涙が滲んでいる。それを悟られないように、俯いて聞いていた。
「最後に少しだけレースをやりたいと思う。札幌記念に出て、それで終わりにする」
ジョーダンが思わず顔を上げてロジユニヴァースを見つめた。
「あんた……」
「さっき並走して、ようやく決められた。だから、礼を言う。ありがとう、ジョーダン」
「……っ、ざけんなっ!」
ジョーダンは感情を制御するというところがない。いつだって直球で、思ったら顔に出てしまう。ロジユニヴァースは、トーセンジョーダンのそういうところが好きだった。
「ロジ、あんた──終わりって、そんなの……っ!!」
「何も意外じゃないだろ? 宝塚記念でボロ負けしてから感じていた。こんな私を応援してくれた人たちがいたんだって……。もう私の全盛期はとっくに終わっていて、惰性で走っていた。だから綺麗に終わりたい。負けてもいいから、最後は全力で走ろうって。最後にもう一度頑張ろうって」
「……っ、それでも……あんたの引退、決めさせたのはあたしなんでしょっ!? 割り切れっかよ、そんなの……ッ!」
「違う!」
「……っ」
「お前が良かったんだ! 遠慮なんてしないで、ちゃんと私に勝ってくれるお前だから良かったんだッ! 最後に──私の姿を見ていて欲しかったんだ!! 私はな、この3年間に一つだって後悔なんかない! 今、この瞬間もだっ!!」
「なに……なんだよ、ズルい言い方すんなよ……っ、怒れねーだろ……っ」
バカだな、とロジユニヴァースは思った。
「怒るなよ。ただ……聞いて欲しかっただけなんだ。私のことを……それだけで、十分だよ」
「分かったようなフリしてんじゃねーよっ! だって……あたし、あんたと最初に走ったんだぞ……っ! メイクデビューも、ラジオNIKKEI杯も、ホープフルステークスも……走っただろ、一緒に……っ」
「……あぁ、そうだな。悔しかったよ……本当に悔しくて、NIKKEI杯も……悔しくて、悔しくて……肝心のダービーに、お前は出なかった。怪我なんかしやがって、この……バカ野郎がっ!!」
「それはマジであたしも悔しいよッ!! 言っとくけどあたしが出たら勝ってたから……!!」
「ジョーダン──
「っ!」
たらればはない。それはもう終わった話だから。
「怪我をしないでダービーに出場したのは私の方だ。……思えばそれだけだな、私がお前に勝ったところと言えば」
「……うん、そうだよ。全部、あたしが勝った。あたしの勝ちだ」
ああ、そうだな。そう頷いて、ロジユニヴァースは寂しそうに笑った。
「ごめんな、ジョーダン。置いていってごめん。私は、一足先に行くよ」
「……うん。最後まで……ちゃんと、走り切りなよ。ロジ」
「……見ていてくれ、ジョーダン。私がちゃんと、最後まで走り切れるように」
肩を抱き合ってそう言った。月光が映した涙がどちらのものだったのかは、今となってはよく分からなかった。
-
8月22日、GⅡ札幌記念。
ロジユニヴァースはこれに出場し、14着に破れた。
合宿所に帰ってきたロジユニヴァースをジョーダンは出迎えた。
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「……終わったよ、ジョーダン」
「あぁ、ホッとした。もう練習しなくていい。もう、あんなに苦しい生活をしなくていい」
「……寂しい。なあ、ジョーダン。寂しいよ。寂しいけど……あぁ、うん」
「よかった。これでよかった。何も思い残すことはない」
「けど……なんでだろうな。お前の顔を見たら……涙が、止まらなくなった。笑ってくれよ」
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10戦5勝。ダービーウマ娘、ロジユニヴァース。引退──
最後の夏が終わろうとしていた。
次で夏合宿おわりです
ロジユニヴァースくんは一年早く引退になりました すまん