ウソだよ
ロジユニヴァースの引退はトーセンジョーダンに強烈な印象を与えた。曖昧だった"終わり"が具体性を帯びてきて、その気持ちをジョーダンは上手く整理出来なかった。
「……っ、うらぁぁぁ────ッ!」
トレーニングはこれまで以上の全力。しかし、それはどこか危うさの混じるもの。行き場のない気持ちをぶつけているように思えた。
(……京都大賞典は回避だろう。今レースに出ると、間違いなく怪我をする)
身体への負担を考慮しない走り。足元が砂なので、負担はまだ少ない方だ。砂浜では芝に比べて出せるスピードに上限がある。それはつまり、負担が少ないということだ。
スピードは──上がっている。昨日よりもずっと……少し変則的ではあるが、これもまた"想い"だ。諸刃の剣ではあるが。
(……ジョーダンなら、きっと……いや、だが……それでは、意味が……)
明日原もまた、迷っていた──8月下旬。
夏合宿の終わりまで、あと10日を切っていた──
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一方こちらはクラシック期部屋。ウインバリアシオンやオルフェーヴルの暮らしている部屋は、今は一人分の空きがあった。
「あーあ。オルフェがいないとつまんないな〜。つまんなくな〜い?」
「知るか。うざってェのが一人消えてやりやすい」
「ふん。ボスに泣かされるから逃げたんだ。あいつ」
なんだかんだで昼食を一緒に食べてるあたり、そう仲は悪くないらしい。今の話題は、数日ほど合宿場を開けている、オルフェーヴルについて。
彼女に対して抱く感情は様々だ。うじうじしていて鬱陶しいとか、話してみると案外面白いやつとか、絶対引き摺り落としてやるとか。ただ一つ共通しているのは、彼女が恐ろしいほど強いということ。
レースでの彼女は絶対的な王者だ。何もかも薙ぎ払い、一つとして通じない。絶対的な強者──重バ場であれほどのスピードが出るなら、もう誰が勝てるというのか?
だから、オルフェーヴルに本気で勝とうとしているのは、きっとウインバリアシオンだけだろう。
(……被災地の訪問。テメェ……何を、見てやがる──)
──迷いはない。だが、恐れはある。
一年前とは違う。壁を乗り越えてウインバリアシオンは飛躍した。飛躍してなお、壁はずっと高いままだ。
昼休憩を終えて、トレーニングの器具を取りに倉庫へ来た彼女は、ばったりとトーセンジョーダンに出会した。目的は同じらしい。巨大タイヤを括る用の縄を持っている。
「……トーセン、ジョーダン」
「ん? あー……あんたあれじゃん。オルフェの同室の」
ただでさえ鋭いウインバリアシオンの瞳がさらに険しくなった。
「……」
「お、ガンつけるじゃん。けどあたしも、ンな若くねーんだわ」
トーセンジョーダンには因縁がある。たとえジョーダンが覚えていないとしても──
「……走りやがれ」
「あん?」
「ムカつくぜ。テメェ見てるとよ……」
とりあえず突っかかっていったウインバリアシオン。今の少し不安定さのあるジョーダンのことを彼女は理解している──オルフェーヴルと同じくらい意識しているウマ娘だったためだ。
「……表出ろ、トーセンジョーダン」
「ふーん。ま、いーよ。軽くボコしてやるわ」
ポイっと抱えていた大縄を放り投げて、それが落ちる音がした。
勝負はレースではない。直線勝負には駆け引きがない──とは言わないが、トップスピードの勝負になりがちだ。
だから、単純なフィジカルの差が勝敗に表れやすい。
「1000mね」
「……舐めんなよ。この短距離ならスタミナは関係ねェ。勝てねェなんざ思うなよ」
「おまえ。あたしが勝ったら、敬語使えよ」
忘れがちだがレースはゴリゴリの体育会系だ。別にチームに所属しているわけではないジョーダンにもその気質は備わっている。
ギャラリーが集まっている──砂浜に転がっていた石を放り投げて、落ちたらスタートだ。
弾丸のように駆け出した二人。一瞬でトップスピードに乗ったウインバリアシオンと、僅かに遅いジョーダンの差。
(……けっこーやるじゃん。下も育ってんだな。ちょっと舐めてた)
そのようなことを一瞬だけ考えて、ジョーダンは一歩踏み込んだ。
(まー……ちゃんとボコしてやるのも、センパイの役目だろ)
最高速度でぶっちぎる。そう決めてからの勝負は一瞬だった。サマースプリントと見紛うスピードの、後先考えない全力疾走は、瞬く間にウインバリアシオンを突き放して前へ。
(……こいつ……バカが、まだ500m以上残ってんだぞ。ンな全力はそう長くは持たねェ。落ちてくるあたりで差しゃいい──)
まだ加速するジョーダンの背を見てもウインバリアシオンは焦らない。そのぐらいのことはすぐに見抜き、仕掛けるタイミングを見計らう。
(………………下がって来ねェッ!!)
一向に落ちてこないジョーダンの背を見て加速を仕掛けてももはや遅かった。ゴール地点での差、およそ3バ身──しかし、それ以上に大きい差があった。
トップスピードの維持。それがジョーダンの1番大きな武器だ。そして真骨頂は競り合いの強さ──それを引き出すことさえできなかった。
油断もあった、見誤りもした。だが──遠い。
「っぷー。なかなかやるじゃん? ま、センパイに勝つにはちょっと足んなかったなー」
(……ケガ上がりでこれか。皐月賞バは伊達じゃねえってか……)
「あ、あんた名前なんだっけ」
「……ウインバリアシオン、だ」
「じゃ、シオンね。あとケーゴ使えよ、お・ま・え」
「ぐっ……」
「返事は?」
「……分かり、ました」
「あははっ! 似合ってね〜、ウケる」
「…………ッ」
恐ろしい形相でジョーダンを睨んでいる。それを見て、ジョーダンは一通り笑った。
「ジョーダンだって。いーよ、全然似合ってねーし」
「クソがッ……」
ジョーダンは満足して、この程度のレースなどなんでもないように練習へ戻ろうとして、シオンはつい大声を出した。
「おい待てッ!」
「なぁあにぃー? ジョーダンセンパイの悩み事相談行っとくかぁ〜?」
「……秋だ。この秋に……テメェを倒してやる」
勝利に対する強烈な執念。貪欲さ──その瞳の中にあるものがなんなんなのか、ジョーダンには分かる気がした。
自分のために。自分の中にある満たされていない何かを満たすために。
「そ。ま、ガンバんな。あたしは負けねーけど」
「……舐めてんじゃねェ。走ってきた年数なんか強さには関係ねェ。テメェがいなくなる前に……超えてやる」
ここまで勝利というものに食らいつこうとするウマ娘は珍しい。どこか懐かしいような感触──自分を証明するために、勝ち続けるしかないと信じていた。
「へー……いーじゃん、跳ね返ってんね」
「……上から見下ろしてろ。あんたが腑抜けたままなら……喰らい尽くしてやる。あのバカと一緒に」
飢えているウマ娘は強い。レース中、最後の苦しい時間帯で前へ踏み出すためには、苦しさを上回る想いが必要だ。
「てかなに? 腑抜けてるって、あたしがぁ?」
「……」
敵意と貪欲さを隠さない瞳がジョーダンを睨んでいる。
「……失望させるんじゃねェぞ、トーセンジョーダン」
吐き捨てるように、しかしその奥に嫌悪を超えた何かが見えた気がした。それがどこか嬉しくて、ジョーダンの口元は緩んでしまう。
「──あんたこそ。あたしを倒したいなら、もっとでっかくなれよ」
「……テメェ」
「ガンバんなよ、菊花賞。せいぜい後悔のねーようにね」
「……余計なお世話だよ、クソが」
口の悪い後輩──こうも突っかかってくる後輩は珍しい。その悪態を吐く姿に──どこか、かつてのスカーレットと自分の姿が重なった気がして、懐かしくなった。
「いつでもかかって来な、シオン。センパイが相手してやっから」
舌打ちをして、彼女は背を向けた。これ以上一緒に居たくないと全身で示しているシオンを見て、なぜだか嬉しくて仕方がなかった。
どうしてだろう? 考えても分からなかったが──それでも、かつての自分を見ているような気がして、ジョーダンは嬉しかったのだ。
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「ねーナビ。ナビってさぁ、ヒーローになりたいんよね」
「まぁなりたいっていうかもうなってるっていうか。お茶の間のヒーローってのは成ろうとして成るものではないので」
スイカゲームをしているナビになんとなく聞いてみた。
「ヒーローっつーかオモシロ芸人にゃ。つか単なるドジっ子にゃ」
「今度私に同じこと言ったら海水飲ませますよ? おい。なぁ?」
「怖いにゃぁぁぁ……アケノ〜、たすけてにゃ〜……」
「はいはい。ほらナビ、ごめんなさいは?」
「ごめんなさい……ってアホかァ! すーぐ被害者ヅラするんですからねそいつ、もーちょい歳いってたらやっちゃいますからねほんと!」
ナカヤマがいない部屋でも騒がしさに変わりはない。
「でなんです。ジョーダンもヒーロー志望ですか?」
「いや……なんかさ、考えんのよ。最近──なんであたし、走ってんのかなって」
……。
また妙なことを言い出したと、皆が思った。
「なんでだっけ?」
「何言ってんにゃ。そんなのにゃーが知るわけないにゃ」
「フラフラしてますねぇ」
口でそう言いつつ、アケノもロジユニヴァースの引退は知っている。その辺りのことにジョーダンが影響されたことも当然。
トーセンジョーダンは多分、非常に感情的で、共感的だ。だからすぐ影響される。ふとしたことで不安定になるようなところがある。
しかし、それとは少し違う何かをブエナビスタは感じた。
「しょーもない。ジョーダン、あなたは私に勝つことだけ考えてりゃいいんです。違いますか?」
「……違わねー。違わねーよ」
ロジの分まで、走る──と、一年前のジョーダンならそう思っていただろう。しかし今は違う。
「みんなはさ、なんで走ってんの?」
「ヒーローになるためですが。あっ、もうなってました」
「レースが楽しいからにゃ」
「地元から抜け出したかったから。まあ私は過去形だけどね──っていうかほんとにどうしたの? ジョーダンが考え込むとか……まぁ、いつものことだけどさ」
「にゃー。しょーがないからにゃーが聞いてやるにゃ」
「ん……まぁ、あたしにも引退する日が来るんだって、思って」
そんな言葉がジョーダンから聞けるとは思ってなかったという、3人の表情と来たら傑作で、ポカンと口を開けていた。
「なんか、戸惑った。そんだけ」
ナカヤマフェスタの最後のレースもそう遠くない。だから意識することが多くなった。そしてブエナビスタも無関係ではない。
「ナビは、どうすんだっけ」
「……まあ、珍しく正直に言いますが。私も迷っています」
本当に珍しく、ブエナビスタは茶化さずに呟いた。
「体の調子、悪くないので……アオイにも色々タイトルあげたいですし。あと一年や二年くらい、戦ってみてもいいとも思いますよ。けどまー、終わりがあるから本気になれるってのもありますから。だから……迷ってます」
先の人生は長いと言っても、十代の一年は貴重だ。本当に珍しく本心を出したブエナビスタにジョーダンたちは驚いている。
「──だけど、ジャパン
「……にゃ?」
強い決意。おちゃらけた雰囲気など微塵もない、絶対的な決意だ。何せ想いの年月が違う。
あのジャパンCは、ブエナビスタがレースを始めた理由、そのものだから。
それぞれに走る理由がある。その想いは必ずしも果たされるとは限らないが、それでも目指し続ける。ジョーダンはようやく、少しだけ勇気を出して向き合うことにした。
いずれやってくる、終わりのために。