9月25日。神戸新聞杯──これは、重要な指標だった。何の指標かなど語るまでもない。
菊花賞の試金石。このレースに、それ以上の意味などない──GⅡという舞台に対して随分な言い草だが、少なくともウインバリアシオンにはとってはそうだった。
本命は菊花賞だ。だから、このレースは最悪負けてもいい──
「──とか、考えてないよね?」
「誰にモノ言ってやがる。あのバカに負けるなんざ、もう二度とゴメンだ。第一、負けるつもりで戦うバカがどこにいるってんだ」
「それだけ大口叩けるなら上等だよ。じゃ、いってらっしゃい──見ているよ。キミのことを」
「チッ……」
面倒くさそうにひらひらと手を振ってパドックへ向かうウインバリアシオンを見送るカナロアの姿は、なんというか堂に入っていた。
(一応、俺もいるんだけどなぁ……)
三笠が何とも言えない表情で突っ立っていたという。
「特に作戦はありません。やりたいようにやってください」
「……ウソでしょ? あっすー? マジで言ってんのそれ」
「──それで十分だというのが、加賀さんからの指示であり……そして、僕も同意しました」
オルフェーヴル、控室。ジョーダンがマジかこいつという顔をしている。
「え……オルフェ、あんた毎回こんなんなの?」
「……まあ……っス。え、普通じゃないっスか?」
「………………」
絶句。おしゃべりのジョーダンが、完全に凍りついた。それでなんというか、ジョーダンも理解せざるを得なかったのだ。
「そろそろパドックへ向かったほうが良いでしょう。幸運を祈ります、オルフェーヴル」
「っス。い……行ってくるっス」
オルフェーヴルが行った後も、ジョーダンはしばらく固まっていた。
「上へ行きましょう、ジョーダン。何はともあれ、見届けたいでしょう」
芝2400mで3000mの菊花賞の何が測れるかという疑問は認める。認めるが……本当に強いウマ娘というのは、そういうことではないのかもしれない。
ジョーダンの考えは、そのレースを見たことで確信に変わっていく。
──ワアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!
最終直線、好位置から抜け出したウインバリアシオンと、更にその後ろから追走するオルフェーヴル。真っ向からの末脚勝負となった。この勝負に追走──なし。
「…………何、あれ」
ウインバリアシオンの末脚は世代トップだ。正面から戦って勝てる脚を持っている──ただ一人、オルフェーヴルを例外にして。
「……そっか。いらないんだ、作戦とか……そういうのは、必要ないんだ」
追い縋るウインバリアシオン、それでも──あれを縮めるのは、もう厳しいだろう。ジョーダンは思わず同情した。あんなのと戦う羽目になるなんて、ツイてないと。
「……作戦とは、前提として他者を必要とします。他者の行動を予測し、利用することが前提。そうしなければ勝ち筋を作れない者たちには、作戦が必要です。しかし……彼女はそうではない」
「うん……わかるよ。あっすー」
「……はい。同時にそれは、孤独なことかもしれません」
他者と競い合うレースにおいて、他者を必要としないほどの強さ。それは、強者だけに許された矛盾でもある。
本当に強いウマ娘というのは、他人など必要としないものだ。ライバルも、トレーナーでさえも。だから加賀も、作戦はないとか頭のおかしいことを言い出す。
「……ううん、どうだろ。あたしはそうは思わない。だって見てよ。アイツ──まだ、諦めてない」
「……えぇ。それは──きっと、幸運なことですね」
「うん……そうだね」
2バ身半離れてゴールイン。その後ろとはもう2バ身半。
──ワアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!
GⅡ神戸新聞杯1着、オルフェーヴル。2着ウインバリアシオン。人気順通りの決着、しかし──
「絶好の条件から抜け出したのはウインバリアシオンの方だよな。正直上手さじゃ勝ってたと思う。だけど──」
「化け物だった! ヤバいだろ、マジで──同情する。ウインバリアシオンが一年早く生まれてたらな……」
誰が、どう見ても──
ダンッ!!
控室の壁に拳を打ちつける音が響き渡った。
「シオン! ちょっと、何してんの!?」
「……うるせェ……ッ!!」
絞り出したような声──悔しさと苦しみ。それらが混ざり合っていた。
「ッ……怪我するでしょ! ヤケにならないの!!」
「ガキ扱いするんじゃねェよッ!! オレは……クソ、また……ッ!!」
分かっていたはずだった。オルフェーヴルが強いのは──しかし、まだ遠い。
「……言わせねェ。言わせねェぞ……ッ、アイツと同世代なのは、不幸だったなんぞ……言わせねェ、絶ッ対だッ!!」
「……!」
「幸運だ……こいつは、チャンスだ……そうだろッ!?」
とても、喜んでいる顔には見えなかった。
滴り落ちる汗、瞳は光を映していない。きっとウインバリアシオンだけが、あの選手たちの中で唯一、化物に相対する恐怖を知っている。
──どれだけ強くなろうとも、絶対に勝てない相手がいるとしたら?
全部無駄じゃないか? 重ねた努力も、抱えた想いも。今までの全てが無意味じゃないか?
「…………ッ、アイツだって同じウマ娘だろうがッ! 勝てねェなんてことはあり得ねェ……あり得ねェんだよ、そんなもんはッ!!」
カナロアには分かった。
「アイツさえいなければ、だと!? 笑わせるんじゃねェ! アイツは
「……怖いんでしょ」
「ッ、……誰がッ!」
「ビビり切ってる顔で、誤魔化せるわけないでしょ!? どんなに努力しても勝てなかったらどうしようって思っているんでしょ!?」
僅か、2バ身半。完璧なレース運びで、優位は間違いなくこちらにあった。それを真正面から打ち砕かれた、その恐怖──
「誤魔化すなよっ! 弱いところから始めるんじゃなかったの!?」
カナロアは──なぜだか、無性に腹が立った。ウインバリアシオンの頑張りはここ一ヶ月でよく分かっている。そのストイックなトレーニングには密かな尊敬も抱いていた。だから、打ち砕かれている姿を見たくはなかった。
「ッ、知った口を──」
「それとも嘘だったの!? オルフェに勝つんでしょ!? なんとしてでもッ!」
「じゃあテメェもアイツと戦ってみやがれッ!!」
──感情のままに掴み上げた、カナロアの首元。
「……そうすりゃ、テメェも分かる。アイツの……怖さが──叩き潰される、怖さが……」
手が震えていた。
「オレが……アイツに、勝てるわけが──」
「ッ──言うなッ、言っちゃダメ!!」
声を張り上げた──もっと大きな声で掻き消すために。どうしてここまでウインバリアシオンに入れ込んでいるのか、自分でももうよく分からなかった。
「アイツを倒すんでしょ、そう決めたんでしょ!? 今更日和ってるの!?」
「…………」
「ッ、それは──なんのため!? なんでキミはアイツに勝ちたいの!?」
原点。
「なんで──アイツに……」
どうしてだったか。確か昔は、もっと別の理由があったような気もするが。
「……忘れた。そんなモン──どうだっていい」
「……はい?」
「そうだ……腹の底から、オレを急かす、熱が──熱ィんだよ、クソがァ!!」
「何言って──」
「ここ来て勝負してッ! 競って負けたッ! だったら次ァ勝ちてェんだ──それはもうそういうモンだろうがッ!! そいつに大層な理由なんざいらねェんだよ!」
──手の震えは、いつの間にか止んでいた。
「こうなりゃもうヤケだ。だったらやるだけやってやるよ。無様な足掻きと笑いやがれ──」
「笑わないッ!!」
「……」
「キミの挑戦を笑わない! だって──幸運なことなんでしょ、私はそう信じる!! だから──勝とう、あのスカポンタンに!! そしたら──」
グッと、手のひらを握った。
「最ッ高に、楽しいよ!!」
あまりにオルフェーヴルが圧倒的なので、それに勝った先のことを想像していなかった。しかし、想像すると愉快なものがある。
「……そりゃいい。負けるなんざ微塵も思っちゃいないアイツの間抜けヅラは、さぞ笑えるだろうなァ。……だからちょっとは役に立ちやがれよ、トレーナー気取りッ!」
「だぁれがトレーナー気取り!? 相棒って呼んでよね、もう!!」
祭りは続く。因縁はまだ途切れない。
これが幸運だと信じて、進むだけだ。
(…………一応、俺もいるんだけどなぁ…………)
いやお前おるんかい。
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授業を終えたオルフェーヴルは、鞄を掴むといつも通りに教室を出た。
練習までの時間の過ごし方は様々だ。教室で駄弁るクラスメイトを羨ましく思うことも多い。チームメイトの迎えに応じて出て行くのをつい目で追ってしまうこともある。だが、夏合宿を終えてからはそういうことがめっきり無くなった。
黙ってターフへ向かう──と、加賀とナカヤマが既に居た。凱旋門賞を終え、帰国してきたのでチーム加賀の体制は元通り。休憩用のベンチでメニューの確認をしている加賀と……ナカヤマだが……なんか……
座っている加賀と、後ろから加賀の首に手を回して体重を預けているナカヤマの姿。妙に体の接触面積が多い。
(またやってるっス……)
アホらしいと心の中でため息を吐いた。そんなオルフェに構わず、ナカヤマは普段と比べると穏やかで緩い様子。
「どうした? 手が止まってるぜ」
「……ナカヤマ。いい加減離れてくれ」
「ヤなこった──知っているだろ? 私は今故障中で、あまり負担をかける訳にはいかない……体を預ける先が必要なのさ」
「座れよ……」
何を隠そうナカヤマは帰国後に故障が発覚していた。本人も勘付いていた通り、未だかつて無い全力の代償は存在していたのである。それでも数ヶ月程度で治るものだし、何よりナカヤマはもう引退している。
「ナカヤマよぅ、知ってるだろ? 一応俺にはウオッカっつーヤツがいてな」
平静を装う加賀だが内心の焦りようはすごいことになっていた──この距離感は、まずい。
「だから?」
「……誤解されると、まずいことになる。だから、少し離れてくれ」
「ほォ。誤解、誤解、誤解ねぇ……面白いじゃないか。それがどういうことなのか、詳しく聞かせてみなよ」
「………………」
「ッククク……黙っちまった。おっさんのくせに可愛いとこあンじゃねェの」
ナカヤマフェスタは躊躇を知らない。
どうしてこんなことになったのか、加賀にはまるで分からなかった──揶揄われているだけという可能性も十分にある。というかそうであって欲しい。これ以上火種とかいらない。
「あの……練習、始めるっス」
「! 来たなオルフェ! よし始めるぞ!」
「チッ」
流石にナカヤマも練習の邪魔までするつもりはない。今日もゴルシは来ないので、練習が始まる。
練習に記者が来るのは珍しくもないことだ。特にオルフェーヴルは今最も取材を受けているウマ娘だと言える。テレビ取材の申し込みも少なくない。
オルフェーヴルがそういった取材を苦手としていることは周知の事実だ。そのため、加賀はそういったメディア露出は極力断る方針にしていた──少なくとも、夏合宿より前の頃は。
「今日のメニューはどのようなものを?」
「あ……は、はい。えっと……走り込み、中心で……スタミナ、つけなきゃいけないので……あ、でも、もっと速くならないといけなくて、だから短距離ダッシュと、えっと……」
話し方はあまり上手くないが、それでもどこか落ち着いた受け答えをしている。あのオルフェーヴルの、こんな姿など想像もできなかった。
加賀はそれを眺めながら、横のナカヤマに聞く。
「……どう思うよ。フランス行ってる間にニセモノと入れ替わっちまったんじゃねぇか? あいつ」
「乙女の成長は早いのさ。クク……いや、乙女なんてガラじゃねェけどよ」
「全くだよ……。いや、いいことなんだけどよ。手ぇかかんねぇのは……」
「手が掛かる方が可愛いだろ?」
「……お前さんは手が掛かり過ぎるんだよ」
楽しげに笑うナカヤマと苦い顔の加賀を放って取材は進行する。取材陣は誰しも最後に同じ質問をする。
「ありがとうございました。それでは、最後に意気込みをお願いします!」
「……菊花賞は、アタシが勝ちます。い……以上、っス!」
壮言大語とは思わない。オルフェーヴルが最も勝利に近いのは間違いない。だが……オルフェーヴルがそんなことを言うとは、誰が想像できたのだろう。
調子に乗っているわけではない。言葉には緊張が混ざっている。だが、きちんと言葉にして出力することには意味がある。
言葉とは誰かに伝えるためのものだ。
「へェ……こうも変わるモンかねェ」
「お前さんも十分変わったよ……」
担当たちが瞬く間に変わっていく。高校生の精神的な成長は本当に一瞬で、瞬きの間に変わっていく。30歳を越した加賀としては、眩しく見えるばかりだ。
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10月10日──スポーツの日により、祝日。
加賀とナカヤマフェスタが帰国し、その奮闘ぶりが世間で讃えられる中でもレースは現在進行形だ。
昨日のレースもまた熱かった。毎日王冠を勝ったダークシャドウ、京都大賞典はローズキングダム。めきめきと次の世代が頭角を表している。今日の注目はマイルCS南部杯。1番人気トランセンド、期待に応えられるか──といったところだ。
「……この秋、競バが熱いッ!」
競バ新聞を握り締めて中継に張り付く明日原をジョーダンが引っ叩いた。
「しばくぞ」
「しばいてから言われましても……」
この前なんかいい話をしたような気がするが、明日原のこれはなんかもう性分なのだろう。治りそうにない。
「ところで……今日は
「あっすーこそ。どーせここに篭ってんだろうなーって思ってさ」
ライバル分析、レース分析、トレーニング計画──それらには正解がなく、同時に終わりがない。妥協しないと永遠に続けることになってしまう。
ともすれば無駄になるようなそれを、飽きずに懲りずに続ける──それがトレーナーの仕事だから、と言うだろう。
「張り切りもしますよ。ようやく望んでいたものが見られるかもしれないんですから」
「じゃ、ハシャいでんじゃねーよ」
「それはそれとして、僕は普通にレースが好きなんですよ」
「……そ。ま、ならいーか……よくねーよ!!」
手元の新聞に書き込む手が止まらない。このどうにもだらしない習性は、明日原の数少ない趣味と言えよう。僅かに残った人間性とも表していい。
「まぁまぁ。多めに見ましょう、ジョーダン」
「はー……。で、どう」
具体性のない問いかけ。しかし積み重ねた時間が、その内容を補完する。明日原はテレビを見ながら答えた。
「下の世代が強いです。本当に粒が揃っている」
「それな。ま、流石に秋天から殴り込んでくるようなヤツはいないと思うけどさ」
オルフェーヴルという怪物に隠れているが、今のクラシック世代は力を持ったウマ娘が多い。ウインバリアシオンを筆頭に、ダービーでは雨で力を出しきれなかったエイシンフラッシュやルーラーシップ、ローズキングダム……。
「どー思う?」
「と、言うと」
「オルフェ。行けると思う?」
レースにおいて最も関心を集めているのはまさにその事だ。アパパネがティアラ三冠を達成したこともあり、その勢いのままに──というわけでもないが、怪物的な強さを見せるオルフェーヴルには期待が集まる。集まりすぎるほどに。
「……仮に菊花賞も2400mだとしたら、100%オルフェーヴルが勝ちます。断言してもいい。しかし……3000m、誰しもにとって未知の領域です。油断はできません」
「ん……あ、そういやあたし、3000m走ったことねーじゃん」
何気ない一言。春天も菊花賞も怪我により回避してきた──きっとこれから走ることもないだろう。
「いーな。あたしも、も少し爪が強かったらなー」
「……結果的に見れば、僕は失敗しました」
「え、何?」
「爪の件です。トレーナーとして、出来ることはあったと思っています。元々分かっていたことだと言うのに……」
「ちょ、やめろし。別に、あたしは後悔してないから!」
「僕は後悔しますよ。もしも怪我をしていなかったら……君も、まさにあのオルフェーヴルと同じような──」
「いーの! こうなったのがあたしだから……もしもはないんだ。それに……これからっしょ! あたしらは!」
菊花賞は10月23日予定。そしてその1週間後には秋天だ。過去を振り返って感傷に浸っている暇はない。
「ぶちかませばいいだけ! 今が全て! だから弱気になるなよ、明日原っ!」
「……本当、すぐに大きくなるものです。出会った頃の君に、今の君を見せてあげたい」
「い"ッ……まじ、やめて。一年の最初の頃は……思い出したくない……」
「はは。……そうだ、夕飯でも行きますか? 今日の僕は冴えていましてね。高い寿司でも──」
「……はぁ。メシは行くけどさ、高い寿司は秋天まで取っといてほしい」
──秋天まで、残り20日。