オフ。つまり、完全休養日のこと。
ジャパンCへ仕上げているブエナビスタだが、全く休まないというのは総合的に見れば非効率的だ。リフレッシュは必ず必要なのである。どちらかと言えば、精神的なリフレッシュという面が強い。
それに、これは葵からの気遣いでもある。花の高校生生活には、多少の余白が必要だ。例えば、友人と遊びに出かけることとか。
この日、府中の一角には5人のウマ娘が確認された。ブナネコアートの5人である。元々話を合わせて、オフの日を調整して遊びに行くことにしていた。ネコパンチは普通にトレーニングをサボった。
「で、どーするよ? アケノ、プランは」
「まずパンケーキを食べに行きます。当然、予約済み」
「さっすがアケノにゃ! 計画性のないバカ共とはワケが違うんだにゃ〜!」
「誰が計画性がないですってェ〜? 私は心の行くままに行動するタイプなんです〜!」
「食べ放題じゃないだろうな。また出禁にされちまうぞ」
「そこは交渉したんだ。えー、なんと君たちのサインと引き換えに、食べ放題を認めてもらいました! 拍手!」
「おぉっ、さすがはアケノ! 早く行きましょう、もう待ちきれませんよ!」
バカどもの知名度が活かされた形だ。何せジョーダンとブエナビスタは現在のレースにおいては筆頭格。最も注目の集まっている2人だ、加えて凱旋門賞2着もいる。あとファン人気の強いネコパンチ。
目立つ5人組はわいわいとしながらパンケーキを堪能し、レースファンの店主との写真を撮り、休日を満喫していた。
「ん〜〜。サイコーすぎる。マジ美味い。もう後悔はねーわ。おかわり!」
「甘ったりィ……が、嫌いじゃないぜ。突き抜けたなら本物だ。店主、もう一枚くれ」
甘いのが嫌いな女の子などいない──とは、ロードカナロアの言である。ふんわりした感触に、しつこくないハチミツ。肴となるのは、結局甘ったるい話だ。
「ジョーダン〜。愛しのケイゴくんとはどうなんですかァ〜?」
「うわッ、ダルぅ〜……」
「あれね! 大好き宣言! いやー、シビれたよね!」
「にゃ。アウトだろ、あれ」
やいのやいの。
「しかし、あの鉄仮面が崩れるたァな」
「ね〜、すっごい泣いてた。私、ナビを応援してたんだけど、あれ見てちょっと感動しちゃったよ。あの人も泣いたりするんだね」
「ニンゲンだからにゃ〜。でもなんで泣いてたにゃ?」
「そりゃ、アイツの夢を叶えられたからよ。あたしも、正直ほっとした」
「夢ェ?」
「ずっと──見たかったレースがあったのよ」
「にゃ?」
「……もう。いーでしょ、この話は」
そう言ってジョーダンは話を打ち切った。曖昧かつ、強い望み。明日原景悟の根幹を話すには、少しパンケーキが甘すぎる。
「ま、トレーナーなんぞどいつもこいつも夢追い人だ。私に言わせりゃ、一種の狂気だがね」
「それな。マジ分かる」
「そんなもんですかね。ま、分からなくはないですけど」
「え、やっぱりいるのかな。狂気」
「逆説的にゃァ、イカれたトレーナーの方が優秀ってことかにゃ?」
「ん〜〜〜……まあ、多分そう。でも、ま──景悟は半分系切れてっからな」
「景悟?」
「景悟」
「名前……え、ホントに?」
「いいでしょ。やっぱ担当はいい男に限るわ。でしょ、ナカヤマ?」
「クク。加えて、首輪の繋がってるヤツなら文句はねェ。奪う楽しみもついてくらァ」
「分かる」
「こいつらヤバすぎるにゃ……」
「ヤバすぎますね……」
「ヤバすぎだよ……」
3人がドン引きしている。去年の夏合宿、明日原とジョーダンで散々遊んだことを忘れ去っているらしい。
「で、半分糸切れてるってのは?」
「そうそれ。景悟、夢叶っちゃったからちょっと不安定なんだよね。秋天終わった直後とか、もう夢叶ったんでトレーナーやめますとか言い出しそうでさ、結構怖かった」
「あの男なら言い出しかねませんね。想像できます」
「でしょ。まーでも、最後まで付き合ってくれることになったから、まあいいんだけどさ」
「ふーん。で、付き合ってるんですか?」
「微妙」
「微妙ってなに!?」
わいのわいの。ガールズトークは途切れなく、溜まっていた話題を次々と消化していく。
大体のことをお喋りして、最後の話題は次の通りだ。
「ジャパンCにゃ。にゃあ、あんまり無理しちゃダメだよ。にゃあ、おみゃーらがケガしたら悲しいにゃ」
「ネコの優しさが身に沁みます〜……」
「そういや、あの海外から来るヤツいるじゃん。確かデインドリーム、だっけ? 去年の凱旋門覇者でしょ? ヤバくね?」
「どうかね。向こうとこっちの芝は違い過ぎるからな」
「重さでしょ? そんなに違うの?」
「全くの別物さ。日本の芝は速度が出るからな。向こうじゃ必須だったパワーはこっちじゃ宝の持ち腐れ。こっちのスピードバ場について来れるかは、そんなに分のいい賭けじゃねェだろう。ま、ナメて掛かると痛い目は見るだろうが」
「へー。流石に凱旋門賞2着が言うと説得力があるね」
「実質的には私とそこの大好き宣言の一騎打ちですね」
「またそんなこと言って──」
──と、言いながらも。
アケノは、ナビが"ま、私は負けてはやらないですけど"とか言わなかったことに違和感を感じた。ジョーダンも軽々しく、"あたしが勝つから"とか口にしたりしない。
口にするべき言葉を内側へ溜め込んでいることが、アケノには気掛かりだった。
その後、休日を満喫した彼女たちの帰り道。ジョーダンとネコとナカヤマが前を歩きながら、話に花を咲かせている後ろで、ナビとアケノはショッパーをぶら下げて歩いていた。
「ん〜、遊んだ〜! いいリフレッシュになったね、ナビ」
「あ〜、明日からまたトレーニングと思うと憂鬱です。こんな日が毎日続けばいいんですけど」
「そうだね。だけど、サボっちゃダメだからね」
「私がトレーニングをサボったことありましたか? これで結構真面目なんですよ、私」
「調子狂うなぁ。いっつも真面目にしてればいいのにさ」
「そりゃ無理ってもんです。キャラ付けってのは普段からやっとかないとボロが出るんですから」
ふと、油断して出てきた言葉の中に、アケノはナビの根本的な部分を垣間見た。思わずまじまじと見つめてしまう。
「……っと。やっぱ今の無しで」
にへへ、と笑って誤魔化した笑顔の裏側は誰も知らない。誰にも──見せることはない。心の奥底。
「──今のも、キャラ付け?」
「……無しで、って言ったじゃないですかぁ」
バツが悪そうに笑うナビの姿が、アケノの知っているナビではないように感じる。すぐそこにいるはずなのに──手の届かない場所にいるかのような。
「私はヒーロー。それでいいでしょう?」
自身の根幹に立ち入らせないための誤魔化し。関係を悪化させたりしないためにブエナビスタは優しく笑う。
優しい拒絶。それに対してアケノは、何も言うことは出来なかった。
夜。栗東寮──アケノオールライトは、ルームメイトのジョーダンが眠りこける電気の消えた部屋で、椅子に座って考え事をしていた。
(……あれを、どう考えるべきなんだろう)
思い返すのは帰り道のナビのこと。あれを追求するべきだったのか否かは、考えても分からない。
(キャラ付け。つまり、一種のペルソナ──思い当たる節は、なくはない。ナビはジュニア級の頃はああじゃなかったって聞いてる。レースで勝つにつれて有名になって、性格が変わることは有り得る。
それ自体は問題ではない。社会的ペルソナは誰しもが持っているものだ。問題は、どうしてアケノにまでそのことを知られなくなかったのか?
(ヒーローに拘っているのはなんで? どうして私にまで隠そうとしたの? いや……私だけではなく、誰にも知られたくなかったのかも……)
ずっと思っていたことがある。どうしてそこまで、と。
(……ナビがヒーローとして振る舞い始めたのには、明確な原因がある。私の思い上がりじゃなければ、原因は……私。でも、それがいいことなのか、悪いことなのか……分からない。少なくとも、そのことでナビが無理をしているようには見えない。むしろ生き生きしてるようにも見えるくらい)
ブエナビスタは世代最強と言われつつ、オルフェーヴルほど圧倒的かと言われるとそうでもない。負けることはある──当然だ、負けない方がおかしいのだ。評価されるべきは、ここまで連対を外していない圧倒的安定力と、ケガをしない頑丈さ、あとは図太いメンタル。
(……ナビは、この程度じゃ終わらない。この程度じゃないって、私は信じてる。だって──秋華賞を逃したのは、私にも少なからず原因はあると思ってる)
思考は続けられる。
(……今のナビは、気持ちが入り過ぎているように思える。理由は分かってる、憧れのレースには絶対勝ちたいよね。手の届く場所にあるんだ……実力に関わってくるのかな。トレーニングは前提だけど、最後の最後で力になるのはそういう突き抜けた想いかもしれない、だけど諸刃の剣にも思える。だって──ジャパンCで負けたら、ナビはきっとしんどいよね。自分の言葉を裏切るつらさと惨めさは、私がよく知ってる)
アケノは──ナビの現状が、決して理想的ではないと判断する。
(……ナビは、楽しんで走れてる? 心からレースを楽しんでるのかな。いや……プレッシャーは感じてるはず。ナビは一見図太く見えるけど、反面とても脆い部分がある)
ちら、とグースカ寝ているジョーダンを見た。
(ジョーダンは今、気持ちの面では理想的な状況だと思う。秋天で明日原さんに恩返しが出来て、あとは力の限り走るだけ。負けちゃっても、きっと後悔はしないと思う。そういう気軽な部分があって、すごく力を発揮しやすい……)
また思考を戻す。少しずつ思考の結論に辿り着き始めた。
(……じゃあもっと気楽にやって、なんて。よりにもよって私がナビに言うの? そもそも、それがプラスの方向に向かうとも限らないのに? 分からない。分からない、けど──ジョーダン。あなたならきっと、"後悔しないように"って言うよね)
分からない──思考の迷宮に果てはない。論理的な結論は導けない。だからこれは、アケノがどうしたいかの問題だ。
(ナビ、あなたに……後悔させたくない)
夜が更けて行った。
-
「ん、ざーす。なんです? わざわざトレーニング前に呼び出したりして」
「ナビ。じゃ、早速話があるから、そこ座って」
この日以来、ブエナビスタは明確に調子を落とした。
-
桐生院葵は迷っていた。と言うよりも訝しんでいた。なにがあったのか?
「はぁッ、はぁッ……」
練習前からなんとなく感じ取っていたが、いざ走らせてみると明確に調子が表れている。まずスピード、フォームの崩れ、そして表情。いやに硬い表情で、全身に余計な力ばかりが入っている。
「……アケノさん。何かあったんですか?」
「……まぁ。はい。明らかに私のせいです、ごめんなさい」
「そうですか……」
アケノが何かをナビに話したことによって、ナビは明確に調子を落とした。アケノはより良い結果のために行動し、失敗──いや、これはまだ過程にあるかもしれない。
「……桐生院トレーナーは、"ヒーロー"について、どう思いますか?」
「それは……ナビのことですか?」
「私は、あの拘り……重りになっていると思うんです。ナビはもっと自由に……誰にも縛られずに走っていいって」
「──アケノさん」
葵がアケノの言葉を遮った。
「あの子はね、元々とても臆病で、気弱な子だったんです」
「え?」
「そんなあの子に、強がりを教えたのは私です。強いウマ娘の仮面を被り、虚勢を張ってみてはどうか、と──結果的にそれは正解でした」
一年生の頃。ブエナビスタは際立った肉体のスペックがありながら、自分に自信を持ち切れないでいた。
レースで勝ち、自信がつき始めても、ブエナビスタにはどこか脆い部分があった。生来の性格は、そう簡単には変わらない。変えられない。
「……初めの頃は、ほんの小さな強がりでした。自分が強いウマ娘であると思い込む……実際にナビは強いウマ娘でしたから、それは上手い具合にハマりました。去年の夏──その強いウマ娘としての振る舞いが、ある一人のウマ娘に傷を与え、引退に追い込むまでは」
「……」
「あ、責めてるわけじゃありませんよ。本来あれは、私たちトレーナーが背負うべき責任だったんですから」
アケノオールライトの引退から始まった騒動は、結果的に上手く着地したと、アケノも思っている。あれで良かったのだと──思っていた。だけどそうではなかった。
「ともかくナビの"強がり"は……ある意味、捻じ曲がってしまったかもしれません。そう見えなかったのは、ヒーローとしての振る舞いがあまりにも似合っていたからです。それに懸念を覚えなかったわけではありませんが──」
「……」
「もしかしたら、あの子は……あなたの信頼を裏切るかもしれないことを、恐れているのかもしれません」
「え? 私の……?」
全くの予想外。信頼? ナビが──そんなことを恐れている? 私なんかの?
アケノの思考はうまく纏まらなかった。本当にそうなのか。なぜそうなっているのか。だとしたらどうするべきなのか、どうするべきだったのか。
「もしかしてですけど……ヒーローじゃなくてもいい、みたいなことを言いませんでしたか?」
「えーと、まあ、はい……言いました。ヒーローという言葉が、ナビの重圧になっていると思ったんです」
「……やっぱり。アケノさん、ナビは……あなたから見放されたと思ったのかもしれません」
「ええっ!? な、ナビが……?」
どこか不安定な様子でトレーニングを続けるナビは──そう言われると、恐れているように思えてきた。誰もが認めるヒーローじゃなくていい、という言葉は、裏返せばあなたにはもうその資格がない、と取ることも出来るだろう。
「ナビが……? "あの"ナビですよ?」
「あなたはナビの大切な友達です。きっと、あなたが思っているよりずっと……私には、そう見えます。だから、恐れているんだと思います」
青天の霹靂、でもないが──アケノは呆気に取られた。あのブエナビスタが、そんなことで? 傍若無人を絵に描いたような畜生生物が?
「…………だとしても。ナビには、私のことなんて気にして欲しくはないです。ナビには、もっと自由に走って欲しい──走る理由に私を使ったら、後悔する」
「どうしてそう思うのか、聞かせてください」
「上手く言えないですけど……私のために──もう走れなくなった私の代わりに勝たなきゃいけないなんて理由で走るのは……酷いプレッシャーだと思います。期待を裏切りたくないのは、失望されたくないネガティブな気持ちの裏返しに思えます。そんなメンタルじゃ結果を出せても出せなくても、心は追い詰められるばっかりなんじゃないかって」
かつて、ヒーローになんてならなくてもいいと言った。友達だから、間違いも許すと言った。
ブエナビスタは経験を経て、"強がりの仮面"は"ヒーロー"に変わった。
ヒーローの仮面に隠したブエナビスタの本心が知りたい。
「……私はナビのこと、ずっと信じています。だけど期待がナビのプレッシャーになるのは、嫌です」
「じゃあ、伝えてあげてください」
「……むしろ逆効果なんじゃ?」
「それでも、です。ナビがそうあるべきように、アケノさんも──怖がらないで。何度だって、あの子が逃げないように、伝え続けてあげて。拒まれても、何度だって」
「……はい。逃げません」
ナビを傷つけることを恐れない。アケノ自身がそれで傷つくことになっても、踏み込むことを恐れない。
後悔のないようにやる。どんな結果になったとしても、責任を持つ。
練習終わり。葵は普段よりも簡単に練習終わりのミーティングを締めくくると、解散とした。
ナビは口数少なく、練習バッグを掴んで帰り道に足を向けた。
「……ナビ」
声をかけても振り返らないので、アケノは当然追いかけた。
「ナビってば!」
呼びかけても止まらないなら手を掴むしかない。掴んだ勢いで振り返ったブエナビスタの表情が、引き攣ったような、怯えているような──見た事のない表情をしていて、アケノは勢いを削がれた。
「……怯えないで。私は──信じてる。ナビを信じてる、だから──」
「……ッ」
「あっ、ちょっとナビ!」
手を振り払うと、ブエナビスタは背を向けて逃げるように去っていった。
連日、アケノはナビを追いかけた──クラスも同じだし、放課後も練習で顔を合わせる。話す機会はいくらでもある。
「ナビ」
「……」
「ナビッ!」
「…………っ」
その度に、するりとナビは逃げていく。教室では廊下からどこぞへと逃げ、放課後は足早に教室を去り、練習が終われば逃げるように帰る。寮の部屋を訪ねれば居ないと言う。相部屋の子は黙って首を振っていた。
1週間ほどそんな日々が続き、アケノはジョーダンを頼ることにした。
「……万事、あたしに任せんしゃいッ! ライバルに塩ッ、送っちゃるわい──ッ!」
「な、何キャラぁ〜?」
-
ナカヤマフェスタ、孤独のグルメ道──本日はうどん道。もう秋と冬の境目なので、暖かいものが食べたい気分である。チェーン店があまり好みではないナカヤマは、年季の入った個人店に良く来る。
(……すだちに生姜。肉うどん、ね──アツいな)
古き良き日本食が好みだ。特に渋いチョイスがいい。麺類ではざるそばが好物。
「……いただきます」
両手を合わせて箸を掴んだ。いざ食べようとした時、店のドアがガラガラと開いた。ふとそちらを見ると──どうにも険しい顔をしたブエナビスタが立っていた。
ナカヤマがナビを見ていると、ナビもこちらに気がついた。
「奇遇だな」
「ナカヤマですか。はぁ……」
ほっと息をついて、ナビはカウンターに座っていたナカヤマの隣に座った。
「珍しくしけたツラしてやがる」
「チッ。ほっとけってんです……」
悪態。ナカヤマはナビの様子が異なっていることには一目で気がつくが、わざわざ聞き出すような真似はしない。その代わりとして、こっそりメッセージアプリを起動し、ジョーダンに位置情報と一言送っておく。
「1番美味いやつ、教えて」
「煮込みにしとけ」
「ンじゃそれで。すいませーん」
ずるる。昆布出汁のよく聞いたいいうどんを味わう。孤独のグルメを味わう──というわけにはいかない。横にこんないかにもワケありの顔をしたウマ娘がいるわけで。
「ンだよ? いかにも聞いて欲しそうなカオしやがって。素直になれない小学生でもあるまいし」
「……お互い様でしょ、そいつは」
「クク。違ェねえ」
「……大体、なんでナカヤマがいるんです。孤独のグルメだったのに」
「オイオイ。私が教えたんだろうが、この店は」
沈黙。店主が一人で回している小さな店で、調理の音と、ナカヤマがうどんを啜る音だけが響く。
そのうち、ナビの注文した煮込みうどんが来た。
「いただきます。……ん、うま」
「はッ。大食いヒーローが。そんだけじゃ足りねェだろ?」
「食堂でもう食べて来てるんで」
「いくら食べても足りないってか。それで、寮に居づらいから外に逃げてきのかい?」
「……言うだけ無駄ですよ」
「言うだけ自由だろ? 私の時には散々口も手も出して来やがって」
「そりゃジョーダンたちがやったことでしょ。私にあんな電話一本寄越して学校辞めようとしたのは誰ですか、全く……」
「お節介焼きだらけなことを恨みなよ。恨めるもんならな」
「そのままそっくり返します」
ずるる。
「……」
ずるる。
「……」
言わなければ会話もない。今日は孤独のグルメ。
「大将、勘定」
ナカヤマが代金をカウンターに乗せた。
訳ありらしいナビにナカヤマはわざわざお節介を焼くような性格ではない。それがナビにはありがたかった。
食べ切って帰って寝よう。明日も朝練がある、と思った瞬間である。
また、店の扉が開いた。ガラガラ、と──視線を向ければ、トーセンジョーダンがいた。
「──よ〜ぉ、迷子の子猫ちゃんじゃん。奇ィ遇だなァ〜〜……。良い子はお家に帰る時間だぜェ〜〜……?」
「…………ナカヤマ。手前、ジョーダンに伝えましたね?」
「知らねェな。言ったろ? お節介だらけなことを恨めって。じゃな、いい夜を──大将、ごっそさん。美味かったぜ」
ひらひらと手を振って帰るナカヤマの背中をナビは睨みつけていた。
「……首を掴むのは、やめてください」
「逃げるだろ」
「誰が」
うどんを食べ切るまで横で監視したのち、ナビを伴って店を出たジョーダンは、ナビの首を掴みながら寮への道を歩く。
「……アケノですね?」
「他に誰がいんの? まったく、手のかかるったら」
「頼んでませんよ、私は」
「ガタガタ抜かすな。分かってんの? あたし、あんた、ライバル。調子崩す、おまえ、助ける理由、ない」
「なんでカタコト? 大体そりゃこっちのセリフでしょ」
「そーだよ。だから感謝しろッつってんの」
「余計なお世話です」
コツコツ。学園周辺の見慣れた街並みが通り過ぎる。夜も遅い、空気は乾いて冷える。
ジョーダンは怒っているようにも、呆れているようにも聞こえる、どこか穏やかで優しい雰囲気だった。軽口ばかり叩く割に──
「どーしちゃったのよ、とか聞いてやらねーよ。でもさ、なんで今更ビビってんの?」
「ビビってなど……いません」
「アケノに言われたんでしょ? ヒーローじゃなくていい、だっけ? そんなに重たいもんだったワケ?」
「……理解して欲しいとは思いません。そんなことなど望みません──私はいつだって、強い私でしかありません」
絞り出すようなナビの声。決め付けて、覚悟を決めたはずのことは、どうしてか迷っているようだ。ジョーダンはしょうがないなという顔をした。
「そんなこと望みません、ね。ひっどい猫被ってやがんの」
「何とでも言えばいい。それにこの猫の被り物は、結構気に入っています。剥がせと言われても嫌です」
「あっそ」
トレセンの正門はこの時間は閉じている。正門には監視カメラがあり、夜間の無許可外出がバレると面倒になるため、学園の塀を乗り越えて外に行くのが常態化していた。
「おら、乗り越えろ。逃げんなよ」
「へいへい」
ヒョイっと、2mほどある塀を軽々と飛び越えたナビに続き、ジョーダンも続いた。そして首を掴み直し、寮への道を行く──途中にあるベンチに、ナビを放り投げるようにして座らせた。
「ンすか。寒いんで帰りたいンすけど」
「逃がすかい。早く帰りたきゃ、さっさと白状したらいいんだよ」
「ちっ……じゃ、言いたいことを言えばいいでしょ」
「じゃ、遠慮なく。あのさ、アケノのヒーローってやつ、なんなの?」
「なんなのって何です」
ナビとジョーダンは秋の空を並んで見上げながら会話を続ける。ナビも今更逃げる気はないらしい。
「あたしも思ってたけど。なんでヒーローなんていう重しをわざわざ背負ってんのかねーってさ。しんどいだけでしょ」
「責任ってヤツですよ。憧れに近づく手段と言い換えても同じことですがね」
「スペシャルウィーク、ね──でも、それだけじゃない。アケノのこと、未だに引きずってンでしょ?」
「……そりゃ、引きずりますよ。アケノがそのことを許しても事実は変わりません。アケノのようなウマ娘の希望になりたいって思ったのは……本当のことです」
「ならなきゃ、の間違いでしょ。勝手に背負い込んでる。無駄に強いから背負えちゃう」
「悪いことだと言いたそうですね」
「別に。でも、勝たなきゃいけないっていう考えはしんどいだけでしょ。マジでいいことない。自分で自分を追い詰める──ンな時に限って勝てない。去年のあんたのことね。少なくともあんたにはそのやり方、向いてないと思うよ」
「精神論は好きではありません」
「大事なことでしょ。なんのために走るのか、結局それが1番大事なんだから」
「……では、ヒーローを捨てろとでも?」
「知らねーよ、そんなの好きにすりゃいいじゃん」
はぁ、と息を吸うと、肺に冷たい空気が入った。ぼんやりとした夜──秋の夜空は、雅な風情がある。
「……失望させるわけにはいかないんです」
「失望されたくないだけ。やっぱビビってんじゃん。応援したのに、期待してたのに、どうして勝てなかったんだって責められるのが怖いんだよ、ナビは。応援は嬉しいけどさ、結局はファンが勝手にやってることなんだから、適度に受け入れて、適度に気にしなきゃいいじゃん」
「声援が力になったことは少なくないです。ジョーダンだってそうでしょ、応援してくれる誰かがいたから勝てたっていうのは、世辞や社交辞令なんかじゃありませんよ」
「分からなくはねーよ、でも縛られちゃダメでしょ」
「縛られてなどいません。私は……ただ、臆病なだけです」
「だから、ヒーローの仮面を被って、応援してもらわないと自信が持てない。でもヒーローの仮面を被ると、期待を裏切るのが怖くなる……ってカンジ?」
ナビの根本。気がついたときには、ブエナビスタは"ブエナビスタ"だった。その歪みに──どれだけの人が気がついただろうか。理想的なまでに理想的な、ヒーロー。キャラクターだ。
ナビが呟く。小さな声──
「……あなたが羨ましいです。ジョーダン──羨ましい、妬ましい、いっそこの手で殺してやりたい。あなたみたいになれたなら、どれだけ良かったことか」
「怖ッ! はぁ……隣の芝は青く見えるもんでしょ、ダービー出れなくてあたしがどんだけ悔しかったと思ってんの」
「性格の話ですよ。言ったでしょう、臆病なんですよ。割り切れない……ヒーローとしての私は、自信満々に言うんです。絶対に勝ちます、信じてくださいって。ですが心の底では、結局のところ私は自分を信じきれない。笑えるでしょう?」
ナビの肩が震えていた。きっと寒さのせいではないだろう。
「あなたはヒーローに相応しくない、と──アケノに言われることを想像してしまいます。あなたの言う通りですよ、ジョーダン。私は期待が失望に変わる瞬間を恐れているんです。所詮は紛い物。仮面を被っているだけなんだ、って」
「……マジで言ってんの?」
今更──誰がそんなことを言うだろうか? ジョーダンに言わせれば、それはもうあり得ないことだ。それだけの実績を積み上げている。さらにアケノに限ってナビを見放すことなど絶対にあり得ない。
「アケノに、もうヒーローじゃなくてもいいって言われて怖くなりました。変わることは恐ろしいことです。今の自分が理想だと思っています。ヒーローじゃない私は……ただの弱虫です」
「……なるほどね。確かに──変わっていくのは、怖いよな。分かるよ」
ジョーダンの怖いこと。卒業した後のこと。今のままの自分でいられないだろうと思う。社会に適応できずに落ちぶれてしまうかもしれない。
「ヒーローとしての外殻も、随分私に馴染みました。ですが……結局のところ、これは演技であって、本当の私ではない。憧れを捨てきれないくせに、臆病で本心を語れない。そしてそれを、誰にも知られたくはない」
「ちゃんと知られちゃってるよ。アケノはずっと気付いてたし、あたしだって分かってたし、ナカヤマだってネコだって。でもそれがなんか問題になるわけ? 友達じゃん」
「……私だって、友達だって思っています。大切な……私の友達です」
「そうやって、ずっと素直にしてりゃいいのにさ」
「憎まれ口はお互い様です。今更どうにもなりませんよ」
「素直じゃないのはお互い様。ま、確かに今更か」
ナビが夜空に手を伸ばした。
「……ヒーローじゃなくていい。ナビはナビのために走っていいんだ──ですがそんなこと言われてどうしろって言うんですか。今更変えられませんよ。私は強がってないとダメなんです」
「そう? あたしはそうは思わねーけどね」
「はッ。私の何を知ってるんです」
「散々知ってるよ。一緒に走れば色々分かっちゃうだろ。走り方の癖、好み、性格に……何考えてるかまで」
「へぇ。じゃ、私のことを教えてみてくださいよ」
「周りのことをちゃんと見るタイプ。内より外が好き。囲われるのは嫌い。何より、負けず嫌い」
「……てんで、外れてますよ」
「はぁ? んなわけないでしょ。あたしが競り合い仕掛けて、あんたが全力じゃなかったことないじゃん」
「記憶にございませんね」
「政治家かよ。あーもう、つまりさ、あたしも──ナビを信じてるってこと」
「……もういいでしょう。帰って寝ます」
ナビがベンチを立って、そのまま自然に帰ろうとした。ジョーダンも引き止めようとは思わなかったが、言いたいことはまだあったので背中に向かって言う。
「ビビんなよ、ナビ。向き合ってちゃんと答え出せ。フヌケたまんまじゃ、あたしは絶対に倒せねーからな!」
「……一から十まで、余計なお世話ですよ。バカヤロウ」