サリーのロボトミーコーポレーション 作:エリック
私は、彼女のことを誤解していた。
コントロールチームの更衣室で1人の女性が着替えをしていた。
「私も今日から翼の一員、か。」
半眼で下がり眉をした彼女は感慨深く、けれどあまり嬉しくなさそうに呟いた。
視線の先には不自然にへしゃげた分厚い本がある。表紙には「業務マニュアル」と書かれており、先達の残したものであろうことがダコタにも分かった。
「一度解散したチームの職員、ね。」
ダコタは隣にある、自分とは別のネームプレートが飾られたロッカーを横目で確認し、更衣室を後にする。
業務を始める前にマルクトから、先ほど捨てられていたものと同じ分厚いマニュアルを受け取り、コントロールチームへと赴く。
コントロールチームに着くと、そこには自分と同じくスーツを着た、まだ幼さの残る顔立ちをしている、ショートヘアーの女性がいた。
「おはようございます……」
「おはよう。あなたがダコタさん?」
ショートヘアーの女性は彼女─ダコタに訊ねる。
「はい。あなたは?」
「私はメイ。解散前のコントロールチームにいて、管理人に呼び戻されました。」
メイとダコタは淡々と、事務的に話す。
「呼び戻された……経験者がいるというのは心強いです。」
「……どうして?」
「どうして……?経験者がいれば、業務のやり方とか聞けるじゃないですか。暗中模索よりは安心ですよ。」
ダコタが首を傾げながら言うと、メイはふいとダコタから目をそらす。
「ここでは誰だって死ぬわ……」
メイの暗い感情が混じった囁きが、誰にも聞かせるつもりはなかったであろう呟きが、ダコタに聞こえた。
ダコタは背筋を震わせながらもメイから視線を逸らせない。
メイはそんなダコタの様子に気がついたのか、ダコタに優しく話しかける。
「聞こえたの?」
「え、えぇ……」
「そう。脅かすつもりはないの。でも、自制をしっかりしないと私たちはゴミのように死んでいく。そこに先輩も後輩もないわ。」
いっそ冷たく、淡々とメイはダコタに伝える。あまりに毅然としたその態度は、メイは冷たい人物だとダコタに判断させるには充分だった。
「メイ→たった一つの罪と何百もの善に愛着作業」
「……作業に呼ばれたみたい。また後でね。」
寡黙な社員の背をダコタは見送ることしか出来なかった。
「……ちょっと、可哀想だったかな?」
メイは
「……でも、私がパニックになった時、辛い思いをするのはあの子だから。少しでもあの子が辛くないように。」
長い廊下を抜け、収容室の前にたどり着く。
前と同じように、しかし少しだけ気恥しそうに、メイは収容室の扉を開けた。
【娘よ、答えは出たか?】
たった一つの罪と何百もの善がメイの姿を確認して彼女に訊ねた。
「えぇ。」
【たった一つの罪と何百もの善】にメイは向き合う。
【して、その答えは?】
「私の罪は私の前に。私は私の咎を知りました。」
罪を受け入れる準備は既にできている。自分の咎もすでに知っている。
だから、と前置きしてメイは【たった一つの罪と何百もの善】を真正面から見つめる。
「だから私は、もう誰も死なせない。そのために、戻ってきました。」
メイの瞳には確かな覚悟と意思が宿っていた。
【娘のたった一つの罪が、罪ではなくともか?】
「えぇ。それでもこれは、私が抱えるべきものだから。」
【娘の何百もの善が、その罪を贖うに相応しいものでもか?】
「はい。ブラウンちゃんが恨んでなくても、ネビルくんが憎んでなくても、その罪を繰り返さない理由には、その不幸を見捨てる理由には、絶対にならないから。」
メイの強固な決意を聞き、たった一つの罪と何百もの善はおもむろに口を開くと、聞いたことの無い歌を口ずさんだ。
「……?」
たった一つの罪と何百もの善の突飛な行動にメイは思わず首を傾げる。
【我は娘を見守ろう。娘は“懺悔”の対象では無い。だが、それでも贖うとするならば、我は娘を祝福しよう。】
娘が罪を抱えきれなくなるその日まで、とたった一つの罪と何百もの善は言う。
作業は終わった。かなりのエネルギーが抽出され、PE-Boxもそれなりの数が集まった。
「見ていてください。私が、後悔のない道を歩む姿を。」
【見守ろう。娘が“懺悔”を必要としないように。】
背中越しにかけられた言葉を噛み締めて、メイは収容室を出る。
「誰も死なせない……死ぬ気もない……だから、後輩のみんなには強い自制を身につけて、油断せずに作業をして欲しい。」
だから私は厳しくなろう、とメイは決意した。
たとえ自分が嫌われようとも、冷酷だと評価されようとも、
「戻ったよ。」
「メイさん。ずいぶんと早いですね。」
「O-03-03……たった一つの罪と何百もの善は危険じゃなくて優しいアブノーマリティだからね。あのアブノーマリティでアブノーマリティとの関わり方を覚えないと、人は簡単に狂う。」
メイはダコタにかなり暗い世間話を展開する。
けれど、もう二度と後輩を死なせないためにも、心構えの伝え方を変える気などメイにはさらさらなかった。
「……心に止めておきます。」
「それがいいよ。」
寡黙と根暗が頷きあった時、管理人は「僕らはいつも以心伝心。ふ〜た〜り〜の〜こ〜と〜つ〜な〜ぐ〜」などと歌っていたが、きっと某罪善の鼻歌に触発されたに違いない。
「ダコタ→たった一つの罪と何百もの善に洞察作業」
「……私も呼ばれたみたいです。行ってきます。」
「……行ってらっしゃい。」
泣きそうになりながらも無理に笑顔を作ってメイはダコタにそう言う。
たった一つの罪と何百もの善は職員をパニックに陥れたり、職員を害するようなアブノーマリティではないことはメイも知っている。
けれど、「行ってきます」とメイに言って、帰ってきた職員はいないのだ。
「……メイさん、すごい顔してたな……何も言われなかったのが逆に怖い……」
ダコタはたった一つの罪と何百もの善の収容室に向かいながら呟く。
メイの過去を知らない彼女は、メイがなぜあんなに複雑な表情をしていたのかが分からない。
「とりあえず……洞察作業は環境整備……ま、とりあえず最初は見るだけ……かな?掃除とかもするらしいけど。」
無気力に、出たとこ勝負と言わんばかりの投げやりさでダコタは収容室の扉を開けた。
「…………骨だ」
そこに居たのは骨だった。2つの杭に縦横両方を串刺しにされた大きな頭蓋骨が悠々と宙を漂っていた。
「え?なんで骨?これ本能作業とかどうするの?ご飯食べれるの?」
失礼にもダコタが本人(本骨?)を前にそれなりの声量で呟くと、頭蓋骨ことたった一つの罪と何百もの善はカタカタと笑い始めた。
「な、なんですか?」
【いやなに、汝もかの咎人と同じことを言うのだなと思うてな。】
たった一つの罪と何百もの善はカタカタと笑いながらダコタに伝える。
ダコタはたった一つの罪と何百もの善が笑った理由も気になるが、それよりも気になる部分があったのでつい聞いてしまった。
「咎人……?」
【……うむ。かの娘……汝も知っているあの娘だ。過去に囚われ、自身を咎人だと言っておる、あの娘のことだ。】
我はそうは思わぬがな、とたった一つの罪と何百もの善は付け加える。
その一言で、たった一つの罪と何百もの善が【咎人】と称すのはメイであることがダコタにも分かった。
しかし、何をすれば自分自身を咎人だと言うのか、ダコタは訳が分からずついたった一つの罪と何百もの善に訊ねる。
「その……メイさんの過去、というのは?」
【……聞いておらんのか?】
上下に漂っていたたった一つの罪と何百もの善がその動きを止めた。骨ゆえに表情は分からないが、どことなく【やってしまった】と後悔しているように見える。
「……何が、あったんですか?」
ダコタはたった一つの罪と何百もの善に詰めよる。冷血な彼女の犯した罪がダコタには気になってしょうがない。
しかし、たった一つの罪と何百もの善は緩慢に首を振る。
【よそう。かの咎人が言わぬなら、我が言うべきことでもあるまいて。かの咎人のことは、かの咎人の準備ができた時に、かの咎人自身が言うべきであろう。】
それでも納得ができないダコタは食さがる。
「ですが、同僚として知るべきだと私は……!」
【やかましい娘だ。】
たった一つの罪と何百もの善がそう言った途端、ダコタの心に恐怖心と不安感が芽生えた。
ただ一言発しただけなのに、精神が丸ごと揺らぐようなその不安感にダコタは何も言えない。
【娘はかの咎人の同僚なのだろう?少しは同僚を信じ、待つことをせねばならぬのではないか?一目散に答えを求めるだけではなく、かの咎人の真意も考え、信じることができてこそ、同僚ではないか?】
常識の埒外のモノを相手取るここでは特に、とたった一つの罪と何百もの善は言う。
言われたダコタは恐怖か納得か、何も言えずにただ突っ立っていた。
「ダコタさん?大丈夫?」
胸元の無線からメイの声がする。いつまでも戻ってこないダコタを心配しているのだろう、声は気の毒になるくらい震えていた。
ダコタはチラリとたった一つの罪と何百もの善を見ると、たった一つの罪と何百もの善は顎をしゃくり、ダコタに退室を促した。
「だ、大丈夫、です。すぐ戻ります。」
ダコタは収容室の扉を開け、メインルームに戻る。
重たい足取りでメインルームに入ると、酷くやつれた様子のメイが視界に飛び込む。扉が開いた音でダコタが戻ってきたのを確認したメイは安堵の表情を浮かべる。
「良かった……戻ってきた……」
ポツリと呟いたメイの声音には、恐れや不安といった感情が見え隠れしており、先ほどたった一つの罪と何百もの善が言っていたメイの罪にまだメイが囚われていることがダコタには分かった。
「大丈夫?おかしな義務感とか、死にたくなったりとかない?」
「大丈夫です。…………これからは、しっかり自制します。」
ペタペタとダコタの身体を触りながらメイは訊ねる。まだ不安感が拭いきれないが、ダコタはとりあえずは大丈夫だとメイを払いのけた。
ただ、メイの言っていたように自制心を強く保ち、不用意なことはしないようにしなければとダコタは固く誓った。
「……えぇ。忘れないでね。」
絶対に。
メイのたった一言が、ダコタに強くのしかかった。
彼女の罪を私が背負うことはできないだろう。
彼女の罪は彼女だけのもので
その慟哭は、私が触れることすら叶わないものなのだから。
「………………」
2日目、ダコタは更衣室で黙々と着替えていた。
ダコタが袖を通そうとしていたのは、就職面接の時に着ていたおろしたてのスーツではない。
「なんか……本で読んだ昔の服みたい……」
赤を基調とした鎧のような服を前にダコタは顔を顰める。
それの触り心地は冷たく硬質な印象を感じるが、伸縮性に富んでおり、未知の物質でできていることは明らかだった。
「なんか……ちょっとだけたった一つの罪と何百もの善に似てる……?」
ダコタはほぼ直感でそう思ったが、似ている要素をいくら探しても見当たらない。
結局ダコタは自分の思い過ごしだと結論づけた。
「おはよう、ダコタさん。早いね。」
「おはようございます、メイさん。」
そうこうしているうちにメイが更衣室にやってきた。
いつものように幸薄そうな下がり眉をした彼女は、ダコタが手に持っている服を見てなんとも形容しがたい表情を浮かべた。
「……ん?あぁ、管理人からの指示です。これを着るようにと。」
「えぇ、私も聞いた。……今度は、管理人もやってくれたのね……」
小さな声でメイは呟いた。ダコタはメイのその口調から、メイがこの正体不明の服について何か知っていることを感じ取り、メイに訊ねた。
「メイさん、これは一体……?」
「……私も見たことはないんだけど、これがE.G.O.なんだと思う。」
「E.G.O.?って、あのEGOですか?」
ダコタは不思議そうに首を傾げる。ロボトミーコーポレーションに入社した彼女は、例に漏れずかなり勉強ができる方だ。当然、ありとあらゆる知識について基礎的なことは知っている。
しかし、ダコタの知っているEGOは構成概念、目に見えないがおそらく存在する・存在するとした方がいろいろと都合がいいだろうという性質のものだ。
けれど、今ダコタの手元にある服は実際に、物質として存在している。ダコタは訳がわからず混乱していた。
「うん、多分それであってる……と、思う。マルクトさんも「アブノーマリティのE.G.O──自我の力」って言ってたことがあったし、それはたった一つの罪と何百もの善の自我から作られた服なんだと思う。」
「構成概念を物質に……すごい技術ですね……」
「ホントにね。」
感心するダコタの興味はすっかりE.G.O.に向いていた。
だから、だろうか?ダコタは眉をひそめて暗い笑みを浮かべるメイの様子に気づいていなかった。
「……っ!ともかく!早く着て業務に行きましょう!遅刻したらマルクトさんに怒られますから!」
「そうだね。ちょっと急いだ方が良さそう。」
時計を見てダコタは慌てふためく。なんの躊躇いもなくE.G.O.を着ると急いで更衣室を出ていった。
「………………ふぅ……」
メイはたった一つの罪と何百もの善のポジティブ・エンケファリンから作られた服──【懺悔】を着る前に、細く長い息を吐いた。
「喜ぼうよ、あんなに欲しかったE.G.O.だ。」
腕の中にある【懺悔】を見つめてメイは呟く。
「あんなに、欲しかった、はずなのにね。」
コントロールチームの更衣室には、しとしとと静かな雨が降っていた。
分かってるんだ、触れられないことなんて
分かってたんだ、触れてはならないことだって
けれど、
それでも、
あの人だけに背負わせるべきではなかった。
雨が止み、メイがコントロールチームのメインルームへ向かうと、そこにはダコタと下がり眉の見知らぬ青年がいた。
「あぁ、サンチェスくん、こちらがさっき言ってた先輩。メイさん、こちら、今日からコントロールチームに配属された新入社員のサンチェスくんです。」
「新入社員のサンチェスです。よろしくお願いします。」
「うん。よろしく、サンチェスくん。業務についてはマルクトさんのマニュアルが分かりやすいから、よく読んで、しっかり自制して作業に当たってね。」
「……はい。心してかかります……!」
2人はそんな事務的なやり取りをする。
メイは努めて厳しい先輩になろうとするが、昨日メイの弱さを垣間見たダコタは「合ってないんだからやめりゃいいのに。」と呆れ顔だった。
サンチェスがマルクト特製六法全書マニュアルを読み始めたのを見て、ひとまずは安心だとメイはサンチェスから視線を外す。
モニターの前で管理人が新しいアブノーマリティを見て大興奮していることなど知る由もない3人は静かな時間を過ごしていた。
「メイ→O-01-12に愛着作業」
その静かな時間もそう長くは続かない。
メイに作業が割り当てられた。
「いつもは先にたった一つの罪と何百もの善の作業してからなのに……管理人に何かあったのかな……?」
メイは聞こえないくらいの声で呟くが、いつまでも考えてはいられない。
「それじゃあ、行ってくるね。しばらくは呼ばれないだろうから、作業方法だけでもマニュアルを読んで覚えてね。」
「はい。頑張ってください。」
長い廊下を、ネビルとブラウンの恐怖と血痕がこびりついた廊下を、メイは歩く。
収容室の前に来た。
かつて
かつて、自分が2人を殺めた場所に。
(大丈夫……E.G.O.だってある。White属性のE.G.O.だ。パニックの鎮圧があったって、殺す必要はないんだ。)
メイは深呼吸を繰り返す。何度作業しても、あの時のことが忘れられないメイは決して作業に慢心しない。
「……今度はもう、誰も死なせないから。」
メイは収容室の扉を開ける。
中には年老いた姿の女性が、静かに椅子に座っていた。
(マニュアル通りに愛着作業すれば、大丈夫。)
メイはメモ用紙を取り出し、注意深く作業を始める。
収容室には息が詰まるような沈黙が漂い、メイは少しばかり緊張した。
得体の知れない不安感を抱えながらも、メイは作業を続ける。
「こんにちは。」
【えぇ、初めましてね、お嬢ちゃん。】
しんどそうに椅子に腰掛けているO-01-12にメイは声をかける。その目はメイではなくあさっての方向を向いていて、メイはO-01-12の目がほとんど見えていないことを察した。
それ故にどう愛着作業を進めようかとメイは悩んでいたが、結論が出る前にO-01-12はメイに話を切り出した。
【もうずっと前の話になるんだけどねぇ……聞いてくれるかい?】
「えぇ、もちろんです。」
メイはO-01-12の話を静かに聞く。
【あれは、私がまだ生きてる頃だったんだけどねぇ……】
(……ってことは、この人はもう死んでるのか……)
O-01-12の話は、端的に言ってつまらなかった。
彼女の話は同じところを何度もループし、起承転結がぐちゃぐちゃで、さっき言っていたことと今言っていることが違っているくらいめちゃくちゃで、聞いているこっちが苦痛になるほどつまらなかった。
けれどメイは、その気持ちを押し殺し、話を盛り上げるような質問や相槌を適度に入れる。
そろそろ作業も終わりかというタイミングで、O-01-12はピタリと話すのをやめた。
「???どうかしましたか?」
【アンタ、あたしの話を聞いてないだろう?】
クラリと頭が揺れる感覚がする。いつもの作業のような大きな負担ではないが、精神を揺さぶられるその感覚に、メイは警戒を強める。
「そんなことないですよ。旦那さんと雲の上を歩いたお話、とても素敵でした。それに──」
【なら!】
メイが話を聞いていることをアピールするが、O-01-12はメイの言葉を遮って、半ば絶叫のようにメイに感情をぶつける。
【ならどうして、さっきから帰ろうとしてるんだい……?】
O-01-12が力なく項垂れる。その瞬間、メイの中に恐怖心と孤独感が芽生えた。
メイはその嫌悪感を胸の内に押しとどめてO-01-12と会話する。
「……ごめんなさい。私にも仕事があって、どうしてもお話を聞ける時間に制限があるんです……」
【嫌だ……一人はもう嫌なんだよぉ……行かないでおくれ……】
「…………ごめんなさい。」
胸の内で膨れ上がり爆発する孤独感をメイは自制してO-01-12に背を向ける。
O-01-12のすすり泣きを背に受けながらも、メイは収容室から出ていった。
「そんなにきつくはなかったかな……」
長い廊下をメイは歩く。いつも帰りは陰鬱な気分で歩いていた廊下だが、今は安堵の方が強い。
けれど、安心してもいられない。
「O-01-12のマニュアルはまだないから、ダコタさんとサンチェスくんに情報を共有しとかないと……」
メイは気を引き締め直してメインルームに入る。
「おかえりなさい。作業どうでした?」
「……あ!お、おかえりなさい!」
メインルームに入ると、ダコタがメイを見つけて聞いてくる。昨日のメイの様子を心配してなのか、ただ単に情報共有しておいた方が良いと思ったのかは分からないが、その一言がメイの過去の記憶を呼び起こす。
マニュアルを読んでいたサンチェスも慌ててメイを出迎えるが、その慣れていない様子も、メイにデクスターやディーバの姿を思い起こさせるには充分だった。
(…………違う。これはO-01-12のせい……そう、彼女の孤独のせいだから……)
それでもメイは自分の思いを自制して、2人にO-01-12の情報を共有する。
「んー、なんて言うかな……O-01-12はおばあちゃんみたいな見た目のオブジェクトでお話好きだったよ。でも内容はめちゃくちゃな話で、正直聞くに耐えなかったから、上手いこと相槌をうちながら聞き流す方がいいと思う。」
「めちゃくちゃな話?」
ダコタが首を傾げながらメイに訊ねる。
「そう。例えば……女の子が魚に食べられたけど生きてた、とか、箱の中の目が人々を殺して回ってた、とか、私は井戸の底から産まれたんだ、とか……挙げたらキリがないけど、そんなめちゃくちゃな話ばっかりだったよ。」
「それはまた……わけが分かりませんね。お疲れ様です。」
「ありがとう。そろそろダコタさんも呼ばれると思うから、頑張ってね。」
「はい。」
メイから次に呼ばれるのは自分だと言われたダコタは、昨日のたった一つの罪と何百もの善の作業を思い出して身震いした。
同時に彼女は気を引き締め直す。O-01-12のことをメイは「優しい」と表現しなかった。
気にしすぎかもしれないが、O-01-12はたった一つの罪と何百もの善よりも危険なアブノーマリティなのかもしれない。
そう考えたダコタはいつ作業指示が来てもいいように精神を研ぎ澄ます。
「ダコタ→O-01-12に洞察作業」
来た。
ダコタは震える手を気づかれないように強く握りしめる。
サンチェスがこちらを見ている。ここで自分が不安がっては、後輩がどれほど不安になることか。
「それじゃあ、行ってきます。メイさん、情報ありがとうございました。」
「……気をつけてね。」
「……もちろんです。」
努めて気の抜けた顔を作ったダコタは、内心では不安に押しつぶされそうだった。
自制が重要だとは聞いているが、[[rb:アブノーマリティとの交流>愛着作業]]の経験が少ない彼女は、どうすれば未知の化け物を相手に自制を行えるのかがよく分かっていない。
収容室の扉の前に着いた、着いてしまった。
あまりにも短いその廊下を少しばかり恨めしく思いながらもダコタは収容室の扉を開ける。
メイが言っていたように、そこにはおばあちゃんが椅子に腰掛けていた。
(落ち着いてやればいいんだ、たぶん。)
ダコタは洞察作業を始める。
「こんにちは、O-01-12。お部屋の清掃に来ました。掃除を始めますね。」
【さっきとは別のお嬢ちゃんだねぇ。】
またもO-01-12は虚空を見つめる。歳をとっていて、こちらを見ていないにもかかわらず個人の判別ができているO-01-12に、若干の緊張を覚えながらもダコタは洞察作業を始める。
【掃除をしながらでいいから話を聞いてくれるかい?】
「えぇ、大丈夫ですよ。ですが、バケツの水が汚れてきたら取り替えに戻るので、そう長くはいられませんが……」
【そうかい。お仕事、忙しそうだねぇ。】
O-01-12はダコタの仕事に理解を示しながらも話を始める。
メイの時と態度が異なるのは、ただ話に来て、仕事をしている感じがなかったがゆえだろうか。
彼女の話は、やはりつまらなかった。話が急に飛ぶせいで、話の全体像が酷く掴みづらい。
「白い胎児が洗礼を施し、愛の粘液を数多くの足の中心にあるハートに笑顔がたくさんの真似をする犬が森の平和を守るために合体した兵隊たちの演奏会」などと言われた時は何が何だか分からず、つい掃除の手を止めて考え込んでしまった。
メイがあそこまで要約できていたのが奇跡だと思えるほどの内容に、ダコタは自分の認識が甘かったことを痛感する。
時々、話が飛んでしまっているのを修正したくなる気持ちや、ツッコミを入れたくなる衝動を抑えてダコタは掃除を終えた。
ダコタはバケツを持ち上げ、O-01-12に退出する旨を伝えようとした。
【もう行ってしまうのかい?また来てねぇ。】
しかし、それよりも前にO-01-12がダコタに語りかける。目が見えていないはずの彼女が、真っ黒な眼窩をこちらに向けて、笑顔で語りかけてくる。
「……っ!また、必ず来ます。」
ダコタは喉まで出かかった悲鳴を押し殺して退出する。O-01-12は上機嫌だったが、ダコタの胸には底知れない不快感が残った。
「戻りました。なんて言うか……メイさん凄いですね…………」
「???ダコタさんの方が作業結果良かったけど……」
要約能力の話ですよ、とダコタは呟く。メイはよく分からずに可愛らしく首を傾げていた。
「メイさん……ちょっと質問が……」
「どこが分からないの?……ごめんねダコタさん。ちょっと。」
「メイさんは真面目ですねぇ。お気になさらず。」
表面上はヘラヘラと眠そうにダコタは言った。
ダコタの内心をおしはかれた者は、その場にいなかった。
サンチェスはしばらくマニュアルについての疑問点や辛い部分をメイに相談していたが、ついに管理人から指示が来る。
「サンチェス→O-01-12に愛着作業」
((!?))
メイとダコタが同時に驚く。当たり前だ。メイは新規アブノーマリティの作業が原因で自分が殺した新人が2人いて、ダコタはメイから「最初はたった一つの罪と何百もの善の作業から」と聞いていた。
まだ作業を行っていない新人職員を、まだマニュアルができていない新人職員に任せるなんて、2人にとっては管理人の正気を疑いたくなる行動だったろう。
「初作業……が、頑張ってきます……!」
「えぇ……頑張ってね。」
「頑張って。」
それでも後輩を不安にさせるわけにはいかないと2人は素っ気なく返す。
扉から出ていくサンチェスの背中を送った後、2人は見つめあってこれからの事を話し合う。
「……メイさん、サンチェスくん、大丈夫ですかね……?」
「…………分からない。でも、今の私たちにはこのE.G.O.武器がある。パニックになっても、これで何とかできるはず……!」
2人は息の詰まるような重苦しい空間で、サンチェスの帰りを待った。
サンチェスはそんなことなどつゆ知らず、初作業に緊張しながら廊下を歩く。
「………………」
顔が引き攣り、無言でさくさくと歩いていたサンチェスは、自分が思っていたよりも早く収容室の扉に着いた。
「…………「管理人がやれって言ったらやる」……この一文、辛すぎると思いませんか……?」
誰に言うでもなく呟いたサンチェスは、収容室の扉を開けた。
【…………また、また別の子かい……】
O-01-12は力なく項垂れながらそう言う。サンチェスは得体の知れない不安感に襲われるが、ダコタが作業中に嫌というほど聞いた自制の大切さゆえになんとかそれを胸の内に押しとどめる。
「すみません……先輩方はなにぶん忙しいものですから、交代で色々なところを回ってるんです。……僕じゃ、役者不足ですかね?」
サンチェスは優しくO-01-12を諭すように言うが、O-01-12の耳にはサンチェスの言葉が届いていないようだった。
【あたしはね、いつもいつも夢に見るんだ。暗く深く、皆が同一で平和な場所から個として連れてこられる度に、気が滅入ってくる。】
サンチェスはO-01-12の話を聞いているが、O-01-12の話が理解出来なかった。
それは突拍子もない話で、主語も形容もあやふやな、酷く不完全な文章だったからだ。
恐らく、彼女の話を聞くには何か大切な前提条件が足りないのだろうとサンチェスは感じたが、それが何なのか彼に分かるはずもない。
【最初はみんな、あたしに会いに来てくれるのさ。でもね、そのうちだぁれも来なくなる。みんなみんな、あたしのことを忘れちまうのさ……あたしはそれを、何百、何千、何万と繰り返してきたんだ……だから、だからあたしは狭い、狭い部屋で一人きりで寂しいんだよ……】
サンチェスの不安が青天井に高まっていく。叫び出してこの部屋から逃げ出したい衝動に駆られるが、サンチェスはその衝動を噛み潰してO-01-12の話を聞き続ける。
【ねぇ、坊ちゃん?あんた、あんたは、あたしを裏切らないかい?あたしを孤独にしないでいてくれるかい?】
「………………」
サンチェスは質問に答えられない。
【坊ちゃん……?】
黒い眼窩ですすり泣くO-01-12に、サンチェスはつい、反射的に、いっそ正直に、思うところを言ってしまった。
「それは……約束できません……」
【!!!】
「僕たちは、管理人の言うことに従うだけです。それしか、できないんです。」
そこまで言ってからサンチェスは自身の過ちに気づく。こういう時には、例え嘘でも話を合わせておかねばならなかったと後悔する。
しかし遅い。その後悔は遅きに失した。
【…………け……】
「……はい?」
【出ていけぇ!!!】
O-01-12は叫んだ。サンチェスは慌てて収容室の扉を開ける。作業判定は【普通】の値を示していたが、そんなわけない。PE-Boxこそ生産されているが、それはサンチェスがO-01-12からの問の答えを告げるまでの淡い期待で生産されたものだろう。それを粉々に砕いて、作業結果が普通なわけが無い。
「嫌だ……嫌だ……!狂ってしまう……!あんな物語を聞くくらいなら、耳が聞こえない方がずっといい……!」
緊張で息がうまく吸えない。呼吸のための筋肉が痙攣しているのか、浅く速い呼吸をサンチェスは繰り返す。
精神的な疲労と呼吸困難のために壁に手を付きながらサンチェスはメインルームに戻った。
「!?サンチェスくん!?大丈夫!?」
メインルームに入って一番に、サンチェスの明らかにおかしな状態を見たダコタがサンチェスに駆け寄る。
メイはそんなしんどそうなサンチェスの様子を見ても心配ひとつしておらず、むしろ安堵しているようだった。
「あの……!僕……!その……!!」
「どうしよう……メイさん、どうすれば……!!!」
「大丈夫、落ち着いて。」
錯乱するサンチェスを見て焦ったダコタがメイに助けを求めるが、メイは極めて冷静にサンチェスに対処する。
「サンチェスくん、大丈夫だよ。まずは大きく息を吸ってみようか?」
「はぁ……はぁ……!」
「大丈夫、大丈夫。ゆっくりでいいから……ね?」
メイが背中を擦りながらサンチェスを落ち着かせる。メイの対応と再生リアクターの機能で徐々に平静を取り戻していく。だんだんと呼吸も普段のゆっくりとしたものに戻っていった。
「ダコタさん、慌てちゃダメ。辛いのはサンチェスくんなんだから、私たちまで焦ったらサンチェスくんも、もっと不安になっちゃうでしょ。」
「す、すみません……パニックになっているのかと思って心配で……」
ダコタは素直に頭を下げる。彼女自身、メイの言い分に納得し、冷静でなかったことを認めたからだろう。
「ここに戻ってこれたんなら大丈夫。……パニックになった子は、ここに戻ってこないか、血走った目でどこかに行っちゃうから……」
どこか儚げな雰囲気を纏ってメイは言った。
ダコタはそこにメイの【咎人】たる【罪】があるのだろうと感じたが、それを深く掘り下げるようなことはしなかった。
サンチェスもひとまず落ち着いて、またもや平穏な時間が流れていた。
「サンチェス→たった一つの罪と何百もの善に愛着作業」
それも、そう長くは続かなかったが。
「作業……ですか。」
「そうだね。でも、たった一つの罪と何百もの善は良いアブノーマリティだから大丈夫だよ。辛いこととか、いっぱい吐き出してきたらいいよ。」
「…………はい。」
少し不安げな表情をして、サンチェスはメインルームを後にした。無理もない。先ほどあれだけの悪感情をぶつけられたのだ。アブノーマリティが畏怖の対象になってもおかしくは無い。
「……さて、ダコタさん、私達も準備しとこうか。」
「……??なんのですか?」
「なんのってほら、もうすぐクリフォト暴走のアラートが鳴るからね。きっとすぐに作業に駆り出されるよ。」
「あぁ……そうか、それもありましたね。」
2人がそう話していると、いきなりアラートが施設中に鳴り響いた。
それと同時に作業指示が来る。
「メイ→O-01-12に愛着作業」
「私か。それじゃあ、行ってくるね。サンチェスくんのこと、任せたよ。」
「それじゃあ死にに行くみたいに聞こえますよ。……行ってらっしゃい。」
そういう意味じゃなかったんだけどなぁ、と笑いながらメイはメインルームから出ていった。
サンチェスに何があったのかは聞けていないが、O-01-12の機嫌は良くないと感じたメイは、先程よりもいっそう気を引き締めて作業に取り掛かる。
収容室の扉を開けて、仕事の時間が始まった。
「お久しぶりです、O-01-12」
【あぁ、お嬢ちゃんかい。また来てくれたんだねぇ。】
しかし、メイの想像とは裏腹に、O-01-12は上機嫌だった。理由はメイが再び収容室に来たからだったが、そんなことをメイが知る由もない。
作業中、O-01-12はずっと話をしていたが、その話はいつもと違い、グロテスクで悲しい、破滅の物語だった。
【こうして、皆を守ろうとした英雄は、腕をもがれ、脳を掻き出されたのでした。】
淡々と語るその口調が恐ろしくはあるものの、内容を要約し、整理しなければ話の全体像が見えてこないため、深く考えなければどうということは無い。
「とても興味深いお話でしたね。絶対の悪も、絶対の正義も存在しない……そんなふうに聞こえました。」
【……そろそろ戻るのかい?】
「……えぇ。ごめんなさい。」
【いいんだよ。……でもね、きっと、きっとまた来ておくれ。】
O-01-12は穏やかな表情を浮かべていた。
メイが収容室を出た時、その日の業務の終わりを告げる放送が流れた。
(明日もまた、みんな無事だといいな。)
メイはそう祈りを残して職場を後にする。
いや、違う。
私が踏み込めなかったからだ。
私が、彼女の重荷を背負おうとしなかったから、
だから彼女は一人で、その重荷に潰されてしまったんだ。
3日目
この日は更衣室ではなく、メインルームで3人は顔を合わせた。理由は至極単純で、ダコタがマルクトに、パニック職員の特徴を詳しく聞くために早く出勤していたからだ。
「あ、メイさん。おはようございます。」
「うん。ダコタさんおはよう。熱心だね。」
「……昨日、取り乱してしまいましたから。初日にメイさんが言っていたように、誰がいなくなっても、もしくはメイさんがいない時にも、何とかできるように。」
メイは一瞬驚くが、嬉しそうに微笑んで「……ありがとう。」とだけ返す。
ダコタはその言葉の真意が分からずに首を傾げる。その様子にメイはクスクスと笑った。
ちなみにサンチェスはマニュアルを読み込んでいて2人の話を聞いていなかった。
「……それで、今日は新しいアブノーマリティが収容されたんでしたっけ?」
「うん。そのはずだよ。そろそろ作業指示が来るはずだと思うんだけど……」
メイがそう言った瞬間に作業指示が出される。
「ダコタ→O-02-107に愛着作業」
「あれっ、メイさんじゃないんですね。」
「そうだね……まぁ、それだけダコタさんも信頼されてるってことじゃないかな?」
「……正直不安ですけどね。」
予想外の作業指示にダコタは戸惑う。けれど、マルクト特製マニュアルにも書かれていたように、「管理人がやれと言えばやらなければならない」。
ダコタは諦めたようにメインルームを後にする。
「……そうだ、ダコタさん。」
その直前に、メイはダコタを呼び止めた。
「なんですか?」
「……気をつけてね。」
就職が決まった時に親に言われたものと同じ言葉に、ダコタは少しくすぐったさを感じながらもVサインを作ってメイに返す。
「はい。行ってきます!」
毎回、メイは作業に行く時に何かを言う。
それはきっと、彼女の【罪】に関係があるのだろうとダコタは理解していた。
だからこそ、ダコタは明るく振る舞う。
辛い記憶で毎回の作業前に声をかけているのだとすれば、彼女の悲しい記憶を塗り替えるほどの明るい記憶でそれを塗り替えてしまえばいいのだ。
簡単なことでは無いと理解していながらも、ダコタはそれがさも簡単であるかのように自分自身に言い聞かせる。
「……それでも、作業が上手くいくかどうかは別なんだけどね。」
少しの緊張と共に、ダコタは新しいアブノーマリティの収容室を開ける。
そこに居たのは
【ワンっ!】
元気な子犬だった。
「……えぇ…………?」
ダコタは困惑する。O-02-107の姿はどこからどう見てもただの子犬だったからだ。
今だって入ってきたダコタの周りを【早く遊べ】と言わんばかりにグルグルと回っている。
「って言われてもなぁ…………犬用のおもちゃなんて当然ないし……」
そうやってダコタが困っていると、O-02-107はしびれを切らしたのか、不機嫌そうにダコタに吠える。
【ワンワンっ!!!ワンワンワワワンワンワンワン!!!】
「わかってるよ!今考えてるからちょっと待って!」
ダコタは考えをまとめようと必死に頭を回転させるが、O-02-107の鳴き声がうるさくて何も浮かばない。
O-02-107は何もしないダコタに腹が立ったのか、いちど【グルルル……】と唸った後に【ワンっ!】と一声大きく鳴き、ダコタの足に噛み付いた。
「痛っ!?」
【ワンっ!】
ダコタが足を引くよりも早く、O-02-107はもう一度噛み付く。O-02-107は全力で噛んだようで、少なくはないダメージを受けながらもダコタは怒りの炎を燃やした。
「……!ったぁ!!!こんの……クソ犬!!!」
ダコタは自制がきかず、O-02-107を思い切り蹴飛ばしにかかる。
しかしそこはO-02-107、アブノーマリティでも犬は犬のようでヒラリとダコタの蹴りを躱した。
「おっまえぇ……いい度胸じゃねぇか……!絶対ぶっ潰してやるよ……!!!」
この瞬間、ダコタとO-02-107の追いかけっこが始まった。
狭い収容室の中を2人は追いかけ合う。
最初こそ劣勢だったダコタも、さすがは大学院卒と言うべきか、持ち前の学習能力と作業で鍛えた洞察力で収容室内部の環境を把握し、的確にO-02-107を追い詰めていく。
哀れO-02-107はあれよあれよという間に壁際に追い詰められた。その様相はもはや、愛着作業ではなく抑圧作業の方が近かった。
「追い詰めたぞこのクソ犬ぅぅ!!!」
【クゥン……ワンっ!!!】
ダコタの魔の手がO-02-107に伸び、誰もが「もうダメだ……」と思ったその時、O-02-107は壁を三角飛びしてダコタを飛び越えた。
しかし、それでも高さが足りなかったらしく、ダコタの頭を1回踏んづけて彼女の背後にヒラリと着地する。
【アオーン!!!】
O-02-107は遠吠えをしてダコタを煽る。しかしO-02-107のしっぽはちぎれんばかりに振られており、機嫌が随分いいことが見て取れた。
「この……バカ犬……っ!」
第2ラウンドに突入するかと思われたその瞬間、作業を終わるよう指示するブザーが鳴り響いた。
いつもは必要な情報をブザーが鳴るよりも早くまとめることができていたダコタだが、今日は時間いっぱいO-02-107と鬼ごっこに興じてしまっていたらしい。
「クソ犬……!次は覚えてるんだな!」
そんな捨て台詞を残して、ダコタは収容室を後にした。
「……今戻りましたよっと。」
「あぁ、ダコタさんお疲れ様。……それで、新しいアブノーマリティはどんな感じだった?」
メイに訊ねられ、ダコタは急に背筋が冷たくなる。
「アレ?そういえば私、さっきなにもしてないぞ?」と自覚したからだろうか?それともなにも情報を掴めていないからだろうか?
「え?あー……えっ……とぉ……とっても言い難いんですが、なんか普通の犬みたいなヤツでした。すごい走るし、体力は無限だし……」
ダコタがそう言うと、メイは少し呆れたような顔をしていた。ダコタは「やべ、これ失敗したかな?」と心臓の鼓動が高鳴る。
メイはひとつため息をついてダコタを諭すように話し始めた。
「……あのね、ダコタさん。」
怒られる。
ダコタはそう直感し、身を縮こまらせた。
「管理人は「O-02-107に愛着作業をしてこい」って言ったのよ?誰が御手洗に行けって指示したの?」
「・・・はい?」
ダコタは意味が分からなかった。どうして御手洗に行ったとメイは思っているのか、どうして怒られているのか、2点がどうしても線にならない。
「「はい?」じゃないでしょ。いくらあなたが犬耳を頭につけてるからって、そう誤魔化すのはダメだと思うの。鏡に写ったのは、犬じゃなくてあなたよ。」
「いやつけてませんよ!?ちゃんと新しいアブノーマリティは犬でしたから!」
「……またまたぁ。」
「いやホントですって!……っていうか、それで御手洗なんですか!?ちゃんと作業してきましたよ!!!」
「……ふっ、ふふふ!」
メイの誤解を解こうと、必死に弁解をするダコタの姿を見て、メイは何故かクスクスと笑い始めた。
「……メイさん?」
「いや……ごめんなさい。でも、メインルームを出る時のダコタさんの顔が引きつってたし、帰ってきた時も元気がなかったから、なんとか元気になってもらおうと……ね?」
「メイ→[[rb:オールドレディ>O-01-12]]に愛着作業」
「サンチェス→たった一つの罪と何百もの善に洞察作業」
「……ごめんね。作業に呼ばれたから、また後でね。サンチェスくん、出番だよ。」
そう言ってメイは足早にメインルームを出ていってしまった。
ダコタは恥じた。自分の至らなさを。メイの負担を減らすどころか、むしろ増やしてしまってどうする?そんな自己嫌悪がダコタの脳内をグルグル回る。
それは、メイの予想よりも長く続き、サンチェスが作業を終えても、メイが作業を終えても続いていた。
「サンチェス→O-02-107に本能作業」
管理人も、そんなダコタの姿を見て心配になったのか、次のO-02-107の作業はダコタに任せず、新人のサンチェスを派遣した。
「それじゃあ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい。犬のアブノーマリティらしいから、姿が犬じゃなくなるまでは犬と同じように接してみて?ダコタさんはそれで上手くいってるから。」
「はい!ありがとうございます。」
元気に返事をしたサンチェスを見送り、メイはダコタと2人きりになる。
「………………」
「………………」
気まずい沈黙が流れていた。
ダコタはメイに気を使わせてしまったと後悔し、
メイはダコタの励まし方を盛大に間違えたと恥を感じていた。
しばらくすると、クリフォト暴走の発生を告げるブザーが鳴り、管理人からの指示が出される。
「ダコタ→たった一つの罪と何百もの善に愛着作業」
この作業指示は、管理人がダコタを励ますために「罪善さんに相談してこい」と言っているのだろうか?
真意は分からないが、指示を出された職員はその通りに行動せねばならない。
「ダコタさん、管理人から指示が出てるよ?」
「……え?あ、ほんとですね……すぐに行きます。」
ダコタは重たい足取りでたった一つの罪と何百もの善の収容室に足を運んだ。
サンチェスが餌を食い散らかすO-02-107をニコニコと眺めていた時、ダコタはそれとは対象的な死んだ目をしてたった一つの罪と何百もの善に向き合っていた。
【……娘?何があった?話してみるといい。】
「……私は、最低です。」
開口一番そう言うダコタをたった一つの罪と何百もの善はおかしいと思いながらも特に突っ込まず質問を重ねる。
【……なにゆえにそう思う?】
「メイさんに心配かけないようにって頑張ったのに、それが逆にメイさんを不安にしてしまったんです……」
ダコタのその告白を、たった一つの罪と何百もの善は笑い飛ばすような無粋なことはしない。
ただ、静かにその告白を聞き入れていた。
【なるほど。それで、汝はどうしたい?】
「……?どう……とは?」
【かの咎人の力になるか、このまま諦めるかだ。今のどっちつかずの態度は、必ずやかの咎人の新たな重荷となる。】
その言葉を聞いて、ダコタは大きく肩を震わせた。
【娘よ、泣いたり、周りにそれとわかる形で悩むが相談しないことで助かるのは、娘ただ1人だ。誰かを救いたいなれば、それは一番の悪手となり得るであろう。】
なれば、と前置きをしてたった一つの罪と何百もの善は続ける。
【なれば、汝が今すべきは、自分の立ち位置を決め、それを守り、自己を育てることだろう。汝が今、目指さんとしておる……おや?】
たった一つの罪と何百もの善の話の途中で、ダコタは収容室から退出していた。それはあまりにも早く、たった一つの罪と何百もの善も唖然としていたが、しばらくしてたった一つの罪と何百もの善はくつくつと笑い始める。
【そうか娘。娘の心はもう決まっていたのだな。】
たった一つの罪と何百もの善はこれからの少女たちに少しばかりの期待をしつつ、その成長を見守ることに決めたらしい。
ダコタは走った。思い返せば、自己嫌悪ばかりでO-02-107のことを話せていない。
雰囲気が悪くなったのは自分のせいだ。沈黙が広がるあのメインルームでは、たとえ謝罪をしても雰囲気がもっと重くなるだけだろう。
だったら、いま自分がするべきことは──
「メイさん!」
「わっ!ビックリした……!大きい声でどうしたの?」
メインルームの扉が開くやいなや、ダコタはメイに半ば怒鳴るように話しかける。背後から不意打ちで話しかけられたメイは肩を跳ね上げて驚いていた。
「愚痴を聞いてくださいよメイさん!」
「???いいよ。でもいきなりどうして?」
「O-02-107がマジでクソ犬なんですよ……!アイツ、ホント性格悪くて……」
そこからダコタの愚痴が始まった。身振り手振りで作業内容のことをメイに伝え、メイはそれを静かに聞いていた。
努めて明るく振舞っても、メイから不自然に見えてしまう。かといってなにも話さなければ状況は変わらない。
ならあのクソ犬の愚痴を聞いてもらうのが、話としても重くならず、自分も自然に話せるとダコタは考えたのだ。
「噛み付くわ踏んづけるわ……精神的な疲労はないですが、単純に痛かったんで物理攻撃系ですね、アイツ。」
そこまで聞いて、メイはからからと笑う。ダコタは意味がわからず、また、これで良かったのかと首を傾げる。
そんな様子のダコタを見て、メイは微笑みながらダコタに言った。
「……犬同士仲がいいのね。」
「ぶっ飛ばしますよ?」
「あはは。冗談だよ、半分は。」
「むしろ半分も本気じゃないですか……」
なんてこった……とダコタは大袈裟に膝をついて落ち込む素振りを見せる。
そこにはもう、重苦しい雰囲気は存在しなかった。
「やー、でも正直助かったよ。サンチェスくんは餌と一緒に手も食べられてて、血が出てるのに「メイさん!あのアブノーマリティ可愛いですよ!もうほんと可愛くて、とにかく可愛いんです!」みたいに、可愛いとしか言わなくなっちゃったから……」
「あのクソ犬が可愛い?精神攻撃もしてくるタイプなんですかね?」
「さぁねぇ。まぁ、サンチェスくんが犬好きの可能性もあるし……」
「メイ→オールドレディに愛着作業」
話がひと段落したところで、メイに作業指示が出される。さっきもやったオールドレディの作業だ。
「……そういえば、オブジェクトの名前、わかったんですね。それともつけたのかな?」
「そういえばそうだね。呼びやすくなって助かるよ。んま、とりあえず行ってくる。」
「はい。行ってらっしゃい。」
メイは少し浮かれ気味に作業に向かった。
「ダコタさん、元気そうで良かった。」
目に見えて元気がなかったダコタが戻ったのを見て、メイは浮かれていたらしい。きっと、かの骸骨が上手くやってくれたのだろうと思い、メイの中でまたたった一つの罪と何百もの善の評価が上がる。
「……さて、またあの変な話を聞きに行きますか。」
メイは三度、収容室の扉を開けた。
【あらお嬢ちゃん、また来てくれたのねぇ。】
メイと同じく、オールドレディも機嫌が良かった。
それはサンチェスに語ったように、自分のことを忘れずにやって来てくれる人がいるからだろう。
見えない目と聞こえない耳で、オールドレディはメイの存在を察知する。
「はい。今日はどんなお話ですか?」
【うふふ。しょうがない子だねぇ。】
機嫌のいいメイはどんなつまらない話でも苦ではなく聞くことが出来る。
今日の話もなかなかのものだった。哲学実験の水槽の脳をベースに、それが翼を広げて世界を平和に導く、という、なかなか意味不明なものだったが、メイはその程度ではうろたえない。
「……あっ、ごめんなさい、時間みたいです……」
【……まぁ、お仕事は仕方ないからねぇ……お仕事、頑張るんだよ。】
「はい。」
メイはとても申し訳なさそうにオールドレディに言う。オールドレディは少し寂しそうな表情を見せつつも、メイの仕事に理解を示してくれていた。
【あぁお嬢ちゃん、ちょいとお待ち。】
「?」
収容室から退出しようとするメイをオールドレディが呼び止める。メイは何事かとオールドレディに向き直る。
【これを付けておいき。】
「……?これは?」
オールドレディに渡された、ひとつの丸メガネを見てメイはオールドレディに訊ねる。
【これは、あたしの使ってるメガネだよ。つけているといいことがあるかもしれないから、つけておいき。】
メイは手の中のメガネを見つめる。そのメガネから、メイはなぜか自分を律することができそうだと感じた。
「……ありがとうございます。いつも身につけるようにしますね。」
【それがいい。ほら、まだお仕事があるんだろう?はやくおいき。】
「はい。失礼しますね。」
今度こそ、メイは退出する。オールドレディはつまらない話ばかりするアブノーマリティだと思っていたが、ある程度面識があればこちらのことも思いやってくれるいいアブノーマリティなんだなとメイは思った。話は全く面白くないが。
「ただいま。」
「あぁ、メイさん。おかえりなさ……え?」
「メイさん……なんかオシャレですね?」
メイの付けたメガネを見て2人が驚く。そんな2人にメイは上機嫌に説明をした。
「これはね、さっきオールドレディがくれたの。つけてるとちょっといいことがあるんだってさ。」
「ほぇ〜、案外いい奴なんですね。話は面白くないですけど。」
「メイさんはオールドレディに好かれてるんですね。僕もいつか仲良くなれるでしょうか?話は面白くないですけど。」
なぜかオールドレディがフルボッコにされていた。
「メイ→O-02-107に本能作業」
「またか。」
メガネが付いた新形態のメイに管理人は大興奮なのか、すぐさま作業指示がやってくる。メイは口では辟易してそうにそう言うが、その実、案外上機嫌で収容室に向かっていた。
過去にブラウンがパニックになった道も、追憶に悩まされることなくメイは歩く。さすがに上機嫌ではいられなくなったとはいえ、彼女はもう、過去に囚われることなく前に進み始めている。
「さて……本能作業は私も初めてだからちょっと緊張するな……」
O-02-107の収容室の前でメイは一度立ち止まる。
しかし、そこはさすがと言うべきか、メイはそれほど迷うことなく収容室に入った。
【ワンっ!】
「本当に犬なんだ……」
メイを待ち構えていたのは、ダコタではなく本当に犬だった。あまり時間をかけてO-02-107が不機嫌になってはたまらないと、メイはすぐさま作業を始める。
「ほら、ご飯だよ〜。」
O-02-107の目の前に本能作業用に渡されたご飯を置く。O-02-107はそれをガツガツと食べ始めた。
「1回分だけだけど、おかわりもあるからね。」
よしよしとO-02-107の頭を撫でながらメイが言うと、O-02-107も顔を上げて【ワンっ!】と元気よく返事をした。
その様子を微笑ましく感じながらも、メイは収容室の中をざっと見渡す。
(……ん、水が減ってるね。足しておかないと。ご飯食べたら喉が乾くだろうしね。)
O-02-107の給水用器具にメイが水を足し始めると、O-02-107がちょうど水を飲みにやってきた。
「もうすぐなくなっちゃうところだったねぇ。」
【ワンっ!】
メイの呼び掛けに応えた後、O-02-107は水をぺちゃぺちゃと飲み始める。それを確認し、水を入れるのを取りやめたメイは、O-02-107の餌がもう無くなっているのを見つけた。
【………………】
足元を見ると、何かを訴えるようにO-02-107がメイを見上げていた。
「……まだ食べる?」
【ワンっ!】
このメガネをかけたからか、色んなところに配慮が届くようになったなぁと感心しながら、メイはおかわりをガツガツと食べるO-02-107を眺めていた。
おかわりも完食したO-02-107を見て、ここらが潮時かとメイも収容室を立ち去ろうとする。
【ワンっ!】
「いたっ……!」
そんなメイの足にO-02-107が噛み付いた。けれど、その攻撃に殺意を感じなかったメイは、臆することなくO-02-107に立ち向かう。
【ワンワンっ!】
「まだ欲しいの?」
【ワンっ!】
どうやらメイの考えは当たっていたらしい。O-02-107はメイを期待の眼差しで見つめる。
「……それじゃ、もうないから、一回取りに行ってくるね。待てる?」
【ワンっ!】
「ふふっ、お利口さんだね。」
よしよしとO-02-107の頭を撫でて、メイは収容室を後にした。
「……まぁ、来るかどうかは管理人次第なんだけどね。」
メイはO-02-107に感情移入しない。アブノーマリティへの過ぎた接近は身を滅ぼすことを知っているからだ。
「……もうエネルギーが十分溜まってからかなり経つはずだけど、まだ残業するかな?」
メイがそう言ってメインルームに帰ってきた時、作業の終了が言い渡された。
「うーん、残念。O-02-107には我慢してもらおう。」
メイはドライに言い切った。
彼女は罪人で
罪を犯した咎人で
自らの過去を許さない断罪者だ。
4日目
新しいアブノーマリティが来たとはいえ、新しい職員が来ることも無く、3人ともそれなりに作業にも慣れてきたこともあり、緩い雰囲気がメインルーム全体に漂っていた。
「サンチェス→
「メイ→オールドレディに愛着作業」
これまでと同じように作業をし、2人とも良い結果でメインルームに戻ってくる。マニュアルができてある程度の特性も分かっているアブノーマリティの世話は、それほど緊張せずやっていける。
とはいえ、油断すると人はすぐに死ぬとメイが口酸っぱく言っているために、誰も油断はしない。
「今日の新しいアブノーマリティの作業、まだ来ませんね。」
「そうね。私たちが行ってる間に、ダコタさんが行くのかなと思ってたんだけど……」
「なんで私なんですかね?」
「ダコタ→O-09-81使用」
3人がそんなことを言っていると、図ったかのように管理人から指示が来る。
しかし、その指示はいつものとはかなり性質が異なっていた。
「使用……?作業ではなくて、ですか?」
「僕の記憶にもないですね……メイさん、何か分かります?」
サンチェスとダコタはお手上げのようで、職場経験のあるメイに助けを求めた。
するとメイはサラリとその答えを述べる。
「あぁ、多分ツール系のアブノーマリティだよ。マニュアルの303ページに乗ってるから、ダコタさんはあとで見て。」
「「ツール系?」」
「まぁ、マニュアルには「前に立つだけで使い方が分かる」って書いてあるし、とりあえず行ってみて。サンチェスくんは残ってお勉強ね。」
「うっ……はぁい……」
メイにそう話を切られ、それ以上を聞くことが出来なかったダコタは、諦めて管理人の命令に従う。
何気にいいお姉さんをしているメイに苦笑しながらも、ダコタはメインルームを後にした。
「さて……どんな物品が待ってるんですかねっ……と。」
てくてくと長い廊下とエレベーターを歩き、ダコタはO-09-81の収容室へとたどり着く。
「んま、道具なら緊張してもしょうがない。」
ダコタは軽率に収容室の扉を開けた。
そこにあったのは、大きくて古びた、けれどなにも映していない姿見だった。
「えっ……と?……どうしろと?」
呆然と鏡の前に立ち尽くすダコタだったが、鏡は全く反応しない。
「…………ん?終わった?」
鏡はなにも反応していないが、なぜだかダコタはそう思った。力が湧いてくる感覚と筋力の急激な成長、そして少しばかり精神が不安定になった感覚を覚えたダコタは、それが姿見の能力なのだろうと考えた。
ダコタはさっさと収容室を後にする。使い方は全く分からなかったが、使用が終わったことだけは理解した。
「ただいま戻りました。」
「あれ?ダコタさん早かったですね!どんなツールだったんですか?」
半べそをかきながらメイのスパルタロボトミー教室を受けていたサンチェスが、女神を見つけたかのような表情でダコタを見る。よほど勉強が難しかったのだろう。
「あー……その……なんていうか……」
ダコタはどう言えばいいかが分からず口ごもる。あの姿見の能力は酷く主観的なもので、他人に説明するのが難しいからだ。
高校の友人が遊んでいたゲームのように、ステータスが可視化されればとどれほど願ったことか。
「……まぁ、言葉にしにくいものだってあるよ。特に、アブノーマリティなんて未知の存在なんだからしょうがないわ。」
「…………ぶっちゃけ、どう使うのかも分かりませんでした……ただ、「使い終わったんだろうな」というのだけが分かって……」
言い淀むダコタにメイが助け舟を出す。ダコタもダコタで、酷く申し訳なさそうに正直な所見を述べた。
そんなダコタにメイは「気にしなくていいよ」と微笑みかけ、別の情報はないかと質問する。
「ちなみにO-09-81って、どんな見た目だった?」
「えっと……とても大きな、古い姿見のような見た目でした。」
「……ダコタさん、キュートちゃんの作業命令は……」
「いやしてませんよ?!」
「……またまたぁ。キュートちゃんとダコタさんはそっくりだから、姿見と見間違えても──」
「言わせませんよ?」
「ダコタさん、いくらキュートちゃんが可愛いからって命令違反はちょっと……」
「おっ、サンチェス、命が惜しくないらしいな。あとで更衣室裏に来い。」
ひえぇぇ、と震え上がるサンチェスをよそに、メイとダコタは夫婦漫才をやめて話す。
「それで、他に分かることってある?主観的なものでもいい。あれが何かを知っておくことは、大切だから。」
「…………すごく主観的だから黙ってたんですが、力が湧いてくる感覚と筋力の急激な成長、それに、少しだけですけど精神が不安定になった感覚がありました……精神的に不安になったんじゃなくて、不安になりやすくなった、というか……」
「ふむ……心身の成長度合いを変化させるのかな……?古代中国の思想的に言うなら、「魂魄の変容」を行うことこそがO-09-81の本質……?だったら特に危険はない……かな?」
メイとダコタはそんなインテリの会話をする。翼に入るためには大学院以上の学歴か突出した能力が不可欠なため、2人の世界は常人が近寄り難い雰囲気があった。
「メイ→O-09-81使用」
「むん、私にも使用命令が来たみたい。それじゃ、キュートちゃんの収容室じゃない、鏡の収容室に行ってくるよ。」
「ちゃんと行きましたって。」
「お気をつけて!」
軽口を叩きながらメイはO-09-81の元へと向かう。今回は道具を使うだけの指示のため、緊張する必要は微塵もない。
「さて?」
収容室の扉を開け、件の姿見の前に立つ。
「………………うん?終わった?」
メイもダコタと同じように、その姿見の使い方は分からなかったが、使い終わったんだろうなということは理解出来た。
帰り道を歩きながら、メイは何が起きたのかを考える。
しかし、メイが思っていたよりも早く、メインルーム階行きのエレベーターにたどり着いた。
(……歩くのが早くなったな……あとは……この状況にも早く適応してる……パニックに若干なりにくくなったかも?でも……)
考え込むメイに、作業指示がやってくる。
「サンチェス→
「メイ→オールドレディに愛着作業」
「ダコタ→キュートちゃんに本能作業」
「……考えるのはとりあえず後にして、早く作業をしに行こう。」
メイは調整の鏡を使ったその足で、オールドレディの作業に赴く。
「まぁ、いつも通りに。」
メイはオールドレディの作業を始めた。
いつも通りやれば問題ないと考えていたメイだったが、そのいつも通りがどうしても出来ない。
(なんで……なんでいつものオールドレディの話でこんな、こんなにも、不安になるんだろう……!)
奥歯を噛み締め、歯がガチガチとなるのを必死に堪えながら、メイはオールドレディの話が終わるのを待つ。
気をつけなければ足から力が抜けて崩れ落ち、恐怖に負けてしまうとメイは直感する。
慎重さが増して、パニックになりにくくなったと思った自身の判断をメイは呪った。
そんなことは全くなかったのだ。自制が出来なければすぐに狂うとたった一つの罪と何百もの善に言われたというのに、その自制が難しくなっている。
【それからね……お嬢ちゃん?真っ青じゃないの!大丈夫かい?】
「だ、大丈夫……です。」
メイは酷くつらそうにしながらも笑ってそう言う。けれど、オールドレディはそれを信用しない。
【嘘おっしゃい!体調が悪いんでしょう!あたしなんかの相手はいいから、早く戻って休みなさい!】
「で、ですが……」
【いいから休む!ほら!出てった出てった!】
メイはオールドレディのその言葉に言われるがまま、オールドレディの収容室から出てメインルームに戻った。
「あ、メイさんおかえりなさい。どうでした?」
考え込んでいたメイに、ダコタが声をかける。メイは眉をひそめながら、その質問に答える。
「うーん……なんていうか……歩くのが結構早くなったなってかんじ。でも、その後のオールドレディへの作業で、何となく自制が難しくなった気がする……気のせいかもしれないけど……」
メイはアブノーマリティの作業で不意に下手なことをしかねないのでは無いかと心配になった。
けれど、それは今ここで分かるような代物ではない。
「……やっぱり、心身の変化をもたらす鏡なんですかね?」
「そうね……映画とか、哲学の分野ではこういう時、自分と鏡像が入れ替わってて、入れ替わったことに気づいていないかんじなんだろうけど。」
「怖いこと言わないでくださいよ……」
2人がそんなことを言っていると、作業と同時に調整の鏡の使用を命じられたサンチェスが戻ってくる。
「サンチェスいま戻ってきたのか。ずいぶん遅かったけど、何かあったの?」
「ちょっと、管理人に2回の使用を命じられまして……なんか……力が抜けたような気がします……」
サンチェスは元気なさげに言う。それを見た2人は、連続で、もしくは日に複数回使うと心身に異常が出ることを理解した。同時に、管理人にも知っておいて欲しいなと切に願う。
その後は、ノルマを達成するまで作業指示が出たが、下がった能力に気をつけつつ作業していたことを除けば、何も問題は出なかった。
その日は早く帰り、次の日への活力を3人は蓄えていた。
無慈悲な断罪者は、
いっそ自虐的に
いっそ嗜虐的に
自らを責め立てる
5日目
特に新しいアブノーマリティが来るようなことはなく、その日は淡々と業務を進めるだけと一日だった。
ゆったりとした時間がコントロールチームに流れていた。
「こんの……クソ犬畜生が!!!」
「あんな話を聞くくらいなら、耳が聞こえない方がいい……」
「私は、ちゃんとできているでしょうか?」
…………ゆったりとした時間が、コントロールチームに流れていた。
3人の作業が一通り終わったが、3人が作業を始めてから鳴ったクリフォト暴走を告げるサイレンが鳴り止まない。
どこで暴走が起きているのか分からない3人は、管理人からの指示を待つ。
「ダコタ→キュートちゃんに本能作業」
「お?キュートちゃんに暴走来てたのか……エサはさっきやったから……風呂だな。よし。」
ダコタは本能作業の内容を、キュートちゃん自体を清潔にすることにして収容室へと急ぐ。
「キュートちゃん、また来たぞ。」
【ワンっ!】
「ははっ、今日も腹立つくらい元気がいいな。けど今回は風呂だ。お前は食べ方が汚いからたくさん汚れてるだろ。」
ダコタはビニールプールを膨らませ、中に水を入れる。水を2/3ほど入れると熱湯を入れ、ビニールプールの中の水を生ぬるいくらいの温度に調整した。
「ほら、洗うから入れ。ばっちいと病気になるから。」
【グルルルル……!】
「威嚇するな。……よっと。」
【ギャンギャン!ガルルルル!!!】
ダコタがキュートちゃんを持ち上げてプールの中に入れようとする。
その瞬間、キュートちゃんはよほどお風呂が嫌なのか、ダコタの腕の中でめちゃくちゃに暴れ始めた。
「ちょっ、お前っ!暴れんな!」
【ガルルルル!!!】
手始めにダコタの腕を噛み、痛みで五指が開かれた瞬間に鋭い爪でダコタの顔を引っ掻く。
ダコタは顔を引っかかれた事で反射的に目を閉じたが、キュートちゃんはその隙を見逃さない。
【ガウッ!!!】
「…………っ!!!」
前かがみになったダコタの首筋に、キュートちゃんが素早く噛み付いた。皮膚が破れ、血が吹き出る。
幸運なことに頸動脈こそ破れなかったが、それでも流れる血は方っておける代物ではない。
「……っそ!離せこのクソ犬!!」
【ガルルルル!!】
首筋に食いついたキュートちゃんは、ダコタの首から口をなかなか離そうとしない。むしろ首筋に噛み付く力はどんどんと強くなり、キュートちゃんの犬歯が首の肉を割いてどんどん奥へと進んでいく。
(食いちぎられる……!)
ダコタは話し合いが通じる状態ではないと直感し、即座に自衛行動に移る。先ほと沸かした熱いお湯の残りを、自分に掛かるのも気にせずキュートちゃんにぶちまける。
もちろん、ダコタはこんなことを犬相手にするような人ではない。だが、相手はアブノーマリティ、人知を超えた化け物だ。このくらいしなければこちらが死んでしまうとダコタの本能が告げていた。
【キャワンっ!】
「っつ!!!」
熱湯に驚いてキュートちゃんはダコタの首から口を離したが、ダコタにもかなりの量の熱湯が掛かり、首筋の皮膚が爛れている。
噛まれた傷と皮膚がずるむけになった場所から血が滴っており、彼女の着ている【懺悔】がさらに赤く染った。
「……っそ……血が、たりない……」
ゴロゴロと転げ回って火傷に苦しむキュートちゃんを置いて、ダコタは壁に手を付きながら収容室を出た。
(しっぱいした……)
なんとか乗り込んだエレベーターに背を預け、メインルームのある階に到達する。
(だめ、だ……これ……)
メインルーム横の小スペースでダコタは気を失いそうになる。
(…………だいじょうぶ、ですよ、めいさん……ちゃんと、かえって……きます、から……)
その言葉通り、ダコタはなんとかメインルームに戻ってくる。首から血を流し、皮膚が焼け爛れていても、ダコタは執念で生きて戻って来たのだ。
メイが驚いた顔でこちらを見ている。ダコタはメイを安心させようと精一杯の笑顔を作って、自分を出迎えてくれたメイに応える。
サンチェスがどこかへ走っていった。収容室のない方向に走ったことから、サンチェスはマルクトの元へと向かったのだろうとダコタはあたりを付ける。
(よかった……かえって……これ……)
メイを見たのと戻ってこれた安堵で緊張の糸が解けたのか、目の前が真っ暗になる感覚と共にダコタはメインルームに倒れ込んだ。
「……!ダコタさん!!!」
「大丈夫!……サンチェスくん、大丈夫。息はまだ、比較的安定してるし、すぐに応急処置をして、再生リアクターが癒してくれるのを待とう。……応急処置を急がないと、傷が化膿して合併症になりかねない。」
「分かりました!救急箱お願いしますね!僕は氷を取ってきます!」
2人は役割を分担して、すぐさま治療に取り掛かる。いくら再生リアクターが稼働しているとはいえ、病や後遺症まできれいさっぱり癒してくれるほど再生リアクターは万能では無いのだ。
「死なせないよ……!もう二度と、誰も死なせないから……っ!」
メイの必死な処置と再生リアクターにより、ダコタは後遺症も残らず、作業に出る前と同じ状態まで癒される。
同時に、気絶していたダコタが目を覚ます。
「……?…………!す、すみませんメイさん!気が抜けてしまいました!」
「………………」
「……メイさん?」
メイはダコタに背を向けたまま、一言も喋らない。
「…………本当に、ご迷惑をお掛けしました。」
「…………いいの。」
メイは小さくそれだけ答え、「作業、あるから。」とたった一つの罪と何百もの善の作業へと向かった。
そうするしかなかった。
メイの顔は、とても人に見せられるような表情ではなかったのだから。
あなたがあなたを許せないなら、私もあなたを許さない
けれど、願わくば、
罪を共有する共犯者になりたい
あなたがあなたを許せるようになる日まで
あなたが罪に、押しつぶされないように。
平和な回です。ですが話の流れの関係で長いです。
動画の流れに沿って書いてるので、動画で出てきてない作業はまるまるカットしています。唐突に場面が飛んでいたり終わっているのはそのせいです。
文句があるなら認知フィルターを外して盲愛様の前に立ってから、圧倒的に技量の足りていない私に言ってください。