「当然、冗談に決まってんじゃん?」   作:にゃんこぱん

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天皇賞(秋)・楯を賭けて

 10月30日、早朝。

 

 明日原は目覚めのアラームで目を覚ますと、緩慢な動きで朝の支度を始めた。トレーナー6年目だが、自炊はとっくに諦めている。シリアルで簡単に朝食を済ませると、ジョーダンにメッセージを送っておく。寝坊などしないと思うが、これはジョーダンの調子を確認するためのもので、レース本番の日にはこうしていた。

 

 メッセージが返ってくる。

 

『朝、学園でいいんだっけ』

 

『9時集合で大丈夫です。部室に』

 

『りょ。てか全然寝れんかったかも』

 

『緊張ですか?』

 

『いや、楽しみで』

 

 ふ、と笑みが浮かぶ。頼もしいことだ、と思う。

 

 秋天は東京レース場。少し早く出れば、余裕を持って到着出来るだろう。ウイニングライブの打ち合わせは既に済んでいるが、現地で少し調整する必要はある。最も、着順によってはそれも無意味になるかもしれないが。

 

「レース以外は……些事だ、そんなこと」

 

 独り言。

 

 トーセンジョーダンのことを考える。

 

「今日──なのか?」

 

 追い焦がれて来た渇望がある。あれは突然だった。少なくとも明日原には、あの日の衝撃に備える準備などなかった。

 

 だから今度は覚悟を決める。ちゃんと期待をする。

 

 明日原はいつも通りに家を出た。

 

 あの日の自分に、もう一度出会うために。

 

 

 

 

-

 

 

 

 

「おっはよーございまーっす。ナビちゃんでーす」

 

「おはようございます、ナビ。いよいよですね。体調は大丈夫ですか?」

 

「うーっす。いやー、絶コーチョーです。今日こそ、絶好のヒーロー日和ってヤツです。いやー、しかし東京レース場は近くていいですねー。あんま早起きしなくて済むしー、前日入りとかしなくて済むしー」

 

 くぁ、とあくびを一つ。レース当日は朝練をしないブエナビスタは、思う存分眠った。コンディションはすこぶるいい。

 

「アオイちゃんこそー、ちゃんと寝てるんすかぁー。チーム作ってから、あんま寝れてないでしょ」

 

「この忙しさは成果の証なんですから、むしろ嬉しいくらいですよ。じゃあ、ミーティングしましょう」

 

 チーム桐生院は合計4名。今後、成果によってはもっと人数を増やしていくことを、学園と相談の上決めた。ハッピーミークの残したノウハウを基に、より多くのウマ娘を導きたいと考えてのことだ。

 

 ……何より、仕事が忙しいのは、思い出さなくて済むからありがたい。

 

「ナビもわかってると思いますが、出場メンバーの中で1番怖いのはトーセンジョーダンです」

 

「んなこた分かってます──ずっと知ってます」

 

 とはいえこれは秋天。ライバルはそれだけではない。主要なところでは、先日の毎日王冠の勝ちウマ、ダークシャドウやアーネストリー、ローズキングダム。バラエティ豊かなのが揃っている。

 

 とはいえ──やはり皐月賞バ。

 

「ジョーダンさんは……展開次第ですけど、多分……差しで来ると思います」

 

「へー。その心は?」

 

「今回のような典型的な逃げウマがいる場合、様子見から入る人です。自分でペースを作るか、極端な様子見か……そういう極端なのが好みなんです。多分、そうすると思います」

 

 誰が、という主語は言わない。ブエナビスタもそれを指摘するほと野暮ではない。古傷をつつく必要もないだろう。

 

「今回、詳細な作戦はありません。中団に着けて、抜け出せるなら──ナビが勝ちます、必ず」

 

「へーへー、つまり私に丸投げですかぁ?」

 

「流石にそんなことはしませんよ。一応、展開の予想を伝えます。あくまで私の予想ですけど──多分、この通りになると思います。それを踏まえて、後はあなたを信じます」

 

「はいせんせー。明日原くんがわけ分かんない作戦を出してきたらどうするんですかー」

 

「いえ。彼も多分、最終的にはジョーダンさんに任せるでしょう。そしてジョーダンさんも、自分のやり方を貫きます」

 

「なんでそこまで言い切れるんです?」

 

 ライバルの作戦が分かるのなら大きなアドバンテージだ。レースに際しては、可能な限り体を鍛え上げることは前提だが、強力なライバル相手の作戦には対策が必要だ。しかし現状ただの予想に過ぎない葵の言葉は、どうしてそこまで確信的になれるのか。

 

「……ロマンチストですから。あの人」

 

 どうやら忘れられるようになるには、まだ時間がかかるようだ。チームを持ってからはあまりの忙しさに、あの男のことを思い出すことは少なかったらしいが、ふとした時に思い出すらしい。これについてはナビも多少の罪悪感がないでもない。

 

「はぁぁ。ちょっと、アオイ。私のことは見てくれないんですか?」

 

「え、いえ、そんなこと」

 

「この秋で──ジョーダンと決着を着けます。そんでアオイ、あなたはそれを見届けるんです」

 

「ナビ……」

 

「だから約束です。秋天で私が優勝したら、もうあんな男のことは忘れること! そして私を食べ放題に連れていくこと!」

 

「……ふふ、分かりました。約束します」

 

「それでいいんです。ふぁ……やっぱり朝走ンないと違和感ありますねー。やっぱりちょっと走って来てもいいですか?」

 

「えぇ、今からですか? まあ確かに、レースまでまだ時間がありますし……軽く体を動かす程度なら、問題ないですけど」

 

「んじゃ、ちょっといってきます。レースのことは、また後で教えてください」

 

「分かりました。くれぐれも全力では走らないでくださいね。軽く体を温める程度に」

 

「分かってますって。ほいじゃ」

 

「あ、それと」

 

「まだなんかあるンすかァ? 私、子供みたいにあれこれ注意されなきゃいけないほど初心者じゃないですよ」

 

 自分のことを心配してくれる言葉は嬉しいが、度が過ぎれば鬱陶しいものだ。特に葵は元々過保護なところがあり、冒険はしないトレーナーだ。担当ウマ娘はそんなのは無視して無茶をするが。

 

「──ありがとう、ナビ」

 

「……フン。お礼の言葉はまだ早いですよ」

 

 ブエナビスタがやや照れ隠し気味に鼻を鳴らしてターフへ向かった。

 

 

 

 

 

  -

 

 

 

 

 

「──最終的には、君に任せることになります」

 

 もちろん、大枠の作戦はありますが。と、明日原は続けた。冗談じゃない。こっちはオルフェーヴルではないのだが。

 

「おそらく……1枠1番のシルポートが一気にハナを取って牽引する形になるでしょう。早い時計になります。中団に固まって最終コーナーから抜け出す王道パターンになる可能性がかなり高い。故にポジション争いが最も重要な点になりますが……わざわざ付き合う必要もないでしょう」

 

 今回は外目の枠ですしね、と明日原は付け加えた。

 

「ふーん……なるほどね、後ろ目の差しで狙ってけばいいの?」

 

「えぇ。しかし、この戦法が許されるのは、強烈な末脚を持っているウマ娘だけです。ジョーダン、君はそうではない──と、少し前まで思っていました」

 

 差しは上級者の戦法。効率のいい戦い方だ、最初から最後まで全力で逃げるなんてやり方よりスマートで、美しい。それだけに難易度は高い。ジョーダンには向かない。せめて先行ぐらいの位置が理想、それが明日原の考え──だった。

 

 しかし、ジョーダンの理想的な戦い方は先行ではないと考え始めるようになったのは、夏合宿を越してからのことだ。

 

 その最高速度は既に、圧倒的な武器になっていた。彼女の驚異的な速度は、全盛期のダイワスカーレットを越し──

 

 ジョーダンの表情を観察する。緊張と興奮はもちろんあれど、それに呑まれるようなことはない。感情の高まりを、むしろ追い風としているように見えた。

 

「思えば、僕は君のことをずっと見誤っていたのかもしれません」

 

「……どゆこと?」

 

「僕が思うよりずっと、君はすごいウマ娘かもしれないということです」

 

「おもぉ〜。あっすーさ、そう言われてあたしが緊張しないとか思ってんの? 期待が重たいんですけど」

 

「期待させてくれないんですか?」

 

「そりゃ、してくれていいけどさぁ〜。あたしも自信ないっていうか、てかもうどーなるか分かんねーしさー」

 

「と、言うと……」

 

「本番はさー、練習で出せなかった力が一気に出んのよ。あれ、あたしこんな走れたんだ、みたいな。でもそれが原因でケガ多かったじゃん? だから、正直練習も、これ以上本気出したらやばいかもって時はやめといたじゃん?」

 

「えぇ。練習で怪我など、本末転倒もいいところですからね」

 

「だからさー、あたしもあたしの本当の強さとか分かんないワケよ。ケガとか気にしなきゃ、多分結構早く走れるとは思うんだけど」

 

「それは認められません。僕は……君の足を潰してまで夢を叶えようとは思いません。秋天でまた怪我をするようなら、僕は自分のトレーナーとしての在り方を大きく変える必要があると判断するでしょう」

 

「……つまり、どゆこと?」

 

「夢を諦め、平凡なトレーナーとしてやっていくということです」

 

「いやいやいや。ケガとかフツーにすっから。あっすーが気にしすぎなの。つかこれ以上プレッシャー掛けんなよ! ケガするかしないとか、もうあたしがどうこうできる部分じゃねーし、あっすーが気にすることでもないの」

 

 まあそれはそう。誰だってケガをしたくてするわけがない。全力で走った結果として、足が壊れてしまうだけだ。運命を分けるのは体の頑丈さだけ。当然、そんな不確かな部分にトレーナーとしての命運を預けなくてもいい。

 

「そういうわけにも行かないでしょう。僕の都合に付き合わせているんですから」

 

「今更何言ってんの。担当契約ってのはそういうもんでしょ? あたしはあたしのためにあんたを付き合わせた。なら、あんたの夢にはあたしが付き合わないと。でしょ?」

 

「……ジョーダン。君、口が上手くなりましたね」

 

「ん? ふふっ──トレーナーに似たんでしょ?」

 

 悪戯げに笑うジョーダンは、いつの間にか大人びて見えて、時の流れを感じさせた。明日原は呆れたように笑う。

 

「生意気な」

 

「あたしが生意気じゃなかったこととかあったっけ?」

 

「……口の減らない娘です。さて、作戦の話に戻ります──と言っても、大した作戦ではありません。後ろで様子を見ながら、最終コーナーで抜け出し、そのまま優勝です。質問は?」

 

「何、その……結構丸投げじゃね? いつもはもっと、なんかあるじゃん」

 

「ええ。何せ、君には僕の想定通りに動いて欲しくはないもので」

 

 見たいのは、あの秋天。それがなんだったのかを突き詰めて考えれば、未知のもの。知らなかった衝撃、分からなかった理由──それは明日原の想定に収まるものではなく。故にジョーダンに、自由に走れと言う。

 

「……うえー。なにそれ」

 

「君がこれまで積み重ねてきたもの。それがレースという極限状態で、一つの答えを出力するはずです。それが……どんな結果をもたらすのかを、見たいと思っています」

 

「はいよ。あーあ、そんなこと言われたら、やる気になっちゃうじゃん。マジ無理、ちょっと走ってくる」

 

「全く。本番前だというのに……軽めにしてください。1時間前には会場入りしておきたいので」

 

 浮かされるように部室を後にしたジョーダンを、明日原は苦笑いして見送った。

 

 

 

 

-

 

 

 

 日曜日のターフは大抵空いている。トレーニングのオフに当てているウマ娘が多いためだ。今日はトレセンからすぐそこの東京レース場でレースが開催されており、そちらに行くウマ娘が大半だったため、ターフには誰もいなかった──ただ二人を除いて。

 

「……あ」

 

「……お」

 

 ばったり。ブエナビスタとトーセンジョーダンが鉢合わせた。

 

「……」

 

「……」

 

 今日だけは、仲良く会話をするわけにはいかない。双方はウォーミングアップのため、軽く走り出す、が。見事に動作が一致する。秋天の左回りを意識して、方向まで同じだ。

 

「……ついてくんな」

 

「そっちこそ」

 

 これは──まずい流れだ。競い合おうとしている。本当に軽く済ませないといけないのに、並走が始まりそうになる。ナビもジョーダンも大人の対応が出来ないので、仲裁役がいないとこうなる。

 

(……マジで、やばい。走んなよ。ペース上げんなよ。ペース上げたら追い越したくなっちゃうじゃん。本番前に全力とか、マジでやばいから。マジでやめてよ)

 

(状況分かってんでしょうねコイツ、並走とかやったら本番までに体力とか絶対戻り切りませんよ。そうなりゃ共倒れです、だから絶対ペース上げんなよ。マジで、ほんとに)

 

 囚人のジレンマみたいになった二人は、舐められないために後には引けず。ただただ軽く体を動かして終わらせたかった。それなのに。

 

「……なに? 遅くね?」

 

「は? ビビってンですか?」

 

「ビビってねーし。ビビってんのはあんたでしょ?」

 

「は? 舐めんなよ?」

 

 煽り合い。負けん気が行きすぎて止まれなくなっている。

 

(マジでやばい。マジでやばいって! 乗ってくんなよ。なぁんで大人の対応ってやつができないの!? バカなのアホなの!?)

 

(状況! 分かってんですかァ!? 本番当日に並走する気なんですかァ!? ま、まさかそうやって先に私を潰す気なんじゃぁ……)

 

 人間のジョギング程度だったペースが、少しずつ──少しずつ、加速する。こうなると、もう止まれない──そこに助け舟が出されたのは、もう本当に、幸運としか呼べない。

 

「にゃァーーーーっ! にゃァーにしてるにゃァーーーっ!」

 

 助かった。二人は心の底からそう思った。

 

 

 

 

 

-

 

 

 

 

 

「え、バカなの? 今日本番だにゃ? にゃーが間違えてるのかと思っちゃったにゃ」

 

「ちがッ、コイツが張り合ってきて!」

 

「はァーっ!? そっちでしょうが!」

 

 ネコパンチの出現により、走るのを止める口実を得た二人を、ネコが呆れた目で見ていた。なんてバカなんだ、コイツらは。

 

「アホらし。みんなで話してたにゃ、どっちを応援しよっかなーって。でもバカを応援したってバカらしいにゃ?」

 

「だからそれはコイツがー!」

 

「だあらっしゃい! 頭おかしいのはジョーダンの方でしょうがァ!」

 

「……ああ、にゃー、大体わかったにゃ。ほんとアホらしい。にゃ」

 

 中等部に仲裁をされる高等部3年生も情けないと思いつつ、ネコパンチの包容力はすごいものがあり、ジョーダンたちの意気は削がれていく。

 

「……ま、せーせーどーどー、怪我なく全力で戦うにゃ。にゃーはそれを応援するにゃ」

 

「ネコ……」

 

「にゃんこぉ……!」

 

「くっつくにゃ、うっとおしい。にゃーと全然遊んでくれないくせに、二人とも調子いいにゃ」

 

「ごめんって、ネコ。秋天終わったらショッピング行こーなー」

 

「いや、食い倒れ旅行行くんですよ。ネコは、私と」

 

「にゃー……いいから離すにゃー!」

 

 高らかな怒号が響いた。

 

 

 

 

-

 

 

 

 

『さあ、快晴に恵まれました東京レース場、第120回天皇賞・秋。本日のレース、どんな結末になるのか──』

 

 実況の声がスピーカーで聞こえる。音量が大きくて耳が痛いが、人間の方々はこのぐらいでないと周りがうるさくて聞こえないのだとか。不便な種族だ。

 

「はい、オルフェ。買ってきたよー、ホットドッグ」

 

「……ありがと、っス」

 

「なぁに? 感謝が軽くない? もっとちゃんと頭下げてよね」

 

「……アタシを無理やり連れてきたのはカナロアっス。人混みは苦手っス。今日も、ホントは中継でのんびり見たかったのに……」

 

「中継なんかでこの熱狂は味わえないぜ。そんな勿体無いことダメじゃない? ダメだよね、だめかなーって。ねぇ? シオンちゃん?」

 

「……あ? 別にどうでもいいだろ」

 

「出た! 出ました! 本日のどうでもいいです!」

 

(なんでウインバリアシオンさんがいるんスかぁ……)

 

 オルフェーヴルはしょんぼりした。まあカナロアが誘ってくれたのは、友達のいないオルフェーヴルにとっては有り難かった。ジョーダンはお世話になってる先輩だし、直接見に来るのも嫌と言うほどでもなかった。

 

 だがダービー2着、菊花賞2着のウインバリアシオンと会うのは、オルフェ的にちょっと気まずいところがある。あと怖くて何言ってくるか分からないし。

 

「……チッ。なんでテメェと仲良く観戦なんざ……」

 

「とか言っちゃってぇ。ごめんねオルフェ、この子ツンデレ拗らせててさー。もう本音を言えない体になっちゃったんだよー」

 

「拗らせ度合いで言えば、テメェのが酷ェぞ。カナロア」

 

「あは。私、拗らせてる?」

 

「自覚ねェのがうざってェ……」

 

 軽口もそこそこに、シオンはターフを見下ろす。予定出走時刻はもうすぐだ。トーセンジョーダンの復帰戦となる秋シニア三冠の一つ目、シオンは──目を逸らすわけにはいかなった。

 

 ウインバリアシオンはかつて、反骨心からジョーダンのことを強烈に意識していた。ジョーダンにとって自分は、大勢いる後輩の一人なのだと分かっていた。トゥインクルシリーズを走り出して、ジョーダンが遠くなっていった。

 

「……でも、意外っス。ウインバリアシオンさんが、ちゃんとレースを観にきてるの……」

 

「あはー。シオンちゃんはジョーダン先輩に憧れてるからねー」

 

「はッ」

 

 強い語気オルフェーヴルはビクッとした。

 

「──憧れてなんざやるものかよ。オレはあいつがまだ越えるべき壁なのかどうかを観にきただけだ。もし腑抜けた走りを見せるようなら……そんときゃ、オレがあいつに引導を渡してやる」

 

「ほら聞いた? ベジータ系ツンデレなのよこの子。言っとくけどねー、オルフェに対してはもっと酷いんだからね?」

 

「……余計なことを抜かすな、バカ野郎」

 

 もっと酷いってなんだろう。オルフェは怖くなった。

 

 

 

 

-

 

 

 

 

「……フン。言っとくけど、あたし、負けねーから。てか勝つから!」

 

「意味のない言葉です。そうやって宣言するだけで勝てるんなら、誰も苦労なんてしませんよ」

 

「ンだとオラァ!」

 

 ターフへと続く道にあっても小競り合いは止まらなかった。そうしていると、他の秋天に出場するメンバーが絡んで来たりもする。

 

「さっきから喧しいわね。神聖なる勝負がもうすぐ始まると言うのに、なぜ静寂を保てないのかしら?」

 

「あァ!?」

 

「ひっ! あ、アーネストリーは恐喝などには屈しないわ!」

 

 宝塚記念2着のアーネストリーである。ブエナビスタの怖い声に負けてちょっと涙目になってる。

 

「すっ込んでろヘンテコ野郎ッ! 喋り方が変なんだよッ!」 

 

「ひぅっ!? な、なな、変って……変じゃないもん! アーネストリー、変じゃないもんっ!」

 

 さっきからナビから出される気迫がすごいことになっているが、それはジョーダンも同じことだ。GⅠという舞台がそうさせているのかもしれないが、アーネストリーは怖くて帰りたかった。

 

「み、見てなさいッ! アーネストリーが、あなたたちの存在感を掻っ攫ってやるんだから……っ」

 

「は。まァ、どう頑張ろうとおンなじですよ。私がいる以上、他はモブです」

 

「うぅ、見てなさい〜〜〜っ!」

 

 地下道の終わりが迫ってきた。いい加減無駄話は終わりだ。

 

 ────ワアアアアアアアアアアアアアアッ!!!

 

「……いい歓声(こえ)です」

 

 大歓声がヒーローを迎え入れる。彼女たちの一挙一動を、観客たちが食い入るように見つめている。誰が勝つのかを、僅かな挙動からすら読み取ろうとする。感情が昂り、心には重圧。

 

「さァ! ヒーローが来ましたよッ!」

 

 ────ワアアアアアアアアアアアアアアッ!!!

 

「……そのヒーローってやつさ。なんかナビ専用みたいになってっけどさー、そもそもちげーよな?」

 

「ほーん?」

 

「勝ったヤツのモンじゃん? そんで、勝負はこれから始まるわけでしょ?」

 

「……ま、わざわざ反論はしませんよ。じゃあ賭けましょう。この天皇賞・秋に──」

 

「秋の楯を賭けて──って、そーやって言うんでしょ?」

 

「へぇ。口上としては悪くありませんね。勝負なら当然、懸けるものがなくては」

 

「言っとくけど。あっすーに頼まれちゃったからさ、あたしはつえーぞ。多分──今までの、イチバン」

 

「ふーん。ま、私もここんとこいいとこ無しなんで。噛ませはゴメンです、ヒーローですから」

 

 ────ワアアアアアアアアアアアアアアッ!!!

 

「──じゃ、ヒーローの称号に」

 

「はい。楯を賭けて」

 

 レースが始まる!

 

 

 

 

 

 

 天皇賞(秋)・楯を賭けて

 

 

 

 

 

 

 ガタン、と開くゲートの動きすら見えたのは、これが初めてだった。

 

 

 0:00:00

 

 

 スタートダッシュから飛び出す瞬間。ブエナビスタはこの瞬間が嫌いではない。始まったという感じがして気持ちが引き締まる。一気に前へ出て内目に付ける──枠順には逆らわない。経済コースを行く。

 

 スタート直後のコーナーで内に入れる。その結果は考えるまでもない。外から寄せてきた連中に囲まれ、身動きが取れなくなる。先頭を行く逃げウマに引っ張られ、ペースが固定された。

 

(……ま、外は疲れますからね。体力は温存します。そのためにはリスクも取ります)

 

 ブエナビスタは先頭から7人目あたりに付けた。これでいい──警戒されるのは慣れっこだ。これまで経験してきたすべてのレースで、ブエナビスタは警戒され、牽制され、足を絡め取ろうとする作戦を仕掛けられてきた。今回もそうなるだろう。

 

 その中で、ブエナビスタは勝ったり負けたりして、戦い続けてきたのだ。

 

 レースのペースは例年のゴールタイムから逆算して大体このぐらいだろうというスピードを想定して練習を重ねた。しかし、ブエナビスタの位置ではペースに干渉することは出来ない。思い通りに走れないことが原因で着順を落とすことは、そう珍しいことではない。

 

 枠順が発表された時点で、ブエナビスタを囲い込む共通認識的な作戦は既に決定していた。もちろん事前に作戦会議があったわけではない。しかし──強敵を抑え込むのは常套手段だ。文句は言わない。そもそも文句などない。

 

(──くだらねェことです。その作戦、ハマればあるいは、私を抑え込めるとでも? あなたたちの最大限の警戒は、私に言わせれば楽観──です)

 

 ブエナビスタが前に出ようものなら、前や横から寄せてきたライバルたちが進路を塞ぐだろう。当然進行妨害を取られるようなヘマはしない。前へ行くなら意識の隙間をつく必要があるが、まだその時ではない。

 

(……ジョーダンは後ろから狙っている。プレッシャーを掛けるつもりですね──前を急かして体力を奪おうってトコですか──アオイの予想通り。さっすがァ!)

 

 少しスピードを上げる。当然前は詰まっているので抜け出すことは出来ない。だが中団は機敏に対応した──スピードが上がる。ブエナビスタなら僅かな穴から抜け出して前へ行くかもしれないという警戒がそうさせた。

 

 "こんな序盤から抜け駆けはさせない"

 

(だったら悪巧みに乗ってあげますよ、ジョーダン。調子上げていきましょう──せっかく一緒に走れるんだから、楽しまないと)

 

 最初のコーナーを回って向こう正面に入る。ブエナビスタはにッと笑って、周りを急かすように踏み出した。

 

 

 0:23:53

 

 

(……後ろから突き上げてくるような、獰猛な獣の息遣い。アーネストリーを追う狼の群れ。肌がひり付く……心地いい、殺気──)

 

 先頭から3人目、アーネストリーはターフを駆ける。単逃げのシルポートを3バ身ほど前に見据えながら、一つ前を進むビッグウィークの様子を伺う。後ろを行くのは、先頭を行くのに比べたらまだマシな方だ。後出しジャンケンが出来る。

 

(……っていうか速くない? え、GⅠってこれくらいの速さがデフォルトだったかしら? このペースが続くの絶対マズいと思うのだけれど……)

 

 東京レース場には向こう正面に高低差1.5mの緩い坂がある。たかが坂、されど坂。区間ラップタイム10.5秒で突っ込めば、想定以上の体力消耗は絶対に避けられない。

 

(そう──このペースは続かないわ。後半はバテバテになって根性勝負ね。そうなるとアーネストリーの位置は非常に不利と言わざるを得ない。消耗度合いは先頭から順に大きい。この程度のリードでは最終直線で()()()()!)

 

 世の中には逃げから差すイカれたウマ娘もいたし、先行策が最も強い作戦だと錯覚させるようなウマ娘もいた。才能に満ちた、()()()()のウマ娘たち。そして、アーネストリーはそうではない。

 

(……緩めるべき? 力を入れている後ろの子たちをいなして、最後にはアーネストリーが掻っさらう……いや、それは逃げ!)

 

 アーネストリーはむしろペースを作る側だ。しかしそれでも後ろからの影響は受ける。後ろからの足音に急かされると、スピードを上げる選択肢に囚われる。先行という作戦を取っている以上、一度でも後ろのバ群に飲まれたら負けだ。前を行くしかない──

 

(何を考えているの……弱気がアーネストリーを殺す! ビビったヤツから落ちていく! だったらもっと上げてやればいい──楽しいチキンレースの始まりね。さあ、腰抜けになりたくなかったらついてきなさいッ!)

 

 僅かにスピードを上げる。ビッグウィークを急かす。もっとリードを作る。もっと引き剥がす!  

 

 アーネストリーは既に、最後までスタミナが持つなどという確信は捨てている! 元よりそんな甘いレースになることを期待するだけ無駄というもの。勝利はいつだって、全てを振り絞った先にあるもの。

 

("私"を試す、この感覚。面白くなってきた──レースはこうでなくては!)

 

 スピードが上がる。区間ごとのF(ハロン)タイムで比較して1秒縮まる。秒速約16m/sという速度で走るウマ娘にとって、その1秒は命よりも重い。短い時間で強いエネルギーを発揮する分だけ効率が落ちる。消耗する。アーネストリーの狙い通りに、あるいは──ブエナビスタの狙い通りに。

 

 覚悟を決めて坂に突っ込んだ。スピードを更に上げて!

 

 

 0:45:18

 

 

「……気迫が伝わってくるみたい」

 

 観客席、アケノオールライト。ナビとジョーダンの決戦は当然、アケノが見逃せるはずもない。特にアケノは気持ち的にはナビに勝って欲しい寄りだったので、応援にも力が入る。

 

「にゃァ。今朝バカやってたヤツらとは思えんにゃ。やっぱ止めなきゃ良かったかにゃ?」

 

「ックク! まァ、その場合は世紀のバカ共として語り継がれることになるだろうがな」

 

「はぁ。今度からはちゃんと私もナビを見張っておこうっと。でも仕方ないのかな、ナビにとってずっと意識してきたライバルはジョーダンなんだもん」

 

「それが報われてくれりゃいいんだが。もっとも、私はジョーダンに賭けるがな」

 

「にゃーは中立! つーか、どっちもボロ負けするに1票!」

 

「にゃんこちゃんはさぁ、いつになったら素直に応援できるのかなぁ〜!?」

 

「にゃ、にゃにゃにゃ! 離すにゃアケノ! にゃァ〜〜! たすけて〜〜っ!」

 

 フッとナカヤマが笑う。レースに視線を戻して言う。

 

「……ジョーダン。オマエ、やれるのかい?」

 

 夏合宿を途中で離脱し、もう引退したナカヤマフェスタは今のジョーダンの実力を知らない。僅か数ヶ月で劇的な成長を見せる──そういう可能性をジョーダンからは感じさせた。あの頃よりもずっと強くなっているなら……一度だけでも、公式戦で戦ってみたかったと惜しんだっていいだろう。

 

「にゃァ〜〜、ごめんにゃさいアケノ〜〜っ! ホントはにゃあ、ジョーダン派だにゃ〜〜!」

 

「ナビにしろ〜〜〜っ、ナビを応援しろ〜〜〜っ!!」

 

「思想の自由にゃぁ〜〜〜っ!!」

 

「ックク、これだから面白ェんだ。勝負ってヤツは……」

 

「気取ったこと言ってないで助けるにゃ、ニャカヤマぁ〜〜〜ッ!」

 

 

 1:08:92

 

 

(──え、ヤバ速くね? なんでこんな急いでんのコイツら)

 

 向こう正面を終え3コーナーへ突入。ジョーダンはこの不可解なハイペースを訝しんだ。それ以上の余裕はない。余力は当然残っているものの、疲労が着実に蓄積している。想像していたよりもずっと速く。

 

(笑える〜。いやガチ笑えん。いや、まぁあっすーの予想通りっちゃ、全部予想通りだけど)

 

『ハイペースは君の味方です。先行勢が消耗するのは理想的な展開と言えるでしょう。君は後ろで足を溜めればいい』

 

(とか簡単に言ってたけどさぁ。こっちの身にもなれっての。命削ってんですけど、あたしは! あーマジで、終わったらめっちゃご褒美貰わないと割に合わねー。つか、こんなペースで足なんか溜めれるワケねーだろ、マジ舐めんなよ。レース初心者か?)

 

 向こう正面の直線が隊列をバラけさせた。大きく突き放して逃げるシルポート、5バ身ほど離れビックウィークが引き連れる先行勢、少しバラけて後方の集団が広がっている。

 

 トーセンジョーダンは、ブエナビスタのちょうど2バ身ほど後ろに控えていた。遮るものはなく、ブエナビスタの背中から気迫が漏れている。その背中と、前を行くウマ娘たちを捉えながら迷う。

 

(マジで抜け出せる? このまま行って大丈夫? もうちょい前に詰めとかないと間に合わなくね? 次のコーナーで──縮められる。周りと比べたらあたしはコーナー上手い方だし、ちょっと足は使うけど、東京のコーナーは緩いし、4コーナーには間に合わせられる……)

 

『君のことを信じています。だから君も、君自身を信じてください』

 

(……あーもー! 分かったって! このまま行く! あたしならこのまま行っても抜け出せる! 信じる! 信じてみる! それでいいんだろ!?)

 

 ジョーダンが積み重ねてきた、数えるだけバカらしいトレーニング。来る日も来る日もやり続けたもの。ソリの合わない先輩から教わったもの。ライバルから学んだもの。教えてもらったもの。

 

(東京の直線はアホ長い! だからいける! 前のヤツらは絶対にバテる! てかバテろ! んでそのうちナビが抜け出す! それをブッ差してあたしの勝ち! 信じろ、信じろ、信じろ、あたしは強いあたしは強いあたしは強い! 明日原があたしを信じてる! から──)

 

 自分が特別優れているだなんて思わない。自分が積み重ねてきたものは、みんな積み重ねてきている。GⅠクラスなら尚更だ、自分だけがなんて自惚れだ。

 

 後方に潜む。これでいい──いや、これで行くとはっきり決める。

 

(これでいい! お願いあたしの脚、これでブッ壊れてもいい! だから──あたしの最高ちょうだい!)

 

 意思。迷いのない意図が身体から漏れ出すかのように、前へ行くウマ娘たちへとプレッシャーを与える。

 

 加速する。羊を放牧犬が追い立てるように。

 

 

 1:20:39

 

 

 4コーナーは滑走路。長さ525.9mの最終直線へのカタパルトだ。駆け引きは当然あった。ポジションもあるだろう。だが──この長さの前では、あるいは些細なことかもしれない。

 

 まだ粘るシルポートが少しずつ下がってくる。いや、こちらが上がっているのだ。先行勢が横一列の叩き合い──何かが始まろうとしている。

 

 

 1:32:27

 

 

 ここからやることは単純で、遠くに見えるゴール板まで1番に辿り着くこと。

 

 同じ地点に居ても余力は違う。速さは違う。力は違う、だから自分の全力を軽々と超えていくライバルの姿に心が折れることも、やはり珍しいことではない。

 

(ノーーーーーッ! ちょっと、ヤバすぎるわねこのレース! ウソだと言ってくれないかしら! アーネストリー! まだやれるわよね!?)

 

 ひたむきに、ひたむきに、前を見て。

 

(……ムリ〜〜〜〜〜〜ッ!!)

 

 気持ちでは負けてない、なんて言い訳はダサすぎるから、やめておこう。

 

 

 

 4コーナーの終わりから一気に飛び出した連中が前を塞いでいる。内に囲まれていたブエナビスタと違って外を行ける分、自由が効いているのだ。そいつらが最短コースを行こうとするなら、ブエナビスタの前に並ぶ列は当然の帰結というもの。

 

 こうなることは分かっていた。分かっていたが、いざ現実になると──

 

(──鬱陶しいッ! 邪魔ッ、邪魔ァッ! くそったれ、こいつら思った以上に粘りやがる!)

 

 誰だって勝ちたい。誰だって──自分が1番強いと証明したいに決まっている。当然だ、そんなこと。だからどれだけ苦しくたって粘るに決まっている。

 

(焦らないでくださいよブエナビスタッ、チャンスは必ず来ます──なぜならアオイがそう言ったから! 私ならば抜け出せると言ってくれたから!)

 

 ゴールは遠い。しかしもう猶予はない。最高速があったって加速が間に合わなければダメだ。仕掛け時をミスったかもしれない。

 

(……違うッ! 私は間違えてない、それが間違いでなかったと今から証明して見せますッ、アオイが間違っていなかったと証明して見せますッ!)

 

 最内を突くブエナビスタ、その前は完全に詰まっている。横に逃げ場はない、来るかも分からないチャンスを待ち──そしてそれは確かにやってきた!

 

 懸命に堪えていたアクシオンに限界が訪れた。ブエナビスタの横を通って沈んでいく──スピードに追いつけないならそこまで。そしてそれを見逃すほどブエナビスタは優しくない。

 

(──どけッ、私はヒーローですよッ!)

 

 強引に体を逸らして進路を確保。その瞬間、歓声が爆発した。

 

 ────ワアアアアアアアアアアアアアアッ!!!

 

(そう──私は勝つ! 勝つ、勝つ──勝利だけが私の存在を証明する! なぜならヒーローは負けないから!)

 

 前を塞ぐものが無くなり、加速の障害物が消え、ようやく彼女の瞳にゴールが見えた。だから止まらない──苦しい。苦しい、苦しい。痛い──ほどの、想い。

 

(見ていてくださいよアケノォッ! あの日の誓いを果たしますッ! この時代、この日に──私は確かにここにいるッ! あの日の私に恥じない姿でッ!)

 

 前だけを見る、前だけを──残り300。勝つには十分な距離、2馬身前を行くトゥザグローリーの背中など──もう、視界に映ってすらいなかった。

 

 

 

「がんばれッ! 私のヒーローッ!!!」

 

 

 

 声が、聞こえた。

 

「──ぉ、あああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアア────────ッ!!」

 

 

 

 

 1:44:31

 

 

 

 

 外は空いている。邪魔はない。もう誰も、ジョーダンの邪魔は出来ない。ジョーダンも誰の邪魔はしない。

 

(せかい、しろい。真っ白で)

 

 腕を振って──脚を動かして、芝の感触が──強くて、苦しくて。

 

(風、つよ。目ェ開けてらんねーよ。痛い。痛ェーわ。あしとか、はいとか、息吸えねーもん)

 

 もう思考に意味はない。体に残っている体力を振り絞って進む体は、意志とは無関係に動いているようにも思う。その癖に全力だ。

 

(あたしなんでこんなことしてんだろ。辛くてキツくて、いいことねーじゃん。こんな泥くせー、キラキラしてない、ぶっさいくな顔で、なんでこんな必死になってんだろ)

 

 加速する。加速する。加速する──衝撃が脳を揺さぶる。臓物まで揺らす。血肉の全ては走るために。血管の全部は奔るために。

 

 喉がカラカラだ。

 

 うまく息が吸えなくて苦しい。

 

(努力はキライ。楽して生きてたい。そんで楽しくてハッピーがいい。みんなそうでしょ?)

 

 歓声が聞こえる。数えきれないほど多くの人の叫びが聞こえる。あの人たちは何を願っているんだろう。誰を望んでいるんだろう。

 

(……ロジ。見ててくれるよね。あんたがちゃんと終わったように、あたしもちゃんと終わらせるよ。それでいいんだよね?)

 

 ロジユニヴァースに対しての後悔などない、と人には言おう。

 

 言葉には出来ないけど、いなくなって本当に寂しかった。いつでも会えるはずなのに、もうターフの上にいないということが辛くて、苦しくて、怖かった。

 

(毎日楽しくやりたい。明日のことは明日考えればいいし、未来のことなんてわっかんねーし、子供の頃の夢も忘れた。あたし──子供の頃、何になりたかったんだっけ)

 

 ──思考が、朦朧とする。酸素が回ってないのかもしれない。必要なエネルギーは全部脚にやって、他はもういらないから、どうしようもないことばかりが頭に浮かぶ。

 

(ずーっと──今が続いてほしい。トモダチいっぱいいて、次のレースに向けて頑張って、たまに遊んで、買い食いして、バカ騒ぎして、喧嘩して)

 

 まだ走れるなら走ろう。みっともなくてもいいから。

 

(ああ──やっぱり終わって欲しくない。応援してくれる人たちがいっぱい居て、後ろからホンキになって追っかけてくるやつらが居て、前を走るバカが居て、走ってる今の時間がサイコー。あたし走るの好きだ。苦しくても走るの好きだ)

 

 ──トレセンへ来た時、ここでならば何者かになれると思った。液晶の向こう側に眺めていたような、そんな"誰か"になれると思った。自分以外の誰かになれると期待して、誰かが連れ出してくれるのを心のどこかで待ち望んでさえいた。

 

 誰かになることは出来なかった。ジョーダンは入学してトレセンの学食を食べてもジョーダンのままで、携帯だって変わらなくて、アカウントだってそのままで、何も変われない。何も変えられない。何者にもなれない。

 

(この世界には──)

 

 あの日。明日原がジョーダンに手を差し伸べて、物語が始まった。明日原はありのままのジョーダンを見た。情けなくて、弱いジョーダンが強くなれるように手を貸してくれた。

 

 信じてくれた。空っぽのあたしを、大声で応援してくれた。

 

 頑張れ、って。

 

(色んなヤツがいる。走ることしか考えてないヤツもいれば、レースなんて全く知らないヤツもいる。あたしよりバカなやつも探せばいるだろうし、あたしより頭がいいヤツなんて山ほどいる。でも──あたしよりバカな超バカが、あたしのトレーナー。あたしはそのことを──)

 

 誰かになることは出来なくても、トーセンジョーダンは走り続けた。この時代を駆け抜けた。

 

(そっか。誇るってこういうことか)

 

 出会いのことを──幸運と呼ぼうが、偶然で片付けようが、運命と名付けて有り難がろうが、もう何だっていい。あの日、トーセンジョーダンは明日原と出会った。そのことに限りのない感謝を。

 

(あー。やっぱ、叫んでいるんだろうな。普段は澄ましてんのにさ、こういう時にはバカみたいに叫ぶんだもんな、あっすーは。そういうとこも好きだよ、あたし)

 

 最後の坂が見える。東京レース場、最後の坂。どうしたって速度は落ちる。苦しい。苦しくても、いい。レースで走れることは幸せだ。

 

(3年間──か。あっという間だった。何でも終わってくんだな、トレセンから出てく日が来るんだな。レースは終わるんだ、あたしにも引退する日が来るんだ)

 

 寂しい現実を理解する。騒ぎ明かした夜は明けて、翌日はまた眠気を堪えて学校──なんて日々は、いつか終わる。いや"いつか"ではない。あと4ヶ月も経てば終わる。なぜなら3年間しかないのだから。

 

(寂しい。終わってほしくない。この最高の時間が、いつまでも続いて欲しいよ、あたしだって。あんたもそうでしょ?)

 

 前にゴール。横には──ナビの姿がある。きっとあたしもあんな顔をして走っている。苦しくて、楽しそうで。求めている──勝ちたいと、心の底から望んで、走っている。

 

(……なんてね、分かってる。走るってことは、そんなバカみたいなことを期待することじゃない。走るっつーのは、あたしを応援してくれる人たちにちゃんとかっこいいところを見せること。信じてくれることに報いるために、自分を誇れるように胸を張るってことで、いつか終わるこの時間をちゃんと生きるってことで)

 

 信じていますって、言ってくれたから。

 

(だから)

 

 願わくばその日々が、光り輝く宝石のような日々が……永遠とならんことを祈って。

 

 

 

 

 ────いざ、楯を賭けて!

 

「勝ぉ負だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」

 

 

 

 

 

 /

 

 

 

 

 

『トーセンジョーダン! トーセンジョーダン伸びる! トーセンジョーダンまだ伸びている!』

 

 歓声が途切れない。自分の声さえ聞こえない。どうして叫んでいるのか分からない。

 

「行け、行け、行け、行け、行けーッ! ナビ、頑張れーッ! 頑張れーッ! 頑張れーッ! 私のヒーローッ!! あなたが1番強いんだからぁぁああああああッ!」

 

「行くにゃー! 行くにゃァーッ! 行く"に"ゃ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ッ!!! ジョーダンッ! にゃーのヒーロー(ともだち)ッ!! 行けえええええええええええええええええ!!!!」

 

「……あぁ。クソ、引退なんざ、早まっちまったかもな。私も──お前らと一緒に、走ってみたかったよ。頑張れ……頑張れ、バカ共」

 

 

 

『残り100! ブエナビスタ届くか、女王の意地か! しかし皐月賞バの意地を見せるか!』

 

 

 

 肩が並んで、前へ進んで、僅かに出し抜いたと思ったら追いつかれて、でも──負けたくないから、勝ちたいから。

 

 

『3番手にダークシャドウ! ペルーサ! ブエナビスタ僅かに届かない! 一着は! 一着は────』

 

 

 

 ──ねえ、見てる?

 

 

 

 

 どうしてか涙が止まらない。瞬きさえ出来ない。彼女が何を言ったのか分かった気がした。

 

 

 

 

『トーセンジョーダン──ゴールインッ!』

 

 

 

 ──ありがとう。

 

 ゴール板を突き抜けて、彼女はその瞬間世界で最も速い──瞬くような光の如く、栄光の上を駆け抜けて行った。

 

 

 

 

 1:56:10(URA Course Record)

 

 

 

 

 その記録。それは彼女がここにいた証。歓声の響き、荒い息とともに振り上げたガッツポーズは約束の証。

 

 第144回天皇賞・秋。その楯の代価として、彼女の全てをここに置いて。

 

 

 

 ────ワアアアアアアアアアアアアアアッ!!!

 

 爆ぜて止まらぬ歓声を浴びて、ジョーダンはグッと拳を振り上げて、堂々と叫んだ。

 

「見てたか、明日原ぁッ! 大好きだぞ、このヤローッ!!」

 

 ────ワアアアアアアアアアアアアアアッ!!!

 

 トーセンジョーダンは讃える声を浴びて、輝くような笑顔を浮かべていた。いつまでも、続けていた。

 




私はこの話を書くためにこの作品を書き始めました。そしたらこの話で77話目、文字数にして約70万文字いってました。長すぎィ!
とりあえずですが、ここまで読んでくれた方々、お付き合いいただきありがとうございます。
マジであともうちょっとで終わりなので、よければ最後まで付き合ってください。
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