押し掛け女房と無愛想な亭主といったところで、それはそれでいいコンビだったのかもしれない。ロードカナロアとウインバリアシオンのことである。
「1秒遅れ!! ペース上げてッ、そんなんじゃ勝てないよ!!」
「はァ……ッ、あァ、うるせェ……なァ……ッ」
菊花賞に求められるタフさはスタミナのこと。3000mは未知の領域だ、どれだけ鍛えても足りるということがない。
「顔上げる!! 前見て!! 後ろからオルフェが来てると思って!! そんなんじゃ全然足りないよっ!!」
「あァ……クソッタレ……ッ!」
その勢いたるや、トレーナーと見紛うほどだ。ロードカナロアを知る者なら彼女の熱血振りを見て目を疑うことだろう。
「ねぇ、あれ……ウインバリアシオン」
「……あっちの子、確か……ロードカナロア? 何してるんだろう……」
道ゆくウマ娘の疑問などどこ吹く風。カナロアは首から下げていたストップウォッチを放り投げると、身体を解すように軽くジャンプする。
「っし。並走やるよ! 限界突破ぁ!! 根性じゃぁーい!!」
「……あァ!? やってやるよ、クソがァ!!」
今しがた全力を出し切ったウインバリアシオンはもうヤケクソだ。こうも追い詰められても気概が切れないのは強みと言えるだろう。
疲労によりフォームに乱れが見える。それでもカナロアに喰らい付いてく彼女の顔は──笑っていた。
「おッそぉーいッ!! オルフェはもっと速いよ、私に負けてどうするわけぇ!?」
「テメッ、スプリンターがどの口で……ッ!」
体力の残っているスプリンターと限界のステイヤー。結果は火を見るより明らかだ──引き剥がされるに決まっている。
「……! 舐めてんじゃねェぞ、このオレをなぁあアアアアア──ッ!!」
喰らいつく。喰らいつく──限界を通り越した身体のどこにそんな力が残っているのか、それは彼女自身も分かっていないだろう。
「っ、いいね──いいよ、そういうの大好物かなぁって、ねッ!!」
カナロアが一歩踏み込んだ。足跡がはっきりとターフに残るほど強く──今から30秒間に限っては、ロードカナロアはオルフェーヴルにだって負けることはない。
そんな練習の様子をカノープスのメンバーが見守っていた。
「……どうなることかと思ったけれど、案外うまくやるものね。あの子」
「そうだねぇ……あたしたちは、あの子とは上手くやれなかったものねぇ……」
「にゃ。一匹狼のくせにニャカニャカ……いー走りするにゃ。ケッ」
ウインバリアシオンがカノープスを選んだのは放任主義だからだ。やりたいように出来るという一点でこのチームを選んだ。トレーナーによる指導も、拒否するわけではなかったがそれほど積極的だったわけではない。なぜか?
なんてことはない──ウインバリアシオンは、自らに関する全てを自分一人で背負いたかったのだ。そう在ることが強さだと信じ、そしてダービーではそれを証明した。
彼女とて、誰かに頼ることはある。しかし、芯の部分では自分を誰かに預けることはしなかった。そうでなければ納得出来ない。誰かのせいにする余地があることが我慢ならなかった。
「ふぁあ……変わるもんだねぇ、人って」
「にゃ。ウマ娘にゃ」
「一緒よ一緒。心があるもの──というか、一方的に押し掛けられているように見えるけど」
「けど……いい関係に見えるよ。うんうん、いいことだねぇ……」
後方腕組みチームメイトが眺めていた。9月半ば──この時期のレースの動向は二つ。10月の凱旋門賞と神戸新聞杯──菊花賞の前哨戦である。
オルフェーヴルは神戸新聞杯への出走を表明。続くようにウインバリアシオンも出走を決定。
二人にとって、ダービー以来となる対決であった。
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神戸新聞杯に向けてトレーニングを重ねているのはウインバリアシオンではない。そして世間はオルフェーヴル派とウインバリアシオン派に分かれ、混沌を極めていた──
「オルフェーヴルの何がいいって? ──ギャップだよギャップ! 自信なさげな姿からは想像もできないんだよなぁ! もう強いの何のって、圧倒的だよな!」
「やっぱり強さは華だね。何というか、強いとそのウマ娘の全てが許される感じがあるじゃない? オルフェーヴルは強い。本当に──」
オルフェーヴルの、ものっそいビビりなところとか、自信のなさとか、小動物のような感じが好きだというファンも少なくないが、結局のところ人気が理由などたった一つだけだ。
「おるふぇ、かっこいいー!」
一方、ダービーの印象も色濃いものだ。
「ウインバリアシオンの──なんていうの? どん底から這い上がってきた感、かっこよくて。応援したいなって」
「……分かるよ。彼女が──どれだけ強く、オルフェーヴルに勝ちたいと願っているのか……」
訳知り顔で言うファンの言う通り──オルフェーヴルの絶望的なまでの強さは全てのレースファンが知っている。オルフェーヴルが強ければ強いほど、それに立ち向かうウインバリアシオンの姿は眩しく映る。
その中に同情が混じっていないかと言えば、少し微妙なところだ。
「実際、今のクラシック世代には同情するよ。オルフェーヴルさえいなければ、もっと結果を出せていただろうなって
ファンの適当な意見は聞き流して、当人たちのことを見てみよう。
オルフェーヴル。又の名を、金色の暴君。
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明日原が管理する部室──いつもジョーダンが入り浸っている校舎の一室に、オルフェーヴルはいた。
「本日のメニューです。目立った問題点はありません。トレーナーとして、あまりこのようなことは言うべきではありませんが……順調すぎて、怖いほどですね」
「……っス」
現在加賀はフランスで凱旋門賞に向けて活動中だ。そのため、オルフェーヴルは加賀が帰ってくるまで明日原の元に預けられていた。
「あとは怪我さえなければ──と、言いたいところですが……問題点が一つ。君、夏休みの課題を出していないでしょう」
「………………あッ!」
夏休みの宿題は溜め込むタイプのオルフェーヴル。そして終盤にかけて、オルフェーヴルは完全に宿題を忘れていた。雑誌を読んでいたジョーダンが顔を上げる。
「おぉ〜、オルフェって結構思い切り良かったんだ。ちょい意外じゃん」
「い、いや……あ、あの……そ、そういうつもりじゃ、なくって……」
「トレセンの前提として学業とレースの両立があります。アスリートである前に、一人の高校生であることを忘れてはいけません。欠点が続くようなら、レースへの出場は許可されません」
「えッ……そ、それは……だ、ダメっス。アタシは、レースに出ないと……出て、勝たなきゃ行けないっス……」
「……えぇ。まぁ……学園としても、君をレースに出さないなどという選択肢はありません。しかしそれは、甘やかすということではない──」
「ど……どういう意味、っスか?」
「本日のトレーニングは中止。補習です」
「………………べ、勉強は嫌っス〜〜〜っ!! ジョーダンセンパイ〜〜〜〜!! 助けて〜〜〜!」
「ん〜〜、じゃ……あたし筋トレしてくっから! ガンバ!」
そういうことになった。
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レースに関連するものならトレーナーの管轄で、融通が利く。しかし学業の方は先生たちの領分だ。どれだけ走るのが早く、絶対的な王者とか最強とか言われようとも、黒板の前では一人の高校生でしかない──
「いいですか、オルフェーヴルさん! 学業を疎かにしては、卒業後の進路がろくなことになりませんよ! 夏の宿題に一切手をつけていないとはどういうことですか!」
「…………ご、ごめんなさい」
「はぁ……。そもそも学生とは勉学に励み、将来に向けて必要な学力を身につけることこそ本文! レースばかりにうつつを抜かしているようではいけません! あなたが勉強に苦手意識を持っていることは知っていますが、なぜ苦手としているかといえば授業中に寝てばかりいるからで、そのせいで余計に苦手になっていくのです! 授業をしっかり聞いていれば──」
(この先生、話が長いからキライっス……)
「いいですか!? 本来は宿題を全て提出し、その上で確認テストをパスしてもらわなくてはいけないのですよ! それをこの量にまで減らしているんです! まったく理事長も甘すぎます。これでは本人のためにならないのに……」
目の前に積まれた問題集の山から目を背けたい。走るのがそれほど好きではないオルフェーヴルも、この時ばかりは走り出したい気分だった。逃げるために。
「今日はこれが終わるまで帰れませんからね!」
(……今日、帰れないっス)
全く宿題をやっていないことを考えれば、むしろ甘やかされまくっている方ではある。宿題の総量に比べれば大したことのない量だ──が、オルフェーヴルにとって勉強は鬼門。すでに諦め始めていた。
「それでは始めて下さい! 私は他にやることがあるので外しますが、1時間ごとに監視に来ますからね」
先生が出て行った。オルフェーヴルは問題集のページをペラペラとめくり、その量の多さ(オルフェーヴルの主観)に静かに目を閉じた。
(……よし。逃げよう)
決めてからの行動は早く、筆箱にシャーペンをしまうと立ち上がり、こっそりと扉を開ける。そして扉から慎重に周囲を伺い──
「…………オイ。何してやがる」
廊下を歩いていたウインバリアシオンとバッチリ目が合ってしまったのだった。
「……で、xy平面にこの式を書くとこうなンだろ。で、ここで交わってるからさっきの表に照らして……答えはこうなる。解答でも……合ってンな。分かったか?」
「えッ……あ、……っス」
「……ホントに聞いてンのか? まァいい、次の問題行くぞ」
どうしてこんなことになっているのだろう。オルフェーヴルの頭の中はそんな疑問でいっぱいだった。
「さっきと同じだ。数学はとりあえず平面書いてイメージしろ。式じゃなくて図形を想像すンだよ。数学苦手とか抜かしてるヤツらは想像力が足りてねェだけだ。そうすりゃこんなもん、大した問題じゃねェ」
「…………」
「何呆けてやがる。さっさとやれ、終わらねェと帰れねェンだろ」
「えッ、あっ……い、いや。だって、ウインバリアシオンさんも、練習あるはずじゃ」
「ったりめェだろ。神戸新聞杯は月末だ、遊んでる時間なンざありゃしねェ。さっきからうっとおしく電話がかかってきてやがる」
着信を知らせるように、携帯がまた振動した。それに舌打ちすると、彼女はスマホの電源を切って放り投げた。
「あ、あの……ムシしたら、まずいんじゃ……」
「てめェの知ったこっちゃねェ。
あまりにも的確な正論にオルフェーヴルは黙るしかなかった。頬杖をついてつまらなさそうにオルフェーヴルを見守るウインバリアシオンの存在は──率直に表現して、落ち着かなかった。
「…………」
「手ェ止まってンぞ。分からねェなら素直にそう言え。黙ってるだけ時間の無駄だ」
厳しいような言葉だが、いつもの不機嫌さが感じられず、オルフェーヴルは不思議だった──本当に、心底分からなかったのだ。
「……あの、なんで……?」
「何が」
「……なんで、教えてくれるっスか?」
「あ?」
「その……だって、関係ないっス。ウインバリアシオンさん、には」
ぽろっと溢れた一言で、いつだってオルフェーヴルはウインバリアシオンの地雷を踏み抜く。
「……てめェは本ッ当に……何一つ、オレの思い通りにはならねェな。オルフェーヴル」
「えっ」
「バカバカしいぜ。なァ? 宿題片してないとか普通にアホかよ。そんでテメェ、逃げ出そうとしてたろ?」
(バレてるっス……!)
「冷静に考えりゃ、そんなもんが何の解決にもならねェことぐらい分かンだろ。本ッ当に……アホらしいぜ。オマエも、オレも」
流石にウインバリアシオンも、オルフェーヴルの無神経さに慣れてくる。苦手なものがあると平気で逃げ出す、考えなしで無計画なこのウマ娘には怒りよりも呆れが勝る。
レース以外はからっきし。
「これはマジで純粋な疑問なんだが、テメェは普段何考えてんだ?」
「え、ええっ? い、いや……そんなこと、聞かれても……」
「チッ……。オレぁ一周回ってテメェのことが心配になってきたぜ。なァんでオレが、こんなチビのために……」
「うぅ……」
この手の問答でウインバリアシオンに言い返せたことがない。悪態に縮こまり、これ以上何か悪口を言われまいと小さくなる姿に、ウインバリアシオンはため息を我慢できなかった。
「ハァ……。いいからさっさとそれ片せ。あと、分からねェならすぐに聞け。オレも暇じゃねェ。テメェもそうだろうが」
「……」
つまらなさそうに窓に目を向けているウインバリアシオンの横顔。それがなぜか、とても綺麗に映った。
「……あの」
「何だ」
「……どうしてアタシに、ここまでしてくれるっスか?」
「ハァ……またそれか?」
「だって……分からねえならすぐに聞けって……言ったのは、ウインバリアシオンさん、っス」
察するにウインバリアシオンは今日もトレーニングの予定があったはずだ。それを急遽変更して、こうしてつきっきりで教えてくれているのは、何か特別な理由がないと納得できない。
納得できないと、いつまでも気になってしまう。オルフェーヴルは、そういうところはなぜか思い切りがいい。
「……テメェには関係ねェよ」
「そ、そういうわけにはいかないっス! だって……アタシ、アンタにここまでしてもらうようなこと、してないのにッ! 怖いっス!」
「……あァ、そう……」
ウインバリアシオンから見て、オルフェーヴルはどうにも理解できない精神構造を持っている。
他人にひどく無関心な割に臆病で、全くの考えなしで勘が利かない。そのくせ妙に頑固なところがある。
自信のなさはこれまでの人生での、成功体験の少なさに起因するものだろう。どうせ友達もいなかったに違いない。勉強もこの調子ではお察しだ。そしてレースでは絶対的に強い割に、それに執着するようなところもない。
最近では、それは少し変化したように感じる──インタビューから、それが分かる。
「……テメェはなんで走っている?」
「えッ……い、今はこっちが質問してるっスよ!!」
「オレが質問してる。答えろ」
「う、うぅ……。あ、アタシは……」
余りにも弱すぎるオルフェーヴル。心の内側まで見透かしそうなウインバリアシオンの静かな眼差し、相対して──黙ることなど認めないと言わんばかりの。
「お……応援してくれる、人たちがいるから。アタシは……勝ってくれって……そう、言われたから」
「……。そんだけか?」
「……それだけ、っス」
陳腐な答えだ。
それでもそう言い切った言葉に、嘘や誤魔化しがない──今は、それでよしとした。
「そうかよ……──さっきの質問に答えてやるよ。オレがテメェの、クソ面倒なお世話係やってンのはな、テメェがこんな下らねェモンに足元掬われて、うっかりレースに出れませんとか抜かす羽目にならないためだ」
「……え、えぇっと……?」
「つくづくテメェは世話の焼けるヤロウだ。心底アホくせェよ。なんでオレがテメェの世話ぁ焼かなきゃいけねェんだよ。あァ? 言ってみろ」
「……あ、アンタが勝手にやってるだけっス」
「チッ……あァ、そうだ。これはオレの意思でやっている。わざわざ練習サボってな──本当、アホらしい。応援してくれる人のためだァ? ご立派なこった……その連中も、テメェが補習から逃げ出そうとするアホだと知りゃぁ、ちっとは考え直すと思うがね」
「うッ……」
「言い返したいんなら、まずテメェのことをちゃんとやれ。なァにがファンのためだ……学園に随分甘やかされてるみたいだけどよォ、それでもやることやんなきゃ出場停止はあり得ンだよ。責任持てや、ノータリンがよォ……」
「う"う"ッ……」
何も言い返せない。自分のやったことが原因なので尚更心に来る。高校生にもなってガチ説教を喰らうとは思わなかった──それも、同級生に。
「分かったら手ェ動かせ。忘れちゃいないだろうな? 終わるまで帰れねェってのは、冗談じゃねェぞ」
「…………分かったっス! 分かったっスよ! やるっス、やるんで──教えてくださぁぁぁいいッ!! ホントは全然わかんないっスよぉぉぉぉぉぉッ!!」
「ハッ……最初から、そうやって喚いてろ。テメェが終わるまで帰れねェのは、どうせオレも同じだ」
オルフェーヴルは腹を決めて、ようやく宿題に向き合い始めた。
教室に二人の話し声が響く。逃げ出していないかとオルフェーヴルの様子を見にきた先生は、室内の様子をちらっと見ると、ため息をついて踵を返した──
「……っつーわけで、答えはこうなる」
「なるほど! そーゆことっスね、完全に理解したっス!」
「……そのセリフが本当であることを願うぜ。はァ……何度目だと思ってんだ……」
「今度こそは理解したっス! もう全部解けるっス……あれ。あの、ここってどうやるっスか?」
「……公式を変形すンだよ。いいか? まず元の公式がこれで──」
ガラッ。
「あーーーーーーッ!! こんなとこにいたーーーーーっ、電話出ろよこのスカポンタンッ! 学校中探し回ったんだからね〜〜〜ッ!!」
「チッ……鬱陶しいのが来ちまった」
「誰が鬱陶しいのだってぇ〜〜っ!? このカナロアによくそんな口が利けるもんだよね、本当失礼しちゃう〜〜っ! ……ていうか、何してるの? マジで」
「……丁度いい。選手交代だ、カナロア」
「はぁ? ……何これ。オルフェ……まさか夏課題やってなかったの? いや、やってないなーとは思ってたけどさ。ホントにやってなかったの!? 何してんのバカなの!? 二冠バが単位落として留年とか笑い話にもならないんですけど!?」
「うッ、ううッ……──」
秋の空は澄み渡り、太陽は茜色。鰯雲が浮かんでいた。